加古隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加古 隆(かこ たかし、1947年1月31日 - )は、大阪府出身の日本人作曲家・ピアニスト。「隆」は旧字体で表記される。
目次 |
[編集] 概論
作曲においては、ジャズ・クラシック・現代音楽の要素を融合させた独自の作曲形式を確立しており、ピアニストとしては、自身の作品の演奏を中心に活動している。即興性溢れるジャズや自然をテーマにした作品から、絵画・文学・浮世絵・ダンス・建築といった他の様々な芸術から着想を得た作品まで、その音楽のスタイルは極めて自由かつ幅広く、個性に富んでいる。また、近年は映像とのコラボレーションによる音楽も数多く手掛けており、映像音楽の作曲家としても活動の幅を広げている。自身の作品によるコンサートは世界各国に及び、オリジナルアルバムは50作品を超える。シンプルで繊細かつ壮大な心震わせるメロディーと、ピアノから紡ぎ出される透明な音の響きから、「ピアノの画家」と称される。80年代からかぶり始めた帽子がトレードマークとなっており、演奏の際にも必ず身につけている。ピアノはベーゼンドルファーを愛用し、曲の世界に深く入り込むために、演奏は全て暗譜で行う。
[編集] 経歴
- 運命を決定づけた一曲
1947年に、音楽とは全く縁のない、ごく普通の家庭に生まれ、大阪府豊中市旭丘で育つ。音楽との出会いは小学校のとき。知り合い宅に行った際、当時日本ではまだ珍しかったレコードプレーヤーと、1枚だけあったLPレコード。そのレコードを聴いた加古隆少年は大変心地よくなり、これを期にその知り合い宅へレコードを聴きたいがために、泊り込みで通うようになり、枕元にプレーヤーを置いて何度も何度も音楽を聴きながら眠った。この曲がトスカニーニ指揮、ベートーヴェン作曲の交響曲第5番『運命』であった。以後、小学校から中学時代にかけて、クラシック音楽のレコード収集に熱中する。音楽雑誌などの存在を知らなかった当時、唯一の情報源が駅前(阪急宝塚本線岡町駅前もしくは豊中駅前とされる。)のレコード店であり、何度か訪れるうちに、店長に珍しがられ、色んなレコードを教えてもらった。当時の加古隆少年には、勿論『運命』が「クラシック音楽」であるという知識もなかったが、最初に出会った音楽が図らずもクラシックの名曲だったことが、後の人生を大きく変えることになる。
- 音楽の先生とピアノ
熊野田小学校の2年生だったとき、音楽の時間の合奏中、音楽の先生が加古隆の素質を見抜き、両親にピアノを習わせるよう強く勧める。習い事感覚でピアノを始めたが、この頃に撮られ、以前テレビで公開された1枚の写真の裏には、「未来のピアニスト 隆ちゃん」と書かれており、当時の才能が覗える。
- レコード少年
小学校6年のとき、ストラヴィンスキーの“三大バレエ組曲”(:「火の鳥」・「春の祭典」・「ペトルーシュカ」)に出会う。これまでのクラシック音楽とは大きく異なる、現代音楽の魅力にとりつかれる。小学校を卒業後、豊中市立第三中学へ入学。中学時代は、今まで以上にクラシック音楽及び現代音楽に没頭。当時は学校から帰り、ステレオの前に座って音楽を聴くことが無上の喜びであり、自身の全存在を捧げて聴き入っていたと、加古隆自身、1977年8月6日に行われた鍵谷幸谷との対談で語っている。またこのとき、当時の加古隆が柔道のチャンピオンだったことも、同時に明かされている。なお、アルバム『海の伝説-私』のライナーノートに対談の詳細がある。
- 音楽の道へ
中学3年の頃、音楽が常に自分の身近にあることへの魅力と、将来どんな形で音楽に携わろうとも、根本である「作曲」を学んでおけば、まず間違いないだろうとの想いから、そしてピアノの先生の「作曲家を目指すのも、夢があっていいと思う。」という言葉が決め手となり、東京芸術大学作曲科への入学を決意。本格的にピアノのレッスンを始める。
- ジャズとの出会い
中学を卒業後、豊中高校へ入学。1年のとき、先輩に誘われて行ったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのライブで、ジャズの刺激的な音に体を雷に打たれるほどの衝撃を受け、次の日からジャズのレコード収集に奔走。ジャズの演奏にも夢中になる。
- 作曲か?ジャズか?
1965年、東京芸術大学作曲科へ入学。その後約1年間は、作曲の勉強よりもジャズの演奏活動に夢中になっていたが、三善晃の指導をきっかけに、作曲に魅力を感じ、作曲の勉強とジャズの両方をやっていては、どちらも中途半端になってしまうと思い、結果としてジャズからは意識的に距離を置き、聴くこともやめ、現代音楽の作曲家を志す。1969年、同大学院へ入学。在学中の翌1970年には、自身の作品がNHK毎日音楽コンクール(現:日本音楽コンクール)作曲部門・管弦楽曲第2位を受賞するほか、翌年には「オーケストラの為の《構成》」が若杉弘指揮、東京フィルハーモニー交響楽団の演奏で初演される。
- パリへ
大学と大学院で合わせて6年間作曲を学んだ後、1971年7月、フランス政府給費留学生として渡仏。パリ国立音楽院で、ヨーロッパにおける音楽の歴史と伝統を肌で感じ、作曲のみならず音楽そのものを学ぶ。翌年、「アルトとピアノのための《旅人と夜の歌》」・「オーケストラの為の一章」が、パリ音楽院管弦楽団により初演される。
- 師匠メシアンの言葉
留学先のパリ国立音楽院作曲科では、オリヴィエ・メシアンに師事。留学してすぐの時点では、メシアンの講義に参加するつもりはなかったものの、参加しようと決めていた講師が前年に引退していたと分かり、結局アポなしでメシアンの講義に出向いた。写真でしかメシアンの姿を知らなかった加古隆の、メシアンへの最初の言葉は、「あなたはメシアンですか?」であった。加古隆はメシアンから作曲に関する理論・技術にとどまらず、音楽家としてのプライドなど、音楽に関するあらゆることを学んでいった。そんなメシアンは折に触れて、加古隆に対し「加古君、あなたが日本人であることは、とてつもない財産なのです。」と語っていた。加古隆はこの言葉に、「世界的に見ても固有の文化を持つ、日本という国に生まれ育ったことを誇りに思いなさい。」というメッセージを感じる。そしてこの言葉が、当時西欧風の曲を主に書いていた加古隆に、自分の生まれ育った国:日本に目を向けさせるきっかけとなった。その顕著な例として、1991年に発表され、広重や北斎らの浮世絵から着想を得たピアノ・ソロ作品『ESTANPE SONORE(エスタンプ・ソノール:「音の良く響く版画」の意)』が挙げられる。
- 再会
パリに留学して1年が経った頃、フリー・ジャズのレコードを収集していた友人の音楽評論家モーリス・グルグ宅で、今まで見たこともなかったフリー・ジャズのレコードを聴く。現代音楽とフリー・ジャズの間に、何かしらの共通性を見出した加古隆は、これなら自分にもできると思い立ち、学校には籍を残したまま、1973年、豊住芳三郎らが参加するグループ「エマージェンシー」から、即興ピアニストとしてプロ・デビューを果たす。このことが以後、現代音楽分野における作曲活動と、ジャズにおける即興演奏活動の共存を生み出し、加古隆にとって、より広い意味での現代音楽の追求へとつながった。
- 最高のピアニスト
1973年から、スティーヴ・レイシーらと共演。翌1974年からは、アメリカからパリへ移ってきたアルト奏者ノア・ハワードのグループ「ノア・ハワード・クァルテット」に参加。帰国まで在籍する。同年10月、沖至・高木元輝・堀本ユキ・佐藤允彦ら日本人のフリー・ジャズ・ミュージシャンとともに、ラジオ用コンサート「メッセージ・フロム・ジャパン」を開催。「フルート・クラリネット・マリンバと打楽器の為の四重奏曲」がパリ国立ラジオ放送局から初演放送されるなど、現代音楽の作曲家としての活動も活発に行われ、さらにこの年には、ノア・ハワードのアルバム『Noah Howard Live in Europe』に参加するほか、高木元輝とケント・カーターとのライブアルバム『パリ日本館コンサート』で日本デビューを飾るなど、目覚ましく活動。また、初のピアノ・ソロ・アルバム『Night Music』を発表し、あのモーリス・グルグをもってして、「現在フランスで聴くことのできる最高のピアニスト」(フランス・ジャズマガジン誌)と言わしめたのである。
- 卒業・帰国
1976年1月、日本に一時帰国し、豊住芳三郎との共演アルバム『パッサージュ』をリリース。6月、パリ国立音楽院を審査員全員一致の一等賞を受賞して卒業し、これまでの自身の活動の総集編的アルバム『巴里の日』をレコーディング。8月にはアルバム『マイクロ・ワールド』をリリース。9月、日本へ帰国する。
- TOK
1977年、アルバム『海の伝説-私』を収録後、再びパリへ。1978年7月5日、パリ・ポンピドゥー・センターで富樫雅彦と初共演。2年後の1980年には、富樫雅彦が加古隆に捧げた曲「ヴァレンシア」を含む、アルバム『ヴァレンシア』をリリースするに至る。1978年、ピアノ・トリオ「TOK(トーク)」を結成。ヨーロッパ全土を又に掛けて演奏活動を繰り広げる。バンド名は、メンバー3人(:タカシ・カコ、オリバー・ジョンソン、ケント・カーター)の頭文字をとって名づけられた。同年6月には、日本におけるTOK第1回コンサートツアー「Jazz Concert Improvisation」を行い、アルバム『TOK-LIVE』(:コンサートツアー最終日の6月5日、東京・東宝生命ホールでのライブ録音)と『TOK・ダイレクト・マスター』を発表。コンサートツアー終了後の8月、日本において宮間利之&ニューハード・オーケストラと共演し、ジャズ・オーケストラに初挑戦。アルバム『エル・アル』を世に送り出し、12月にパリへ戻る。翌1979年10月、ドイツECMレコードから、アルバム『パラドックス』を全世界発売するという日本人初となる快挙を成し遂げ、12月にはこれを記念して第2回TOKコンサートツアーを開催する。『パラドックス』は、フリー・ジャズにおける加古隆屈指の名盤とされ、2003年に初CD化されるまで、幻の名盤とさえ呼ばれていた。
- ピアノ・ソロの原点
1979年の冬、天候の悪化で来られなくなったアーティストの代役として、急遽フランスのカーンで行われた音楽祭に出演。音楽祭当日に電話が入り、しばらく考えた末、引き受けると返事をして、指慣らしもほとんどしないまま手元にあった楽譜を鞄に詰め込んで、列車に飛び乗った。偶然開かれた新しい音楽への扉、その向こうにあったのは、加古隆にとって初となるピアノ・ソロ・コンサート。1台のピアノが描き出す新しい音楽の世界へと、その音楽性はさらなる広がりを見せる。81年に帰国した後、加古隆のライフワークとなるピアノ・ソロ活動の原点が、ここにある。
- 日本へ
1981年8月、日本へと拠点を移し、ピアノ・ソロ活動を本格化。広島などでソロ・コンサートツアーを行う。翌1982年、第3回TOKコンサートツアー及び、東京での初のソロ・コンサートを東宝生命ホールにおいて開催し、以後、同ホールでのクリスマス・イヴ・コンサートが定着する。1984年、東京文化会館において、同館主催のコンサート「加古隆・ピアノとの対話」を開催。クラシック音楽の殿堂が、ジャンルを超えたアーティストを初めて迎えたという異例の出来事とあって、700席の会場に3000以上の応募を記録した。
- 夜明け
1983年、『Night Music』以来9年ぶりとなるピアノ・ソロ・アルバム『L'Aube-夜明け』を発表。フリー・ジャズの演奏家と現代音楽の作曲家という2つの顔を併せ持っていた当時の加古隆の演奏に対する一般的な評価は、「ある種の現代音楽やフリー・ジャズの持つ空虚な響き、エゴイスティックな自己主張、難解なイメージ」といったものであり、「その結果、不本意にも大衆から著しく遊離した音楽しか生まないピアニストといった印象」を与えていたのだが、「加古自身がこうした行き過ぎやすれ違いを謙虚に認め、なおひたすら自己を研磨し続けた」結果が、このアルバムに結実している。(「」内の表現は、アルバム『L'Aube-夜明け』のライナーノートより引用した。)まさしくピアニズムの夜明けと呼ぶにふさわしいこのアルバムを踏み台に、加古隆のピアノ・ソロ、及びジャンルを超えた音楽への追求は、その後さらなる跳躍を見せ、その結果は1985年発表の「ポエジー」へと結びつく。
- 自分らしさ
1985年2月26日、東京西武劇場(現:パルコ劇場)でのソロ・コンサート当日の朝。加古隆の心は揺れていた。音楽評論家野口久光の「一度でいいから、誰でも知っているメロディーを、取り上げてごらん。」という言葉から始まった、新しい音楽への追求、その結果がここに完成した。しかし、完成した作品は当時の加古隆の音楽とは著しく性格を異にするものだったため、自分らしさを失うのではないかという思いから、加古隆はこの曲を初演すべきか否か、当日の朝まで迷っていたのである。しかしながら思い切って演奏に踏み切った後、世間の評価は別として、加古隆はイングランドの民謡「グリーンスリーブス」をモチーフにしたこの曲「ポエジー」をきっかけに、シンプルなメロディーの大切さを再認識し、音を丹念に選んでいく訓練を長く受けてきた自分にとっての「作曲」という作業に、新たな音楽の世界:自分らしさ、を発見する。「作曲」という概念を自身の音楽に積極的に取り入れるようになった加古隆の音楽は、この作品を期に、大きくその容貌を変化させる。ここに、ジャズ・現代音楽・クラシックの要素を含んだ、加古隆独自の音楽世界の基盤が完成したと言える。なお、このコンサートの演奏はアルバム『ソロ・コンサート』で聴くことができるが、残念ながら「ポエジー」については初演ではなく、翌日2月27日の演奏が収録されている。
- 芸術との共演
「ポエジー」がニッカウヰスキーのCF曲として使用され大ヒットとなった翌1986年、代表作『KLEE』が完成した。画家パウル・クレーの12枚の絵画が見事に音楽へと昇華したこの組曲には、クラシック音楽を思わせる美しい響き・シンプルなメロディー・ジャズの持つ即興性・現代音楽の鋭い感性など、おおよそ加古隆の音楽の全てが凝縮され、ピアノ1台による極めて色彩豊かな世界が描き出されている。これを皮切りに1988年、宮沢賢治の諸作品から着想を得た作品『KENJI』を発表し、翌1989年、ダンスとピアノとの共演作品『アポカリプス~黙示録』を東京スパイラルホールにて初演。1991年には、組曲『ESTANPE SONORE』において、広重や北斎らの浮世絵の世界をピアノ・ソロで表現することに挑戦。また1993年に訪れた、北海道トマムの「水の教会」からの着想は、アルバム『水の前奏曲』に結実し、発表記念コンサートが「水の教会」において、設計者の安藤忠雄を迎えて行われるなど、絵画・文学・ダンス・浮世絵・建築といった、他の芸術とのコラボレーション作品が次々と誕生した。
- ジャンルを超えた音楽
1992年、国際交流基金主催アセアンツアーでシンガポール・ブルネイ・マレーシア・インドネシア・タイを歴訪した後、ピアノ・ソロ活動10周年記念ともいうべきアルバム『風の画集』を発表。このアルバムのライナーノートには、「ジャズとかクラシックとか現代音楽とか名付けられた枠を定めずに、ただピアノから生まれる音楽だと思って、皆さんの感覚で受けとめて聴いて下されば最高です。」という加古隆の文章がある。この文章からは、ジャズ・クラシック・現代音楽、その全ての音楽世界に生きた音楽家として、ジャンルの間に残る垣根を取り払い、それら全ての音楽を自らの音楽として確立しようとしたことが窺える。この文章は元々、1982年6月に東京草月会館で行われたソロ・コンサートのプログラム中にあった文章なのであるが、当時の加古隆の音楽とそれに対する評価が、「夜明け」の項目でも前述したとおりであったこと、またこの文章が世に出る以前、1970年代の加古隆に対しては、「あたかも加古を日本のジャズ界から抹殺しようと企てているのではないかと一瞬疑りたくなるほどの」、「無責任な書き殴り」さえ見受けられたことが事実であることなどを踏まえても、加古隆にとってジャンルを超えた音楽の確立がいかに困難を極めるものであったのかは、容易に想像がつく。(「」内の表現は、アルバム『パラドックス』のライナーノートより引用した。)しかしながら、このアルバムにより加古隆は、逆境を乗り越えこれまでに築き上げてきた「ジャンルを超えた音楽」なるものを示すことに、成功したのである。
- 自然との共演
1988年、村上秀一らと共演したアルバム『スクロール』で、スイングジャーナル社主催「日本ジャズ賞」を受賞。「芸術との共演」も意欲的に続ける中で、自然をテーマにした作品も同時に数多く誕生している。1989年、アラビアの砂漠・北欧や凍ったシベリアの大地・アフリカへの憧憬といったモチーフを、民族楽器とピアノとの共演で大胆に描いた連作「Landscape(:「風景」の意)」を、アルバム『幻想行』から発表し、カルガリー及びバンクーバーで開催されたカナダ音楽フェスティバルに参加。翌1990年には、加古隆の諸作品においても最大級の規模を誇る組曲『ピアノ交響詩《春~花によせて~》』を、大阪・国際花と緑の博覧会にて初演。翌年に大友直人指揮、東京フィルハーモニー交響楽団との共演による演奏がCD化される。1993年、カーネギー・ホールでソロ・コンサートを行い、アメリカへデビューし、2年連続で自然をテーマにしたアルバム『水の前奏曲』・『ノルウェーの森』を発表。これら2作品は翌年に全米発売され、アメリカ自然史博物館などでのニューヨーク公演も行われた。1995年には、パリの日本大使館において、翌1996にはロシア・中国・インド・ネパール・スリランカを歴訪し、ソロ・コンサートを開催している。
- 映像に命を吹き込む
1977年、NHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」で初めて映像音楽を手掛けて以降、映像音楽の作曲家としての活動も盛んになりつつあった加古隆は、1995年に担当したNHKスペシャル「映像の世紀」の音楽を期に、映像音楽の第1人者としての地位を確立。膨大な量の映像と番組の重厚なテーマを支えるべく、1年以上の時間をかけて誕生した、約100曲にも及ぶ「映像の世紀」の音楽には、テーマ曲「パリは燃えているか」のみならず、「睡蓮のアトリエ」といった名曲も多数存在する。番組の終了後にはNHKに音楽に関する問い合わせが殺到。また、『オリジナル・サウンドトラック』発売から5年後の2000年に、オリジナル・サウンドトラック第2弾とも呼ぶべきアルバム『Is Paris Burning』がリリースされたことなどからも、これらの音楽が世間に及ぼした影響の大きさを推し量ることは容易である。1997年にNHKスペシャル「ドキュメントにっぽん」の音楽を担当し、翌1998年に担当した映画「The Quarry(邦題:月の虹)」では「最優秀芸術貢献賞」を受賞。この間に、声楽とピアノとの共演によるアルバム『予感~アンジェリック・グリーンの光の中で~』のほか、『静かな時間』を発表し、第1回能登国際音楽祭に出演。1999年、国際交流基金主催ソロ・コンサートツアーをブラジル・アルゼンチン・チェコ・ハンガリー・フランスで開催し、第2回能登国際音楽祭にも出演した。2000年には、NHKスペシャル「にんげんドキュメント」から、名曲「黄昏のワルツ」が誕生するほか、演奏時間50分を越える大作「組曲《映像の世紀》」が発表され、大阪において、金聖響指揮、大阪センチュリー交響楽団との共演で初演された。さらにこの年には、映画「式日」の音楽も担当し、第3回能登国際音楽祭に出演した。2001年に映画「大河の一滴」の音楽を手掛け、翌2002年には映画「阿弥陀堂だより」の音楽で、第57回毎日映画コンクール「音楽賞」及び第26回日本アカデミー賞「優秀音楽賞」を受賞。これまで、映像の背後でBGMとして甘んじていた映像音楽に、ひとつの芸術作品としての地位を与え、その重要性を認識されるに至らしめたその業績は、計り知れない。
- 30周年
2002年7月6日、東大寺において「大仏開眼1250年慶賛コンサート」に出演。NHKスペシャル「地球市場・富の攻防」の音楽を担当した2003年にデビュー30周年を迎え、12月に「Anniversary Year~巴里の日~」コンサートツアーを行い、記念アルバム『Anniversary』を発表。この年に担当したドラマ「白い巨塔」の音楽では、主人公財前五郎の生き様を、エレキギターを用いた斬新な音楽で表現した。
- 無限の広がり
2005年、NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」の音楽を担当。バブル崩壊後の日本経済の荒波の中を懸命に生きる人々の、苦悩と決意を託した名曲「虹が架かる日」は、加古隆の代表作のひとつとなった。またこの年には、宮城県気仙沼高等学校の校歌を作曲するほか、数年ぶりとなるソロ・コンサートツアー「響きのカンバス」も開催された。2006年に担当した映画「博士の愛した数式」の音楽では、第61回毎日映画コンクール「音楽賞」を受賞。人間という存在をありのままに深く見つめ、ストーリー全体を温かく包み込むような、まさしく「愛のテーマ」というタイトルにふさわしいメイン・テーマ曲が誕生するなど、その音楽の広がりは、無限の様相を見せている。さらにこの年の4月には、『水の前奏曲』から実に13年ぶりとなるアルバム『PIANO』を発表し、7月にはこれを記念してのコンサートツアー「PIANO」を開催。また、熊野古道の世界遺産登録からちょうど2年になる同月1日には、これを記念しての三重県からの委嘱作品「熊野古道~神々の道~」の世界初演コンサートが、三重県文化会館で行われた。その後、ウイーンのダンスフェスティバルにおいて「アポカリプス」を再演した。
- 音楽家として
加古隆は、あくまでも「音楽家」という存在であり続けることを理想としており、実際、「作曲家&ピアニスト」という肩書きにはこだわりをみせている。作曲家と演奏家の分離現象が著しい現代の音楽の世界において、加古隆は極めて貴重な存在であるといえる。今後も、人々の心に深く刻まれる音楽を描き続ける、真の「音楽家」としての活躍が期待される。無論、その音楽の持つ外見上の性格が、今後様々に変化したところで、どれもが「加古隆の音楽」であることに変わりはない。あらゆる音楽の世界に生き、自身の音楽を確立した加古隆の音楽を語るにおいて重要なのは、まさしくこの点にあるといってよい。
[編集] 年譜
- 1969年 - 東京芸術大学音楽学部作曲科卒業。
- 1970年 - NHK毎日音楽コンクール(現「日本音楽コンクール」)作曲部門入賞。
- 1971年 - 東京芸術大学大学院作曲研究室修了後、フランス政府給費留学生としてパリ国立音楽院作曲科に留学し、オリヴィエ・メシアンに師事。
- 1973年 - パリでフリー・ジャズピアニストとしてデビューし、ヨーロッパ各国で公演を行う。ジャズ誌に「現在フランスで聴くことのできる最高のピアニスト」と評される。
- 1978年 - ピアノトリオ「TOK(トーク)」を結成。バンド名は、メンバー3人(タカシ・カコ、オリバー・ジョンソン、ケント・カーター)の名前の頭文字による。
- 1979年 - フランスのカーンで行われた音楽祭に出演し、初のピアノ・ソロ・コンサートを行う。
- 1980年 - 日本に帰国。ピアノ・ソロの活動を本格化する。
- 1985年 - イングランドの民謡「グリーンスリーブス」をモチーフにした曲「ポエジー」が、「ニッカウヰスキー」のCF曲として使用され、大ヒットとなる。
- 1988年 - アルバム『スクロール』で、スイングジャーナル社主催「日本ジャズ賞」を受賞。
- 1989年 - 天児牛大演出、イズマエル・イヴォ(ダンサー)との共演で「アポカリプス」を初演。
- 1990年 - ピアノ交響詩「春~花によせて」を大阪・国際花と緑の博覧会にて初演。その後、大友直人指揮、東京フィルハーモニー交響楽団との共演による演奏がCD化される。
- 1991年 - 映画「On the Earth In Heaven」(監督:マリオン・ハンセル)の音楽を担当。
- 1992年 - アメリカデビュー。カーネギーホールにてピアノ・ソロ・コンサートを行う。
- 1995年 - NHKスペシャル「映像の世紀」(テーマ曲:「パリは燃えているか」)の音楽を担当。番組の放送終了後、NHKに音楽に関する問い合わせが殺到する。
- 1997年 - NHK「ドキュメントにっぽん」の音楽を担当。
- 1998年 - モントリオール世界映画祭のグランプリ作品である映画「The Quarry(邦題:月の虹)」(監督:マリオン・ハンセル)の音楽を担当したことで、「最優秀芸術貢献賞」を受賞。
- 2000年 - NHK「にんげんドキュメント」の音楽を担当。
- 2000年 - 演奏時間50分を超える作品、組曲「映像の世紀」を発表。初演は大阪にて、金聖響指揮、大阪センチュリー交響楽団との共演で行われた。
- 2000年 - 映画「式日」の音楽を担当。
- 2001年 - 映画「大河の一滴」の音楽を担当。
- 2002年 - 映画「阿弥陀堂だより」の音楽を担当し、第57回毎日映画コンクール「音楽賞」及び第26回日本アカデミー賞「優秀音楽賞」を受賞。
- 2003年 - NHKスペシャル「地球市場・富の攻防」の音楽を担当。
- 2003年 - フジテレビ系で放送されたドラマ「白い巨塔」の音楽を担当。エレキギターを用いた斬新な音楽で、大きな話題を呼んだ。
- 2005年 - NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」の音楽を担当。
- 2005年 - 宮城県気仙沼高等学校の校歌を作曲。
- 2006年 - 映画「博士の愛した数式」の音楽を担当し、第61回毎日映画コンクール「音楽賞」を受賞。
- 2006年 - 熊野古道の世界遺産登録2周年を記念しての、三重県からの委嘱作品「熊野古道~神々の道~」を作曲。世界遺産登録からちょうど2年になる7月1日、三重県文化会館にて世界初演コンサートが行われた。
- 2006年 - ウイーンのダンスフェスティバルにおいて「アポカリプス」を再演。
[編集] ディスコグラフィー
- Homage to Peace(ヨーロッパデビューアルバム)(1973年)
- Night Music(1974年)
- 日本館コンサート(日本デビューアルバム)(1974年)
- マイクロワールド(1976年)
- 巴里の日(1976年)
- パッサージュ(1976年)
- 海の伝説-私(1977年)
- TOK-LIVE(1978年)
- TOK・ダイレクトマスター(1978年)
- エル・アル(1978年)
- パラドックス(1979年)
- ヴァレンシア(富樫雅彦とのデュオ)(1980年)
- L'Aube-夜明け(1983年)
- トワイライト・モノローグ(1984年)
- ソロ・コンサート(1985年)
- ポエジー(1986年)
- 「KLEE」 いにしえの響き~パウル・クレーの絵のように~(1986年)
- スクロール(1987年)
- KENJI(1988年)
- 幻想行(1989年)
- ピアノ交響詩「春~花によせて~」(1990年)
- ESTAMPE SONORE(エスタンプ・ソノール)(1991年)
- アポカリプス~黙示録(1992年)
- 風の画集(1992年)
- 水の前奏曲(1993年)
- ノルウェーの森(1994年)
- NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック(1995年)
- 予感~アンジェリック・グリーンの光の中で~(1998年)
- 静かな時間(1999年)
- 「The Quarry(月の虹)」オリジナル・サウンドトラック(1999年)
- 「Is Paris Burning」NHKスペシャル「映像の世紀」オリジナル・サウンドトラック 完全版(2000年)
- 「ジブラルタルの風」~加古隆・ピアノ・ソロ・ベスト(2000年)
- Scene(シーン) 映像音楽作品集 1992-2001(2001年)
- 「大河の一滴」オリジナル・サウンドトラック(2001年)
- 「阿弥陀堂だより」オリジナル・サウンドトラック(2002年)
- 風のワルツ(2002年)
- Anniversary 1973~2003(2003年)
- 「白い巨塔」オリジナル・サウンドトラック(2004年)
- 白い巨塔-コンプリート(2004年)
- 「博士の愛した数式」オリジナル・サウンドトラック(2006年)
- PIANO(2006年)
- 熊野古道(2007年)
[編集] 音楽を担当した映像作品
- 映画
- 化身(1986年)
- 未来の想い出(1992年)
- On the Earth In Heaven(1992年)
- The Quarry(1998年)
- 式日(2000年)
- 大河の一滴(2001年)
- 阿弥陀堂だより(2002年)
- 白い犬とワルツを(2002年)
- 博士の愛した数式(2006年)
- ドキュメンタリー
- NHKスペシャル「映像の世紀」(1995年)
- ドキュメントにっぽん(1997年)
- NHKスペシャル「摩周湖」(1997年)
- にんげんドキュメント(2000年)
- NHKスペシャル「地球市場・富の攻防」(2003年)
- 映像記録 「昭和の戦争と平和」 -カラーフィルムでよみがえる時代の表情-(2003年)
- NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」(2006年)
- テレビ
- NHK土曜ドラマ「松本清張シリーズ」(1977年)(担当した初の映像作品)
- NHK土曜ドラマ「価格破壊」(1981年)
- 土曜ドラマ「四万十川~あつよしの夏~」(1988年)
- 宮沢賢治 銀河の旅びと(1996年)
- 五木寛之「日本人のこころ」(2001年)
- フジテレビ開局45周年記念番組「白い巨塔」(2003年)
- CF曲
- 「ポエジー」(収録アルバムは「代表作」の項目参照):ニッカウヰスキー(1985年)
- 「ジブラルタルの風(マンドリン・ヴァージョン)」(アルバム『Scene 映像音楽作品集』に収録):カネボウ「デナリ」(1992年)
- 「一つの予感」(アルバム『予感~アンジェリック・グリーンの光の中で~』に収録):「ホンダ・レジェンド」(1997年)
[編集] 代表作
- ポエジー~グリーンスリーヴス~(1985年)
- イングランドの民謡「グリーンスリーブス」から着想を得て生まれた作品。曲の中間部のメロディーが、加古隆オリジナルのものになっている。当時、前衛的で難解と形容される即興音楽を中心に活動していた加古隆に、音楽評論家の野口久光が、誰でも知っているメロディーを一度採り上げるよう助言したことがきっかけとなり、この曲が生まれた。作曲を始めた当初は、曲の中間部を即興で演奏する予定だったが、最終的にこの部分は、現在のオリジナルの部分として完成された。加古隆は、これまでの自身の作品とはかなり趣向の異なるこの曲を演奏すべきかどうか、初演当日の朝まで悩んでいたが、思い切って演奏に踏み切った。その後、この曲をきっかけにシンプルなメロディーの大切さを再認識するとともに、「作曲」という作業に自身の音楽の新しい世界を発見し、以後の音楽活動に積極的に活かしていく。実際、この作品の前後で、加古隆の音楽の容貌は大きく異なっており、それ故に現在の加古隆の音楽の原点とも言える作品である。この曲は、『ソロ・コンサート』・『ポエジー』・『風の画集』・『ジブラルタルの風』・『Anniversary』に収録されている。『Anniversary』に収録されている演奏以外は全てピアノ・ソロによるものであり、『ジブラルタルの風』に収録されている演奏は、『風の画集』と同一のものである。
- 永訣の朝-宮沢賢治の詩に(1988年)
- 宮沢賢治の詩「永訣の朝」が題材。元々この曲は、アルバム『KENJI』に「永訣の朝」というタイトルで収録されたのが最初で、後にこの曲だけが独立して演奏されるにあたり、「永訣の朝-宮沢賢治の詩に」とタイトルが改められた。アルバム『KENJI』・『静かな時間』・『Anniversary』にはそれぞれ異なる演奏が収録されており、『KENJI』の演奏はチェロ(演奏:溝口肇)と、加古隆の即興的で狂わんばかりのピアノが、妹に対する賢治の心情を鋭く描くが、『静かな時間』ではピアノとチェロ(演奏:ジャキス・モレレンバウム)の共演は変わらないものの、一転して賢治が亡き妹を静かに追想するかのような演奏が繰り広げられている。また、『Anniversary』に収録されたピアノ・ソロ・ヴァージョンは、メロディーの大半が効果的なトレモロで演奏され、降りしきる雪の情景を彷彿とさせる。
- NHKスペシャル「映像の世紀」のメインテーマとして使用され、悲哀に満ち、それでいて決然としたその壮大なメロディーは、映像音楽としてのみならず、絶大な評価を得ている。加古隆の数多い作品の中でも、最も認知度の高い作品のひとつである。この曲は、番組が取り上げた20世紀の歴史はもとより、その歴史を創り上げてきた「人間」にスポットを当てて作曲が開始された。完成当初、この曲は現在のものとは全く雰囲気が異なり、ショパンの前奏曲「雨だれ」のように、どこか寂しげな曲調のものであったが、これでは曲と映像とが一体化しないと加古隆自身が判断し、別の曲が書き上げられている。この曲が現在の「パリは燃えているか」の原型となった曲であるが、この曲もまた、番組のオープニング映像に合うように、ややスピードを上げて、より決然とした曲調に再構成され、完成に至っている。「パリは燃えているか」という印象的なタイトルは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったパリ撤退における焦土作戦時の、アドルフ・ヒトラーの言葉に由来する。加藤登紀子が「無垢の砂」という詩をこの曲に寄せており、この詩はアルバム『Is Paris Burning』のライナー・ノートに載っている。
- 湖沼の伝説(1995年)
- 1995年10月に、霞ヶ浦で行われた第6回世界湖沼会議のための委嘱作であると同時に、数少ないピアノ・ソロの委嘱作でもある。霞ヶ浦を実際に訪れたときに感じた、湖面を渡る「風」をヒントに作曲された。曲の最後の8小節に、ソステヌートペダル(グランドピアノに3つあるペダルのうち、中央のペダル)の使用が要求されていることが特徴として挙げられる。これについては、楽譜『ピアノ・ソロ曲選集』(ドレミ楽譜出版社)で実際に確認できる。アルバム『予感~アンジェリック・グリーンの光の中で~』・『ジブラルタルの風』・『Anniversary』に収録。前者2つは同音源。
- 白梅抄-亡き母の(1999年)
- 湯河原のアトリエに咲く白梅を見ないまま亡くなった母に捧げられたピアノ・ソロ曲。叙情に満ち溢れ、そう遠くない春の訪れを感じさせる旋律が、聴く者の心を震わせる。コンサートでは必ずと言ってよいほど演奏され、会場で涙を流すファンも多い。子供の頃、欲しいレコードを買うためにお小遣いを前借りしていたという話や、使っていたピアノをどこかにしまっておいてくれたおかげで、ピアノが手元に残ってありがたかった、といった母親に関する生前のエピソードが残っている。委嘱作品を除いたピアノ・ソロ作品はこの曲を最後に、「白」をテーマにしたアルバム『白い巨塔-コンプリート』(2004年発表)に収録されている「a lovely lily」まで約5年間書かれておらず、図らずもタイトルに「白」の文字が入り、同じく「花」をモチーフにしたこの曲との偶然の一致を感じさせる。この作品はアルバム『静かな時間』と『Anniversary』に収録されており、演奏において細部の表現に僅かな違いが見られる。
- 黄昏のワルツ(NHK「にんげんドキュメント」前テーマ曲)(2000年)
- NHK「にんげんドキュメント」で2000年度から2002年度までテーマ曲として使用された。この曲の録音には、『Scene 映像音楽作品集』に収録され、実際に番組で使用されたもの、デビュー30周年記念アルバム『Anniversary』にダグラス・ボストック指揮、スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団との共演で収録されたもの、『風のワルツ』に収録されたピアノ・ソロ・ヴァージョンの3種類がある。前述2種類の録音は、いずれもピアノとヴァイオリンとオーケストラによる演奏であるが、両者の間には若干の違いが見られる。短調と長調の間を行ったり来たりしながら、最後に長調で終わる構成には、人生における紆余曲折が表現されており、勇気と生きることの素晴らしさが託されている。
- 白い巨塔(フジテレビ開局45周年記念番組「白い巨塔」メインテーマ曲)(2003年)
- 物語の世界観を支える重厚さと深さを合わせ持ち、主人公財前五郎のロマンと悲哀を表現する、力強くシンプルなメロディーを目指して作曲がなされた。この曲を収録している『白い巨塔』オリジナル・サウンド・トラックに収められている曲のほとんどは、「巨塔のテーマ」・「財前のテーマ」・「里見のテーマ」のいずれかに属する形になっており、前者2つのテーマは、共通する和音構造から作曲する手法がとられている。実際、2つのテーマの有機的な関連づけを意図するために、この曲中では「巨塔のテーマ」と「財前のテーマ」が同時進行で演奏されている。まず「巨塔のテーマ」が曲の冒頭部を飾り、演奏開始から約20秒経ってから、弦楽器とピアノによる「財前のテーマ」が導入され、2つのテーマが同時に演奏されながら曲が進行していく。約64秒から86秒にかけては、管楽器が「財前のテーマ」を、弦楽器が「巨塔のテーマ」を演奏する形になっている。このメロディーは、この曲以外にも、アルバム『白い巨塔-コンプリート』の7曲目「Tomorrow」の中で聴くことができる。ただし、前述の“約64秒から86秒にかけて”の部分は、「財前のテーマ」はチェロ、「巨塔のテーマ」が弦楽器とピアノで演奏されているなど、若干の違いがある。
- 虹が架かる日(NHKスペシャル「日本の群像 再起への20年」テーマ曲)(2005年)
- バブル期における日本経済の崩壊と再生という番組のテーマに基づき、時代の流れに翻弄されながらも、懸命に生きる人々の苦悩と決意を表現した曲。この曲を収載した楽譜『ピアノ作品集』(ヤマハミュージックメディア)が、CDよりも先に発売される形になった。その約8ヶ月後、ピアノ・ソロ・ヴァージョンを収録したアルバム『PIANO』が発売され、現在は番組中で使用されたオーケストラ・ヴァージョンの発売が期待されている。
[編集] 映像音楽とコンセプト
80年代に帰国して以降、とりわけNHKスペシャル「映像の世紀」を筆頭に、加古隆は映像音楽の作曲家としても、映画・ドラマ・ドキュメンタリーといった数々の映像作品に、その印象的な音楽を刻み続けてきた。その作曲方法であるが、加古隆が映像音楽の作曲を始める際、出来上がった映像を見ながら作曲をすることは極めて稀である。また、シーンごとの細かい部分から音楽を導き出す訳でもない。ほとんどの場合、まず台本を読んだ後、監督や脚本家らと必ず話をする機会を設け、自分よりもずっと作品と同じ時間や空間を共有している彼らの何気ない言葉の中に、作曲のヒントを見出す。こうして作品に対するイメージを膨らませ、映像が何を言わんとしているか、どんな雰囲気をもっているのかといった概念、つまり「コンセプト」を、一言で自分に説明できるようにザックリと掴み、これをメロディーへと昇華させていく。このようにして編み出されたメロディーの多くは、主にメインテーマとして完成され、更に作品の完成した後、各場面の持つ雰囲気や役者の台詞のトーン、秒数なども考慮しつつ様々にアレンジされ、映像と一体化していく。こうした過程を経て、数々の名曲が映像に命を吹き込むに至っている。このように、加古隆にとって映像音楽の作曲におけるコンセプトは、極めて重要な意味を持つ。コンセプトの一例を挙げると、市井の人たちの紆余曲折を追うといった内容のNHK「にんげんドキュメント」のテーマ曲「黄昏のワルツ」のコンセプトは、「人々に勇気を与え、生きることの素晴らしさを表現する。」ところにある。また、NHKスペシャル「映像の世紀」のテーマ曲「パリは燃えているか」のコンセプトについては、「華々しい発展と栄華を極める傍らで、幾多の戦争を繰り返す人間の側面と歴史を力強く壮大に表現する。」といったものである。なお、アルバム『Scene 映像音楽作品集』や『博士の愛した数式』オリジナル・サウンドトラックのライナー・ノートには、映像音楽に対する加古隆の言葉が、詳細に記されている。
[編集] CD化が期待されている作品
- 組曲《映像の世紀》(2000年)
- 映像記録 「昭和の戦争と平和」テーマ曲(2003年)