日本の改軌論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本の改軌論争(にほんのかいきろんそう)においては、発祥時に1067mm軌間(狭軌)を採用した日本の国有鉄道(国鉄)が、1435mmの標準軌へ軌間を変更しようとした運動のことを記す。
目次 |
[編集] 概要
日本では鉄道の発祥時に、大隈重信が半ば適当に外国人の意見に押される形でレール幅(軌間)を1067mmと決定してしまった(日本の鉄道開業も参照のこと)が、これは欧州など多くの国の鉄道で採用されている軌間の1435mm(標準軌)より狭く、スピードや輸送力でそれらに劣るものとなってしまった。
そのため、鉄道が開業してまもなくからこの1067mm軌間を1435mmという世界標準に改めようという運動が何回か起こった。しかし結局は政争や予算の問題で実現せず、そのため日本において標準軌を採用した国鉄路線が生まれるのには、1964年の東海道新幹線開業まで待たねばならなかった。
[編集] 国鉄~JRにおける論争史
[編集] 軍部と井上勝
1887年ごろ、鉄道の輸送量が増加するに及んで、陸軍などから標準軌への改軌を要求する「鉄道改正権議案」が提出される。これに対して鉄道局長で鉄道国有論者の井上勝は、東海道本線さえ開業していない現状では路線拡大のほうを優先すべきとし、これを跳ね除けた。
[編集] 日清戦争後
1894年の日清戦争により、鉄道の輸送量はさらに増加した。1896年には逓信省で軌制取調委員会が発足し、改軌に要する費用とその利点・欠点などの調査が行われた。しかし、鉄道局内に改軌論者がほとんどいなかったことと、軍部が鉄道国有化へ方針を改めたことにより実施には至らず、1899年に軌制取調委員会は解散した。
[編集] 後藤新平と原敬
日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになった。それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌であったが、後者については戦争中に日本軍が日本製車両による軍事輸送のため狭軌に改軌していた。満鉄成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連~長春)は標準軌に改軌した。
1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任したが、続いて鉄道国有法によって一本化された国有鉄道を経営するため、1908年に設立された鉄道院の初代総裁に就任した。後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出された。
しかしこれに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけだが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまった。
1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われる。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になった。
一方で、軽便鉄道法に基づいた簡易規格の私鉄(軽便鉄道)設立を奨励し、国鉄でも軽便規格の路線が建設されるなど、政友会主導による「建主改従」の鉄道整備は、いっそう推し進められていった。だが「我田引鉄」という言葉が象徴するように、山田線や大船渡線など、政治家の介入に新線建設が振り回される事例も多々発生した(鉄道と政治も参照のこと)。
[編集] 仙石貢と大隈重信
1914年にシーメンス事件で山本権兵衛内閣が倒れ、大隈重信が2回目の内閣を発足させた。内閣鉄道院総裁にこのとき選ばれた仙石貢は、立憲同志会という反政友会派政党組織の幹部であって、鉄道広軌化にも積極的に賛同していた。そのため、同年7月15日に広軌鉄道改築取調委員という、
- 現状の狭軌を維持する
- 狭軌のままで行くが軌道を強化する
- 広軌にして軌道の質はそのままとする
- 広軌にするのみでなく軌道も強化する
の4案について、検討調査を行わせるものを指名し、調査を開始させた。9月3日には添田寿一へ総裁が変わるものの、調査は継続された。
同年11月6日、添田は閣議において、1916年からの25箇年計画で、本州の鉄道を広軌に改造し、軌道も軸重20tに耐えるものにすることを提案するが、大蔵省は予算の問題で難色を示した。1916年の大隈内閣退陣により、調査も中断される。
この時期の大隈らによる改軌論は、政友会への弱体化を図る政策の一部ではなかったかとする見解も存在し、実行に移すつもりが実際にあったのかどうかは不透明である。
[編集] 後藤新平と島安次郎
しかし、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、内務大臣となった後藤新平は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、ここぞ絶好の広軌化(前述のとおり、この広軌は標準軌をさす)の機会と考えた。
このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、独自に改軌計画を練っていた。彼は関西鉄道の出身であったが、同社は社長の白石直治の影響もあり、標準軌を推進する風潮が強かったのである。
後藤は島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させた。この計画は、改軌工事開始から当面の間は標準軌用の線路を狭軌線路の横に取り付けて三線軌条とし、標準軌化の完了後に狭軌線路を外すというもので、改軌中に列車の運休を必要としなかった。また、構造物は急曲線など必要最小限の箇所の改造にとどめる、車両も台車の改造のみで基本的には維持するという、改軌に要する期間および費用をできるだけ節減出来るものともなっていた。本州全線の改軌に要する費用は約10年、費用は約6000万円と算段された。
1917年5月23日~8月5日に、横浜線原町田駅(今の町田駅)~橋本駅で、三線軌条ないし四線軌条方式による改軌実験が行われた。標準軌への改軌実験は、これが初めてであった。6月16日には、後藤も現場を訪れて広軌化改造された2120形蒸気機関車に便乗している。また国鉄大井工場では、それとは別に標準軌と狭軌路線の接続駅において、貨車の車輪軸を交換する装置(ブライトシュプレッヘル式車輪車軸取替装置)の試験も行われた。
これらの試験成績は好調で終わったため、内閣鉄道院はこれを基に「国有鉄道軌間変更案」を作成した。試験の結果を踏まえ、具体的な改軌計画について定めた物となっていた。
計画は総予算6447万円で、本州の約6600kmに及ぶ軌道を1919年4月末の播但線から順番に改軌していき、同年中に山陰本線系各線、1920年に関西本線・北陸本線や中央本線、1921年に東海道本線、1922年に東北本線や信越本線・奥羽本線、そして1923年の房総線と総武本線を持って、本州における改軌が完了することになっていた(当然、本線に付随する参宮線なども改軌が予定された)。改造する予定車両は、機関車が2035両、客車が4851両、貨車が29592両であった。
[編集] 原内閣の下での中断
だが、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らなかった。計画は早速頓挫したのである。
1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道大臣には腹心の床次竹二郎を就任させた。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「建主改従」に反対する者を多く左遷した。
1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えた。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きも上がっていたが、実るものは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)を除いてほとんどなかった。
[編集] 弾丸列車計画
日本の国有鉄道で、再び標準軌による路線を新設しようという動きが出てくるのは、日中戦争の始まった1938年ごろである。当時、戦争の影響で中国方面への輸送量が旅客・貨物ともに急増しており、特に東海道本線と山陽本線は国鉄全輸送の3割を占めるほどであったため、近いうちに対応ができなくなると予測されたのである。
そのため、両本線に並行して新しい幹線を敷いたらどうかという提案が出た。これには軍部も積極的に賛成したため、計画が推し進められ、1939年に「鉄道幹線調査会」が発足し、ここの調査により標準軌ないしは狭軌により別線を東京~下関間に敷設することが決定した。
これについては、従来路線(在来線)からの直通や部分使用が可能な利点を取り上げ、狭軌新線を敷く案も多勢であった。しかし、特別委員長に前述した広軌論者の島安次郎が就任したことや、朝鮮や満州の標準軌路線と鉄道連絡船 (関釜連絡船)を挟んで車両航送ができること(なお、将来的には朝鮮海峡トンネルを開削し、直接直通運転を行う案もあった)を理由に、標準軌での敷設が決定する。この新線計画は内部においては「広軌幹線」や「新幹線」と呼ばれ、世間では新聞社が「弾丸のように速い」と報じたことから「弾丸列車」と言われるようになった。
1940年より建設に移され、日本坂トンネルや新丹那トンネルの工事が進められた。しかし戦況の悪化で、1943年に中断してしまう。島は終戦直後の1946年に亡くなった。
[編集] 新幹線の実現
しかし戦後の復興が進むにつれ、東海道本線の輸送力不足はいよいよ表面化し、弾丸列車計画のときと同様に、新線を敷設する必要に迫られた。
当初「東海道新線」と呼ばれたこの計画についても、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていたが、戦前に広軌化計画に携わった官僚の十河信二が総裁に就任していたこと、鉄道技術研究所のメンバーが標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能と、1957年5月25日の山葉ホールにおける講演で研究結果から生み出された構想を世間一般に発表したこと、それに島安次郎の息子の島秀雄が国鉄技術長に就任していたことが影響し、標準軌高規格新線での敷設が決定した。
この計画による東海道新線(新幹線の呼称は建設に取り掛かったころ、弾丸列車計画時代の内部名称から生まれたという)は、戦前の計画の遺構を活用して建設することになり、1964年に「東海道新幹線」として結実する。ようやく、日本において国鉄の標準軌路線が実現したのであった。
[編集] ミニ新幹線
その後、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と、順次新幹線の延伸が進んだ。これは別線敷設による「改主建従」といえるものでもあった。
しかし、新幹線の建設は莫大な費用を要することから、費用を抑制する方法として「ミニ新幹線」が考え出された。これは、在来線を単に新幹線と同じ標準軌へ改軌し、車両も在来線規格、複電圧対応として、新幹線と標準軌に改軌した在来線の間で直通運転(新在直通という)を行うものであった。これには、直通運転により乗換えが解消され、所要時間もある程度短縮されるという利点がある一方、改軌工事の期間中に在来線を運休しなければならないこと、新幹線が走らない区間との分断が新たに生じること、それに速度もあまり速くならない(現状では在来線区間は130km/h)という欠点がある。そのため全国的な普及には至っていないが、JR東日本の営業地域で1992年に山形新幹線(東北新幹線と奥羽本線)、1997年に秋田新幹線(東北新幹線と田沢湖線、奥羽本線)が実現している。また、新幹線に乗り入れて東京などの大都市に直通する列車を走らせられるという点に地方側では魅力を感じ、過去にはJR西日本の伯備線やJR四国の本四備讃線(瀬戸大橋線)に対して行政側から構想が出た事がある。
[編集] 軌間可変電車
1998年、運輸省~国土交通省の施策により、新幹線と在来線との間で改軌を要さずに直通運転ができる軌間可変電車(フリーゲージトレイン、ゲージチェンジトレイン)の開発が開始された。技術的には1968年にスペインのタルゴが先行していたものだが、これによって前述したミニ新幹線のものなど、改軌に関する諸問題の解決が図られることが期待されている。
[編集] 関連項目
現行路線 |
---|
東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線(長野新幹線)/ミニ新幹線 : 山形新幹線・秋田新幹線 |
東海道新幹線・山陽新幹線・九州新幹線 |
整備新幹線 |
北海道新幹線・東北新幹線・北陸新幹線・九州新幹線 |
基本計画線 |
北海道新幹線・北海道南回り新幹線・羽越新幹線・奥羽新幹線・中央新幹線・北陸・中京新幹線 |
山陰新幹線・中国横断新幹線・四国新幹線・四国横断新幹線・東九州新幹線・九州横断新幹線 |
未成線 |
成田新幹線 |
現行列車 |
はやて・やまびこ・なすの・とき・たにがわ・あさま/新幹線直行特急 : つばさ・こまち |
のぞみ・ひかり(ひかりレールスター)・こだま・つばめ |
廃止列車 |
あさひ・あおば |
営業用車両 |
0系・100系・200系・300系・400系・500系・700系・N700系・800系・E1系・E2系・E3系・E4系 |
試験用車両 |
1000形・951形・961形・962形・WIN350・STAR21・300X・FASTECH 360 S・FASTECH 360 Z・軌間可変電車 |
事業用車両 |
911形・912形/ドクターイエロー・East i |
車両形式・記号 |
車両形式・編成記号 |
車両基地・車両工場 |
新幹線総合車両センター・盛岡新幹線車両センター・新潟新幹線車両センター・長野新幹線車両センター・山形車両センター・秋田車両センター 東京第一車両所・東京第二車両所・三島車両所・浜松工場・名古屋車両所・大阪第一車両所・大阪第二車両所・大阪第三車両所 博多総合車両所・川内新幹線車両センター |
元となる計画 |
日本の改軌論争・東海道新線・弾丸列車 |