二岡智宏
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二岡 智宏(におか ともひろ、1976年4月29日 - )は広島県三次市十日市町出身のプロ野球選手(現役期間 1999年 - )。セントラル・リーグ、読売ジャイアンツ所属の内野手(遊撃手が多いが三塁手や外野手として出場したこともある)。 右投右打。背番号は7(1999年~)。身長180cm、体重81kg、血液型O型。
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[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
広陵高校出身。兄も同校で1991年春選抜の優勝メンバーだった。1993年2年生の秋に春選抜の実質的な予選となる広島県秋季大会に出場。同大会準決勝を応援に向かった父を事故で亡くす。この経験から読売ジャイアンツ入団後に親が交通事故にあった小、中学生を招待する活動を行うことになる(後述)。1994年3年生のときには福原忍(現阪神)と二枚エース(兼遊撃手)で夏の甲子園広島県予選の優勝候補筆頭であったが、新井貴浩(現広島)のいた広島工業に敗れた。
1995年高校卒業時にプロからの誘いもあったが元々進学希望であったのでこれを断り、誘いのあった複数の大学から実家に近いこともあり近畿大学に進学した。大学では1年からレギュラー、7期連続ベストナイン、リーグ通算歴代1位の13本塁打、歴代2位の通算112安打を放ち、藤井彰人(現楽天)らと共に大学日本一など多くのタイトルを獲得。特に1997年には春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮大会、社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦(現在は廃止)に全て優勝し史上初のアマ五冠達成の原動力となった。また1997年8月にはインターコンチネンタルカップに日本代表として出場、優勝メンバーの一員となる。この時のメンバーには後にジャイアンツで同僚となる高橋由伸、上原浩治も名を連ねていた。
[編集] プロ入り後
1999年は入団1年目ながら長い間遊撃手のレギュラーだった川相昌弘からポジションを奪取。この年126試合に出場し打率.289、ホームラン18本の成績を残したが、20勝4敗の成績を残した同期入団の上原浩治に新人王を譲る。2000年はシーズン序盤から右手親指の故障に苦しみ118試合に出場したものの規定打席には大きく届かなかった。しかしシーズン後半には優勝争いをしていたチームに復帰し2000年7月16日のヤクルト戦でサヨナラホームラン、2000年8月31日の阪神戦ではチーム1試合7本塁打のうちの1本を打つなど活躍し、リーグ優勝を決める試合となった2000年9月24日の中日戦では4-0で敗色濃厚だった9回の裏に中日守護神のエディ・ギャラードから江藤智が満塁ホームランを打って同点に追いついた直後、ライトへサヨナラホームランを放って優勝を決めた。2001年は2月のキャンプで前年は江藤が受けた長嶋茂雄監督からの直接ノックを213球受けた。しかしこの年も開幕直後からスランプに陥った上に7月19日の阪神戦で左手有鈎骨を骨折して手術をするなどで苦しみ、結局86試合出場に留まり、打率も.233、ホームラン5本と低調な成績だった。
2002年は112試合に出場し3年ぶりに規定打席に到達し、打率.281、ホームラン24本を記録する。20本塁打越えは読売ジャイアンツ所属の遊撃手としては初めての記録である。シーズン後半からは2番打者として定着して1番打者に固定された清水隆行との1・2番コンビを形成し、巨人のリーグ優勝に貢献した。ちなみに、開幕戦は清水隆行の故障のため、左翼手で出場した。日本シリーズ(対西武ライオンズ)では日本シリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第1戦の第2打席から第2戦の第2打席まで5打席連続安打(土井正三(1977年、対阪急第2戦の第3打席から第3戦の第3打席まで)と並んで日本シリーズ歴代3位。これは球団タイ記録でもある)、第3戦で三井浩二から満塁本塁打を放つなど最終的には19打数9安打(4試合での9安打は史上最多)、打率.474、5打点の活躍で読売ジャイアンツの4連勝での日本シリーズ制覇に貢献し、日本シリーズMVPに輝いた。2003年は自身初めてフル出場(140試合)を果たし、リーグ最多の573打数を記録する。最終的に打率でも初の3割越え(.300)自己最多の172安打、29ホームラン、67打点を記録してベストナインを受賞する。2003年5月15日の横浜ベイスターズ戦では1試合3本塁打を記録する。
2004年も2月20日キャンプ中の紅白戦に左足肉離れで故障する。しかし故障者続出のチーム事情から調整不十分での出場を余儀なくされ、結局91試合出場、打率.269、88安打、9ホームランの成績に留まった。また、この年より交通事故によって親が死亡或いは重い障害を負った小、中学生を招待する二岡ボックスの実施をはじめる。2005年は139試合出場とほぼフル出場を果たし、打率.301、162安打を放つものの16ホームランに留まり、2002~2003年ほどの長打力が見られなかった。開幕から40試合ホームランなしというのはそれを象徴する出来事。その41試合目に出た1本目のホームランもこの年から始まった交流戦の福岡ソフトバンクホークス戦で広い福岡Yahoo! JAPANドームでのランニングホームランだった。逆にヒットは量産を続けて打率の個人記録を更新し、特に2005年8月30日~9月29日まで22試合連続試合安打を記録した。2005年12月18日にフリーアナウンサーの用稲千春との婚姻届を提出した。
2006年4月30日に東京ドームで行われた中日6回戦では2打席連続の満塁本塁打を含む4打数3安打1四球10打点(安打はいずれも本塁打)を記録。2打席連続の満塁本塁打はプロ野球史上初の記録。1試合2本の満塁本塁打はプロ野球では55年ぶり2人目(パ・リーグで1951年に飯島滋弥(大映)が記録)、セ・リーグ初の記録。1試合10打点は7年ぶり4人目のセ・リーグタイ記録(1985年のレオン・リー:当時横浜大洋ホエールズ、1999年7月のロバート・ローズ:横浜、8月の江藤智(当時広島)以来)で読売ジャイアンツの球団新記録。(従来の球団記録は1949年4月26日の川崎徳次と2001年6月9日の清原和博の9。)プロ野球記録は飯島(大映)の1試合11打点。2006年6月8日のソフトバンク(福岡Yahoo! JAPANドーム)戦で、前日に負傷した李承燁に代わり、4番でスタメン出場。球団史上第71代目、遊撃手としては球団史上初の4番打者になった。ちなみに、巨人の生え抜き選手での4番打者は高橋由伸以来7年ぶりの4番打者である。その後も安定した成績を残し,終盤ひざ痛を発症しながらも試合に出場し続け、Bクラスに低迷するチームで唯一全試合出場と気を吐いた。今季の遊撃手のベストナインは中日の井端が受賞したが、守備走塁では名手井端が、出塁率では選球眼の高い阪神鳥谷が、長打率では25本塁打を記録した二岡が上回った。
- 細身だがリストを利かした打撃で逆方向へ大きな打球を多く飛ばし、逆方向へ飛ばす打撃を日本テレビに「ミスター右中間」と名付けられると、この称号はマスコミに瞬く間に浸透した。かつてはその身体能力、潜在能力の高さから長嶋茂雄監督(当時)から「いつか3番打者を打ち、3割30本30盗塁を記録する」とまで期待されていた。
- 現在は上記の下半身の度重なる不安もあり、ほかの二遊間の選手と比べ守備範囲がやや狭くなってきていることや、守備機会が減少していることなどが指摘されている(ここ3年重度の故障を抱えたまま三塁を守っていた小久保裕紀の守備範囲が減少していたため相乗効果が生まれた、という説もある)。しかし、三遊間の深いゴロをさばくと柔らかい肩を振りかぶって矢のような送球を投げる様は名手にふさわしく、打撃は4番打者(巨人軍第71代4番打者)を任されるまでに信頼されている。走攻守、これといった弱点も無い上、以前より故障に強くなっている事から、巨人にとっては頼もしい選手であると言える。
[編集] 略歴
- 身長・体重:180cm 81kg
- 投打:右投右打
- 出身地:広島県三次市
- 血液型:O型
- 球歴・入団経緯:広陵高 - 近大 - 巨人(1999年 - )
- FA取得:なし
- プロ入り年度・ドラフト順位:1998年(2位・逆指名)
- 英語表記:NIOKA
- 推定年俸:1億8000万(2007年)
- 守備位置:遊撃、三塁、二塁、(外野)
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時)
年度 | 球団 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 犠打 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 併殺 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | 巨人 | 126 | 418 | 49 | 121 | 14 | 0 | 18 | 189 | 51 | 8 | 2 | 6 | 3 | 35 | 92 | 7 | .289 |
2000 | 119 | 298 | 35 | 79 | 10 | 0 | 10 | 119 | 32 | 9 | 5 | 9 | 1 | 27 | 57 | 5 | .265 | |
2001 | 86 | 240 | 35 | 56 | 9 | 1 | 5 | 82 | 23 | 10 | 4 | 10 | 0 | 15 | 44 | 1 | .233 | |
2002 | 112 | 398 | 64 | 114 | 21 | 1 | 24 | 207 | 67 | 3 | 2 | 16 | 1 | 29 | 79 | 7 | .281 | |
2003 | 140 | 573 | 88 | 172 | 18 | 1 | 29 | 279 | 67 | 14 | 8 | 14 | 3 | 34 | 92 | 12 | .300 | |
2004 | 91 | 327 | 27 | 88 | 10 | 0 | 9 | 125 | 49 | 0 | 0 | 1 | 1 | 31 | 72 | 7 | .269 | |
2005 | 139 | 539 | 64 | 162 | 25 | 0 | 16 | 235 | 58 | 3 | 0 | 5 | 3 | 46 | 79 | 13 | .301 | |
2006 | 146 | 551 | 67 | 159 | 26 | 0 | 25 | 260 | 79 | 0 | 1 | 6 | 5 | 36 | 113 | 15 | .289 | |
通算 | 959 | 3344 | 429 | 949 | 133 | 3 | 136 | 1496 | 426 | 47 | 22 | 67 | 17 | 253 | 628 | 67 | .284 |
位置 | 1999 | 2000 | 2001 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
遊 | 120 | 149 | 326 | 9 | 63 | .981 | 117 | 130 | 213 | 7 | 36 | .980 | 80 | 98 | 175 | 7 | 30 | .975 |
位置 | 2002 | 2003 | 2004 | |||||||||||||||
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
三 | --- | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | --- | ||||||||||
遊 | 105 | 109 | 261 | 5 | 40 | .987 | 140 | 197 | 384 | 12 | 59 | .980 | 91 | 129 | 237 | 7 | 41 | .981 |
外 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | --- | --- | ||||||||||
位置 | 2005 | 2006 | ||||||||||||||||
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |||||||
三 | --- | 6 | 1 | 3 | 1 | 0 | .800 | |||||||||||
遊 | 139 | 167 | 409 | 12 | 64 | .980 | 144 | 167 | 400 | 7 | 69 | .988 |
[編集] タイトル・表彰
- ベストナイン(遊撃手)
- 2003年
- 2002年
[編集] エピソード
- 長らく無趣味だったそうであるが、最近では妻の影響もありガンダムのプラモデル(通称ガンプラ)作りがマイブームのようである。
- 打席に入るときのBGMは、ジグソーの『スカイハイ』。
- 女性人気が非常に高い。
- 広陵高校で二枚看板だった福原忍(現阪神)とは小学校から高校までチームメイトだった。
- 日本テレビ系列のプロ野球テーマソングで愛内里菜の『FULL JUMP』を共に歌った。
- 2007年3月長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督が二岡に喝を入れたが、実は原監督が故障している二岡に檄を飛ばすために行った行為であった。
[編集] 父親の交通事故と二岡ボックス
- 1993年の高校2年生の秋に春選抜の実質的な予選となる広島県秋季大会に出場。10月2日に同大会の準決勝が行われたが、当日三次市の自宅から広島市まで応援に向かった両親が交通事故にあう。準決勝終了後に病院に向かったが母親は無事だったものの父親が意識不明であることを知らされる。当日夜は父に付き添い10月3日の決勝戦はそのまま試合へ臨むこととなった。この試合広陵高校は広島商と対戦し9回裏2死まで8-0とリードし二枚看板のもう一人福原忍が完封目前であったが中井哲之監督の配慮で二岡は登板し3球三振で試合を決めた。10月7日父親は他界した。(享年51)
- 2003年オフにそれまで個人シートを設置していた川相昌弘が移籍したことと、打率.300、29ホームランの好成績、ベストナイン受賞、年俸1億円突破などの功績で主力選手と認められたことで、二岡の自費によって観客を招く二岡ボックスの設置が球団に認められた。この二岡ボックスは2004年シーズンより本人の「交通事故によって自分と同じような境遇にある子供たちに僕のプレーを見てもらいたい」という希望により交通事故で親が死亡したり重い後遺症を背負った小、中学生を対象に、東京ドームで開かれる巨人主催のプロ野球公式戦の全試合に各試合4人ずつを招待する(チケット並びに交通費など観戦費用の補助も含む)ための席として設けられることとなった。二岡ボックスの実施により2004年11月には独立行政法人自動車事故対策機構から感謝状を贈呈されている。
[編集] 関連書籍
青い空を見上げて―読売ジャイアンツ二岡智宏
[編集] 外部サイト
- 二岡ボックスの実施について(読売ジャイアンツ)
- 二岡智宏の唄
[編集] 関連項目
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88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 98 玉木重雄 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 94 木樽正明 | 95 宮本英治 | 97 伊藤博 | 99 内藤重人 | 111 藤田浩雅 | 130 金杞泰 |
読売ジャイアンツ 1998年ドラフト指名選手 |
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1位:上原浩治 / 2位:二岡智宏 / 3位:加藤健 / 4位:安原政俊 / 5位:酒井純也 / 6位:玉峰伸典 / 7位:進藤実 / 8位:高野忍 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 関西学生野球連盟の選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | 1976年生 | 広島県出身の人物