西口文也
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[[Image:||西口文也]] |
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愛称 | オツ |
国籍 | ![]() |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
出身校 | 立正大学 |
誕生日 | 1972年9月26日 |
身長 | 182 cm |
体重 | 71 kg |
血液型 | o |
守備位置 | 投手 |
打席 | 右 |
投球 | 右 |
背番号 | 13 |
年俸 | 2億7000万円 |
デビュー年 | 1995年8月16日 |
キャリア | 1995年- |
所属球団 | 西武ライオンズ |
前所属球団 | |
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西口 文也(にしぐち ふみや、1972年9月26日 - )は、和歌山県出身で西武ライオンズ所属のプロ野球選手(投手)で、背番号は13番である。愛称は新人時代に山梨学院大学の駅伝選手ジョセフ・オツオリに似ていると先輩から言われたのがきっかけで名づけられた「オツ」である。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] アマ時代
- 西和佐小学校在学中、2年生のときに西和佐少年野球クラブへ入部し遊撃手としてプレー、高積中学校では外野手として活躍し県大会優勝、そして和歌山商業高校時代は内野手兼投手だったが立正大学時代に投手として活躍。1992年春季東都2部リーグで最優秀投手賞受賞する。1994年11月14日のドラフト前日に東都リーグ入れ替え戦第3戦に先発し、亜細亜大学・入来祐作と投げ合い、3塁を踏ませない3安打完封の好投で立正大の1部リーグ昇格の原動力となり、1994年ドラフト3位で西武に指名され入団。
[編集] プロ時代
[編集] 1995年
- プロ入り1年目に米独立リーグ(教育リーグ)に野球留学しスライダー(西口本人は学生時代から投げていたと言っている)を磨き、チェンジアップを会得、日本へ呼び戻された後、後半戦から安定したピッチングをし、チームのBクラス落ちの危機を救う活躍(登板数9、勝利数2、防御率1.99)を見せ、初完投を完封勝利であげた。
[編集] 1996年
- 昨シーズン後半から見せた投球を序盤から発揮し、首脳陣の期待に応えリーグ2位の16勝・173奪三振、そして最多完投をマーク。チームのエースとなり一気にリーグを代表する投手に成長した。またオールスターにも監督推薦で初選出されている。
[編集] 1997年
- 初の開幕投手を務めた。最多勝利、最多奪三振、最高勝率、ベストナイン、ゴールデングラブ賞、沢村賞などの投手主要タイトルを獲得、MVPを受賞。
- この年9月には (中6日)9/6 中継 1回1/3・(中2日)9/9 先発 6回1/3・(中4日)9/14 救援 3回・ (中0日)9/15 救援 4回・ (中3日)9/19 先発 9回・(中4日)9/24 先発 9回とシーズン天王山で先発抑え先発、と獅子奮迅の活躍をみせた。 ヤクルトスワローズの野村克也監督曰く「西口と言う投手がずば抜けていいと。」古田敦也捕手曰く「うちの伊藤智仁が9回投げると思ってくれ。そう言われました。」(1997年の日本シリーズ前)、 と語っている。
- 日本シリーズ第1戦に先発登板しヤクルト先発の石井一久との息詰まる投手戦を展開する。西口はチェンジアップを巧みに使いカウントを稼ぎ、スライダーでしとめるシーズンどおりのピッチングをみせ、ヤクルト打線を7回まで無失点に抑えていたが、8回に、テータムにソロホームランを打たれ先制点を許してしまう。後続を断ったものの結局これが決勝点となり、9回1失点の完投も実らず敗戦投手に。その翌日の第2戦をとったものの3、4戦をとられ追い込まれた西武は第5戦を再び西口に託す。しかし先制点を許してしまい5回を投げ3失点とゲームは作ったものの敗戦、シリーズ2敗目を喫す。
[編集] 1998年
- 2度目の開幕投手を務める。前半戦なかなか結果が出せず一時、森慎二と配置転換され中継ぎ、抑えとさまざまな役回りを演じ苦しんだが後半に巻き返し、2年連続の最多勝利、最多奪三振、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を獲得。また最多完封勝利をマーク。
[編集] 1999年
- 3年連続の開幕投手を務める。この年ルーキーの松坂大輔にチーム勝ち頭を奪われたものの、2度目の最多完封勝利をマーク、共に松坂に次ぐリーグ2位の14勝、141奪三振を記録。
[編集] 2000年
- 昨年まで故障とは無縁であったがこの年、後に持病となる右足内転筋をシーズン中に2度痛め、戦線を離脱したものの11勝を挙げる。また3年連続の最多完封勝利をマーク。
[編集] 2001年
- 四死球91個と制球に苦しみ、防御率が初の4点台に。リーグ2位の14勝を挙げる。
[編集] 2002年
- 1998年以来のチーム勝ち頭になり、共にジェレミー・パウエルに次ぐリーグ2位の15勝、182奪三振を挙げる。また3度目のゴールデングラブ賞を受賞。
[編集] 2003年
- 序盤から調子が上がらずシーズン中盤に2軍に降格。2軍にて調整中に持病の右足内転筋を痛めることなども重なり、規定投球回数にも届かず6勝、防御率6.84と不本意な成績に終わり、連続2桁勝利・連続防御率10傑入りの記録が途絶える。
[編集] 2004年
- 昨年の悔しさを晴らすため、昨オフから禁煙をし、食事にも制限を加えるなど節制に努め復活を期す。シーズン中に3度右足内転筋を痛めるなどアクシデントはあったものの、10勝を挙げ復活を果たす。この年FA権を取得するが行使せず西武に残留。同年オフの契約更改会見で「これから西武で何勝できるかやってみたい」と発言し、事実上の「生涯西武」宣言と受け止められている。
[編集] 2005年
- 序盤から順調に勝ち星を重ね、チーム勝ち頭であり、リーグ2位の17勝を挙げる。また日本のプロ野球におけるインターリーグ(セ・パ交流戦)において6勝を挙げ、交流戦初代最多勝投手に。
[編集] 2006年
- 4度目の開幕投手を務めるものの、シーズン序盤になかなか調子が上がらず負けが大きく先行するが、中盤以降に復調し9勝を挙げる。福岡ソフトバンクホークスとのパ・リーグ・プレーオフ第1ステージ第3戦に先発登板し、7回途中を1失点に抑えるなど好投するがチームは敗戦。シーズン終了後、継続保有していたFA権を今回も行使せず、西武に残留することが決まった。
[編集] 2007年
[編集] 総論
- この間に7年連続防御率10傑入り(96年7位・97年7位・98年6位・99年8位・00年3位・01年9位・02年8位)も果たしているが、この記録を他に達成したのは金田正一・別所毅彦・江夏豊・小山正明・稲尾和久・山田久志・星野伸之という歴代の大投手7人のみである。
- これ以降も毎年1年間ローテーションを守り、西武にとって必要不可欠な存在になっている。なお開幕のマウンドには4度立っている、まぎれもなく球界屈指の好投手である。
- 実働12年間で9度の2桁勝利を記録し、勝利数2位以上の年が7回と近年には類を見ない安定感を誇る。
- また、入団以来一度も負け越したシーズンはない投手としても知られ(2006年は9勝9敗に終わり、勝ち越しの記録は途絶えた)、現役パ・リーグ第1位の142勝、両リーグ中でも第4位の勝ち星を誇る投手である。また、これはプロ野球歴代49位の勝ち星であり、西武ライオンズ史上最多勝投手でもある。
- その一方でポストシーズンでは勝ち星に見離され、日本シリーズに4度出場し、6度登板(いずれも先発)しているもののいまだ未勝利(0勝5敗)。もっともKOされたといえるのは1998年の日本シリーズ第1回戦の対横浜ベイスターズ戦の1回だけである。またパ・リーグ・プレーオフにも2度登板(いずれも先発)しているものの、こちらもいまだ未勝利である。
- なお、2007年の推定年俸2億7000万円は現役パ・リーグ投手第1位である。また、2006年の推定年俸3億円はパ・リーグ投手歴代2位。
[編集] 人物
性格はいたってマイペースで、勝っても負けても言動は感情的にならず淡々としており、また時折ユーモアも交える。瑣事に無頓着でタイトルや記録のような栄誉にも執着を見せず、よく飄々とした(性格・態度が世俗を超越していて、とらえどころがないさま)人物であると評される(後述の#エピソードの項も参照されたい)。ウエイトトレーニングの類を行わない主義で、昨今のプロ野球選手としては細身の体格で知られる。選手生命を左右するような大きな故障とはこれまで無縁であるが、右足内転筋を(2004年シーズンには3度離脱しているように)しばしば痛めるのが持病のようになっている。
[編集] 投球面
[編集] ピッチングスタイル
キレのよいスライダーを得意としており、彼の代名詞とも呼ぶことができる。西口のスライダーは独特な変化をし、特に2ストライクに打者を追い込んでからは、時にフォークと見間違えられるほどに鋭く縦に変化する(打者にスライダーを空振りしたのではなく、フォークを空振りしたかのようなスイングをさせることがある)。この球は好調時には高い確率で打者の空振りを誘う一方で、早いカウントの時は変化の小さなスライダーでストライクを稼ぐというように使い分けている。
ストレートはかつては150キロ以上(MAX152キロ)を計測することもあったが、近年は140キロ前後である。
配球はストレートとスライダーが投球の多くの割合を占め、この2球種のキレがその日の結果を大きく左右すると言える。 基本的に変化球はスライダーが多いが、他にもフォークボール、チェンジアップ、シュート、カーブなどを持っており、フォークボールとチェンジアップはどちらかといえば左打者に対して多く使われる傾向がある。シュートとカーブが使われるのは稀である。
1996・1997年のころは、ストレート、スライダー、そしてチェンジアップが主として投げられていたが、2000年ごろからチェンジアップの比率が減り、フォークが増えていった。この背景にはフォークの精度が増してきたことに加え、チェンジアップが1997年ごろと2000年前後以降でまったく異なる球種になっていることが関係していると思われている。前期のそれはストレートと比べ最大30km以上遅いブレーキングボールでありながら落差がかなりあるなど、特徴的な球であった。が、後期には落差が小さい一般的なチェンジアップ(ストレート-20kmほど)になっている。また近年はフォークボールが制球・キレとも安定感を増し、03・04・05年と3年連続被安打率1割台であり、隠れた球界屈指のフォークボーラーといえるだろう。
制球力はいいが、与四球は少し多いほうである。1試合の中でのペース配分の技術に優れ、その性格ともあいまってピンチにもあまり動じず(西武のエースと言われる所以である)、勝負所で全力で投げ込むストレートは威力、コントロールともに抜群である。2006年は177回1/3イニングを投げて暴投が一度もない。また投球テンポがよいので締まったゲームを作ることができる。
一方で点差が開いた時や強打者ではないバッターに対しては気を抜くのかポカがあり、それまでのピッチングが嘘のような本塁打を打たれることが多い。俗に言う「一発病」で、「西口といえば一発病」というイメージが定着しているほどである。そのせいか毎年20本前後の本塁打を打たれている。そのため先発投手としてはとても良い被安打率を誇る割には、よく本塁打を打たれるため防御率にはあまり成果が現れていない。
[編集] ピッチングフォーム
西口の投球フォームは、細身の体を柔らかくかつ一杯に使い、半ば枕詞のように「マウンド上で踊っているよう」であると形容されることが多い。ただルーキーのころは、野球評論家たちに蛸踊りのようだと酷評されていたこともあったが、実績を残すにつれ聞かれなくなった。躍動感を感じさせるこのフォームはファンにとっての魅力の一つとなっている。また、この躍動感の有無がその日の調子のバロメータであると言われることもある。
技術的にも、軸足である右足はプレートの右端に立てた上で左足をインステップすることでリリースポイントは通常より右側にずれ、腕は体幹に巻きつくように振られ体に遅れて出てくるため、ギリギリまで打者からは見にくくなっているとされる。直球と変化球で腕の振り方が変わらないために球種の見極めが難しい(しかし近年のチェンジアップは腕の振りが違うため、打者に見破られ易くなっている。)こともよく指摘されるところであり、見た目の華やかさだけでなく実用的なフォームでもある。 (西武ライオンズのエースであった渡辺久信氏(現インボイス監督)はラジオ解説で「西口とキャッチボールをするのは慣れていないと危ない」と語ったことがある)
しかしこのフォームには欠点もある。投球するときのステップ幅が広すぎるため、内転筋を痛めやすいことと、ストレートがシュート回転しやすくなることである。もっとも西口は、時にこのシュート回転気味のボールを武器にしている面もある。 また、投げ終わった後は一塁側に倒れこむような体勢になり、打球への反応が一瞬遅れがちになる。
これに関連してしばしば語り草となるのは1998年の日本シリーズ第1戦で、横浜ベイスターズ先頭打者の石井琢朗選手に三塁側へのセーフティバントを決められたことである。石井は西口のフォームをビデオで見てこの作戦を思いついたといい、これを足掛かりに横浜に先取点を奪われた。ひいてはシリーズ全体の流れを決定付けてしまったプレーとさえ言われることがある。
ただし西口のフィールディング技術そのものはグラブ捌きや、身のこなし等優れており、ゴールデングラブ賞を3度受賞している。
入団当初は振りかぶって投げていたが、1998年前半の不調時期の前後にノーワインドアップモーションに変えていた。しかし再び2005年からワインドアップモーションに戻している。
[編集] 奪三振
ファンにとっての魅力の一つには奪三振の多さもあげられる。2006年には通算1500奪三振を記録したが、要した投球回数1729イニングは史上47人の達成者の中で江夏豊、川口和久に次ぐ3番目のスピード記録であり、右投げでは歴代1位である。 変わったところでは1997年4月12日の千葉ロッテ戦の2回裏に史上4人目の1イニング4奪三振を記録している。なお初奪三振は秋山幸二からである。 2006年6月18日の横浜ベイスターズ戦では12個の三振を奪い、1996年から11年連続で2桁奪三振試合を達成するというパ・リーグ新記録を樹立した(それまでは元日本ハムファイターズの西崎幸広の10年連続が最長)。
奪三振王受賞は2回(97,98年)である。02年は180個の三振を奪ったが奪三振王のジェレミー・パウエルの182個に惜しくも2個及ばなかった。しかし奪三振率はキャリアハイの8.90を記録した。
[編集] 魔の東京ドーム
東京ドームが大の苦手で、1996年8月3日の日本ハム戦以来勝ち星から遠ざかっている(通算でも1勝。ただし近年は登板を回避することも多く登板数が少ないことも影響している。優勝を争っていた2001年には当時の東尾修監督がローテーションをずらしてでも西口の東京ドーム登板を避けた。2002年の日本シリーズで初戦の先発を回避したのもこれが一因とされる)。これはマウンドが西口に合わないのが原因だといわれている(2002年まで東京ドームのマウンドは黒土で穴が掘りやすく滑りやすく、西口の持病の内転筋を痛めやすいため)。また、東京ドームが苦手ということで対日本ハム戦の通算勝率は高くない。なお、2004年に日本ハムが札幌に移転した後は、札幌移転後も年10試合前後行われる東京ドームでの日本ハム主催試合を、日本ハム札幌移転の際の経緯から西武側が拒否しているため、西口の東京ドーム登板の可能性はセ・パ交流戦での巨人戦、または西武と巨人が日本シリーズに進出した場合に限られる。
[編集] 得意の大阪ドーム
上に挙げたとおり東京ドームは苦手である反面、近鉄バファローズの本拠地であった大阪ドーム(2006年京セラドーム大阪に改称)での成績は非常に良い。1997年の大阪ドーム開場以来、十数度先発登板して一度も敗戦投手になったことがなかった。すなわち、近鉄バファローズから見れば、大阪ドーム開場以来数年間、一度として、本拠地で西口を敗戦投手にすることができなかった。 この記録が取り上げられるようになって梨田昌孝監督率いるバファローズナインはなんとしても西口を敗戦投手にしようと躍起し(試合前後の監督のコメントから意識していたのは明らかであった)、2003年5月20日ついに大阪ドームで西口に黒星をつけたのである。 なお、これが西武の本拠地インボイスSEIBUドームになると大阪ドームより成績が落ちて五分五分程度になるため、これもまた単純に西口と対戦チームとの相性の問題ではないようである。 また、2000年以降は近鉄と西武との対戦成績は五分か近鉄が勝ち越すことが多かったため、チーム同士の相性(相手チームへの苦手意識など)も、関係がない。 東京ドームと対称的に、大阪ドームでの成績が良いことには恐らくマウンドの固さや傾斜が西口にあっているのだと思われる。
[編集] 「あと1人」(28人目)の悲劇
2002年8月26日の対千葉ロッテマリーンズ戦(西武ドーム)で、福浦和也の四球による出塁1つに抑える好投で9回2死までノーヒットノーランだったが、小坂誠内野手に中前打されて快挙を逃した。次打者のサブローにも右前打されたが後続を抑えて2安打1四球、6-0の完封勝ち。
2005年5月13日のセ・パ交流試合対読売ジャイアンツ戦(インボイスSEIBUドーム)でも、清原和博の死球(この死球によって翌日は警告試合になった)による出塁1つに抑える好投で9回2死までノーヒットノーランだったが、清水隆行外野手に得意のスライダーを右翼席に本塁打されて快挙を逃した。しかし後続を抑えて1安打1死球、6-1の完投勝ち。
このように9回2死から安打を打たれてノーヒットノーランを2度逃すのはプロ野球史上2人目。
また、2005年8月27日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦(インボイスSEIBUドーム)では、9回終了まで完全試合だったものの、味方の援護が無く延長戦に突入。延長10回表に同い年の先頭打者沖原佳典内野手にヒットを打たれ、完全試合の快挙を逃した。このような形で延長戦で完全試合を逃したのは史上初(ノーヒットノーランでは西口が9人目)。後続の打者を抑え、その裏の攻撃でライオンズは石井義人のタイムリーヒットでサヨナラ勝ちをおさめたため、結果的には10回1安打1四球、1-0の完封勝ちという形となった。
仮にこのまま完全試合を続け、西武の打線の援護でサヨナラゲームを決めれば、江夏豊が阪神タイガース時代の1973年8月30日に中日ドラゴンズ戦で達成して以来の延長戦ノーヒットノーラン(完全試合はもちろん初)の記録達成だった。一応、完全試合が参考記録として記録されている(プロ野球史上初)。ちなみにこの試合、相手の先発投手は当時未勝利の新人一場靖弘であった(10回は福盛和男にマウンドを譲り、一場に勝敗はつかず)。
尚、上記3名の打者すべてが、西口がその日に対戦した28人目の打者であった。
上記とは若干異なるが、1996年9月22日の対近鉄バファローズ戦(西武球場)で、初回に水口栄二内野手にヒットを打たれたものの後続を全て抑え、途中8連続奪三振の活躍(日本記録は9連続)で1安打、6-0の完封勝ち、このとき一度目の「準」完全試合を達成していた。この日も結果として対戦打者は28人である。
ちなみに、1999年のオリックス・ブルーウェーブ戦でも8回2死までノーヒットを続けながらも未遂に終わっている。
[編集] エピソード
- 松坂大輔が西武に在籍していたころはエースといえば松坂といわれることの方が多かったが、上原浩治、川上憲伸など一流投手の中では今もエースは西口と公言している人がいる。これは西口が長年にわたって連続して先発投手としての実績を残している近年では唯一の存在とも言えるからであり、上原は「何年も安定して結果を出してこそエース」として西口に敬意を表している。
- 松坂大輔入団以後は、西口と松坂がどちらも甲乙つけ難い好成績を残しているため、どちらが西武のエースなのかということに関して、しばしばファンの間で議論になることがある。「日本のエースは松坂、西武のエースは西口」という言い方がされることもある。また豊田清からは「松坂は怪物、エースは西口」といわれた。
- 入団当時の松坂大輔に球が速いと思わせた投手は西口である。
- チーム内での人望も厚い。同い年で同期入団高木浩之は「こいつのために何とかしてやろうと言う気になる」と言っている。
- 昔メジャーについて聞かれて「飯がマズイから行かない(新人時代教育リーグに参加してた)」とコメント。
- 伊東勤捕手曰く「オールスターで九者連続奪三振する投手がいるとしたら、西口しかいない」。
- MVPを獲得した97年の選考会で、「西口はどうせこの後何回もMVPをとる選手だから伊東をMVPに」という意見もあった。
- 西口が全盛期の頃はダイエーホークスの選手の殆どが次シーズンの抱負として、「来年は西口さんから打ちます」と言っていた。
- 飄々とした性格からか年俸にも拘らず、全盛期で2桁勝利しても900万しか年俸が上がらなかったことも。
- 99年、工藤公康に「西口と当たらなくて良かった」といわしめた。
- 2005年の年末には、スポーツうるぐすの企画で「今年ついてなかったスポーツ選手」として、相撲の普天王、横浜ベイスターズの多村仁と釣り対決をした。が、結局釣れずに終わった。
- 2002年に1度目の大記録を逃したときに「まだ早いということでしょう」とコメントしている。
- 2006年6月20日の広島東洋カープ戦で19歳最後の登板となった涌井秀章に「誕生日プレゼントは買ったが、勝たないとあげない」というメールを送り奮起を促した(この試合、涌井は1失点完投勝利)。
- 2006年のシーズンは9勝9敗と西口にしてはイマイチな成績だったが、シーズン終了後~契約更改前まで2回出場したゴルフコンペで2連勝し「これでシーズンとあわせて11勝だから減俸も少なくなるかもしれません」とジョークを交えてインタビューに答えていた。その後、契約更改日の交渉時間に渋滞により遅刻をして「10分遅れたんで10%減でした、5分だったら5%減だったかもね」というジョークも飛ばしていた。ちなみに推定年俸2億7000万円はこの年パ・リーグ投手1位。
- 普段はその細身の体格、風貌もあってか、近所を歩いてても周りにプロ野球選手と思われることはほとんどないらしい。
- 川合俊一がテレビ番組「ジャンクSPORTS」で語ったところによると、川合にホモ疑惑があった時期に、川合の家に泊まった唯一の男性が西口だという。当時ライオンズに在籍していた清原和博に連れられ川合らと一緒に飲んだことがあり、西口の方から次の日の練習に間に合わなくなるので泊めて欲しいと頼んだ。川合は「こんな噂が立ってる自分の所に平気で泊まるなんて」と身の危険を感じたため、別々の部屋に分かれた上で自分の部屋に鍵を閉めて寝たとのことである。西口のおおらかな、物事に動じない性格を見ることもできよう。ちなみに、現在西口は夫人との間に長女をもうけている。
- 謙虚な性格でも知られ、母校立正大学が西口のサイン色紙を所望したとき、自分だけでは不十分だと考えた西口は、なぜか松坂らチームメイトのサインも併せて送った逸話がある。
- 愛煙家でもあり、イニングの合間には必ずタバコを吸っていたらしいが、2003年に6勝に終わってからは禁煙している。本人の弁によると「禁煙はしていない。タバコを吸うのを止めただけ」とのことである。
- 30代になるまで自分の血液型を知らなかったらしい。
- 当時の監督東尾修によると、結婚前にはファッションに無関心で、ルーキー時代には先端に穴の空いた靴(靴下ではない)をパーティーに履いてきて東尾を驚かせたことがあるという。
[編集] 略歴
- 身長・体重 1m82cm、71kg
- 投打 右/右
- 出身地 和歌山県和歌山市
- 血液型 O型
- 球歴・入団経緯 県和歌山商高 - 立正大 - 西武ライオンズ(1995年-)
- プロ入り年度・ドラフト順位 1994年(3位)
[編集] 通算成績
(2006年シーズン終了時)
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四球 | 勝 | 負 | S | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 四球 | 死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | 年俸 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | 西武 | 9 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | 183 | 45 | 1/3 | 43 | 2 | 10 | 0 | 34 | 0 | 0 | 15 | 10 | 1.99 | 720 |
1996年 | 31 | 13 | 2 | 2 | 16 | 10 | 1 | .615 | 849 | 210 | 1/3 | 172 | 21 | 74 | 2 | 173 | 4 | 0 | 77 | 74 | 3.17 | 1400 | |
1997年 | 32 | 10 | 0 | 2 | 15 | 5 | 1 | .750 | 871 | 207 | 2/3 | 187 | 20 | 68 | 5 | 192 | 1 | 0 | 85 | 72 | 3.12 | 4300 | |
1998年 | 33 | 8 | 5 | 1 | 13 | 12 | 4 | .520 | 757 | 181 | 160 | 16 | 73 | 4 | 148 | 1 | 1 | 80 | 68 | 3.38 | 10000 | ||
1999年 | 29 | 7 | 3 | 0 | 14 | 10 | 0 | .583 | 732 | 179 | 1/3 | 141 | 20 | 55 | 3 | 141 | 3 | 0 | 72 | 68 | 3.41 | 10800 | |
2000年 | 24 | 4 | 2 | 1 | 11 | 5 | 0 | .688 | 618 | 145 | 2/3 | 136 | 22 | 59 | 3 | 131 | 2 | 0 | 62 | 61 | 3.77 | 11600 | |
2001年 | 28 | 1 | 0 | 0 | 14 | 9 | 0 | .609 | 730 | 165 | 1/3 | 156 | 18 | 85 | 6 | 143 | 6 | 0 | 85 | 80 | 4.35 | 13500 | |
2002年 | 29 | 3 | 2 | 0 | 15 | 10 | 0 | .600 | 753 | 182 | 166 | 25 | 51 | 5 | 180 | 3 | 1 | 76 | 71 | 3.51 | 17500 | ||
2003年 | 14 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | 0 | .667 | 349 | 76 | 1/3 | 85 | 19 | 31 | 3 | 69 | 1 | 0 | 60 | 58 | 6.84 | 23000 | |
2004年 | 21 | 0 | 0 | 0 | 10 | 5 | 0 | .667 | 506 | 117 | 1/3 | 97 | 19 | 56 | 4 | 112 | 4 | 0 | 50 | 42 | 3.22 | 18400 | |
2005年 | 25 | 3 | 1 | 2 | 17 | 5 | 0 | .773 | 701 | 172 | 157 | 13 | 34 | 9 | 137 | 5 | 0 | 55 | 53 | 2.77 | 20000 | ||
2006年 | 25 | 2 | 0 | 0 | 9 | 9 | 0 | .500 | 767 | 177 | 1/3 | 175 | 22 | 65 | 9 | 154 | 0 | 0 | 76 | 70 | 3.55 | 30000 | |
通算成績 | 300 | 52 | 16 | 8 | 142 | 83 | 6 | .631 | 7816 | 1859 | 2/3 | 1675 | 217 | 661 | 53 | 1614 | 30 | 2 | 783 | 727 | 3.52 | 161220 |
※太字はリーグ最高。金額は万単位。
打撃成績
1998年 2打数0安打0打点 打率.000
2005年 7打数2安打3打点 打率.286
2006年 8打数2安打0打点 打率.250
通算打撃成績
17打数4安打3打点 打率.235
[編集] タイトル・記録など
- 1回 1997年
- 2回 1997年、1998年
- 2回 1997年、1998年
- 1回 1997年
- 2回 1997年、1998年
- 3回 1997年、1998年、2002年
- 1回 1997年
- 1回 1997年
- 3回 1996年、1997年、1998年(3回は投手の最多記録。相方は全て伊東であり、同一バッテリーでは史上最多・史上最長の3年連続受賞)
- 4回 1996年5月、1998年8月、2002年8月、2005年7月
- オールスター出場
- 4回 1996年、1997年、1999年、2005年
- 4回 1997年、1998年、1999年、2006年
- 7年連続2桁勝利
- 1996年~2002年
- 7年連続防御率10傑入り
- 1996年~2002年
- イニング4奪三振(日本記録)
- 1997年4月12日・千葉ロッテ戦
- 8者連続奪三振
- 1996年9月22日・対近鉄バファローズ戦
- 日本シリーズ5連敗(日本記録)
- 西武ライオンズ史上最多勝
- 142勝
[編集] 関連項目
0 大崎雄太朗 | 2 柴田博之 | 3 中島裕之 | 4 高木浩之 | 5 和田一浩 | 6 後藤武敏 | 7 片岡易之 | 8 平尾博嗣 | 9 赤田将吾 | 10 佐藤友亮 | 11 岸孝之 | 12 河原純一 | 13 西口文也 | 14 小野寺力 | 15 大沼幸二 | 16 涌井秀章 | 17 山崎敏 | 19 長田秀一郎 | 20 山本淳 | 21 石井貴 | 22 野田浩輔 | 23 許銘傑 | 24 松永浩典 | 25 正津英志 | 26 星野智樹 | 27 細川亨 | 28 岡本篤志 | 29 三井浩二 | 30 ジェーソン・ジョンソン | 31 吉見太一 | 32 石井義人 | 33 江藤智 | 34 クリストファー・ギッセル | 35 岩崎哲也 | 36 山岸穣 | 37 銀仁朗 | 38 西川純司 | 39 貝塚政秀 | 40 ジェフリー・リーファー | 41 木村文和 | 42 アレックス・カブレラ | 43 原拓也 | 44 高山久 | 45 水田圭介 | 46 G.G.佐藤 | 47 帆足和幸 | 48 松川誉弘 | 49 上本達之 | 50 田沢由哉 | 51 大島裕行 | 52 栗山巧 | 53 福地寿樹 | 54 アレックス・グラマン | 55 黒田哲史 | 56 黒瀬春樹 | 57 田中靖洋 | 58 松坂健太 | 59 山本歩 | 60 中村剛也 | 61 星秀和 | 62 朱大衛 | 63 藤原虹気 | 64 石橋尚登 | 65 内田和也 | 66 宮越徹 | 68 田原晃司 | 69 東和政
83 監督 伊東勤 | 71 土井正博 | 75 荒木大輔 | 80 森山良二 | 78 立花義家 | 81 植田幸弘 | 72 清水雅治 | 79 笘篠誠治 | 87 原井和也 | 74 二軍監督 渡辺久信 | 76 田辺徳雄 | 77 石井丈裕 | 86 潮崎哲也 | 89 森博幸 | 88 相馬勝也 | 70 河田雄祐 | 98 大迫幸一 | 99 坂元忍 |
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