帝国
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帝国(ていこく)とは、
- 皇帝と呼ばれる(または皇帝に相当する)君主が支配する国家のこと。
- 多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家。この場合、君主が皇帝とは限らず、王だったり、政体が共和制であることもある。
- 国家に限らず、強大な勢力。他分野にまたがる企業グループなど。
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[編集] 語源
- 漢字の「帝国」の語源は皇帝が支配する国家。秦帝国の建国者は秦の始皇帝と呼ばれる。英語では「The First Emperor of the Unified China 」と訳される。
- 英語やフランス語の「Empire」の語源はラテン語の「Imperium Romanum」にあると言われる。ラテン語の「imperium」は元々「都市の周りの土地、統治権(territorio)」という意味であり、皇帝の存在とは関係がない。
- ドイツ語の「Reich」は「Empire」とは同じ用法では使われない。帝国と訳せる場合もある。Römisches Reich:ローマ帝国がそうである。しかし、「国」がふさわしい場合もある。「Himmelreich:天国、天上世界にある理想の国」、「Königreich:王国」、「Kaiserreich:帝国)」。
[編集] 概念
一般的には皇帝が支配する国家のことを指す。また、多数の民族を含む巨大な国家を指す場合もあり、この場合は必ずしも皇帝が支配する国を意味しない。
前者の定義の場合はその国家が自ら「帝国」を自称する場合が多いが、後者の場合は後の時代になってからそう呼ぶようになったり、あるいは比喩的に呼ぶ場合が多い。小国家でありながらその君主が皇帝を自称した第一次・第二次ブルガリア帝国は前者の例であり、君主が「大王」である「アレクサンドロスの帝国」は後者の例である。
「帝国主義」と混同されがちであるが、いわゆる近代「帝国主義」は、「大英帝国」に代表される産業革命による近代化以降の西欧列強を中心とするものであり、政体としては立憲君主主義でありながも、経済的事情や自国の防衛上の観点から他国もしくは他地域に対する領土的野心をもつ「膨張主義」を伴うものである。
[編集] 古代の帝国
古代の帝国は、ある特定の民族を中心にほかの文明や宗教を巻き込み、大きな領土をもつ国である。代表的なものは、アッシリア帝国、アケメネス朝のペルシア帝国、アレクサンドロス大王の帝国やローマ帝国であろう。
[編集] オリエントの帝国 アッシリア・アケメネス朝など
[編集] アレクサンドロスの帝国
古代マケドニア王国のアレクサンドロス大王は、マケドニア、ギリシャ、ペルシア、アフリカ、インドにまたがる大きな帝国を築いた。大王は、異なる民族を一つにまとめ上げようとし、例えば、ペルシャの兵士はマケドニア式の訓練をおこなったり、自らは、ペルシャ式の生活をし、オリエントの女性と結婚し、部下にもオリエントの女性との結婚を奨励したりした。しかし大王の早すぎる死後、帝国は4分割され、東洋と西洋の融合という理想も潰えた。
[編集] ローマ帝国
ローマ帝国は、その後のヨーロッパにおける帝国の基礎・規範となった帝国である。ローマの場合、共和制時代後期からギリシャ・北アフリカ・シリアなどを支配し、既に帝国として成立していた。また英語やフランス語などで「帝国」を示す単語の語源となったラテン語の「Imperium(インペリウム)」は軍事指揮権・支配権を意味するものであり、これを有する軍の司令官を「インペラトール」と呼んだのであり、君主制と必ずしも結びついていた訳ではない。近年では、ローマの支配は、「インペラトール」が各地の有力者と保護者-庇護者の関係を結ぶことから始まり、発展していったという解釈がされるようになってきている。
しかし、ユリウス・カエサルがインペラートルの称号を終身のものとして用い、さらに彼の後継者オクタウィアヌスが「インペラトール」や護民官・執政官などの共和制の諸官職を兼任し、元老院から「アウグストゥス(尊厳なる者)」という称号を受けて「市民の第一人者」「元首」となると、体裁としては共和制を保持していたとはいえ、1人のインペラトールに権限が集まる体制となり、「インペラトール」は徐々に君主「皇帝」となっていった。つまりまず先にローマ帝国があり、それを治める君主として「皇帝」が生まれたのである。
ローマ帝国は支配地域にローマ法・ラテン語(東方ではギリシャ語併用)・優れた建築技術による都市文明を行き渡らせ、民族、宗教の枠を越えた国家を建設した。その支配は、イタリアを始め、北アフリカ・ガリア・ブリタニア・イベリア半島・バルカン半島・アナトリア半島・シリア・エジプトに及び、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」とも呼ばれる平和と安定、そして「地中海世界」とも呼ばれる一大文明圏を作り出すことに成功した。212年にはカラカラ帝によって、帝国内の全自由民にローマ市民権が与えられ、様々な宗教・文化をもつ民族が「ローマ市民」として統合された。
しかし、3世紀後半になるとローマ帝国の国内は混乱し、インペラトールを名乗る者が同時に何人も出現するような事態となった。この事態を収拾した4世紀の皇帝ディオクレティアヌスは共和制の「元首」の延長であった皇帝を、ササン朝ペルシャ帝国のシャーのような専制君主とすることで帝国の統合を強化しようと試み、自らをドミヌス(主人)と呼ばせた。彼の思想を受け継いだコンスタンティヌス1世は、専制君主制を強化する一方でキリスト教を公認し、自らも改宗することによってキリスト教を帝国の統合の柱に据えようとした。
ここに、東方的な君主制と共和制以来の「インペラトール」、そしてキリスト教の思想が結びつき、「元老院、市民、軍隊の推戴」を受けた「神の代理人」である皇帝が「全世界の主」として統治するという体制が築かれた。この体制はローマ帝国の後継国家である東ローマ帝国(ビザンティン帝国)にも受け継がれ、さらに発展した。この強固な政教一致体制によって、東ローマ帝国は1000年以上の寿命を誇った。そして末期においては首都コンスタンティノポリスだけの小国家になり下がってしまったが、あくまで「ローマ帝国」を自称し続けた。
つまり、この「ローマ帝国」の変遷が、「帝国」にふたつの意味を持たせる事になった訳である。共和制ローマが多数の民族を含む大国家となって「帝国」となり、そして帝政に移行した後、小国家になっても「帝国」を自称し続けたのである。
ヨーロッパでは帝国の支配者を意味する「皇帝」は、このローマ帝国の皇帝に由来している。詳しくは、記事「皇帝」の「ローマ帝国」の欄を参照のこと。
[編集] 中国の古代帝国
[編集] 中南米の帝国
[編集] その他の古代の帝国
[編集] 中世の帝国
[編集] 東ローマ帝国(ビザンティン・ビザンツ帝国)
東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国ともいう)は、正式な国号は「ローマ帝国」であり、第4回十字軍の攻撃を受けた1204年まで、ギリシャ人を主役としながらもスラヴ人・アルメニア人などの民族を支配し、東方正教会を国教とする国家であった(1204年以降、滅亡する1453年までは、ギリシャ人のみの小国へ転落)。古代ローマ帝国の継承者としてローマ法や古代末期の体制、そして古代ギリシャ・ローマ文化を基礎としながらも、東西の文化をギリシャ語・東方正教会・ローマ法で纏め上げて融合させ、古代のローマ帝国とは異なる独自の文明を形成した国家であったといえるだろう。
この国家では皇帝は「元老院と市民、軍隊の推戴を受ける」ことが正統性の証である、という古代ローマ以来の概念と、皇帝は「神の代理人」「全世界の主」「諸王の王」である「アウトクラトール(専制君主)」として統治する、という東方的な考え方が融合した体制を取っていた。これは前述の古代ローマ帝国後期の体制が、4世紀から8世紀までの約400年近くに渡って緩やかに変化しながら作られた体制であり、いつまでが古代ローマ帝国でいつからがビザンティン(ビザンツ)帝国、と明確に決めることは出来ない(ちなみにビザンティン帝国というのは後世の呼び方であり、当時はあくまで「ローマ帝国」「ローマ皇帝」を自称していた)。
この帝国では民族には関係なく東方正教会の信者で、コンスタンティノポリスにいる皇帝の支配を受け、ギリシャ語を話す民は、ギリシャ人でもアルメニア人でも「ローマ人」であり、アルメニア人やノルマン人、改宗したトルコ人など様々な民族が国家の要職に就いていた。イスラム教やユダヤ教にも比較的寛容で、首都コンスタンティノポリスにはモスクまで作られるほどであった。詳細は東ローマ帝国を参照。
なお、下記のように、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを陥落させて建てたラテン帝国および、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権も「帝国」と呼ぶ。
[編集] カール大帝の「西ローマ帝国」と神聖ローマ帝国
西ヨーロッパ諸国は古代末期から8世紀までは、名目上コンスタンティノポリスにいるローマ皇帝(上記のように、通常「東ローマ皇帝」「ビザンツ皇帝」などと呼ぶ)の権威に服し、各国の王は皇帝の代理として旧西ローマ帝国領を統治するという形態を採っていた。しかし、7世紀以降イスラムやスラヴ人の侵攻によってコンスタンティノポリスの帝国政府の力が弱まり、またローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の宗教的対立や、ラテン語圏の西欧とギリシア語圏の東ローマの文化的な対立などから旧東西ローマ帝国の亀裂が深まっていった。そこでローマ教皇はフランク王カールを「ローマ皇帝」に戴冠し、コンスタンティノポリスの皇帝からの独立を図った。これが、カール大帝の「西ローマ帝国」であり、その後継者を名乗る神聖ローマ帝国である。
これらの帝国は、古代ローマ帝国の理念の影響を受けて「キリスト教世界全体を支配する帝国」という理念が打ち出された(勿論これは、もともとコンスタンティノポリスの政府が主張していた理念でもある)。このため、西欧では「皇帝」の称号はドイツの王のみに与えられ、名目的にはフランスやイングランドなどの国王よりも格上とされていた。しかし、実際に神聖ローマ皇帝が支配していたのは最大の時でも現在のドイツ・オーストリア・スイス・チェコ・ベネルクス三国・北イタリア・ブルグント(ブルゴーニュ)などフランス東部・スロベニア・ポーランド西部の戦前までドイツ人地域であったシレジア・プロイセンに限られ、年月を経るにつれて領域はドイツ語圏のみになり、国名も「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という名前になった。
また、ドイツ国内ではもともとゲルマン人の選挙王制の伝統が残っており、また各地の諸侯の力が強かったため、実際の皇帝権力は弱かった。さらに三十年戦争の後には帝国内の各諸侯領(領邦)がそれぞれ主権を持つ国家となったため、まったく帝国としての意味をなさなくなった。このため、フランスの思想家ヴォルテールは「神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもなかった」と酷評している。詳細は、神聖ローマ帝国を参照すること。
[編集] その他のヨーロッパの帝国
中世のブルガリア国家は、隣接する東ローマ帝国の影響を受けて君主が「皇帝」を称した。
[編集] イスラムの帝国
[編集] 中国の帝国
[編集] 遊牧民の帝国
[編集] 匈奴・突厥など
[編集] モンゴル帝国
[編集] その他の地域
[編集] 近代の帝国
- 帝国スペイン(ハプスブルク家)
- スウェーデン・バルト帝国
- 大清帝国(清王朝)(中国・満州族)
- フランス帝国
- オスマン帝国
- ロシア帝国
- インド帝国
- ブラジル帝国
- ドイツ帝国
- エチオピア帝国
- オーストリア・ハンガリー二重帝国
- 大日本帝国 - 1945年(昭和20年)の敗戦後、大日本帝国憲法に替わる日本国憲法の施行により日本国と改称。
- 大韓帝国
- 中華帝国
- 中央アフリカ帝国
[編集] 植民地帝国(帝政とは限らない)
[編集] 比喩などから帝国と呼ばれる国
- ナチス・ドイツ(ヒトラー政権下の元首制的共和国) - Das Dritte Reich(直訳: 第3の国)が通常「第三帝国」と訳される。
- ソビエト連邦 - レーガン大統領が「悪の帝国」と呼んだ。
- アメリカ合衆国 - しばしば批判的に「アメリカ帝国(米帝)」と呼ばれる。
- 中華人民共和国 - チベット、新疆ウイグル自治区、台湾、日本に対する政策から蔑称として帝国と呼ぶことがある。ソ連と同様に「赤い帝国」とも。