清風中学校・高等学校
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清風中学校・高等学校(せいふうちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、大阪府大阪市天王寺区石ヶ辻町(南校舎は北山町)にある私立の男子校、学校法人清風学園が運営する。大阪府下有数の進学校である。
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[編集] 概要
清風高校・中学は高野山真言宗(総本山金剛峰寺)の直営ではないが、宗門関連校である。1970年代中頃に大学合格実績が増加した、府内では有数の進学校である(1975年~1980年『サンデー毎日』・高校別大学合格者数参照)。
創立者は平岡宕峯氏(本名 平岡静人、高野山真言宗大僧正)。昭和7年に大阪電気学校の校長に創立者が赴任。昭和12年に開設された、大阪電気学校堺分校(浅香山電気工業学校)が直接の前身である。昭和24年に当時の大阪府知事赤間文三氏により、幕末の藩政改革者村田清風にちなんで「清風」と名づけられた。創設者の平岡宕峯氏は当時名だたる企業改革の仕掛け人であったため、村田清風の名前を頂いた。
現在、嫡男の平岡英信が現理事長。嫡孫の平岡宏一が現専務理事をしており、平岡宕峯の末裔(平岡宕峯家の嫡流)による世襲経営が行われている。[1]平岡宕峯氏の三男である平岡龍人専務理事(当時)は2000年に行われた大阪府知事選に立候補した。
[編集] クラブ活動
クラブ活動がさかんであり、運動部では半数以上の部が毎年インターハイに出場している。特に 体操部は世界レベルであり、オリンピックをはじめとする国際大会にもOBが多数出場している。(週刊朝日・日本の名門校2003年8月16日号参照)2004年のアテネオリンピックにも体操で2名、陸上で1名出場し、団体で金メダル、個人でもメダルを獲得した。文化系では電気部の高校生ITキング決定戦での三連覇(平成13年~15年NHK主催)、皇居での歌会始めの儀で4回の入選などが挙げられる。また高校生漫才グランプリ(吉本興業主催)での優勝など異色の分野での活動もみられる。また付属の清風中学でのクラブ加入率も約8割で各部とも活発な活動を行っている。(翔文社書店・中学進学ガイド2004年版・参照)
[編集] 教育・研究
英語及び数学に関して、教育研究所なる組織が設置されており、教師陣も研究に余念がない。英語研究所は校長平岡英信が所長を務め、主任松井久博らが尽力している。課外学習としてNIE(教育に新聞を)活動が挙げられる。これは記事を題材にフィールドワークや討論を行ない高度な思考能力の獲得や社会問題の理解を目指すものだ。清風高校・中学はNIE実践校として活動しており、2003年には第10回の発表会(日本新聞協会・朝日新聞社・大阪府教育委員会・大阪市教育委員会主催)が「自然と人間の共生」をテーマに南校舎7階で開かれた。この学習の一環として北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の蓮池透氏の講演会も催された。同左を参照)中学校は新しい歴史教科書をつくる会の公民教科書を2期連続で採用している。躾け教育の試みとして中学生は礼儀作法を学ぶため校庭で週一回剣道の早朝練習をしている。
著名人を招いて講演会を催すこともある。平成9年、平成15年に日欧4人のノーベル賞受賞者を迎え「フォーラム21世紀の創造」が開催された。超伝導の理論の研究でノーベル賞を受賞したアンソニー・レゲット、同じくノーベル賞学者の江崎玲於奈らが講演を行っている。質疑応答の時間も設けられ世界的な科学者に直に接する機会を得た。
[編集] アクセス
近鉄・「上本町駅」、より徒歩3分、大阪市営地下鉄谷町線・千日前線「谷町九丁目駅」より徒歩7分。
付近は文教地区とされ、私立の上宮中学校・高等学校、大阪府立夕陽丘高等学校、大阪赤十字病院、聖バルナバ病院、大阪警察病院がある。
[編集] 姉妹校
- 海外姉妹校
- 「北京大学附属中学(中国)」「ブリスベン・グラマースクール(オーストラリア)」「ロイヤル・ウォルバーハンプトン・スクール(イギリス)」「モンマス・スクール(イギリス)」「カレジオ・デ・サンファン・デ・レトラン(フィリピン)」
- 海外協力提携校
- 「リッチモンド国際高校・短大(カナダ)」「ソウル国楽芸術高等学校(韓国)」「イートン・カレッジ(イギリス)」「ハロウスクール(イギリス)」
- 姉妹校
- 清風南海学園「清風南海中学校・高等学校」、清風明育社「清風情報工科学院」(専修学校)
[編集] 学科・コース
[編集] 沿革
- 1932年(昭和7年)7月 大阪電気学校(電気科)として設立。
- 1937年(昭和12年)4月 堺市に大阪電気学校堺分校(電気科・機械科)を開校。
- 1945年(昭和20年)2月 中等学校令により、大阪電気学校堺分校を母体とする財団法人浅香山電気工業学校(電気科・機械科)を堺市に設立。募集は男子のみ。
- 1945年(昭和20年)6月 堺空襲により校舎焼失
- 1945年(昭和20年)7月 堺市錦西小学校へ移転
- 1946年(昭和21年)4月 大阪市逢坂小学校へ移転
- 1948年(昭和23年)4月 学制改革により浅香山電気工業学校は浅香山電気工業高等学校と名称変更し昇格認可。電気科に加え普通科を設置。募集は男子のみ。
- 1948年(昭和23年)8月 浅香山高等学校と改称し、大阪市天王寺区石ヶ辻町(現在地)へ移転。
- 1948年(昭和23年)10月 高等学校に定時制過程(普通科・電気科・商業科)を設置。男女共学。
- 1949年(昭和24年)1月 当時の大阪府知事の命名により、学校名を浅香山より「清風」と改称。
- 1951年(昭和26年)3月 私立学校法にもとづいて、学校法人清風学園と改組。
- 1971年(昭和46年) 高等学校全日制課程に理数科を設置。
[編集] 教育方針
勤勉と責任とを重んじ、自立的精神を養うと共に明朗にして誠実、常に希望の中に幸福を見出し、社会のすべてから「安心」と「尊敬」と「信頼」(徳・健・財)の対象となり、信用され得る人物を育成するため(清風魂の獲得)、仏教を中心とした宗教による教育を実施する。
[編集] 教育目標
教育目標は「清風魂」を獲得させ、福の神すなわち社会の全てから安心と尊敬と信頼(徳・健・財)される人物を育成する。
[編集] 清風魂
清風魂とは、社会の全てから安心と尊敬と信頼される人物になるという目標を、実行させる精神力であり、実現させる魂である。清風魂を体得するためには
- 第一、正しい判断力を育成し、鋭い断行力を養うこと。
- 第二、先祖伝来の宗教を中心に敬神崇祖の念を養い、信仰心を確立し、信念と不屈の精神力を身につけること。
- 第三、常に節制を守り、体力の錬磨向上を計り、徹底した精進努力をすること。
- 第四、礼節を重んじ、父母を大切にし、先祖に感謝し、年長者や先生を尊敬すること。
- 第五、素行を正しくして、常に正確な予算生活の実行者となること。
- 第六、常に自利利他・福の神のコースを脱線せぬよう心がけ、急がず、息まずの心構えで勤勉努力を続けること。
[編集] 校歌
作詞 平岡宕峯 作曲 四至本藤枝
- 難波の三津の中心地 歩々清風吹き起り 吾等が通う学舎は 若き健児の意気高し
- 平和を愛する友と友 雪に蛍に励みつつ 朝なタなにむつみあひ ひとつ思ひに進みなん
- 栄枯は物のならひなり 世情の推移限りなし 吾等が尊ぶ真理こそ 永遠に変らぬ光なれ
- 聞け黎明の鐘鳴りぬ 天地は歓喜に充ち満てり 思へ祖国の振興を 奮ひて立てよ吾が健児 清風 清風 清風
[編集] 宗教教育
清風学園は厳格な宗教学校である。教育方針にも高野山真言宗の教えをベースに、「仏教を中心とした宗教による教育を行う」ことや「仏教の戒律を守る精神に基づき、ルールを守る大切さを体得させる」ことを明確に掲げている。しかし、教科課程には仏教の時間を組み込んでおらず、系統立った仏教教育の授業もない。その代わりに“教科外活動”で生徒の「宗教心」を“励起”しており、これを「宗教教育」と称する。毎日の朝礼での般若心経の読経や年1回の修養行事、そして有名な生活指導が行われている他、期末考査では必ず「宗教」の試験がおこなわれる。[2]
宗教行事に関しても、宗派にはあまりとらわれていない。また、それどころか一方で、神道に則った宗教行事も存在する。これは神仏習合の理念がとりわけ強い真言宗の考えにも則ったものである(創設者は高野山真言宗大僧正)。さらに、チベット仏教との交流も盛んである。[3]
生徒手帳には、聖徳太子の十七条憲法が日本国憲法と並んで掲載されている。これを清風では、仏教の大切さを伝える歴史的文書としてとらえるとともに、聖徳太子が勤勉の姿を臣下に示されたものとし、生徒心得の原型と理解するからである。
学園創設者は、わが国の敗戦により、精神文化が全否定されたただ中にあって、占領軍によって奪われた「大和魂」「教育勅語」に代えて、「清風魂」「般若心経」「十七条憲法」を教育の根幹に据えた。清風学園の宗教教育が一見スマートでないのは、よって立つ宗教が純粋な仏教ではなく、日本の伝統宗教そのものだからである。
[編集] 般若心経
清風では、毎朝朝礼時に合掌し「般若心経」を読誦する。全校生徒3500名による般若心経は圧巻である。毎日唱える内に、自然に覚えてしまい、卒業生はほぼ全員、般若心経が読誦できる。般若心経は、大乗仏教の「空(くう)」の思想を説く経典であるが、清風では、「行深般若波羅蜜多」を最重要視している。生徒には、わかりやすく「核心に触れるまで努力せよ」という表現で、その精神を伝えている。
[編集] 修養行事
各学年ごとに宗教行事(修養行事)が行われている。これは「信仰の大切さを体得させ」るためのものと位置づけられている。
[編集] 高野山修養行事
- 毎年5月に中学1年生および高校1年生を対象に行われる行事。2泊3日の間、お寺に分宿して修養行事を行う。修養行事ではオリエンテーションをしたり、高野山の高僧から講話を聞き、写経等を行う。また奥の院や清風供養塔にも参拝する。写経が終わると、全員の写経を納め、全員が菩薩戒の受戒を受ける。[4][5]
[編集] 法隆寺修養行事
- 2学年では、法隆寺・薬師寺に日帰りで参拝する。法隆寺ではわが国に初めて仏法を伝えた聖徳太子の精神にみちあふれた聖地(法隆寺)の清浄な空気にふれ、魂を洗い清め、規則をよく守り、社会に尽くすことができる人間に成るよう誓いをたて、また、薬師寺においては、社会に尽くす人間、「校是に沿った人間」になることを薬師瑠璃光如来に誓う。
[編集] 伊勢大神宮修養行事
- 3学年では伊勢神宮に日帰りで参拝する。「日本国民の総氏神である大神宮のご祭神」の徳を得ることで「優れた国民」となるため、さらに「清風学園で、今日まで無事に学べた事に対する」恩に報じるためとされる。また、大神楽を奉納し、生徒の将来の人生に過ちがないよう祈願する。
[編集] 宗教施設
学園内には、仏教及び神道の施設がある。
[編集] 清風神社
- 北校舎8階には、総大理石造の「清風神社」がある。
- 清風神社の祭神は天照大御神であり、伊勢神宮の分社である。
- 学園創設者は、高野山奥の院および伊勢神宮への願掛けで現在地を授かった。現在地には、戦災で間借りした逢坂小学校の神宮遥拝所が、破壊を避ける為遷座されており、深いえにしを実感。戦後の物資困窮の折で、夜間社殿から銅版を盗んだり塀を薪にする者が出るような時代であったので、「将来、火にも焼けない、雨水も漏らない、ハンマーで叩いてもびくともしないお社にお移りいただく」とお約束をして、生国魂神社に一時お預かりいただいた。本校舎完成の折に校舎8階に遷座いただいたものである。
[編集] 清風曼荼羅
- 真言宗系の寺院の多くで本尊とされている「大日如来」が、清風マンダラとして礼拝用具一式と共に、南校舎の1~2階吹き抜け部分に設置されている。
- 清風曼荼羅は、南校舎の建設時に製作・安置された。真言宗の教義に基づく胎蔵界曼荼羅であるが、諸如来を色で表現している色マンダラの様式をとっている。
[編集] 瞑想室
- 本校舎2階には瞑想室が設置されている。宗教部が利用しており、一般学生が利用することは少ない。
- 瞑想室には、清風曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)と対になる曼荼羅が安置されている。真言宗の教義に基づく金剛界曼荼羅であるが、諸如来を色で表現している色マンダラの様式をとっている。
[編集] 校則・生活指導
将来の社会の指導者としての資質を養い、困苦に耐え得る精神を体得させるために、宗教教育の一環として日頃の生活指導に力を入れている。清風の校則は、極めて厳格である。服装や鞄はもとより髪型・コート・マフラーまで指定されている。校則に違反した場合は厳しい処分が行われる。罰則としては「般若心経を写経させる」ことや、違反内容によっては退学させることもある。特に、政治活動と喫煙行為は即刻退学処分となる。喫煙行為を禁じる理由は、法律で禁止されている以上に、「無駄金を使わない」事を教える意味が込められている。近頃は、万引きや入学直後を除きいじめ行為に関しても退学かそれに準ずる厳しい処置がとられる。また暴力行為についても停学処分など厳しい処分がとられる。
生活指導部は、最寄り駅である近鉄上本町駅、上本町ハイハイタウンにも毎日職員を派遣して巡視し、厳戒態勢を敷いている。
[編集] 生徒心得
清風の生徒手帳には、「生徒心得」が記載されている。生徒心得は、在学中の生徒が守るべき規則である。通常、校則という場合はこの生徒心得をさす。様々なことが事細かく決められている。もっとも、通常の暮しをしていれば、抵触することはない。遊びたい盛りの生徒には、こたえるようである。入学時には、レポート用紙に全条文を筆記する必修課題が課せられる。
[編集] 散髪検査
学園内では毎月1回、授業時間を割いて、頭髪検査(校内名称: 散髪検査)が行われている。かつては、髪型が校是に少しでも合わない生徒がいると、その場でバリカンで一枚刈りにされるという厳しさだった。その後、時代の流れとともに若干の変化もあり、現在は「長髪」にすることが許されている。しかし、世間一般でいわれている長髪より短く、「長髪」とまではいいがたい。その「校則で定められている長髪」は「清風カット」と呼ばれており、校舎付近の理容院ではたいてい通じるくらい有名である。系列の学校法人である清風南海学園の運営する清風南海中高(大阪府高石市)でも、同様の髪型が採用されている。また同じ天王寺区にある明星中高、京都市南区の洛南中高でも似たような髪型が採用されている。 [6]
[編集] 校祖平岡宕峯追悼式
毎年6月20日は学園創設者、平岡宕峯先生の命日にあたる。全校を挙げて追悼式が挙行される。参加は全生徒に義務づけられている。
[編集] 四天王寺の「どやどや」
毎年、元旦から14日間、大阪市天王寺区の四天王寺・六時堂で修正会(しゅしょうえ)が修せられ、14日の結願(けちがん)の日にどやどやが行われる。修正会は、毎年正月、天下泰平・五穀豊穣を祈願する行事で、正月に修せられることから修正会と呼ばれる。聖徳太子と弘法大師ゆかりの四天王寺において、真冬の寒い寒い中、在校生の多くが「赤白ふんどし」姿で参加する。[7] 準備・掃除・警備には当高校の風紀委員が当たっている。
[編集] 学園生活
[編集] 朝礼
毎朝8時35分より朝礼が実施される。 朝礼の内容は、般若心経の読経、学校長の訓話(学校長が不在のときは副校長、学校長と副校長が不在の時には教頭による訓話がある)、腹式呼吸、学校長による暗示である。訓話は、時事ネタから宗教上の解釈の話まで幅ひろい。
[編集] 生徒会(学友会)
清風高校には一般的な意味での生徒会は存在せず、代わりに学友会という名の組織が存在する。生徒による選挙は行われず、学校側が指名する形をとる。が、実際には前役員から引継ぎ的に指名されることのほうが多い。そのため一般の生徒にとって文化祭以外での存在感は薄く、日頃は朝礼前後のマイクによるアナウンス放送くらいのものである。なお、学友会は顧問として教師を迎えている。
[編集] 制服
制服はブレザーである。上着の胸元にはSと書かれたエンブレムが縫いつけてある。平成元年までは学ラン(紺色・黒ボタン)が制服であった。
また、ネクタイで学年が識別できるようになっており、西暦で、(3の倍数)年度は1年から順に赤、ねずみ色、緑で、(3の倍数+1)年度は1年から順に緑、赤、ねずみ色で、(3の倍数+2)年度は1年から順にねずみ色、緑、赤となっている。たとえば2006年度はねずみ色が1学年、緑が2学年、赤が3学年である。
このため、学年章は着用しない。
ちなみにかつては靴も制靴が採用されており、革靴ではなく白の運動靴タイプであった。この制靴には値段の違う本皮と合成革の2種類が用意されており、希望に応じて学内にて購入できた。当時はいかなる理由があっても制靴以外を履いて通学することは許されなかった。その後、1990年代後半の校則改良により、黒の革靴に限り自由化された。高校生では、運動靴も「白を基調としたもの」(生徒手帳より)と、比較的規制がゆるくなってきている。
ネクタイは、かつてはあらかじめノット(ネクタイの結び)の部分が作られたワンタッチタイプのネクタイをホックでカッターシャツに固定する方式が採用されており、いわゆる通常のネクタイは希望購入制であったが、1990年代後半の校則改正により通常のネクタイが制服として採用された。
制服には冬季の防寒用として紺地にSと書かれたベストとセーターがある。原則としてブレザーの下にはこれらしか着用してはならず、ブレザーの上に学校指定品のコート以外の防寒具を羽織ることは許されない。手袋は黙認されることがあるが、マフラーや防寒帽の類は没収される。
大小2種類の制カバンがあり、原則としてこれら以外のカバンを使用してはならない。
[編集] その他の学校行事
清風学園では修養行事のほかにもさまざまな行事が毎年行われている。これらは清風名物と呼ばれる。
[編集] 拝賀式
- 毎年1月1日に10時から自由参加の朝礼が行われている。校長平岡英信が清風神社の鐘を撞く様は必見!
[編集] ハイキング
- 4月、6月、10月、11月には普通のハイキングが行われる。また、7月には富士登山があり、月末に富士山を登頂している。さらに、3月には100km歩行と称し、1日半かけて大阪市天王寺区の校舎から和歌山県の高野山まで100kmの道程を踏破する行事を催している。高野山到着後は奥の院の大師霊廟前で、般若心経の読経と校歌の斉唱の後、観光バスをチャーターし、清風学園へ帰還する。
- これらのハイキングは全て生徒の中から有志を募って催している。
- 普通のハイキングに一定回数参加しなければより上位の富士登山及び100km歩行には参加できない。
[編集] 合唱祭
- 中学生の全生徒を対象に催されているもので、各クラスがそれぞれ1曲唄い、学年毎にその巧拙を競う。
- また、これとは別に芸術鑑賞という行事がある。2006年に、この芸術鑑賞への参加を芸術の1単位としていたことが発覚し、その年の2、3年生全員が補習を受けなければならなくなった。
[編集] 体育祭
- 体育祭にも清風名物は存在する。清風名物「どやどや」清風名物「100km歩行」に匹敵する「エッサッサ」という存在である。これは、上半身裸となって、全員で「エッサッサ」と唱和しつつ、腕を前後に運動するものであり、日本体育大学の伝統的な応援スタイル及び運動のことである。かつてエッサッサを行っていた多くの中学校・高校で廃止されていく中で、清風高校ではエッサッサを学生に行わせ続けている。これは清風学園の体育校としての側面も象徴している。[8]
- 体育祭自体は従来3日構成で行われており、中等学部・高等学部・選抜合同体育祭となる。
- 創立者平岡宕峯の逝去が学生に伝えられたのも体育祭の一日であった。
[編集] 学校施設
施設は、本校舎(5階一部7階建て・1962年及び1968年落成)・円形校舎(4階建て・1955年落成)・事務所棟(2階一部5階建て)・総合体育館(地下1階地上3階建て)・西校舎(2階建て・1972年落成)と片側2車線の道路を挟んで真向かいにある南校舎(地下1階地上7階建て・1982年落成)で構成されている。南校舎はその他の施設がある北側の敷地と陸橋でつながれている。
総合体育館は、地下1階には柔道場と剣道場が、1階には体育系クラブの部室が、2階と3階(一部を除く)には体育ホールが、屋上にはテニスコート(20m × 45m)がある。3階の一部にはトレーニングルームと呼ばれるスペースがある。
校内の集会で、中学・高校の全生徒が集められる運動場は、コンクリートに人工芝の全天候型である。グランドとテニスコートとが併用されている。広さは2面分しかなく、全校生徒3000人以上を集めるには無理があるが、毎朝の朝礼は運動場で行われている。ちなみに、本校舎の耐震補強工事を実施した際、工事中の代替施設としてグラウンドにプレハブの仮校舎を建設したが、そのような状況でも、朝礼はグラウンドで毎日ちゃんと実施された。
運動部の部活動は運動場や体育館のスペースを分け合う形で行われている。ちなみにグラウンドが狭いため、運動部のなかには清風南海学園のグラウンドを使用する部もある。
本校舎側と陸橋で結ばれている南校舎には普通教室と特別教室、および図書室と講堂が設けられている。屋上には陸上競技用トラックがある(ユーデック・「私立中学への進学・公立私立高校への進学・2005年版」を参照)。
なお、1990年代後半に、クラブ活動中の生徒が事務所棟屋上から転落し、死亡するという事故があった。 学校側の管理責任を巡り裁判に発展したが、最終的には和解が成立した。
老朽化が進んでいると思われる円形校舎と事務所棟の改築計画は不明だ。建て増そうにもおそらくその敷地がないというのが現状だ。
[編集] 単位履修問題
2006年11月2日付の朝刊で「履修漏れ」の報道がなされた。学校側の考えは、一切の原因が大阪府生活科学部私学課の側にあるというものであった。[9]
[編集] 注釈
- ^ 教職員の大半は平岡一族の意向に対しては、常に細心の注意を払いながら仕事をしている。
- ^ 清風では単位制に近い制度を採っており、赤点の科目があっても学年は上がり、学年があがってから追試を受けるなどして単位をとることができるが、「宗教」が赤点になると、その1教科だけで「留年」させられる。
- ^ ただし、チベットの高校などと、生徒間の交流があるわけではない
- ^ 卒業生の大半は「菩薩戒」の意味すら説明できないのが実態であるが。
- ^ かつては宿坊での生活態度の悪い生徒は罰則として高野山金剛峯寺の「納骨堂」へ幽閉されることもあった。また、いかなる理由があろうとも(たとえそれが急病であっても)、この行事を欠席すると卒業できないことになっており、止むを得ず欠席した生徒を対象に、夏季休暇中に日帰りの「再行事」を行っている。
- ^ 頭髪検査の厳しさは、公式HPにおいて短歌に読まれたほどである。ただ、頭髪検査の合格基準はあいまいで担当の先生によって合格したり、しなかったりする。
- ^ 風邪をひき、体調をこわす生徒も後を絶たない。 なお、四天王寺の隣には四天王寺高校(女子高)があり、どやどや開催中の視線が痛い。かつて、ゲイ雑誌の表紙を飾るという快挙を成し遂げたことがある。 白色のふんどしは、雨が降ったり行事中に掛けられる水を浴びたりすると透けるため別名「黒ふんどし」とも呼ばれている。
- ^ しかし、一般の学生からすると体育クラスの率は低く、学生がこのエッサッサ自体に好意を持って接しているとはとても言い難い。
- ^ しかし実際にはごまかし、隠してきたことが露見したのであり、学校、特に校長に原因があるのではないかと言われている。
[編集] 著名なOB
[編集] 政界
[編集] 経済界
[編集] 文学界
- 増田晶文 - ノンフィクションライター
[編集] 芸能界
[編集] スポーツ界
- 井上悟 - バルセロナオリンピック・アトランタオリンピック陸上日本代表
- 鹿島丈博 - アテネオリンピック体操日本代表
- 田中光 - アトランタオリンピック体操日本代表
- 米田功 - アテネオリンピック体操日本代表、徳洲会所属
- 池谷幸雄 - 元オリンピック体操日本代表、在学中、高校体操部よりオリンピックに初出場、ソウルオリンピック・バルセロナオリンピックに出場した
- 西川大輔 - 同上
- 池谷直樹 - 跳び箱世界記録保持者、池谷幸雄の弟
- 城間晃 - シロマスポーツ代表
- 監物永三 - メキシコオリンピック・ミュンヘンオリンピック・モントリオールオリンピック体操日本代表。金銀銅各3個のメダル獲得。日本体育大学教授
- 具志堅幸司 - ロサンゼルスオリンピック体操日本代表、 日本体育大学教授
- 石井慧 - 柔道全国大会優勝 後に国士館へと転校
- 茶園鉄也 - テニス
- 川北祐介 - Jリーガー
- 井藤佑一 - テニス 2004年度全日本ジュニアテニス選手権大会18歳以下男子シングルス優勝
- 梅林徹 - サッカー・スキー 黄金の右サイドバック・2006年度全国学生岩岳スキー選手権大会基礎スキーの部24位
- 大崎悟史 - 2007年世界陸上選手権マラソン代表
- 寺野伸一 - アテネオリンピック陸上走り幅跳び日本代表
- 山村貴彦 - シドニーオリンピック陸上短距離日本代表
- 秋山成勲 - 総合格闘家(元柔道家)