松野明美
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松野 明美(まつの あけみ、現姓:前田(まえだ)、1968年4月27日 - )は日本の女性タレント、元女子マラソン選手。熊本県植木町出身。
目次 |
[編集] 略歴
- 1968年 誕生
- 1984年 熊本県鹿本郡植木町立鹿南中学校卒業
- 1987年 熊本県立鹿本高等学校卒業
- 1987年 ニコニコドー入社、同女子陸上部入部
- 1988年 ソウルオリンピック 女子10000m出場
- 1991年 世界陸上東京大会 女子10000m出場
- 1993年 世界陸上シュツットガルト大会 女子マラソン出場
- 1995年 引退
- 1999年 ニコニコドー退社後独立
- 2001年 結婚
- 現在 タレント、二児の母
[編集] ランナー歴
[編集] 誕生-日本女子長距離界を支えた68年組
1968年、スイカ・メロンの全国一の産地である熊本県鹿本郡植木町の農家に生まれる。小学生の頃は無口でいじめられっこだったが、小学校5年生のとき町内のマラソン大会で優勝。そのときの母ユイ子の笑顔がうれしく、陸上に目覚め、それとともに性格も明るくなる。以来、母のバイク伴走でマラソンの自主練習に励んだ。熊本県鹿本郡植木町立鹿南中学校ではバスケットボール部に所属していたが、熊本県立鹿本高等学校から陸上部に所属。しかし、高校時代は全国的には無名で、当初は看護婦(現:看護師)を目指していた。
同じ1968年生まれの日本女子ランナーでは、1992年バルセロナオリンピック10000m・1996年アトランタオリンピックマラソン代表の真木和(現姓・山岡)、バルセロナ・アトランタ10000m代表で1997年世界陸上選手権女子マラソン金メダリストの鈴木博美(現姓・伊東)、アトランタ5000m・2000年シドニーオリンピック2004年アテネオリンピック10000m代表と日本女子陸上界では唯一の五輪3大会出場者で今だ現役の弘山晴美(旧姓・鈴木)、と錚々たる名前が並ぶ。この68年組の彼女ら(時に「四天王」とも呼ばれる)が横浜国際女子駅伝・国際千葉駅伝に代表される創成期の国際女子駅伝の全日本チームを支え、国内の女子駅伝を盛り上げ、そして日本女子長距離界を引っ張ってきた。しかし、その一方で、この4人のうち女子マラソンでオリンピックに出場できたのは真木のみ(2007年現在)で、しかも真木は4人の中でマラソン最高記録ならびに選考レースでの記録が最も遅く、奇しくもあとの三人は同じように記録上は代表選手より早いにもかかわらず五輪に出場できていないという、女子マラソン五輪代表選考騒動 (後述)に巻き込まれることになる。
[編集] 高校から実業団へ-岡田監督との出会い
高校時代の松野は、全国区では無名とはいえ、九州地区では体の小さいランナーとして有名だった。だんとつのトップでインターハイ九州地区大会を制覇しながらも、あまりにも体が軽すぎて(現役当時、身長147センチ体重35キロ、足のサイズ21センチ)、強風で飛ばされ足をラインの中に入れてしまい失格したほどである。それを見ていた岡田正裕(現亜細亜大学陸上部監督)が、倒れながらも前に進もうとする松野の姿に感動し、勧誘したという話は有名。しかし松野の両親は猛反対。そこで岡田は何度も松野の家に通い、「オリンピックに行けるから」と言って説得したという。(後に岡田も認めるように、当時としては当然ながら勧誘のためのリップサービスであった。)
高校卒業後、熊本の大手スーパーマーケットであるニコニコドーに入社。スーパーの時計売り場で働く。同時に、同社の取引先の営業マンだった岡田が「駅伝は金がかからないから」と同社社長を説得してその年に創設した実業団チームである同女子陸上部に所属。岡田監督の指導の下、月間1000キロ以上走り込み、国体優勝などの実績を積んでいく。のちには、拒食症・過食症を繰り返し、岡田自身が「休めるときは休め」と声をかけざるをえないほど、松野は練習の鬼となる。
[編集] 参考-日本における女子選手の指導・育成
岡田監督による松野への二人三脚の指導は、それまではあくまで男子の指導の延長にすぎなかった女子の指導方法をくつがえした。それは、高校時代には無名だった選手を監督との互いの信頼に基づいた熱心な(生活指導をも含めた)マンツーマン的な指導によって世界レベルの有望選手へと育てていくもので、のちの小出監督などに代表されるように、その後の日本の女子マラソン選手の指導方法のさきがけとなった。岡田監督はのちに「女子選手は目を離すと体脂肪が増えたりするので、24時間の細やかな指導が必要」とコメントしている。他に先駆者としては、1988年ソウルオリンピック女子マラソン代表の浅井えり子を育てた佐々木功がいる。
このように男子選手とは区別された女子選手特有のきめの細かい指導・育成は、成田高校時代にトラック、ロードからマラソンまですべての日本記録を塗り替えた超高校級の増田明美(19歳にして当時の男子マラソンのエース宗兄弟と合同合宿を行ったように10代が選手としてのピークであった)と、実業団に入ってから力をつけ、選手生命も長い松野以後の日本女子長距離選手との決定的な違いであり、身体能力に勝るアフリカ勢をも凌ぐ1990年代後半からの日本女子マラソン黄金期の原動力であった。
実業団チームもかつては旭化成陸上部(宮原美佐子(現姓・姫野)、朝比奈三代子(現姓・高橋)、千葉真子、安部友恵などが所属)やダイエー陸上部(山本佳子(現姓・本田)、山口衛里などが所属)、日産自動車陸上部(田村有紀(現姓・出水田)が所属)のように男女混成の陸上部も見られたが、今日の女子駅伝で活躍する実業団は女子単独の陸上部(資生堂(発足当初は弘山勉ら男子もいた)、京セラ(発足当初は中山茂喜ら男子もいた)、ワコール、沖電気、天満屋、三井住友海上など)がほとんどであり、選手の年齢も下は高卒ルーキーから上は30代半ばまでとかつてよりかなり幅が広がった。
[編集] 駅伝女王-女子長距離界のエースへ
松野の実質上の全国デビューはなんといっても女子駅伝である。全日本実業団対抗女子駅伝や全日本都道府県対抗女子駅伝などでは、小さな体で自分より大きなランナーを次々とごぼう抜きしていく姿が、(当時は女子マラソンや女子駅伝が始まったばかりで、駅伝中継に乗り出したTV局としても視聴率のとれるスターを求めていたということもあり)各メディアで鮮烈に取り上げられた。特に、ルーキーイヤーである1987年全日本実業団対抗女子駅伝では、初出場の熊本のニコニコドーという会社の名前やショッキングピンクのユニホームも衝撃だったが、圧巻は最長の4区10キロで当時女子マラソンの第一人者だった増田明美(日本電気)を含む松野の12人抜き。非公認ながら10キロロードの日本最高記録32分17秒をマーク、松野は一躍全国の注目を集めた。まさしくそれは日本女子長距離界のエース交代(増田→松野)の瞬間でもあった。(後日談として、これ以後、松野は増田明美とよく名前を間違えられた。)
1988年のソウルオリンピックでは、女子長距離トラック唯一の代表である10000m代表に選ばれた。本番でも積極果敢な走りを見せ、日本記録を出したものの次点で惜しくも予選落ち。ゴール直後トラックに倒れ込んだ松野を、五輪関係者が誰も助けに行こうとしない中、松野と同じレースで1位だった長身のリズ・マッコルガン(イギリス)が慌てて小さな松野を支え起こした、という光景があった(そのマッコルガンはその後決勝で銀メダルを獲得)。このとき、松野は増田の持っていた日本記録を6年ぶりに更新している。
女子駅伝の松野というとごぼう抜きのイメージが強いが、1988年第7回全国都道府県女子駅伝での荒木久美(鹿児島チーム、ソウル五輪マラソン代表)との総合2位をめぐるアンカー対決(最後荒木にかわされ熊本チームは3位)など、印象に残るデッドヒートも演じている。中でも1990年の全国実業団女子対抗駅伝では、新人五十嵐美紀(リクルート、バルセロナ五輪10000m代表)と最長区間4区で壮絶な総合2位争いを繰り広げた。松野は新人の五十嵐を軽くかわそうとしたが、五十嵐もかわされまいと前に出る。それに触発された駅伝女王・松野もまた前に出る・・・といった意地の張り合いはすばらしいデッドヒートを生んだ。これは今日でも語り継がれる女子駅伝名場面である。チームとしてはニコニコドーは最終5区でリクルートに破れ総合3位にとどまるも、4区は松野が区間新記録で区間賞をとり、面目躍如。女王のまま、女子駅伝を去ることとなる。
[編集] マラソン転向-五輪代表選考騒動
1991年世界陸上選手権(東京大会)で、10000mに出場した松野は故障上がりということもあり予選12位に終わる。その後の記者会見では泣きながら「この小さな身体でよく頑張った自分を褒めてやりたい」とコメントし、マラソンに転向した。
1992年、バルセロナオリンピックの代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンで日本歴代2位2時間27分02秒の記録で2位(日本最高記録かつ初マラソン世界最高)に入る。(ちなみにこのレースでは4位に山本佳子、6位浅利純子、9位朝比奈三代子とのちに日本女子マラソン界を担うランナーが上位を占めたのに対し、ソウルオリンピック代表の荒木久美が10位と浅井えり子が13位、ロスオリンピック代表の増田明美と当時の世界最高記録保持者クリスチャンセンが途中棄権している。このレースは日本女子マラソン界のひとつの転換点でもあったといえる。)同レース1位でこれまた日本最高記録と初マラソン世界最高を出した小鴨由水(現姓・松永)と91年世界陸上銀メダルによってすでに代表に決定していた山下佐知子の二人とともに、代表確実かとも思われた。
しかし、陸連関係者の間では選考レースで記録の良い松野よりも、91年世界陸上4位とマラソンでの実績のある有森裕子を推す声が高いという噂が流れ、松野は異例の記者会見まで開くこととなる。松野は岡田監督の同席の下、会見の席で駆け付けた新聞記者達やマスコミ陣、そして日本陸連に対して「私、オリンピックに出たらメダルを獲れるとは本当に確実に思っていますので、そのためにも一生懸命頑張って練習してますので、どうぞ選んで下さい」「やっぱり、強い人は強いと思いますので、強い人を選んでほしいです」と笑顔でアピール。一方、有森は国内選考レースには出なかったものの、10Km等のロードレースを出走し、故障の不安が無いことをアピール。選考決定の当日まで松野と有森のどちらに当落となるのか、全く分からない混迷状態となっていた。
結果、バルセロナ五輪の女子マラソン代表に選ばれたのは山下・小鴨と、そして3番目に名乗りを挙げたのは、有森裕子だった。松野は無念の落選となってしまったのである。しかも日本陸連は松野に対し「前回のソウル五輪同様、女子10000mで選出される可能性が有る」との理由で、補欠代表にも選ばなかった(補欠は谷川真理。より正確にいえば、五輪代表選考にとって世界陸上がどういう位置づけなのか、つまり「世界陸上のマラソン競技が選考レースなのかどうか」「世界選手権4位入賞は代表内定なのか」「代表内定と決定はどう違うのか」などを当時の日本陸連は明言していなかった)。松野は余りのショックに泣き崩れて混乱状態となり、落選時の記者会見には出席出来ず、当時のニコニコドーの社長と岡田監督の二人のみが会見に出席。その席で岡田監督も「何故落選となったのかが全く理解出来ない。松野があまりにも可哀想だ」「今さら10000mで松野を五輪に出場させるつもりは無い」と悔し涙を見せた。
このような基準のはっきりしない不明瞭な選考により、「裏では金が動いていたのではないか」「陸連の内部対立があったのでは」など根拠のない様々な憶測やうわさがテレビや週刊誌をにぎわすこととなり、また有森が銀メダルをとったことで「選択が正しかった」かのような印象が世論に広がったことも手伝って、松野はさらに苦しむことになる。
[編集] まさかの五輪代表落選-その後
女王から一転悲劇のヒロインとなった松野は結局失意の中、マラソンで次のアトランタオリンピック出場を目指すこととなる。同年8月の北海道マラソンでは2時間38分台と失速し4位(同レースで2位が浅利純子、解説はなんと有森裕子だった)と低迷したものの、翌1993年名古屋国際女子マラソンで2位の成績をあげ、浅利純子、安部友恵とともに1993年世界陸上選手権(シュツットガルト大会)の切符を手にする。しかし、オリンピック代表選考騒動後の松野にとって、肉体的にも精神的にもピークを維持し続けることはもはや不可能であった。
浅利純子2時間30分3秒の金メダル、安部友恵2時間31分1秒の銅メダルに沸く世界陸上シュツットガルトの競技場に、松野がようやくゴールしたのは浅利から遅れること8分。8位入賞にも及ばない11位の成績に終わった松野は、競技場内で待っていた浅利と安部に、精魂力尽きた状態でもたれ込んでしまった。全日本実業団対抗女子駅伝での鮮烈な全国デビューから6年、増田からエースの座を華々しく奪った松野が、ひっそりと表舞台から降りた瞬間である。そして日本女子長距離界は浅利・安部・千葉、同じ1968年生まれの真木和・鈴木博美・弘山晴美、そして高橋尚子・野口みずきへと続く群雄割拠の時代=日本女子マラソン黄金期を迎える。
松野が現役引退の後、彼女自身が週刊誌媒体で陸連を告発するような発言をしている。そしてさらに女子マラソン五輪代表選考騒動について、松野はインタビューでこのように述べている。
「私は何もお願いするつもりで『私を選んでください』って記者会見開いたんじゃないんです。あの時は絶対選ばれると思って『頑張って金メダルを取ります』っていう挨拶だったんです」「代表発表の日も期待感一杯で、まさか落ちるなんて考えもしなかった。ニコニコドーの合宿所で岡田監督に呼ばれた時、朗報だと思って飛んでいったんです。そしたら『落選』って聞かされて、頭の中がもう真っ白!その日からマラソンを恨み続ける毎日でした。なんでこんな裏切られ方をするのかって」「別に有森さんをけ落として出たいっていうんじゃなくて、私はマラソンで五輪に出たかっただけなんです。有森さんを恨んではいませんが、でも私よりタイムが悪かった有森さんが何故選ばれたんでしょうか?今でもよく分からないです、はい」と、松野は未だに納得出来ず、未練が相当に残っているようであった。
[編集] 参考-日本のマラソン五輪代表選考事情
マラソン五輪代表選考による騒動の主要因は日本陸連の選考基準のあいまいさに尽きるが、隠れた要因の一つに、日本では新聞・テレビなど主要メディアと国際マラソン大会が深く結びついていることがあげられる。かつて男子の五輪代表選考は1レースでの一発選考で行っていたこともあったが、マラソンが視聴率の取れる競技となった1980年代半ばごろからは、複数の国際マラソン大会を各主要メディアがこぞって共催するようになり、メディアの意向に副う形で選考レースは複数化した。
また、このころからマラソンでの五輪メダル獲得が責務と化したことも大きい。1988年ソウルオリンピックの代表選考では選考レースは3つあったものの、有力選手は1987年福岡国際マラソンへの出場が義務付けられており、事実上の福岡国際一発選考とされていた。しかし、当時のエース瀬古利彦が福岡国際に怪我で出場できなくなったため、慌てた日本陸連が「瀬古は次のびわ湖毎日マラソンでそれなりのタイムを出せば代表にする」ことを事後的に内諾、結果として一発選考という「暗黙の了解」は破棄された。(ちなみに当時のライバル中山竹通が「(福岡国際に)這ってでも出て来い」とコメントしたと報じられたことは有名である。しかし実際には中山は瀬古欠場の感想を聞かれ「自分なら這ってでも出るけどね」と苦笑交じりに漏らしただけだった。ここからもメディアとマラソンの歪な関係がうかがえる。)単純にタイムだけでは比較できないマラソンでの複数レース選考は悩みの種であり、複数選手のメダル獲得可能性がある近年の女子マラソンでは特に顕著である。
それ以前にも、メダルの責務化が大きな悲劇を生んだことがあった。高度経済成長期に一気に拡大したメディアは1964年東京オリンピックでの円谷幸吉の銅メダルに国家的な賞賛を与えたが、それによって次の1968年メキシコでの金メダル獲得は国家的な至上命令と化してしまう。そのプレッシャーに押しつぶされて円谷は自殺。さらに代表選考でも、高校教師の采谷義秋が選考レースだった3レースすべてに出場し好成績を残すも、采谷は当時無名だったこと、実業団選手ではないこと、高地トレーニングの実績がないことなどを理由に落選。びわ湖優勝の宇佐美彰朗、別府優勝の佐々木精一郎とともに、当時君原健二のコーチであった高橋進の「高地には君原が適している」という強い主張によって、選考レースで采谷より成績の悪かった君原が代表になる。結果として、メキシコでは君原が銀メダルを獲得したことで、この選考が疑問に付されることがなくなったどころか、今日のメディアでは「君原は親友円谷の自殺の悲劇を背負ってメダルを獲得した」という美談としてのみ語りつがれている。(ちなみに、采谷は次のミュンヘン五輪で代表になるも、36位に終わる。後に「上り調子だったメキシコで出場したかった」と述懐している。)
当然ながらメディアの背後にはスポンサーがいる。かつ、実業団の目的は営利企業の宣伝広告である。したがって、スポンサーとして実業団運営企業が選考に様々な圧力をかけたり裏取引があるではないか、という憶測は(事実かどうかとは別に)常に付きまとうことになる。松野が所属したニコニコドーは他の実業団運営企業と比べて小さいため、様々な憶測も生じたし、のちに松野自身も週刊誌媒体でそのような憶測を発言している。また、逆にニコニコドーが組織的に有森に嫌がらせをしているのではないかといったうわさも当時ささやかれたりもした。一方、有森裕子と鈴木博美がアトランタ五輪代表を争ったケースでは、選考レースでのタイムが遅い有森が選ばれたが、両者が同じリクルート所属であり有森は鈴木の先輩であったため、バルセロナ五輪の有森と松野のときのように大きな騒動にならなかった、という見方もある。
今日では「一発選考=米国流の公平観」にすぎないとされ、また選考レースが複数あったほうがメディアにとっても好都合ということもあり、一発選考そのものが日本のメディアで取り上げられることはほとんどない。(一発選考を表立って支持しているのは、かつての学閥優先の時代に現れた叩き上げランナーである前述の中山竹通とスポーツライターの二宮清純ぐらいである。ちなみに米国が一発選考を採用している理由として訴訟社会、つまり多民族国家アメリカでは不明瞭な代表選考では裁判に訴えられてしまう、という背景がある。)ただし、バルセロナの松野に始まり、アトランタでの鈴木博美、シドニーでの弘山晴美といった一流選手が選考基準をめぐって選手生命を振り回されたことは確かである。また、バルセロナの選考で谷川真理が東京女子で優勝するも、大阪女子の小鴨のタイムを受け名古屋女子にも強行出場したように、複数の選考レースに無理に出場する選手も出るなど、将来有望なランナーの選手生命を潰しかねない。
当然ながら松野以後のこれらの騒動による日本陸連の教訓が、後の高橋尚子の2004年アテネオリンピック落選の伏線となっていることは否めない。(もちろん金メダリスト高橋の落選自体もまた騒動を生むこととなる。) ただし、今日ではあらゆるスポーツイベントがメディアへの依存なしには興行としてなりたたないことも事実なのである。
今日の日本陸連の公式見解による選考基準は「世界陸上でメダルを獲得した日本人トップは内定、残りの枠は、世界陸上と国内3大会(=男子では、東京・福岡・びわ湖、女子では東京女子・大阪女子・名古屋女子)の上位入賞者から五輪でメダルを獲得、または入賞が期待できる選手」というもの。
[編集] 引退-指導者・タレントの道へ
1995年12月28日現役引退を表明。引退の直接のきっかけは、いじめられっこだった松野が陸上を始めるきっかけを与えてくれた母ユイ子さんの「もういいんじゃないかい」という言葉だったという。引退記者会見で「今一番やりたいことは?」と聞かれた後に、松野は「できることならもう一度走りたい」と悔し涙を浮かべた。
引退後、ニコニコドー人事部係長を務める。同時に、1996年からは熊本県民テレビでスポーツキャスターも務めた。
1999年、ニコニコドー陸上部休部とともに退社し、独立して「松野明美ヒューマンライフ」という事務所を設立。現在は講演やタレント活動などを行っている。また、岡田元ニコニコドー監督が亜細亜大学陸上部監督になった縁で、1999年から2001年まで亜細亜大学陸上部女子のコーチにも就任。後進の指導にも努めている。(その亜細亜大学の2006年箱根駅伝での見事な初優勝を受け、「最初の3年間お手伝いしたが、あまりに学生の反発が強いので、もう無理だと思った。岡田監督はストレスで耳が聴こえなくなったこともあったと聞いた。だから、監督から優勝の電話をもらって涙が出た」とコメントしている。)
[編集] 主な記録
トラック・駅伝
- 1987年10月 海邦国体(沖縄国体) 5000m優勝
- 1987年12月 第7回全日本実業団対抗女子駅伝(非公認10キロロード日本最高記録32分17秒をマーク)(ニコニコドーは7位)
- 1988年 1月 第6回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは4位)
- 1988年 5月 兵庫リレーカーニバル 10000m優勝
- 1988年 6月 日本陸上競技選手権大会優勝 10000m優勝
- 1988年 6月 ソウルオリンピック 予選9位 日本新記録 32分19秒57
- 1988年12月 第1回国際千葉駅伝 6区区間2位(日本チームは4位)
- 1989年 4月 熊本県選手権 10000m日本新記録 31分54秒0(日本女子初めての31分台)
- 1989年12月 バルセロナ国際女子駅伝 2区区間賞 (日本チームは2位)
- 1990年 1月 第8回全国都道府県女子駅伝 9区区間賞(熊本チームは2位)
- 1990年 2月 第8回横浜国際女子駅伝(日本チーム初優勝)
- 1990年 6月 日本陸上競技選手権大会 10000m2度目の優勝
- 1990年 9月 北京アジア大会10000m銅メダル
- 1990年10月 九州実業団駅伝(非公認10キロロード日本最高記録30分59秒をマーク)
- 1990年12月 第3回国際千葉駅伝 1区区間賞(区間新記録)(日本チームは2位)
- 1990年12月 第10回全日本実業団対抗女子駅伝 4区区間新記録(ニコニコドーは3位)
- 1991年 8月 世界陸上(東京大会)10000m予選12位
マラソン
- 1992年 1月 大阪国際女子マラソン 2位(1位は小鴨由水)2時間27分02秒(小鴨と共に当時日本最高記録)
- 1992年 8月 北海道マラソン 4位(1位はO.アペル)2時間38分24秒
- 1993年 3月 名古屋国際女子マラソン 2位 (1位はK.グラドゥス)2時間27分53秒
- 1993年 8月 世界陸上(シュツットガルト大会)マラソン 11位(1位は浅利純子、3位は安部友恵)2時間38分04秒
[編集] タレント歴
引退直後から講演や陸上教室、女子駅伝の解説などを行う一方で、スポーツキャスターやコメンテーター、リポーターを勤めるなどタレントとしての非凡な才能を開花させマルチな活躍をしている。退社独立後の近年はそのおしゃべり好き(小学生時のあだ名はスピーカー、自称7時間はしゃべり続けられる)から、バラエティ番組にゲストとして頻繁に出演している。
[編集] タレント全国デビュー―伝説のものまね
ランナーとしての全国デビューが1987年12月の全日本実業団女子駅伝の12人抜きとするならば、タレントとしての全国デビューは2000年2月29日OAの「第19回ものまねバトル大賞」(日本テレビ)における小泉今日子「なんてったってアイドル」のものまねだろう。フリフリのスカートに満面の笑み、激しいアクションで歌い、歌のラストはグリコポーズ でテープを切る松野(自称マラソン界のゴクミ)の姿は、全国の視聴者に強烈なインパクトを与えた。それまでの元スポーツ選手のバラエティタレントといえば、定岡正二や池谷幸雄などのように、本職のお笑い芸人にいじってもらって引き立つ芸風が主流であったが、松野においてはそのお笑い芸人さえひいてしまうほどである。まさしく元スポーツ選手タレントという概念を超越した瞬間であった。(その先駆者としてはガッツ石松がいる。)この松野のものまねの様子は故ナンシー関もコラム(後述)で触れている。
ちなみに、今日ではかつて存在した「スポーツ選手=尊敬される人であるべき」という規範意識がかなり薄れ、また主要メディアが陸上競技をショーアップして取り上げる機会も増えた(その典型が織田裕二・中井美穂両キャスターによるTBS世界陸上中継)ため、松野が現役のころは考えられなかったことだが、福士加代子(インタビューにて100分の3秒を「乳首3つ分」とコメント)のように現役にしてウケをねらう選手も現れている。
その特異なキャラクターから、その後は逆に松野自身が内村光良(出身が同じ熊本県)や加護亜依、コロンブス、加藤めぐみなどにものまねされている。
[編集] 結婚―駅伝女王から二児の母へ
2001年結婚。夫は鹿本高校の先輩(高校時代は接点なし)。挙式は9月10日ハワイで行ったが、折りしも9・11アメリカ同時多発テロ事件の前日。結局、帰りの飛行機で足止めを食って、すぐには日本に帰れなかった。
結婚後、夫が松野のマネージャーを務めている。松野のかかあ天下ぶりと夫の温和で心優しい性格とのギャップからトーク番組への夫婦そろっての出演も多い。
2002年関西テレビの特別番組「女ばかりの人生立て直しスペシャル」収録中に、妊娠検査薬を使ったところ妊娠が発覚した。この件については、故ナンシー関が収録時の松野の発言「いいですかねえ、ここで(妊娠検査薬)やっても」をそのままタイトルにしたコラムを書いている(ナンシー関著『耳のこり』(朝日文庫:朝日新聞社、2004年)に収録)。ちなみに、現在では松野は二児の母である。
[編集] エピソード
- タレントとしてはリアクションが大きいことで有名。「めちゃ²イケてるッ!」(フジテレビ)ではドッキリを仕掛けられ、番組史に残る強烈なリアクションを放った。同番組では、そのほかにもテスト企画では「答え」と書くべきところを「谷え」と書いたり、夫婦で共演した際には、夫へ性生活の不満を語るなど、ゲストの常連である。
- 松野は単なるおしゃべり好きにとどまらず、そのおしゃべりのあまりのテンションの高さも有名である。2005年に話題になった隣家に大音量の騒音を出しづづけたおばさん(奈良騒音傷害事件)による騒音のすごさを伝えるために、TBS「サンデージャポン」において松野のおしゃべりを間近で聞かされたときの音量と比較されたほどである。結果、ほぼ同じ音量とわかり、「それは確かにうるさい」とみんなが納得した。
[編集] 主な出演経験番組
- 「テレビタミン」(KKT)
- 「アサデス。」(KBC)「水と緑の物語」(KBC)
- 「原口あきまさの福岡耳よりTV "ふくみみ"」(TVQ)
- 「たかじんのそこまで言って委員会」(YTV)「秘密のケンミンSHOW」(YTV)
- 「ジャイケルマクソン」(MBS)
- 「にっちょび!」(KTV)「GO!GO!ガリバーくん」(KTV)
- 「開運!大吉!占いの全て教えます」(KTV)「女ばかりの人生立て直し」(KTV)「ダウンタウンDX」(KTV)
- 「芸能人NO.1妻は誰だ!決定!アイアン主婦」(THK)
- 「ろみひー」(CTV)
- 「めちゃ²イケてるッ!」(フジ)「クイズ!ヘキサゴン」(フジ)「ヴァケスケ」(フジ)「中居正広のボクらはみんな生きている」(フジ)
- 「ジャンクSPORTS」(フジ)「ごきげんよう」(フジ)「世界絶叫グランプリ」(フジ)「5・7・5バトル ハイカーズHIGH」(フジ)
- 「笑っていいとも」(フジ)「とんねるずのみなさんのおかげでした」(フジ)「ネプリーグ」(フジ)「平成教育2005予備校」(フジ)
- 「ワンナイR&R」(フジ)「クイズ$ミリオネア」(フジ)
- 「ルックルックこんにちは」(日テレ)「ぐるぐるナインティナイン」(日テレ)「テレつく!」(日テレ)「メレンゲの気持ち」(日テレ)
- 「踊る!さんま御殿!!」(日テレ)「情報ツウ」(日テレ)「あの人は今!?」(日テレ)「ものまねバトル」(日テレ)
- 「愛のエプロン」(テレ朝)「いまどき!ごはん」(テレ朝)「スポコン!」(テレ朝)「クイズプレゼンバラエティーQさま!!」(テレ朝)
- 「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」(テレ朝)「グレートマザー物語」(テレ朝)
- 「Matthew's Best Hit TV+」(テレ朝)
- 「ジャスト」(TBS)「もくげき」(TBS)「はなまるマーケット」(TBS)「日本語チャンピオン決定戦’05」(TBS)
- 「SASUKE最強の女性No.1決定戦~KUNOICHI~」(TBS)「サンデージャポン」(TBS)「学校へ行こう!」(TBS)
- 「TARA-REBA 世紀のスポーツ大作戦」(TBS)「関口宏の東京フレンドパーク2」(TBS)
- 「史上最大の超ドッキリ大実験!次課長&品庄おぎやよ」(TBS)
- 「ザ・カラオケバトル07夢のメガヒット歌合戦あなたは何曲唄える?30年の名曲ランキング総まくりスペシャル!」(TBS)
- 「田舎に泊まろう!」(テレ東)「怒りオヤジ」(テレ東)「Ya-Ya-yah」(テレ東)「輝け!オールスター合唱コンクール」(テレ東)「日曜ビッグバラエティ・大満足!思い出リフォーム」(テレ東)
- 「あなたも挑戦!ことばゲーム」(NHK)
- 「すくすく子育て」(NHK教育)
ドラマ
[編集] 外部リンク
- Akemi Matsuno Web Site(マラソンランナー松野明美のホームページ)
- 松野明美/写真・プロフィール(システムブレーン)
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