東亜同文書院大学
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東亜同文書院 | |
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創立 | 1901年 (1939年大学昇格) |
所在地 | 中国・上海市 |
初代校長 | 根津一 |
廃止 | 1945年? |
後身校 | (愛知大学)*参照 |
同窓会 | 東亜同文書院大学 同窓会=滬友会 |
東亜同文書院(とうあどうぶんしょいん)は、1901年(明治34年)に東亜同文会により中国に設立された日本人のための高等教育機関。日本人が海外に設立した学校の中で最も古いもののひとつ。
目次 |
[編集] 概要
1901年(明治34年)5月26日、上海に設立され、商務科、ついで政治科が設置。1921年(大正10年)には専門学校令による外務省の指定学校となった。1939年(昭和14年)12月には大学令によって東亜同文書院大学に昇格し、予科、続いて学部が設置された。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。
1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い、閉学となった。
卒業生・教職員などにより同窓会「滬友会」(こゆうかい。”滬”は上海の別称)が組織されている。
[編集] 沿革
- 1901年 東亜同文書院設立(政治科、商務科。修業年限3年)。
- 1907年 政治科募集停止。
- 1914年 農工科設置。
- 1918年(大正7)3月 中華学生部設置決定(修業年限は予科1年・本科3年。尚、学生の受け入れは1920年(大正9)9月から)。10月支那研究部設置。
- 1920年 農工科募集停止。
- 1921年 専門学校令による外務省指定学校となる(修業年限4年)。
- 1931年(昭和6)8月 中華学生部募集停止。
- 1934年 中華学生部第10回生卒業。在校生も退学乃至他学校へ転入学し、中華学生部消滅。
- 1939年 大学令による東亜同文書院大学に昇格。予科を新設(修業年限2年)。
- 1941年 学部を新設(修業年限3年)。
- 1942年 最後の東亜同文書院在学生が卒業し東亜同文書院大学に完全移行。
- 1943年 専門部を付設(修業年限3年)。
- 1945年 国民政府に学校設備を接収される。
[編集] 歴代院長・学長
院長
- 初代 根津一(1901年-1902年)
- 第2代 杉浦重剛(1902年-1903年)
- 第3代 根津一(1903年-1923年)
- 第4代 大津麟平(1923年-1926年)
- 第5代 近衛文麿(1926年-1931年)
- 第6代 大内暢三(1931年-1940年)
- 第7代 矢田七太郎(1940年-1942年)
学長
[編集] 建学の精神
初代院長の根津一は創立にあたって興学要旨と立教綱領を定めている。興学要旨に「中外の実学を講じ、中日の英才を教え、一つはもって中国富強の本を立て、一つはもって中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領に「徳教を経となし、聖賢経伝によりこれを施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、および中外の制度律令、商工務の要をさずく。期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才をなすにあり」としたことは、儒教的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえているし、簿記などの実用的な学問を重視している。
[編集] 校地の変遷
- 1901年5月 上海の高昌廟桂墅里(クイシュリ)校舎にて開校。
- 1913年(大正2) 9月第二革命の戦禍で桂墅里校舎が焼失。長崎県の大村仮校舎に一時移転。10月上海赫司克而(ハスケルロ)仮校舎に移転。
- 1915年9月 上海海徐家滙虹橋路(ホンジャオロ)に新校舎建設、移転。
- 1937年10月 第二次上海事変で虹橋路校舎は中国側に接収、長崎仮校舎に移転。
- 1937年11月 虹橋路校舎が中国軍の放火により焼失。
- 1938年 上海海格路(ハイコーロ)の旧交通大学の施設を借用して授業再開。
- 1945年 戦局悪化で渡航不能となった新入生のため富山市の旧呉羽紡績の建物の一部を呉羽分校校舎として借用。
- 1945年9月 海格路校地が中華民国政府に接収。
[編集] 校史トピックス
[編集] 設立前史
岸田吟香の援助を受け漢口で活動していた荒尾精は、1890年に中国貿易実務者を養成するための「日清貿易研究所」を上海に設立した。 しかし同所は1894年の日清戦争勃発のため閉鎖を余儀なくされ、荒尾は1896年に死去した。 戦争終結後の1898年、東亜同文会が設立されると、その会長近衛篤麿は日清貿易研究所に範をとる「南京同文書院」を設立、荒尾の同志であった根津一を院長とした。しかし同校が義和団事件により存続不能に陥ると、1901年、上海で新たに根津を院長とする東亜同文書院が設立され、南京同文書院はこれに統合された。
[編集] 「大旅行」
1902年、外務省から根津一院長に対し、中国西北地方におけるロシア勢力の浸透状況についての調査が要請され、根津は第2期卒業生の5人を現地調査に派遣した。彼らの報告書に対し外務省から支払われた謝礼金を基金として、5期生以後は卒業論文のための中国調査旅行、すなわち「大旅行」が制度化されることとなった。学生たちは数名から5・6名のチームを組んで各地へ3ヶ月から半年までの旅行をし、その範囲は中国本土にとどまらず東南アジアにも及んだ。彼らが収集した地域情報をもとに1915年から1921年にかけて『支那省別全誌』全18巻が刊行され、1918年に研究所として「支那研究部」が新設されると、大旅行はいっそう組織的に実施されるようになった。しかし末期には日本軍が学生に対し情報提供を依頼するケースもあり、これらの事情があいまって大旅行を「スパイ活動」と見なす中国側の疑惑を呼んだとする見方もある。
[編集] 学生運動
1930年秋、安斎庫治(27期生)は学内に共青団(中国共産党の青年組織)支部を組織、朝日新聞上海総局に勤務していた尾崎秀実と連携しつつ学生運動の中心的指導者となった。さらに彼は中共党員の王学文が指導していた「日支闘争同盟」にも参加し、日本海軍艦船の兵士・乗組員に対する反戦宣伝活動に従事した。この組織には安斎のみならず西里龍夫(26期生)・中西功(29期生)など多くの現役書院生および出身者が参加していたが、同年末上海総領事館警察による弾圧で書院生8名が検挙され同盟は壊滅した。翌1931年春、出獄・復学した中西らにより共青団が再建、同年末には「対支非干渉同盟」が組織され、満州事変から上海事変へと動く情勢のもとで、中共に入党した書院生を中心に反戦運動が進められた。しかし1932年3月には総領事館警察によって書院生19名が再び検挙され、東亜同文書院における反戦運動は終焉した。
[編集] 愛知大学との関係
東亜同文書院(大学)は、その閉鎖後に設立された愛知大学とは形式上は別の法人であるが、実際には愛知大の「生みの親」「前身校」としての性格が強調されている。
- 敗戦にともない東亜同文書院大学は廃校になり、経営母体の東亜同文会も解散を余儀なくされた。その後、残務整理を経て上海から引き揚げてきた本間喜一学長などの関係者は、1946年5月、旧学生・教職員を収容する新大学を国内に設立することを決定した。
- しかし設立にあたって、GHQが東亜同文書院大学そのままの大学では認可できないと条件をつけたため、旧書院側は「新大学は東亜同文書院とは無関係」との声明をよぎなくされた。そして京城帝国大学・台北帝国大学を含め「外地の学校から引き揚げた学生・教職員を収容する大学」との位置づけで46年11月に愛知大学(この時点では旧制大学)が設立された。(この際に東亜同文会旧蔵の霞山文庫の受け入れがなされている)
- 設立時の学生・教職員の大半は東亜同文書院関係者で占められ、初代学長には東亜同文会理事の林毅陸(前慶應義塾大学塾長)が、ついで第2~4代学長にはかつての東亜同文書院大学教授が就任した。すなわち本間喜一(第2・4代)および小岩井浄(第3代)である。東亜同文書院時代に着手された『中日大辞典』編纂事業も愛知大に引き継がれた。さらに東亜同文会を継承する霞山会と愛知大は理事の相互就任など密接な関係を有している。
- 独立大学院「中国研究科」新設認可(1991年)にあたって、愛知大は東亜同文書院との関係を盛んにアピールするようになり、1993年には学内に「東亜同文書院大学記念センター」を設立して東亜同文書院関係資料の受け入れを進めている。
[編集] 著名な出身者
- 坂本義孝(1期生):教育者。東亜同文書院卒業後、アメリカ留学を経て母校の教授に就任。上海日本人YMCA理事長、同YMCA外国語学校校長、聖約翰大学教授などとしても日中の若者を教育した。政治学者坂本義和の実父。
- 石射猪太郎(5期生):外交官。上海総領事・シャム大使・東亜局長・ブラジル大使を歴任。著書『外交官の一生』(中公文庫)。
- 山本熊一(9期生):外交官。日米開戦時の外務省北米局長。大東亜省事務次官・駐タイ大使など歴任。戦後は日朝協会会長など。
- 中山優(15期生 大正4年入学、二度落第した後大正11年3月退学):建国大学教授。外交官。満州国公使(南京駐在)。戦後亜細亜大学教授。
- 田中香苗(25期生):元毎日新聞社社長
- 山口慎一(25期生):満鉄給費生として学び、卒業後満鉄調査部を経て満洲の文芸界において大内隆雄の筆名で活躍した。
- 魚返善雄(26期入学、後中退):文学博士。東洋大学文学部長、東大講師など。病弱のため中退し東京外語にうつる。のち、中国語・中国文学の研究で活躍。
- 西里龍夫(26期生):戦後日本共産党熊本県委員長。
- 安斎庫治(27期生):のち満鉄調査部。戦後は日本共産党中央委員。
- 中西功(29期生):のち満鉄調査部。戦後は参議院議員。日本共産党神奈川県委員長。
- 大城立裕(44期中退):予科に入学するも敗戦による閉学のため中退。芥川賞作家。
- 原吉平:元大日本紡績社長、ユニチカ初代会長
- 春名和雄:元丸紅社長
- 田代由紀男:元自由民主党参議院議員
- 神谷信之助:元日本共産党参議院議員
- 檜貝嚢治:中退。後、海軍兵学校(57期)入校。海軍大佐。
[編集] 関連項目
[編集] 関連書籍
- 滬友会 『東亜同文書院大学史』 1955年
- 大城立裕 『朝、上海に立ちつくす;小説東亜同文書院』 中公文庫、1988年、ISBN 4122015235
- 尾崎秀樹 『上海1930年』 岩波新書、1989年、ISBN 4004300991
- 滬友会(編) 『上海東亜同文書院 大旅行記録―実録 中国踏査記』 新人物往来社 1991年、ISBN 440401872X
- 愛知大学東亜同文書院大学記念センター 『東亜同文書院大学と愛知大学』(第1集~第4集) 六甲出版、1993年-1996年、ISBN 4947600535 ISBN 4947600578 ISBN 4947600632 ISBN 4947600772
- 栗田尚弥 『上海 東亜同文書院―日中を架けんとした男たち』 新人物往来社、1993年 ISBN 4404020775
- 竹内好「東亞同文會と東亞同文書院」『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、ISBN 4480081046
- ピーター・ドウスほか(編) 『帝国という幻想;「大東亜共栄圏」の思想と現実』 青木書店、1998年、ISBN 4250980057
- 東亜同文書院に関する論考2篇を収録。
- 西所正道 『「上海東亜同文書院」風雲録;日中共存を追い続けた5000人のエリートたち』 角川書店、2001年、ISBN 4048836684
- 小島晋治ほか(編) 『20世紀の中国研究;その遺産をどう生かすか』 研文出版、2001年、ISBN 4876361991
- 藤田佳久「東亜同文書院の中国研究」を収録。
[編集] 外部リンク
1919 | (府立)大阪医科大学
1920 | 東京商科大学 | 愛知医科大学 | 慶應義塾大学 | 早稲田大学 | 同志社大学 | 日本大学 | 中央大学 | 法政大学 | 明治大学 | 國學院大學
1921 | 東京慈恵会医科大学 | 京都府立医科大学
1922 | 新潟医科大学 | 岡山医科大学 | 旅順工科大学 | 龍谷大学 | 専修大学 | 立教大学 | 立命館大学 | 関西大学 | 東洋協会大学
1923 | 千葉医科大学 | 長崎医科大学 | 金沢医科大学 | 大谷大学
1924 | 立正大学
1925 | (県立)熊本医科大学 | 駒澤大学 | 東京農業大学
1926 | 日本医科大学 | 高野山大学 | 大正大学
1927 | なし
1928 | 東洋大学 | 上智大学 | 大阪商科大学
1929 | 神戸商業大学 | 東京工業大学 | 東京文理科大学 | 広島文理科大学 | 大阪工業大学 | (官立)熊本医科大学
1930 | なし
1931 | 名古屋医科大学
1932 | 関西学院大学
1933-38 | なし
1939 | 東亜同文書院大学
1940 | 神宮皇學館大学
1941 | なし
1942 | 興亜工業大学
1943 | 大阪理工科大学
1944-45 | なし
1946 | 東海大学 | 愛知大学 | (私立)大阪医科大学 | 久留米医科大学 | 順天堂大学 | 昭和医科大学 | 東京医科歯科大学 | 兵庫県立医科大学 | 霞ヶ浦農科大学
1947 | 大阪歯科大学 | 岩手医科大学 | 名古屋女子医科大学 | 岐阜県立医科大学 | 三重県立医科大学 | 奈良県立医科大学 | 横浜医科大学 | 県立鹿児島医科大学 | 広島県立医科大学
1948 | 弘前医科大学 | 前橋医科大学 | 松本医科大学 | 米子医科大学 | 徳島医科大学 | 和歌山県立医科大学 | 大阪市立医科大学
1949 | 福島県立医科大学 | 山口県立医科大学 | 大阪女子医科大学
1950 | 東京女子医科大学 | 東邦医科大学