赤田将吾
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赤田 将吾(あかだ しょうご、1980年9月1日 - )は、西武ライオンズ所属のプロ野球選手。ポジションは外野手。背番号は9番。松坂世代の1人。
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[編集] 来歴・人物
入団時は内野手(セカンド)だったがルーズショルダーの影響で2年目より外野手に転向した。高卒1年目で5盗塁を決めるなど俊足は期待されていたが、打撃がいまいちで足踏みしていた。しかし俊足を生かすため、もともと右打ちだったが2002年よりスイッチヒッターに転向。これが飛躍のきっかけとなる。
2004年は小関竜也の不調で終盤から2番打者に定着し初の規定打席到達。佐藤友亮との1・2番コンビで高い出塁率を誇り、北海道日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークスとのプレーオフ、中日ドラゴンズとの日本シリーズでも活躍し、チームの12年ぶりの日本一に貢献した。チームでも屈指の俊足・好守が持ち味。
2005年も2番に定着し、夏ごろから課題の打撃も向上して打率を急上昇させた。前年1番だった佐藤友亮が故障で17試合しか出場できなかったこともあり、1番バッターとしての出場も多くあった。
2006年からライオンズの主将に就任、名実共にチームを引っ張る立場になった(ちなみに主将指名は事前に本人にも知らされていなかった)。外野の層の厚い西武の中でセンターのレギュラーをつかみ、主に1番か9番で堅実な打撃を見せ、打率は自己最高の.293を記録した。05・06年で記録した本塁打はすべて右打ちでだが、確実性はむしろ入団後に覚えた左打ちのほうが高く、適応力の高い器用な選手である。
2007年もセンターのレギュラーとして期待されていたが、開幕直前の3月15日に右太ももを痛め、開幕1軍からは外れてしまった。
[編集] エピソード
- ファンへの意識が非常に強く、球場におけるファンへの気配りの他、2005年オフには自身のサイト「侍魂」を設立、毎日全国のファンへメッセージを発信している。主将選任に当たって伊東勤監督もその人間性を見込むなど、人望はチーム内外ともに厚い。
- テレビ番組のスポーツマンNo.1決定戦で2000年総合5位、2005年総合2位、2006年総合5位、2007年総合6位になるなど、身体能力の高さが伺える。実際に高校時代からハイレベルなスポーツ万能少年であったらしく、まだ一軍に定着出来なかった頃にはコーチに「お前はどうして一番苦手な球技のプロになったんだ」とからかわれたことがあるほどである。
- 現在文化放送ライオンズナイター内で「赤田将吾の暴れん坊ショーゴ!」のコーナーを担当。内容はライオンズコメンテータの中川充四郎が前の試合の感想及び中継試合に向けての意気込みをインタビューするものである(これは後述の中島裕之のコーナーと同様インターネットラジオのBBQRでは流れず、無音声になる)。コーナーのジングルや、西武ドームでのテーマ曲もチャンス時だけ「暴れん坊将軍のテーマ」を使用する。(通常は映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のテーマ曲)そしてコーナーの締めの挨拶は「暴れん坊ショーゴでがんばります」と言って終わる。ちなみに同番組で「中島裕之の何が何でもやったるで!」を担当している中島が負傷などで一軍から外されたときの締めの挨拶は「暴れん坊ショーゴでやったるで!」になる(赤田はこのコーナーが設立してから一軍を外されたことがないので赤田が不在の場合はどうなるかは不明)。なお、2006年オフでは「赤田将吾の暴れん坊マンデー」のパーソナリティを担当している。
- 高校生時代はレギュラーではなかったが、試合前のシートノックのときに赤田のフィールディングを見ていたプロ野球チームのスカウトが、日南学園の監督に守備のうまさを指摘したところ、レギュラーとして使われ始めたというエピソードがある。
[編集] 交渉問題
2006年オフの交渉では、球団側の代表や査定担当者が二日続けて交渉中に着信音を鳴らしてしまった事に深い怒りと悲しみを覚え、トイレに駆け込んで泣いた。「普通の会社の会議なんかではあり得ない。年に1回のビジネスの場である交渉と契約なのに」と、交渉を保留し、真っ当な胸の内を明かしている。 その後、自身のホームページで別件でもショックを受けていたことや、そのことで交渉を保留したことに対しては謝罪する意志があることなどを明らかにした。
[編集] 他の人のユニホームで試合出場
2006年6月9日交流戦の阪神タイガース戦でユニホームが届かなかったとという理由で上田浩明コーチのユニホームを着て出場した。そのときの背番号は「85」
なお、この試合で赤田は下柳剛投手から左中間に決勝タイムリーツーベースを放っている。
[編集] 略歴
- 投打 右/両
- 出身地 鹿児島県曽於郡大崎町
- 血液型 A型
- 球歴 大崎町立大崎中学校→日南学園高(甲子園出場)→西武ライオンズ(1999年-)
- 身長・体重 179cm・83kg
- プロ入り年度・ドラフト順位 1998年(2位)
[編集] 通算成績(2006年シーズン終了時)
年度 | チーム | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 失策 |
1999 | 西武 | 13 | 50 | 49 | 7 | 14 | 2 | 0 | 0 | 16 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 9 | 1 | .286 | 0 |
2000 | 西武 | 31 | 79 | 65 | 10 | 10 | 0 | 1 | 1 | 15 | 3 | 2 | 0 | 0 | 13 | 1 | 26 | 2 | .154 | 4 |
2001 | 西武 | 17 | 35 | 32 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 5 | 1 | .188 | 0 |
2002 | 西武 | 37 | 62 | 57 | 4 | 9 | 1 | 0 | 1 | 13 | 2 | 3 | 4 | 0 | 1 | 0 | 17 | 2 | .158 | 0 |
2003 | 西武 | 46 | 94 | 88 | 24 | 22 | 7 | 3 | 1 | 38 | 13 | 4 | 1 | 0 | 5 | 0 | 19 | 0 | .250 | 0 |
2004 | 西武 | 122 | 436 | 374 | 68 | 97 | 18 | 2 | 9 | 146 | 41 | 16 | 15 | 3 | 42 | 2 | 87 | 3 | .259 | 2 |
2005 | 西武 | 131 | 478 | 427 | 56 | 116 | 19 | 3 | 3 | 150 | 24 | 20 | 18 | 1 | 30 | 2 | 93 | 8 | .272 | 2 |
2006 | 西武 | 124 | 518 | 451 | 50 | 132 | 16 | 7 | 2 | 168 | 34 | 16 | 25 | 4 | 36 | 2 | 79 | 3 | .293 | 2 |
通算成績 | 521 | 1752 | 1543 | 221 | 406 | 64 | 16 | 17 | 553 | 124 | 66 | 63 | 9 | 129 | 7 | 335 | 20 | .256 | 10 |
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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83 監督 伊東勤 | 71 土井正博 | 75 荒木大輔 | 80 森山良二 | 78 立花義家 | 81 植田幸弘 | 72 清水雅治 | 79 笘篠誠治 | 87 原井和也 | 74 二軍監督 渡辺久信 | 76 田辺徳雄 | 77 石井丈裕 | 86 潮崎哲也 | 89 森博幸 | 88 相馬勝也 | 70 河田雄祐 | 98 大迫幸一 | 99 坂元忍 |
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