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政教分離の歴史 - Wikipedia

政教分離の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

政教分離の歴史(せいきょうぶんりのれきし)では、政治社会と宗教の関係性の歴史、とりわけヨーロッパの国家とキリスト教の関係史を中心に概観する。したがってここでは政教分離原則成立の社会的背景を、近代国家とそれに先行する政治社会の宗教政策との関連性に基づくものとしてその歴史を概観する。

ヴァチカン市国中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はヴァチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている
ヴァチカン市国
中世におけるカトリック教会は教会国家という世俗的な基盤を有しながらも、全ヨーロッパ規模での普遍的な権威を主張した。近代ヨーロッパ各地に国民国家が成立していくと、このような普遍性に支えられていた特権や管轄地は多く失われ、世俗の国家に回収された。現在カトリック教会はヴァチカン市国としてサン・ピエトロ大聖堂を中心とした世俗の一独立国家となっている

目次

[編集] 基本的な視野

政教分離とは過去に、特にヨーロッパにおいて、政治と宗教が結びついて、宗教戦争や、特定の宗教を国教化したことから異教徒の弾圧が起きた等の歴史的反省の意味から、「信教の自由」を保障するために生まれた制度である。

[編集] 近代国家成立史として

カール大帝の戴冠カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であったが、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった
カール大帝の戴冠
カール大帝は800年教皇レオ3世によって加冠され、キリスト教西ローマ帝国の皇帝となった。ゲルマン的普遍世界の成立を告げる重要な画期であったが、後代カール大帝はこのとき塗油によって聖別されたと信じられた[1]。厳密に言えばそれは後代のアナクロニズム(時代錯誤)であったが、のちに「国王が教皇によって聖別されること」が王権に対する教権の優位の有力な根拠となった一方、一度聖別された国王が聖性をもつことの根拠ともなり、のちには血統霊威の観念[2]などと結びついて王権神授説に発展し、絶対王権の根拠ともなった

近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法カノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。このような状況は西ヨーロッパに固有の問題であると言えるが、近代国民国家が西ヨーロッパで成立したと考えられているために、国家と宗教の関係性の歴史が近代国家の成立史において主要な論点として意義を有することになる。現在の国民国家は例外はあるものの、ほとんどの国が政教分離を原則としており、また近代国家の克服の対象であった教会の側では、中世以来のカトリック教会の首長であるローマ法王は、一方でヴァチカン市国という一つの近代国家の首長となり変容を遂げた。

[編集] 東方正教会の事情

カトリックとは異なり、ビザンツ皇帝の強い影響下にあった東方正教会においては、権威において教会の首長であるコンスタンティノープル総主教がビザンツ皇帝を上回ることはなく、公会議も皇帝によって招集された[3]。行政区分に基づいた主教管区をおく伝統によって、独立した国家ごとに主教管区が設けられ、ビザンツ帝国の後期には帝国の縮小に伴ってバルカン半島諸国で主教管区がコンスタンティノープル総主教の管轄を離れ、独立する傾向にあった。

ビザンツ帝国が滅亡し、教会がオスマン帝国の支配下にはいると、コンスタンティノープル総主教は帝国の拡大に伴ってバルカン半島や西アジア・エジプトなどに管轄を広げ、アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアの三総主教座も事実上その管轄下に収めることになった。しかし一方でオスマン皇帝の意向を重視した総主教が選出される傾向が増し、聖職売買が横行するようになった。またこの時代の東方教会においては聖職者・修道僧の識字率の低下も見られた。このような状況は東方における神学教育の低迷をもたらし、カトリックの神学校に留学する正教神学徒も増加した。西ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリック・プロテスタント両派ともバルカン半島を中心とする東欧国家での布教活動を重視するようになり、正教側も対抗改革派とくにイエズス会の神学校に影響されて、神学校を設立し、正教神学校はのちに近代国家の宗教政策において一定の関与をすることになる。

18世紀以降オスマン帝国が縮小に向かうと、バルカン半島で民族独立運動が激化し、それに伴ってバルカンの民族教会は総主教から独立しようとするようになった。このような動きに対し、コンスタンティノープル総主教は概して否定的で、これら民族教会の正教徒よりはオスマン皇帝に近い立場にあった[4]。オスマン帝国の縮小とともにコンスタンティノープル総主教の管轄も狭まり、第一次世界大戦後にトルコ共和国が成立してオスマン帝国の本体が国民国家となると、総主教は形骸化して名目的な地位と化した[5]

[編集] 歴史的展開

近代のキリスト教は東西いずれの教会においてもその影響力を低下させた。ここでは近代社会と宗教について、とくに近代国家とキリスト教の問題を焦点とすることとし、その際近代国家成立の前提としての近代以前のヨーロッパ史における世俗王権とカトリックの教権の関係をまず概観する。さらにその背景となる思想史についても適宜記述する。近代以降については正教世界にも視野を広げて記述するが、近代国家との関連性を重視するという観点から中世以前の正教世界についてはここでは詳しく触れない。

近代以前の正教世界については東方正教会東ローマ帝国キリスト教の歴史を参照

[編集] 概要

四福音書記者新訳聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。鷲で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)
四福音書記者
新訳聖書の中心部分をなすイエスの生涯を記録した文書が四福音書である。4人の福音書記者はそれぞれ象徴を持つ。天使で象徴されるマタイ(左上)。ライオンで象徴されるマルコ(左下)。で象徴されるヨハネ(右上)。雄牛で象徴されるルカ(右下)

「歴史的展開」節の記述は政治社会とキリスト教の関係について、政治史・国家史・教会史・思想史の多岐にわたって概説するため、ここでは便宜のために要約を示す。

[編集] 古代のキリスト教

古代のキリスト教思想」では、キリスト教本来の思想傾向と古代に現れたキリスト教の思想を、政治思想史の観点から概説する。

  1. 初期キリスト教と国家」ではパウロの思想やアウグスティヌスに代表される教父哲学を概説する。イエスの思想は内面と政治社会を区別する特徴的な思想を形成し、パウロは神の恩寵という観点を持ち込むことでイエスの思想を一つの宗教にまで高めた。アウグスティヌスの政治思想はのちに中世の異端思想や宗教改革に影響を与えた。
  2. またとくに「両剣論」は教皇ゲラシウス1世が唱えた「教権と帝権がともに神に由来する」という考え方で、中世を通じて教権と王権の関係性についての有力な理論的根拠の一つであった。

[編集] 中世普遍世界

キリスト教普遍世界」では、一般に封建社会、あるいはヨーロッパ中世として知られる時代での、世俗国家と教権のありかたの推移を概説する。

  1. 教皇国家の成立」では、教皇権の経済的基盤ともいうべき教皇領の成立までを概観する。
  2. ゲルマン諸民族の世俗国家」では、西ローマ帝国滅亡後に西ヨーロッパに割拠したゲルマン人の諸国家における国家と宗教の関係を概観する。この時期のゲルマン人の王権は後世に比べると世俗的で、教会の宗教的権威に依存する面が少なく、領域内の教会については実質的な支配を及ぼしていた。ただ国家ごとに内実は多少異なり、地中海に面した西ゴート王国ヴァンダル王国と内陸部のメロヴィング朝は経済的条件も文化的条件もかなり異なっていた。
  3. カロリング朝の帝権」では、メロヴィング朝の衰退からカロリング朝が成立し、やがて西ヨーロッパ世界で唯一の世俗的至上権、皇帝権を獲得するまでに至る過程を概観する。
  4. また初期の教権と帝権について、その理念的背景として「カロリング朝期の政治思想」を概観する。
  5. グレゴリウス改革と教権の絶頂」では、11世紀から始まる教会の改革運動と13世紀の教皇権の絶頂期を概観する。
  6. 等族国家と公会議主義」では、封建国家に身分制に立脚した議会主義が成立し、それにより国民単位の政治社会の基礎が築かれたことを概説する。さらに議会主義と国民単位の類似制度が教会においても成立し、公会議主義となった。
  7. 王権の超自然的権威の獲得過程」では、王権が教権に対抗するために一定の宗教的権威を獲得していった過程を概説する。共通にキリスト教思想に立脚しながらも、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝の宗教的権威が「ローマ的」であったのに対して、イングランドのそれが「アングロ・サクソン的」、フランスのそれが「フランク的」であり、そこに王権が国民的な国家形成の核になる端緒があった。
  8. カトリック大国、スペイン」では、この時期あらたに大国としてヨーロッパ政治に主要な位置を占めることになったスペインの初期宗教政策について概説する。スペインがカトリック信仰に熱心であったのは事実とはいえ、その王権や文化が必ずしも教権に盲従していたわけではない。
  9. 教会の正統な信仰とは別次元で、中世の民間にはやや異なった信仰が存在した。「中世の民衆信仰」では、このような民間信仰を概観する。
  10. 宗教改革前思想史」では、中世後期の異端思想と人文主義について概観する。それらの思想の立つ政治的立場と背景にある政治状況についてもある程度言及する。また宗教改革との関連性も指摘する。

[編集] 宗教改革以降

近代社会とキリスト教」では、宗教改革以降の近代社会における国家の宗教政策、および時代ごとのキリスト教に関する思想の変遷を概観する。

  1. 宗教改革(プロテスタント側から)」では、ルターの宗教改革がなぜ宗教問題にとどまらずに政治的な問題に転化したかということについて簡単に説明する。
  2. ドイツの領邦教会制度」では、ドイツにおける宗教改革の初期の帰結としての領邦教会制度が成立するまでを概観する。
  3. 宗教改革派の諸思想」では、宗教改革派の諸思想を概説する。
  4. フランスのコンフェッショナリズムと主権理論」では、フランスの改革派ユグノーとフランス王権の宗教政策から絶対主義の形成過程を概観する。

[編集] 日本

日本近代法制史における政教分離」では、明治政府以降の日本の宗教政策について概説する。

[編集] 古代のキリスト教思想(~500年)

十字架を担うキリストエル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された
十字架を担うキリスト
エル・グレコによる1580年の作。ゴルゴダの丘に向かうイエスの像である。イエスの死は彼が「神の国」をもたらすと信じていた信徒に失望を与えたが、やがて死に意味づけがされ、ひとつの宗教として確立された

具体的な世俗国家とキリスト教の関係性の歴史を、この記事では中世以降の政治史を中心に概観する。しかしながらそれに先だって、キリスト教本来の政治に対する思想傾向と以後のキリスト教と世俗国家の歴史に特徴的な影響を及ぼすいくつかの思想を概観する。

[編集] 初期キリスト教と国家

ここではまずイエスの思想と考えられるものの中から、政治社会に関係すると思われるものについて概説し、次にパウロの思想について説明する。その後アウグスティヌスに代表される教父哲学の思想を概観する。とくにパウロの「ローマの信徒への手紙」とアウグスティヌスの思想は後世のキリスト教に決定的な影響力を及ぼしており、その歴史上で繰り返し回顧される重要な思想である。

[編集] イエスの思想の歴史像

ここでは新約聖書に現れるイエスの思想の中から、とくに政治社会に言及する限りにおいて重要なものを指摘する。イエス思想において根本をなすのは福音である。福音とは「良い知らせ」と言う意味で、具体的には「神の国」が近づいているという知らせである。

イエスによれば、「神の国」が来ると、既存の社会秩序とは全く異なった新しい秩序に基づく生活が始まる。新しい秩序はまず愛の共同体であって、そこでは人々が神の愛を無条件に受け入れることで一切の対立が消滅する。この「神の国」に参加するために、人は罪を悔い改め、欲を捨てて神に従った生活態度を取らなければならない。基本的にはこれは世俗的秩序の否定であり、人間の内面の重視と政治社会の本来性の否定であった。イエスは「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」と述べて、世俗社会と精神世界を区別し、「神の国」の到来によってやがては内面的な精神世界が世俗社会にとってかわると述べた。しかしイエスによれば、現存する世俗秩序は決して無意味ではない。「神の国」にはいるためには現世でのおこないが決定的であると説く。イエスは現世でもっとも悪い状態にある者が来世においてもっとも良い状態になると述べる。

以上のイエスの思想を鑑みると、二つの特徴を指摘することができる。一つは政治社会と内面の区別、もう一つは政治社会の価値が「神の国」の価値とほとんど正反対であるということである。このようなイエスの課題はまったく政治社会を超越しており、その意味で非政治的であるが、現実の政治社会に批判の目を向け緊張をもたらすという意味で政治的であった。後述するように、キリスト教の教会が中世において、世俗権力を超えた有力な政治社会となっている点が見られるのも、キリスト教が本来的に現世を超越している点に求めることができる。

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[編集] パウロ
パウロヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教に神学的説明を加えた
パウロ
ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620年ごろの作。パウロはキリスト教に神学的説明を加えた

パウロはもともとイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となった。彼はキリスト教思想において最も重要な人物の一人で、その著作「ローマの信徒への手紙」は以降のキリスト教思想に繰り返し影響を与えた。

このパウロにおいては罪の意識が非常に強い。パウロは心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなすことに悩み、彼の思想では人間の無力さが強調される。このような人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってしか救われることがないのである。パウロは言う、イエスの死こそ神の自己犠牲であると。この神の自己犠牲によって人間は罪から解放されるのであり、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるのである。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。

政治思想としては、受動的服従が知られる。パウロによれば、この世の権威は神に拠らないものはなく、したがってこれを受け入れなくてはならない。だが、それは内面の良心の故であり、決してそれらの権力それ自体に価値があるからではない。その正統性はあくまで神によって認められている限りであるという。

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[編集] 教父哲学(アウグスティヌス)

アウグスティヌスはキリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父のなかで、とくに後世に大きな影響を残した人物である[6]

アウグスティヌスボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた
アウグスティヌス
ボッティチェリによる1480年ごろの作品。アウグスティヌスの思想はキリスト教的歴史意識を確立し、中世の異端運動や宗教改革にも大きな影響を与えた

『神の国』には「二国史観」あるいは「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「二国」あるいは「二世界」とは、「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。イエスが述べたように、「神の国」はやがて「地の国」にとってかわるものであると説かれている。しかしイエスが言うように、「神の国」は純粋に精神的な世界で、目で見ることはできない。アウグスティヌスによれば、「地の国」におけるキリスト教信者の共同体である教会でさえも、基本的には「地の国」のもので、したがって教会の中には本来のキリスト教とは異質なもの、世俗の要素が混入しているのである。だが「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないという。一方でアウグスティヌスは、人間の自由意志を否定[7]し、人間は本来的に堕落しており無力であるというパウロの思想が踏襲され、神の恩寵が絶対的であることも説かれた。

このようなアウグスティヌスの思想は、精神的なキリスト教共同体と世俗国家を弁別し、キリスト教の世俗国家に対する優位、普遍性の有力な根拠となった。一方で『告白』に見られるような個人主義的に傾いた信仰と『神の国』で論じられた教会でさえも世俗的であるという思想は、中世を通じて教会批判の有力な根拠となり、宗教改革にも決定的な影響を与えるものであった。

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[編集] 両剣論

「両剣論("theory of two swords")」とは世俗的な政治権力と宗教的権威の関係性について述べたもので、もともとは「ルカによる福音書」のなかのイエスの言葉に由来する。教皇ゲラシウス1世はこれを俗権と教権がともに神に由来することを述べたものであるとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝が並列的に存在していることを論じた[8]。この両剣論はその本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものであった。

中世になると、両剣論には二つの異なる立場から相反する解釈がおこなわれた。ひとつは皇帝に有利な解釈で、帝権が直接神に由来することは世俗的世界での皇帝権の自立性の根拠となった。もうひとつは教権に有利な解釈で、教皇が両剣を持ち、一方の世俗的な剣を皇帝に委任して行使させるという解釈[9]で、教権の優位性の重要な根拠の一つとなった。

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[編集] キリスト教普遍世界(500年~1500年)

[編集] 教皇国家の成立

天国への鍵を授けられるペテロイエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている
天国への鍵を授けられるペテロ
イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている

ここではやや時代を遡って教皇国家あるいは教皇領と呼ばれる教皇の世俗支配の形成過程を概観する。

[編集] 西ローマ帝国の滅亡と西地中海世界

西ローマ帝国の領域にゲルマン人が多数の国家を形成し、西ローマの皇帝権が没落して古代的な帝国支配が弛緩すると、古都ローマはほとんどゲルマン人の支配の間に孤立した形となり、東ローマ帝国とのつながりは徐々に薄れて西ローマ帝国の領域は独自の発展をしていくようになる。しかしながらゲルマン人たちが西ヨーロッパで優勢を占めているように見えても、かつてのローマ帝国の西側と東側は地中海によって繋がれており、文化的経済的な繋がりは維持されていたのであって、突然にローマ的な文明がゲルマン的な文明になってしまったわけではない。地中海世界での東ローマ皇帝の優位性はいまだ揺らいではいなかったし、ゲルマン人たちは皇帝の支配を名目上は受け入れて、彼ら自身が皇帝になりかわろうという意図を持つことはほとんどなかった。ただ一方でこのような状況がローマ教皇に一定の自立性の根拠を与えたのであり、東方の正教会とは独自のカトリック教会が生まれる素地がここにあったことは間違いない。

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[編集] ペテロの後継者

ローマ司教が教会において優位性を立証できるとすれば、それはまずイエスの言葉に求められるべきであったし、事実そこに根拠が見つけられた。イエスはペテロに向かって、「汝はペテロである。私はこの岩(ペテロ)の上に私の教会を建てよう」と言ったという。ペテロが最初のローマ司教であったことは、ローマ司教こそが教会の本体であるということを指していると受け取ることもできる。ペテロはイエスから「天国の鍵」を預けられたとされた。

ただ初期の教会において、このことがあまり重視されていたわけではなかった。4世紀にはローマ司教は有力なイタリア大教区を管轄しており、「西ローマ総大司教」とも見なされていたが、一方で一般信徒の面前で司教の選挙によって選ばれた、小さなローマの聖堂聖区の司教でしかなかった。ローマ司教の特別な地位が認められたのは343年のサルディカ宗教会議であって、それ以前は公式なものではなかった。この時期の教権の上昇に最も貢献したのはレオ1世で、455年ヴァンダル族がローマを攻撃したときに、その王ゲイセリクスと交渉してローマの略奪を防いだ。このころから「教皇(パパ)」という称号はローマ司教だけに特別に認められるものであるという観念がヨーロッパ世界に定着していった。

しかしこのことでただちにローマ教皇の地位が、後世のように独自の権威性をもって普遍的な優位を確立したわけではない。東ローマ皇帝ユスティニアヌスイタリア半島をローマ皇帝の支配の下に回復すると、彼はローマの司教も皇帝の統制に服するべきであると考えた。教皇の側もそれを受け入れ、帝国の支配に復帰することをむしろ歓迎していた。

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[編集] 教権の自立化への動き
カール大帝デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。
カール大帝
デューラーによる1510年の作。教会側が教皇の手による戴冠に皇帝の根拠を求めたのに対し、カール大帝自身はあくまでその神授性を強調した。彼の名乗った称号は「神によって戴冠され、ローマ帝国を統治し、平和をもたらす、最も至高なる偉大な皇帝にして、神の慈悲によってフランク人およびランゴバルド人の王であるカール」であった。

ところが東ローマ帝国に結びついたことは教皇にとって必ずしも良い結果をもたらしたのではないことは次第に明らかとなった。東方でさかんにおこなわれていた神学論争が西方に持ち込まれる結果となり、しかも神学論争にしばしば政治的に介入する皇帝の姿勢は不満の種となった。北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示したし、ガリアイベリア半島でも分離傾向が見られた。関係が変化するのは「大教皇」グレゴリウス1世の時代である。彼の時代にはイタリア半島にランゴバルド族が侵入し、再びローマは危機的な状況を迎えていた。グレゴリウス1世はフランク王国を重視して、これと友好的な関係を結んだ。もともと行政官として経験を積み、ローマ総督の地位についたこともあったグレゴリウス1世は、おそらく都市ローマの行政上における教皇の影響力を増大させた。ランゴバルト族に連れ去られた捕虜の買い戻し、ローマの破壊を防ぐ代償としてのランゴバルド族への貢納の支払いに教皇は積極的に関与している。このころから教皇は都市ローマの公共事業を担うようになったと考えられている。

分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。

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[編集] ピピンの寄進、教皇領の成立とフランク人の帝国

フランク王国メロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。教皇ザカリアスはカロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持し、つづく教皇ステファヌス3世[10]はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息カールカールマンに塗油の秘蹟を施した。

この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じた。これを「ピピンの寄進」といい、ここに教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。ピピン3世の跡を継いだカール大帝も774年にイタリア半島へ遠征し、教皇ハドリアヌス1世にローマを中心とした中部イタリアを献じた[11]。つづく教皇レオ3世800年、カール大帝をローマに招いてローマの帝冠を授け、彼に西ローマ皇帝の地位を与えた[12]

かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった[13]。教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった[14]

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[編集] ゲルマン諸民族の世俗国家

            ゲルマン諸王国のヨーロッパ世界(526年 - 600年)                                                ローマ帝国             東ローマ帝国                                   ゲルマン系の国家             フランク王国|東ゴート王国|西ゴート王国|ヴァンダル王国|ブルグント王国|ランゴバルド王国|アングロ・サクソン諸王国                                   その他の周辺民族             ノルマン人|ピクト人|スコット人|ブルトン人|スラヴ人|チューリンゲン人|スエヴィ人|アヴァール人|ササン朝|アラブ人
ゲルマン諸王国のヨーロッパ世界(526年 - 600年
ローマ帝国 東ローマ帝国
ゲルマン系の国家 フランク王国東ゴート王国西ゴート王国ヴァンダル王国|ブルグント王国|ランゴバルド王国アングロ・サクソン諸王国
その他の周辺民族 ノルマン人ピクト人スコット人|ブルトン人|スラヴ人|チューリンゲン人|スエヴィ人アヴァール人ササン朝アラブ人

西ヨーロッパでは、西ローマ帝国が滅亡してもローマ世界は確かに存続していた。一見西ヨーロッパはゲルマン人の諸王によって分割され、モザイク模様を形成しているかのように見える。しかし彼らは「皇帝の名によって」統治したのであり、実際には東ローマ皇帝の超越的な主権に服していたと見るべきである。これらゲルマン族の国王は宗教的権威において支配したのではなく、純粋に世俗的なものであって、教会はこれらの国家にとって本質的な構成要素ではなかった。国王の即位に際して何らかの宗教的儀式がおこなわれていたわけではない[15]。ゲルマン人の王国では国王が教会の首長であり、司教を任命し、宗教会議を開催した。後世の国家とは異なり、これらの王国では世俗的支配者の同意なくして聖職者になることができなかった。ここでは西ゴート王国ヴァンダル王国メロヴィング朝フランク王国を特筆し、それぞれの国家と教会との関係を記述する[16]

[編集] 西ゴート王国

西ゴート族クローヴィスによって南フランスから追い出されると、イベリア半島トレドに宮廷を定めた。このころの西ゴート王国ではゲルマン人とローマ人の通婚は禁止されており、このような分離の背景には信仰の相違があったと考えられている。大部分のローマ人がカトリックであったのに対し、西ゴート族はアリウス派を信仰していたからである。西ゴート族は征服した土地のカトリック司教を追い出すことがあったが、これを信仰の違いに帰することはおそらく適切ではない。司教たちの追放の理由は彼らが国王の支配に抵抗したことに由来すると考えられており、大部分の西ゴート王はカトリック信仰に寛容であった。

レカレド王の時代に王自身がカトリックに改宗し、じょじょに首都トレドはキリスト教西ヨーロッパ世界の宗教的政治的首都と見なされるようになった。589年から701年の間に18回もの宗教会議がトレドで開かれ、いずれも王が召集をおこなっている。これらの宗教会議は、後世のように狭い教義上の問題だけが取り上げられたのではなくて、世俗的な問題も議題とされた。したがって出席者は聖職者ばかりに限られず、世俗の高官も臨席した。国王の即位に塗油の儀式も付け加えられた。確実に知られるのは672年のワムバ王の即位時であるが、おそらくレカレド王時代からおこなわれていたと考えられている。西ゴート王国では、国王は宗教上の問題に関しても法令を出した。

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[編集] ヴァンダル王国

アフリカ北岸に王国を築いたヴァンダル族の場合は西ゴート族とはかなり異なる。この王国は東ローマ帝国と敵対的な関係にあり、その宗教政策は政治的対立に基づいていた。ヴァンダル族はアリウス派を信じており、カトリック司教がローマを通じて東ローマ帝国に通じているのではないかと疑っていた。

ゲイセリクス王はカルタゴを占領すると、同地のカトリック司教クオドウルトデウスを追放した。以後24年間カルタゴには司教が置かれなかった。ゲイセリクスの後継者フネリクス王は晩年の484年に、かつてホノリウス帝がドナティスト[17]に出した告示を踏襲して、カトリック教徒を法の保護外とする告示を出した。要するに、ヴァンダル王国ではほぼその全時代を通じて、カトリックと王権の間に軋轢が絶えなかった。

カトリック聖職者は王権とそれに結びついたアリウス派に対する抵抗運動を指導した[18]ので、王権は弾圧を加え根絶しようとしたが、すでにアウグスティヌスの伝統が深く根を下ろしていた北アフリカの教会はこの弾圧に耐えた[19]。ただこのような混乱と迫害は、カトリック聖職者の離散をもたらし、彼らはプロヴァンス地方やカンパーニア地方、イベリア半島へ集団逃亡(「エクソダス」)した。

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[編集] メロヴィング朝フランク王国

メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリクスとその子クローヴィスである。キルデリクスの時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した[20]。したがってフランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にチューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルドと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。

クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服したので、クローヴィスの息子のうちで一番最後まで生き残ったクロタールが死ぬ頃(561年)には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。

クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任され、三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。

613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった[21]。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。

のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した[22]。7世紀のクロタール2世の時代までは社会全体の識字率はカロリング朝のころよりも高く、したがってメロヴィング朝の宮廷文化はカール大帝の時代とは異なって世俗的な教養に支えられていた。フランク王国がゲルマン人の王国の中で比較的早期に正統信仰を受け入れたとはいえ、ローマを中心とする西方の教会の影響を強く受けたというわけではない。このころのローマ教皇はガリアにまで強い影響力を行使できるほど卓越していたわけではなかった。クローヴィスはローマ教皇とではなく東ローマ皇帝と直接外交した。クローヴィスの時代にはローマよりはコンスタンティノープルの宮廷が大きな影響を及ぼしていたと見るべきである。

上述のように、メロヴィング朝の宮廷は全く世俗的であったが、その地方行政においては司教が中心的な役割を担っていた。メロヴィング朝の宮廷は地方支配の組織を欠いており、司教が実質的に地方統治を担当していた。宮廷で官僚として出世した者たちは地方に転出するときに司教職を望んだ。カロリング家の権力掌握過程でもこの事実は確認できる。アウストラシアの宮宰であるカロリング家はネウストリア、ブルグント、プロヴァンス各地の司教職に一門を送り込むことで地方支配に影響を及ぼした。やがて8世紀半ばにイングランドからの影響でフランク王国に大司教制が導入されると、ゲルマニア・ルーアン・ランス・サンスの大司教をカロリング家が占めた。カロリング朝の時代には司教職と地方支配に対する王権の影響力は増加した。

王国の経済に注目すれば、東ローマ帝国の地中海再征服以降ガリアは地中海の経済圏から分離される傾向が強くなり、ブリタニアとの強い結びつきが認められる。6世紀からはこのような経済圏の形成と歩調を合わせるかのようにメロヴィング王朝の北方化・内陸化が進展し、東ローマ帝国の影響は希薄となった。しかしこの経済圏はアイルランドまでは含んでおらず、アイルランドはイベリア半島を通じて伝統的な地中海経済圏とつながっていた[23]

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[編集] カロリング朝の帝権

フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。つづくピピン3世はすでに述べたように、ローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島ブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリアフランスドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。

[編集] メロヴィング王権の衰退

パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルト1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された[24]。このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた[25]。ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリィの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。

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[編集] カール・マルテルとイスラム勢力の西漸

714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こり[26]危機を迎えたが、ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世[27]が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたユードと和平を結んだ。ユードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ユードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリーセン人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。

このころイスラム教徒北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ユードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。

735年にユードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ユードの息子クノルトに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。

トゥール・ポワティエ間の戦いアキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった
トゥール・ポワティエ間の戦い
アキテーヌを支配していたユードはイスラム教徒の国境司令官オスマーンに娘を嫁がせたが、イベリア総督アブドゥル・ラフマーンはこれを殺害した。732年、アブドゥル・ラフマーンはピレネー山脈を越え南フランスに侵攻し、ユードの軍を破った。カール・マルテルはアウストラシアの軍勢を率いてユードの援軍に駆けつけ、トゥールとポワティエの間の平原でこれを撃退した。この勝利でカール・マルテルの声望は大いに高まった

カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、チューリンゲンヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。

一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[28]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。

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[編集] ピピン3世の国王即位、カロリング朝の成立

741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。

カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[29]742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。

751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式を受けた。754年には教皇ステファヌス3世によって息子カールカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。

ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[30]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。

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[編集] カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立
ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側)カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した
ハールーン・アッラシード(左側)とカール大帝(右側)
カール大帝はイタリア支配を巡って対立していた東ローマ帝国を牽制するため、時のアッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシードに使者を派遣した

768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[31]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[32]781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。

教皇レオ3世800年のクリスマスにカール大帝に帝冠を授け、西ローマ帝国が復活した[14]。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[33]。教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を一つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。

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[編集] キリスト教帝国の解体
ヴェルダン条約によるフランク王国の分割
ヴェルダン条約によるフランク王国の分割

広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ロ-マ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。

814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒは帝位と王権を継承した。ルートヴィヒ1世は817年「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒにバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。しかしシャルルが生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、ロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒがこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。

841年ロタール1世とシャルル、ルートヴィヒはオーセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分されることとなった(ヴェルダン条約)。帝権はロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ルートヴィヒ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をルートヴィヒ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にシャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。

869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルルがロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒがこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)。西フランク王シャルルは875年のルートヴィヒ2世の死後はイタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィヒの死に際して、シャルルは東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒの息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。

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[編集] カロリング・ルネサンス、中世文化の始まり

カール大帝のいわゆるカロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定め、この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックスに書き直させた。

コデックスとは、4世紀末ごろから使われだした、従来の巻物に代わるページと折り丁を持つ記憶媒体の新しい形態で、より今日の書物に近いものである。巻物が口述筆記と音読を主とするものであったのに対し、コデックスの一般化によって黙読と欄外注の使用など新しい筆記形態が登場し、中世は書物を重要な文化要素とするようになった。西ヨーロッパでは、13世紀ごろには黙読が一般化した。

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[編集] カロリング朝期の政治思想

ここではカロリング朝が帝権を手に入れた9世紀初頭ごろの政治思想を概観する。まずカール大帝のキリスト教帝国の政治思想としてアルクインの思想を、次に教権の側の政治思想として作者不明の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を特筆する。

[編集] アルクイン
教皇シルヴェステル1世とコンスタンティヌス大帝コンスタンティヌス大帝はシルヴェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた
教皇シルヴェステル1世コンスタンティヌス大帝
コンスタンティヌス大帝はシルヴェステル1世にローマ全土を教会領として寄進する約束をしたという説話が8世紀ごろに作られた。この『コンスタンティヌス帝の寄進状』は中世を通じて教権の重要な根拠の一つとなっていたが、のちにヴァラなどによって偽作されたものであることが明らかにされた

アルクインはブリテン島出身の神学者で、カール大帝の宗教政策を中心とした問題についての、最も有力な助言者の一人であった。カール大帝時代のいわゆる「カロリング・ルネサンス」においても指導的役割を演じたと考えられている。

カール大帝が795年教皇レオ3世が選出された際に送った外交書簡はアルクインの手になるものと考えられている[34]。この書簡は、キリスト教のための戦争、信仰の擁護などをフランク国王の職務と述べ、ローマ教皇の職務は祈りを通じて国王を補佐することであると述べている。799年にアルクインがカール大帝にあてた有名な書簡では、教皇・ビザンツ皇帝がいずれも堕落している[35]のに対し、カール大帝のフランク王国のみが正しいキリスト教君主であるとした。そのすぐあとに出された書簡では、アルクインはカールのフランク王国を「キリスト教帝国("Imperium Christianum")」と呼び、カールの王権を全キリスト教共同体を覆うものとしている。このアルクインのいう「キリスト教帝国」は800年のカール大帝の戴冠で劇的に現実化した。

アルクインはまた両剣論を取り上げ、カール大帝が世俗の剣も霊的な剣もともに神から授かったとして教権に対する帝権の優位を説いた[36]

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[編集] コンスタンティヌス帝の寄進状

『コンスタンティヌス帝の寄進状』は、『偽イシドールス教令集』に記載されていたもので、このイシドールスとは7世紀イベリア半島のセビリャ大司教のことである。イシドールスは従来の教令集[37]にスペインでの教会会議の決定を増補し、『ヒスパナ』という教令集を編纂した。のちにこれが『イシドールス集録』と呼ばれ、カノン法の法源とされた。『偽イシドールス教令集』はこれとは別の物で、8世紀9世紀にイシドールスに仮託して作成された偽文書である[38]

この文書によれば、コンスタンティヌス1世は時の教皇シルヴェステル1世にイタリアと西部属州の支配を認め、さらに皇帝にしようとしたが、シルヴェステル1世は帝冠を一度受け取ったが被らず、帝冠を改めてコンスタンティヌス1世に被せたという。この歴史的事実によって教皇は皇帝任命権を保持していると主張した。カール大帝の戴冠もこの理念に則った形で行われ、これを先例としてのちに教皇は皇帝よりも優越的な地位にあることの根拠とした。

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[編集] グレゴリウス改革と教権の絶頂

これまで述べたように、中世ヨーロッパという固有の文明社会の成立には、皇帝権と教皇権という2つの普遍的権力・権威が相補的役割を果たしていた。11世紀に入ると、この皇帝権と教皇権の関係が本質的な対立に向かい、中世ヨーロッパ社会の秩序が根本的な変革に直面することとなった。一般にグレゴリウス改革[39]として把握される一連の教会改革運動である。結果的には教皇権は、皇帝権に対して一定の自立を勝ち得、その完結性を実現することになり、日常生活に関わる秘蹟への関与を強めることにより、民衆の精神支配において圧倒的な影響力を持つようになる。さらにシュタウフェン朝の断絶後に皇帝権が著しく影響力を弱めると、教権は全盛の時代を迎える。一方で教会改革を通じて高められたキリスト教倫理は、1213世紀になると、民衆の側から使徒的生活の実践要求[40]という形で教会に跳ね返り、さらには異端運動を生み出す元ともなった。また14世紀に入ると、教皇権は国家単位での充実を果たした俗権の挑戦を受けることになった[41]

[編集] 修道院改革運動と教会改革の始まり
クリュニー修道院フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った
クリュニー修道院
フランス革命によって破壊される以前は、偉容を誇った壮大な修道院であった。アキテーヌ公ギヨームにより設立された。12世紀にいたるまで西ヨーロッパで絶大な影響力を持った

グレゴリウス改革の前史としての修道院改革運動は、11世紀初頭のロートリンゲンで広がりを見せた。このロートリンゲンの修道院改革に影響を与えたのがクリュニー修道院である。クリュニー修道院は909年ないし910年に教皇以外の一切の権力の影響を受けない自由修道院として設立され、ベネディクトゥスの修道精神に厳格に従うことで、西ヨーロッパに広く影響を与えた。ザリエル朝の皇帝ハインリヒ3世は、このクリュニーの修道精神に深く共感し、聖職売買(シモニア)を強く批判し、教会改革を求めた。

一方でクリュニー精神の影響を受けたロートリンゲンの修道院は、徐々に修道士団の自立性を唱えるようになり、皇帝権からの自立を目指すようになった。そしてクリュニー精神に基づき、修道院活動を純化し汚れない本来の姿に戻ろうとする動きは、シモニアやニコライティズム(聖職者の妻帯)に対する批判と軸を同じくした。改革に熱心な教皇レオ9世が登位すると、教皇権がこの教会改革の主導権を握るようになった。

このように、クリュニー修道院に影響を受けた修道院改革の基本精神は教会改革に継承されたのであるが、これはクリュニーの精神とグレゴリウス改革が全ての面において、一致していたということを必ずしも意味しない。たとえば改革派が唱える、明らかにドナトゥス派に通じる叙品論[17]に対しては、クリュニーはペトルス・ダリアニとともにこれに反対した。これはクリュニー精神と同時代の修道院改革との間にも当てはまり、シュヴァルツヴァルトのヒルサウにおける修道院改革は、農民階層への積極的な説教活動を通じて、農民の平信徒を助修士として受け入れるものであったが、これはクリュニーの改革とはやや異なる展開を示した。折しも中世ヨーロッパは大開墾時代を迎えており、農民に労働と祈りに勤めよと唱えるこの運動は領主たちの利益にも適い、南ドイツの領主たちはヒルサウ系の修道院の守護権(フォークタイ)を保持しつつ、これを積極的に支援した。貴族の寄進を受けて運動は爆発的に広がり、ヒルサウ系の修道院は150に上った。

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[編集] 等族国家と公会議主義

アヴィニョン教皇庁ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された
アヴィニョン教皇庁
ゴシック建築を代表する。1316年にまず最初の建築がおこなわれ、クレメンス6世時代に増築された

グレゴリウス改革以後、西ヨーロッパ教会における教皇首位権は確立された。教権の伸長はこの時期さまざまな局面での教権の世俗の領域への介入につながったが、封建君主たちの激しい抵抗に遭い、一連の政治闘争によって教皇権の根拠に対して厳しい批判の目が向けられるようになった。

この時期封建制国家は、特にイギリスドイツで典型的に身分制秩序が発展し、身分制議会(これを等族議会という)が形成されるようになった。これは一方で貴族による王権の制限という形式を取ったが、同時に王権を中心とした王国単位での共同体を創設することにもなり、普遍的な世界の解体につながるものであった。このような身分制に基づく議会主義をとる国家を等族国家といい、ヨーロッパ中世後期に特徴的な国家様式であると考えられている。等族国家は西はブリテン島から東はポーランド、さらには聖地に作られた十字軍国家も同様の形態を取るが、その内実は地域によりかなり異なる。たとえばドイツでは大空位時代から諸侯の自立化が進み、カール4世の時代に金印勅書の制定によって国王の選挙制が確立された。重要な帝国法は帝国議会で決定されるのが常となり、典型的な等族国家を形成した。一方でフランスではカペー朝による王領拡大が諸侯領を破壊する形でおこなわれ、王国に対する国王の支配がより強力であったために、等族議会である三部会では当初から国王が主導的な役割を担い、国王の政策の道具として扱われる側面が強かった。

ともかくこのような等族国家は、各王国規模での政治社会を定着させることにつながり、中世的な普遍世界から絶対王政への橋渡しをする役割を担ったといえる。これは普遍的にキリスト教世界に影響を及ぼす教権の側から見れば、王国ごとに教会を分断しようとする動きとなり、危険なものであった。なぜなら皇帝権との対立が同じ普遍性の土台の上で戦ったものであったために教権の普遍性自体を疑うものではなかったのに対し、等族国家はまさに普遍性そのものを問題としたからである。またこのような議会政治の構造自体が教会にも取り入れられるべきことが論じられ、教皇首位権に対する公会議主義の思想を生んだ。

[編集] フランス王権との対立、「アヴィニョン捕囚」とガリカニスム
寡婦なるローマ教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった
寡婦なるローマ
教皇不在のローマを象徴的にあらわした図。アヴィニョン捕囚は教皇に対する不満を増大させ、また「捕囚」されている事実それ自体が教皇権威の失墜を意識させるものであった

この時代、ドイツの皇帝にかわってフランス王権が台頭し、イタリアにも進出するようになり様々な局面で教権と対立するようになってきた。13世紀後半にフィリップ4世が即位すると、この国王と教皇の間で聖職者への課税権を巡って対立がおこった。教皇の側ではアエギディウス・コロンナが論陣を張り、一方のフランス王権を支持したのがパリのヨアンネスであった。ヨアンネスは聖職者は単なる精神的権威であるから世俗のことに関わるべきでないとして教皇の世俗への介入を批判し、一方で世俗国家を自然的社会の最高形態であるからその君主は教会による聖別を必要としないと論じた。

1302年にフィリップ4世は三部会を開いて等族諸身分の支持をとりつけ[42]、教皇ボニファティウス8世を捕らえてこれを憤死させた(アナーニ事件[43])。フィリップ4世はフランス人であるクレメンス5世を擁立すると、教皇庁をアヴィニョンに移転させた。以後70年間にわたり教皇庁はアヴィニョンにあってフランス王権の影響をうけることになり、この時代を教皇の「アヴィニョン捕囚」という。クレメンス5世の時代にはテンプル騎士団がフィリップ4世によって異端として告発され、クレメンス5世はこの異端裁判において教皇側のイニシアティヴを維持しようとした[44]が、結局はフランス王権に屈服し、ヴィエンヌ公会議ではっきりとした理由も示さずにテンプル騎士団の解散を宣言した。

このようにクレメンス5世はフランス王権の影響を強く受けており、グレゴリウス11世までの「アヴィニョン捕囚」期の教皇の立場は総じてクレメンス5世とあまり変わらなかった。カペー朝の断絶後、1337年百年戦争が始まるとフランスは徐々に戦争により疲弊し、相対的に教皇庁は自立性を強めた。「アヴィニョン捕囚」期は続く教会大分裂時代とともに概して教権の没落期・低迷期と考えられる時期であるが、一方で教会の司法制度[45]が整えられ、教権の教会法上における権限の上昇が見られた。

この時代にガリカニスムという主張があらわれた。ガリカニスムとは「ガリア主義」という意味で、ガリアとはフランスのことである。この主張はフランス教会の教権からの独立を説くもので、その契機と考えられるのは前述したパリのヨアンネスである。このガリカニスムはとくに16世紀以降法学者たちの間でさかんに論じられるようになり、やがてイエズス会などの教皇至上主義と激しく対立して民族主義に近づいていた。

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[編集] 皇帝との対立、そして「金印勅書」
オッカムのウィリアム唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている
オッカムのウィリアム
唯名論に基づいた著作が異端とされ、1328年破門されると、ルートヴィヒ4世のもとへ逃亡し、『教皇権に関する八つの提題』を著して教権を攻撃した。このなかで注目されるのは聖書の啓示を万民に許されているという思想で、のちの宗教改革を先取りしている

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はイタリア政策を積極的に進めようと皇帝代理をイタリアに派遣したが、このことがアヴィニョンヨハネス22世を刺激し、教皇はイタリアにおける自身の権益が脅かされているものと認識した。ヨハネス22世はルートヴィヒ4世が教皇による国王としての、あるいは皇帝としての承認を受けていないにもかかわらず、国王として、また皇帝として振る舞っているとして批判した。ヨハネス22世は以上の論法からルートヴィヒ4世が教皇に服従することを求めたが、ルートヴィヒ4世が応じようとしないので、これを破門した。これに対しルートヴィヒ4世は選挙に基づく王権の独立性を訴えた。彼に理論的根拠を与えたのはパドヴァのマルシリウスで、『平和の擁護者』を著して法の権威を人民に求め、教会の介入に対して政治社会の自律性を主張した。教皇首位権に対しても聖職者の平等を訴えてこれに挑戦する内容であった。

ルートヴィヒ4世は1327年にイタリア遠征に出発し、ローマに入城して1328年にはローマ人民によって戴冠された。カール大帝以来、帝冠は教皇によって戴冠されるものと考えられていたのに対し、この新式の戴冠は明らかに同行していたマルシリウスの示唆によるものだった。ルートヴィヒ4世はヨハネス22世の廃位を宣言し、ニコラウス5世を擁立した。しかしニコラウス5世は皇帝がイタリアを去ると、1330年にはヨハネス22世に屈服した。その後もルートヴィヒ4世はオッカムのウィリアムなどの有力な理論的神学者を用い、ヨハネス22世とその跡を継いだベネディクトゥス12世クレメンス6世との間で長い論争が続いたが、決着はつかなかった。

論争が続けられる一方、1338年に帝国法「リケット・ユーリス」が決議され、皇帝選挙の根拠が定められた。これは皇帝の位と権力が神に由来することを示し、選挙侯による選挙によって選ばれた者がただちに国王であり、皇帝であることを定めたもので、ドイツの国王位と神聖ローマ皇帝位に対する教皇の介入を徹底的に排したものであった。ルートヴィヒ4世の死後、ルクセンブルク家のベーメン王カールがカール4世として即位すると、金印勅書を制定して国王選挙権を7人の選帝侯に限り、さらにその選帝侯の権利をそれぞれの領国に結びつけられ、長子相続によることが定められた。これによりドイツ国王は教皇の承認を経なくても皇帝権の行使をおこなうことが可能となり、皇帝位がドイツ国王位と永久的に結びつけられたが、一方で選帝侯は領国内での無制限裁判高権、至高権、関税徴収権、貨幣鋳造権などの諸特権を獲得し、国王からの自立性を強めた。

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[編集] イングランド王権との対立

イングランド王権と教権はジョン王の時代にカンタベリー大司教の選任問題をめぐって対立した。カンタベリー大司教ウォルター1205年に死ぬと、その後継を巡って王とイングランド教会は別々の人物を後任としようとし、ジョン王は教皇インノケンティウス3世に仲裁を求めた。インノケンティウス3世はこの訴えに対し、王と教会両方を批判した上でスティーブン・ラングトンを大司教にするよう命じた。ところがこの決定にジョンは不満をあらわにした。というのもたとえば前任のウォルターの例をあげれば、彼はカンタベリー大司教であるとともに政治家でもあって、先代の国王リチャード1世が十字軍遠征に参加して不在の間、国内の政治をとって安定を守った。このようにカンタベリー大司教はイングランド国内にあって単なる宗教的権威にとどまらず、国王の重要な高級官僚としての役割も担っていたのであった。当時のイングランドにはカンタベリー大司教の選任には王の同意が必要であるという慣例[46]があった上、ラングトンはパリ大学出身の高名な神学者であったが、伝統的にイングランドのプランタジネット王家とフランスのカペー王家は対立関係にあり、フランスの大学出であることもジョン王には気に入らなかった。教皇はイングランドにおける全教会の聖務停止を科し、ジョン王は報復として教会財産の没収を命じた。この争いは1214年まで続けられ、結果イングランド王権は大司教選挙施行の許可権と選挙結果への同意権を確保したものの、ラングトンを大司教とすることを受け入れ、イングランド王が教皇の封臣となることを認めさせられ、さらに多額の賠償金を払うこととなった[47]

エドワード1世ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた
エドワード1世
ウェールズを征服し、スコットランドにも遠征してブリテン島におけるイングランドの優位を確立させた。積極的な外征とその成功によって支持を集める一方、内政においても「模範議会」に代表される議会制度の整備や立法制度、司法制度などにも進歩をもたらした。しかし晩年には課税を巡って教会や諸侯と対立するなど政治的には危機的状況を迎えた

このときジョン王の王権に対するイングランド諸侯の反発は最高潮に達し、マグナカルタを起草して王に承認を求めた。後述するマグナカルタの「保証条項」が王権の制限をもたらすことを危惧した王は直ちに拒否した。1215年5月5日諸侯は臣従誓約を破棄して反乱し、ジョン王は反乱諸侯の所領の没収を命じた。しかしロンドン市民が反乱に荷担し、彼らがここを拠点をするようになると、ジョン王は妥協を余儀なくされ、6月19日にマグナカルタが承認された。ところがマグナカルタは王権にとって不利であるだけでなく、教権にとってもあまり好ましいものでないことは明らかとなった。マグナカルタは伝統的に「保証条項」と呼ばれる箇所で、25人の諸侯が王国内の平和と諸自由に対して権利を持ち、責任を担うことを規定していたからである。このことはイングランド王が教皇の封臣となっていた当時、教皇権の裁治権を狭めるものであると考えられたからである[48]。教皇はマグナカルタを批判し、これに力を得たジョン王はマグナカルタを守らなかった。反乱諸侯はフランス王権に介入を依頼し、カンタベリー大司教など幾ばくかの聖職者もこれに荷担する様子を見せたので、いよいよ混乱が避けられぬかと思われた矢先に、1216年10月18日突然にジョン王は逝去した。息ヘンリー3世の即位にあたって、マグナカルタから「保証条項」が削除され、さらにこの修正版には摂政ウィリアム・マーシャルの印章と共に、教皇特使の印章が付与された。

一方でこの時期イングランド国内では議会制度が形成された。13世紀にはすでに大会議(グレート・カウンシル、"Great council")と小会議(スモール・カウンシル、"Small council")に分けられる封建的集会が存在し、裁判所としての役割をしていたことが知られるが、ヘンリー3世がわずか9歳で即位すると、小会議の役割が増大した。ヘンリー3世は成人して親政を開始すると、小会議に行政官やプランタジネット家の故郷である南フランス系の親族を参加させ、彼らを重用した。このことは諸侯との対立を招き、課税を巡って彼らと対立したためにヘンリー3世は一時的に妥協したが、税金が徴収されると結局は約束を破った。しかしヘンリー3世は一連の諸侯との交渉において何人かの固定した成員によって形成される常設の国王評議会(キングズ・カウンシル、"King's council")を認め、のちにこれが議会(パーラメント、"parliament")と呼ばれるようになった[49]。ヘンリー3世に不満を持つ諸侯がシモン・ド・モンフォールを中心に反乱すると、モンフォールは従来の成員のほかに各州より2名の自由民と各都市から2名の代表を集めて議会を開いた。結局乱は鎮圧され、これは定例とはならなかったのであるが、エドワード1世の時代、1295年の「模範議会("Model Parliament")」からは平民の代表が呼ばれることが規則となった。エドワード1世はこの模範議会で聖職者と平民に課税同意を求めたが、聖職者は教権に訴え、教皇ボニファティウス8世は教皇勅書「俗人は聖職者に(クレリキス・ライコス、"Clericis laicos")」を発し、俗権の教会課税にはそのつど教皇の認可が必要であり、違反に対しては破門を持って応じるとしたので、エドワード1世の意図はくじかれた。

14世紀半ばのエドワード3世の時代になると、イングランド教会に対する教権の支配に対して国内の聖職者からの反発が強くなってきた。というのも前述したように、この時期教皇庁はアヴィニョンに遷移させられてイタリア半島にある教皇領は周辺勢力に浸食されて慢性的な資金難にあえいでおり、収入の一環として聖職売買をさかんにおこなっていた。とくにジョン王以来教皇の教会支配が強まったイングランドでは聖職売買によって地位を得た外人聖職者を受け入れざるをえない状況が続いていた。国王と議会は1351年に聖職者任命無効令を、1353年に上訴禁令を出してイングランド国内における教権と教会法の影響を排除しようとした。これは教権との政治上の駆け引きにおいて有効な武器として使われることもあったが、実際に行使されたことはなかった。

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[編集] 教会大分裂と公会議主義
教会大分裂青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた
教会大分裂
青がローマ教皇庁支持。赤がアヴィニョン教皇庁支持。緑のポルトガルは当初アヴィニョン支持だったが、ローマ支持に転じた

教皇グレゴリウス11世は教皇庁をローマへ戻し、アヴィニョンの時代は終わったかに見えた。グレゴリウス11世の死後、教皇選挙でウルバヌス6世が即位することとなった[50]。ウルバヌス6世は当初官僚的で温厚な人物だと考えられていたが、即位すると枢機卿に対し強圧的になった。その結果フランス人枢機卿がまずローマを去り、イタリア人の枢機卿たちも結局はこれに従った。彼らはしばらく教皇と交渉と試みたが、埒があかないことを悟ると、一転してフランス王の甥にあたるクレメンス7世を選出し、アヴィニョンに拠った。ここにローマとアヴィニョンに2人の教皇、2組の枢機卿団が並立する長い教会大分裂[51]が始まった(1378年1417年[52]

ヨーロッパの主要国は一方の教皇を支持して分裂した[53]が、このことは民族を中心にまとまり始めた各国家の利害が教会の内部の問題にも介在するようになったことを示していた。事実両教皇の死後も教権の分立状態は解消されず、主にフランス王権と神聖ローマ皇帝権の意を受けたそれぞれの教皇が並び立つこととなった。ローマではウルバヌス6世が死ぬと、ボニファティウス9世が跡を継ぎ、アヴィニョンではクレメンス7世の死後にはベネディクトゥス13世が即位した。このベネディクトゥス13世はフランス教会への支配を徹底しようとして、パリ大学を中心とするフランス人聖職者の反発を招き、フランス教会のガリカニスムの傾向をますます強めることとなった。

このような混乱のなか、譲歩しようとしない両教皇の態度に業を煮やした両教皇庁の枢機卿団は、公会議を開いて新しい教皇を選任し、この分裂を解消しようという動きを取り始め、公会議派が形成された。公会議派は1409年ピサ公会議を開き、両教皇の参加を求めたが受け入れられなかった。この公会議で公会議派は両教皇の廃位を宣言し、新たにアレクサンデル5世を選出した。これに対し、ベネディクトゥス13世はペルピニャンで、グレゴリウス12世はチヴィタレでそれぞれ自派の公会議を開き、ピサ公会議の決定を受け入れなかったので、ここに3人の教皇が鼎立することとなった。アレクサンデル5世は1年後に亡くなり、そのあとはヨハネス23世が継いだが、この教皇の評判は芳しくなかった。

皇帝ジギスムント教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた
皇帝ジギスムント
教会大分裂の解消に熱心であった。図中右の鷲の紋章はドイツ王権を、左の双頭の鷲の紋章は皇帝権を象徴する。彼はローマ王として単頭の鷲を、皇帝として双頭の鷲を印璽で用いた最初の君主であり、以後慣習として定着した。また図中の双頭の鷲の頭には光輪が見えるが、これもジギスムントによって帝国の神聖さの象徴として書き加えられることが定められた

このときにあたって、ルクセンブルク家の皇帝ジギスムントは、教会の再統一に積極的な姿勢を見せ、ヨハネス23世を説得し、グレゴリウス12世の同意もとりつけて1415年コンスタンツ公会議を開いた。このコンスタンツ公会議ではイングランドとフランスが百年戦争中で長い対立の中にあったこともあって、国民的な単位に基づく異例の投票形式が採用された。すなわち公会議での決定は個人単位ではなく、イングランド・フランス・ドイツ・イタリアの4つの出身団(ナツィオ、"natio")によりおこなわれ、1417年からはスペインの出身団と枢機卿団[54]が加えられて投票権を持つ集団は6つとなった。公会議の途中で教皇ヨハネス23世は出奔し、公会議は召集権を持つ教皇を失って一時危機を迎えたが、公会議派が中心となって公会議の決定が教権に優越することが主張され、公会議は教令「サクロサンクタ("Sacrosancta")」を発してその正当性を保持することに成功した[55]

しかし会議は難航した。フスなどの異端運動に対する問題や、教会改革を声高に主張する急進者と反発する保守派、そして国民間の対立や神学者同士の理論上の対立[56]が持ち込まれることもしばしばであった。さらに公会議に教皇の選任権があるのかという問題も紛糾した。とにかくこの公会議はさまざまな論争と政治的駆け引きに翻弄され、長引いたものの、鼎立した3人の教皇を廃位し、あらたにマルティヌス5世が選任されることで一致した。こうして教会大分裂は終わったが、一連の過程のなかでもはや普遍的であると信じられていた教会のなかでさえ、国民性が影響力を増していることが明らかとなった。教会大分裂の時代にもカトリック教会の統一が維持されたことは、普遍的な教会が未だ求心力を失っていなかったことを示しているが、国民的な単位を通して世俗の権力が教会に対する支配を強めたことは確かであった[57]

教会大分裂
主な教会会議 ローマ教皇庁 アヴィニョン教皇庁 公会議派
ウルバヌス6世(1378-1389) クレメンス7世(1378-1394)
ボニファティウス9世(1389-1404)
ベネディクトゥス13世(1394-1417)
インノケンティウス7世(1404-1406)
ピサ教会会議(1409年) グレゴリウス12世(1406-1415) アレクサンデル5世(1409-1410)
コンスタンツ公会議(1414-1418) ヨハネス23世(1410-1415)
マルティヌス5世(1417-1431)
現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇(図の黄色)を正統として数え、それ以外の教皇は対立教皇としている。(M・D・ノウルズほか著、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』講談社、1991年などを参考に作成)

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[編集] 王権の超自然的権威の獲得過程

エドワード懺悔王イングランドではエドワード懺悔王を徳の高い王者として聖人視し、王朝の守護者として尊崇された
エドワード懺悔王
イングランドではエドワード懺悔王を徳の高い王者として聖人視し、王朝の守護者として尊崇された

中世を通じて王権キリスト教的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性、霊性を民衆の心性のうちに獲得しようとし、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威を位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に世襲されるようになり、儀礼も備えて王権とそれを世襲する王家に一種のカリスマを付与することになった[58]。このような霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった[59]

[編集] イングランド、エドワード懺悔王の霊威

イングランドにおける国王の霊威をあらわす初期の例は、ノルマン朝ヘンリー1世によるもので、王はおそらく瘰癧患者にその手で触れることにより治療をおこなっている。この王権による瘰癧治癒能力は、おそらく後述するカペー朝がすでにおこなっていた瘰癧治療に対抗するためにエドワード懺悔王の説話を用いて設定されたもので、カペー朝の王権に対抗するためのものであったと考えられている。つづくプランタジネット朝の時代にはヘンリー2世がすでに瘰癧治療を「御手によって」おこなっているのはほぼ確かで、エドワード1世時代には治療を受けた者に王が施しをするのが明らかになっているので、会計記録からその集計を知ることができる。この瘰癧治癒の霊威の根源は国王が塗油され聖別されたことに由来するとされた。

エドワード2世のころから別種の奇跡、指輪の奇跡がイングランド王権の儀式にあらわれる。これは毎年復活祭直前の金曜日に、王がまず一定の金銀を寄進した上で、それを買い戻し、買い戻した元の寄進の金銀で指輪を作るという儀式で、こうして作られた指輪は痙攣や癲癇の病人の指にはめられると、病をいやすと考えられていた。この儀式では当初、寄進された金銀が聖性を帯びると考えられ、王権は直接に霊威の由来とはされなかったのであるが、テューダー朝ヘンリー8世のころには塗油された王権に由来するものと考えられるようになり、この時期にはすでに儀式において「買い戻し」の行為が省かれていた。指輪の奇跡は宗教改革の時代に批判に晒されるようになり、エリザベス1世によって廃止された。

一方で瘰癧さわりのほうはしばらく存続した。ステュアート朝初期には熱心に瘰癧さわりがおこなわれたが、オランダ人であったウィリアム3世はこの儀式に否定的で患者に触ろうとはしなかった。つづくアン女王は瘰癧さわりをおこなったが、ハノーヴァー朝以降全くおこなわれなくなった。

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[編集] フランス、聖マルクールの霊威
百合紋フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった"
百合紋
フランス王家の紋章。14世紀半ば頃に百合紋を巡って一つの説話が作られた。"ある日、クローヴィスがコンフラとの決闘の準備をしている時に従者に甲冑を取りに行かせると、甲冑に普段の三日月紋にかわって、青地に百合が3輪描かれている。4度別の甲冑に取り替えさせるが、いずれも同様の百合紋がついている。そこでしかたなくこれを着て決闘するとクローヴィスは勝利を収めることができた。じつはこれはキリスト教徒であった妃クロティルドの計らいで、妃は百合紋を用いて決闘に向かえば勝利するであろうとの啓示を受けていたのだった"

フランスではカペー朝の初期、フィリップ1世がおそらく瘰癧さわりをおこなったと考えられている。フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか、全西ヨーロッパ規模でこの「瘰癧さわり」は評判となっており、教皇領であるウルビーノペルージャからも治癒を求める民衆がやって来ていることが確認されている。また中世を通じて医学書に瘰癧の治療法としてこの「瘰癧さわり」が記述されていた[60]。一方でルイ6世の時代には王旗や王冠がカール大帝の伝承にむすびつけられ、カロリング朝とフランス王権の間に観念的な連続性を生じさせた。

フィリップ4世のころには、この瘰癧さわりがクローヴィスの洗礼に由来する[61]塗油された王の霊威によるものという観念があらわれている。そしてこの伝説はランス大聖堂にクローヴィス以来の聖香油が聖瓶(サント・アンブール)に保管されており、王の即位式で王は聖香油を塗油され聖別されるという観念につながった。

中世末期になると、この瘰癧さわりに別個の聖マルクールの瘰癧治療信仰が混入し、区別がつかなくなった[62]ヴァロワ朝フランソワ1世の時代には、王の瘰癧治癒能力がこの聖者に由来するという観念が一般化していた。フランス王はコルブニーにある聖マルクールの遺骨の前でミサをおこなう際に瘰癧さわりも施すようになり、それを目的として参集する病人が年々増大した。

フランスの「瘰癧さわり」はブルボン朝ルイ16世の時代まで熱心に続けられていたが、フランス革命が起こると王は神授権説とともにこの慣習も捨てることとなった。これ以降はシャルル10世の時代に「瘰癧さわり」の復活が試みられているが、王自身も否定的であったので1825年に一回おこなわれたのみでこれが最後の事例となった。

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[編集] 教権の宗教的権威への挑戦

このような王権の超自然的権威はローマ教皇の宗教的権威、具体的には教皇勅書「唯一の、聖なる(ウナム・サンクタム、"Unam sanctam")」への挑戦であった。この教皇勅書はボニファティウス8世により出されたもので、教皇は世俗的領域と宗教的領域の両方で、至上権を有していることを述べていた。以後歴代教皇はこの勅書を基本的に踏襲し、教皇首位権を擁護する聖職者・神学者たちはこれをしばしば引用したばかりか、ややもすれば拡大解釈して教皇の特権を強調した。

王権の「瘰癧さわり」に関してはしばしば異端の疑いを受け、また宗教的権威において、教権に対しての王権の優位性を根拠づけることに成功したとは言い難いものの、中世の後期には民衆の間でこの慣習が広く受け入れられていたことは事実である。またこのような王権の超自然的権威が、一方で近代的な意味での国民的な感情に結びついていたことを見逃してはならない。

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[編集] カトリック大国、スペイン

16世紀に新しい大国が西ヨーロッパの政治舞台に登場した。イベリア半島スペインポルトガルである。両国とも盛んに海洋進出をはかり、新大陸・アジアなどへの航路を確保しながら広大な植民地を獲得していった。またこれらの地域への布教活動においても重要な役割を担った。ヨーロッパにおける教権との関係でいえば、スペインはとくに重要な個性としてヨーロッパ政治史に固有の位置を占めることになる。

[編集] 王権によるスペイン教会の掌握
異端審問ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた
異端審問
ゴヤによる1815年ごろの作。異端を疑われた者は図のような高い帽子を被らされた

カスティリャ王国アラゴン王国の合同によって成立したスペインは、レコンキスタを完成してイベリア半島からイスラームの勢力を駆逐すると、国内の宗教的統一をはかるようになった。当初は征服地のイスラム教徒であるムーア人に信仰の自由を許していたが、彼らが反乱したのを理由に1501年、ムーア人に信仰を守って移住するか信仰を捨てて洗礼を受けるかの二者択一を迫った。またユダヤ教徒を国内から追放し、キリスト教に改宗したユダヤ人(コンベルソ)についても密かにユダヤ信仰を守っているのではないかという疑いをかけていた。

イサベル1世フェルディナンドは、王国の安定のためには国内の宗教的統一が不可欠であると考え、教皇に要請してスペイン異端審問所を設けた。この異端審問所では当初から国王が全権を握り、スペイン教会における王権の影響力を高めて事実上教権からの自立を勝ち取ったばかりか、王権による国家政策の一環として政治目的にも利用されるようになった。さらに支配下のナポリ王国に教皇が領主権を主張すると、これに激しく反発して一時は教皇と断交寸前にいたった。つづくカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の時代にはサンティアゴ騎士団長の位が王家によって世襲されることを定め、国王は国内の宗教的権威と権限を掌握した。

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[編集] スペインにおけるキリスト教文化の興隆

この時代スペインではキリスト教文化においても大きな前進が見られた。具体的にはルネサンスの人文主義の成果が取り入れられ、先進的な神学校や大学などの教育機関がスペイン各地に設けられた。この時代のスペインのキリスト教アカデミズムを代表するのがメンドサヒメネスである。

メンドサは1492年グラナダ攻略の際にスペインの首座大司教であり枢機卿であった人物で、宗教教育推進のためにキリスト教教育書を書いた。ヒメネスはアルカラ・デ・エナレス大学を創設し、ここには当時の主要な神学、トマス派、スコトゥス派、唯名論などの講座が設けられ、ギリシア語ヘブライ語も学ぶことができた。さらにここでは聖書原典の編纂事業が行われ、『コンプルトゥム多国語対訳聖書』が著された。これらスペインでのキリスト教文化の発展は、人文主義に対する一定の寛容をもたらし、とくにエラスムスの著作はこの地域で大変な人気を博し、よく読まれた。このことはのちの宗教改革において、この地域での宗教改革派の影響が軽微に止まる原因の一つともなった。

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[編集] 中世の民衆信仰

中世を通じて、支配者や聖職者の知的な宗教世界とは別の次元で、民衆の間にも独自の信仰が展開されていた。このような民間信仰は民衆の日常生活や伝統的な世界観と結びつき、ときには集団的な様相を取って大きな宗教的運動に結びついた。ここではキリスト教がいかに中世のヨーロッパの一般民衆の生活に根付いていったかを概観する。

[編集] 魔術的な神から摂理的な神へ
王としての「キリスト」フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる
王としての「キリスト」
フェルナンド・ガレゴによる15世紀の作品。紀元1000年ごろから、威厳を持った王の姿で表されるキリスト像が現れる

ゲルマン人の間にキリスト教が受容された当初、「神の全能」は多分に魔術的に解釈されていた。たとえばクローヴィスは妻クロティルドにキリスト教への改宗を薦められると、キリスト教の神が彼の戦勝に貢献するなら、信仰を受け入れようと約し、勝利を得た後に改宗した。これはゲルマン神話の戦争の神オーディンルーンを習得して魔法を使う魔術の神であったことを考えれば、魔術的な神への信仰としてキリスト教を見ていたことになる。中世初期には、聖職者はしばしば魔術的な力を持つと信じられた。聖職者は民衆から尊敬の眼差しで見られる一方、魔術師として恐れられ嫌われた。11世紀のデンマークでは、聖職者は天候に対して魔術的な力を持つと信じられ、天候不順であった際には迫害を受けた。13世紀フランスでは、ある村で疫病がはやった際に、司祭を犠牲にすることで村を救おうとした事例がある。11世紀のグレゴリウス改革において教会が排除しようとしたのは、王権の奇跡能力と、聖職者に対するこのような魔術的迷信であった。グレゴリウス7世は王や聖人の奇跡を否定する一方、デンマークで天候不順の際におこなわれた聖職者への迫害を非難している。

しかしながら中世を通じて、神の起こす奇跡は自然法則を超えることができると信じた民衆の心性は、ほとんど変わることがなかった。例えば王権の超自然的な奇跡能力への信仰は、中世後期にむしろ強められさえし、聖人への信仰は特定の奇跡と聖人を結びつけ特殊化する方向に進んだ[63]。一方で民間信仰とは別個の次元で、教会は奇跡を神学的に論じ、神の摂理の合理的な体系の中に位置づけた。すなわち教会はある人物を列聖する際には、その人の起こした奇跡をその生涯と奇跡のあらわれ方から吟味して、聖人とするかどうかを決定するようになった。

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[編集] 新しい信仰形式、清貧、巡礼、神の平和

10世紀末ごろから、従来の信仰形式とは異なった、いくつかの大衆的な宗教運動が現れた。

このころ従来の修道院とは異なった形で、よりイエスのあり方に近い修道生活を目指す運動がおこった。この運動の淵源は東ローマ帝国に近い、南イタリアのカラブリア地方のギリシア系修道士たちの生活に端を発し、南イタリアにイスラム教徒が攻撃を加えるようになると、彼らは難を避けて北上した。11世紀になると全ヨーロッパ規模で、この新しい運動に基づいた修道院設立が活発化した。とくに影響が大きかったのは13世紀に現れたアッシジのフランチェスコで、彼の清貧運動には在俗の多くの信者が共感し、ともに貧しい生活を営んだ。同時期に同様に清貧を唱えた異端のワルドー派も多くの在俗信者を獲得した。このように聖職者の貴族的な共同生活であった修道生活が、イエスの清貧という理想を通じて、民衆の間に広く受け入れられた。

信徒たちの母として描かれた聖母マリア(1445年ごろ)12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった
信徒たちの母として描かれた聖母マリア1445年ごろ)
12世紀西欧では、聖母信仰が流行した。聖母マリアのイエスを失うという悲劇的な体験が、イエスと贖いの苦しみを共有するものと観念されたからである。聖母マリアは普遍化され、「神の母」としてキリスト教社会のすべての信徒を包み込む存在とされ、厚く尊崇されるようになった

またこのころ、聖遺物や聖人に対する信仰が高まり、各地に収められた聖遺物や聖人の故地への巡礼がさかんとなった。サンチャゴ・デ・コンポステラや聖地エルサレムへの巡礼は大衆運動となった。のちには十字軍運動と結びついて、多数の信者が十字軍に参加したり、特に少年十字軍に代表されるように、自発的に大衆の十字軍が組織されたりもした。西ヨーロッパの交通網は11世紀までにまず聖地のネットワークとして形成され、徐々に定期市や港湾にネットワークを広げ、その拠点には金融市場が形成されるようになった。こうして成立した中世の交通網は古代のローマ帝国の街道網とはかなり異なったものであった[64]

10世紀末の南フランスでは、フェーデに代表される封建的な私闘を、破門を威嚇に用いることで抑制しようという「神の平和」運動が起こった。これは封建的私闘の悪弊から、農民の財産や労働、商人の活動を保護しようという意図をもち、平和攪乱者に対して破門を下すとともに、農民が武器を持って戦うことも正当化するものであった。この「神の平和」運動は11世紀前半には全フランスに広がり、やがてドイツにも伝播した。ドイツではこの平和運動に王権が積極的な役割を演じ、時期を限ってフェーデを禁ずるラント平和令を出した。このラント平和令はのちには永久化されて、中世的な自力救済的な私刑主義を非合法化し、公権力を創出するものとなった。

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[編集] キリスト像の変容と聖母信仰

キリスト教が西ヨーロッパ社会で広がっていく過程において、イエス・キリストとその母マリアのイメージも大きく変容した。

まず紀元1000年ごろから「子なる神」イエスに対する関心が非常に高まり、とくに厳しい審判者として、あるいは威厳ある王としてのキリスト像が頻繁につくられるようになった。ところが12世紀ころから、今一度キリスト像に大きな変化が見られ、貧しく苦しみに満ち、貧者の味方である人間性豊かなイエスの像も数多く見られるようになった。このキリスト像を、その清貧の姿勢と聖痕の奇跡によって体現したのが、アッシジのフランチェスコであったといえる[65]

最近のカトリック教会による教義の明確化[66]にいたるまで、教義上は確固とした位置を占めなかった聖母についての数々の信仰もこの時代に成立した。まず12世紀ごろに聖母マリアも死後昇天したという「聖母の被昇天」信仰があらわれ、14世紀にはキリストを宿したマリアが原罪を背負っているはずはないとする「無原罪の御宿り」信仰があらわれ、激しい論争の種となった。聖母は「子なる神」イエス・キリストの母として、信者とイエス・キリストの間をとりなす特別の存在として尊崇を集めた。12世紀には祈祷文「アヴェ・マリア」が成立している。このような聖母マリアへの特別の尊崇は、ときに彼女をキリストの贖罪になくてはならず、贖いの補足者と見なす見解にもつながったが、教会は一貫してこの見解を斥けている[67]。この聖母信仰は、のちに宗教改革派によって攻撃の的とされた。

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[編集] 宗教改革前思想史

コンスタンツ公会議でのフス図の右側で悠然と構えているのがフス。フスはこの公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。しかしボヘミアの諸侯、知識人、民衆はその死後もフスを支持し、チェック人の民族的な英雄となった
コンスタンツ公会議でのフス
図の右側で悠然と構えているのがフス。フスはこの公会議でウィクリフとともに異端とされ、火刑に処せられた。しかしボヘミアの諸侯、知識人、民衆はその死後もフスを支持し、チェック人の民族的な英雄となった

宗教改革思想史的に言えば、突然に起こったものではなく、宗教改革諸派の思想は基本的に前代のさまざまな異端思想や人文主義思想と共通する点が多い。したがって宗教改革は思想面での革新性を示したというよりは、むしろ中世を通して堆積してきた政治状況に注意すべき点があるといえる。国家宗教の関係についていえば、これらの思想はこの問題を直接的に扱い、論じているものが多い。宗教改革を巡る政治状況については後述するが、ここでは思想史的背景から宗教改革の前思想ともいうべき様々な思想傾向を概観する。

[編集] 改革運動の先駆(1):ウィクリフ

しばしば宗教改革の先駆として引用されるウィクリフは、オックスフォード大学に学んだイングランド神学者で、1374年ころからイングランド王権と教皇庁の課税権を巡る論争に現れ、イングランド王権を擁護する主張を繰り返すようになった。ウィクリフの主張は課税権にとどまらず、やがて教皇の聖職叙任権にも向けられ、さらには教会は布教に必要最低限の財産しかいらないと述べて、教会財産の没収にまで言及するようになった。教会はウィクリフを異端審問にかけたが、王権や民衆の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。

こののちウィクリフは教義の批判に進み、アウグスティヌスに基づいて予定説を唱えた。彼は真の教会が目に見えないもので、あらかじめ救済が予定されている者によって構成されているのに対し、可視的な教会はすでに堕落しており、聖書のみに基づいたキリスト教の原始的な信仰に戻るべきだと説いた。

1384年にウィクリフは死ぬが、そののちコンスタンツ公会議1415年異端とされ、死体が掘り起こされて焼かれた。ウィクリフの教えに従って聖書を尊重するロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")という一派を生み、一時はオックスフォード大学などを中心に広まったが、のちに徹底的に弾圧された[68]。彼の思想は直接的には次のフスにつながり、宗教改革やイングランドのキリスト教解釈にも影響を及ぼした。

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[編集] 改革運動の先駆(2):フス
エラスムス16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった
エラスムス
16世紀前半にヨーロッパで広汎な影響力を持った人文主義者。中世を通じて教会が聖書解釈を独占していたが、エラスムスは独自のギリシャ語新約聖書を出版し、大変な人気を博した。ルターによって宗教改革が始まると、予定説と領邦教会制を批判し、人間の自由意志と全ヨーロッパ的なキリスト教共同体を擁護した。彼は領邦教会制がキリスト教の世俗権力への従属に他ならないことを批判し、ヨーロッパに平和がもたらされるためには全ヨーロッパ的なキリスト教共同体が不可欠なことを主張した。彼は信仰の自由、聖書解釈の自由、キリスト教徒の平和共存を説いたが、宗教改革が激化するとプロテスタント・カトリック双方から槍玉に挙げられるようになった

フスは貧しい農民の出身で、オックスフォード大学で勉強し、のちにプラハ大学の教授となった。フスはウィクリフの思想に影響されて個人の信仰を重視して教会を否定的に考えるようになった。

神聖ローマ皇帝カール4世の時代にボヘミアは文化的な隆盛を迎えた。この統治者のもとでプラハは独立の大司教区となり、プラハ大学を創設した。このころのボヘミアでは少数でありながら影響力の大きいドイツ人移民と土着のチェック人の間で対立がおきており、その構造はプラハ大学でも同様で、ドイツ人の同郷団[69]は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。これがしばしばプラハ大学でも大きな分裂を引き起こしたが、1409年に皇帝ヴェンツェルはドイツ人の同郷団が皇帝の意向に背いたために、勅令を出してチェック人の同郷団を優遇すること[70]とし、これを不満に思ったドイツ人学生はライプツィヒに移住し、ライプツィヒ大学が分離した。そしてライプツィヒのドイツ人はフスを異端だとして突き上げた。

フスは破門を宣告されるが、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とした。またウィクリフに従って予定説を論じたが、ウィクリフとは異なって聖職位階制に対しては否定しなかった。ヴェンツェルの弟で、皇帝であったジギスムントはこの宗教問題を平和的に解決しようとコンスタンツ公会議に出席するようフスを説得し、教皇も破門を一時的に留保したのでフスは公会議に参加した。しかしこの公会議でフスは異端と宣告され、火刑に処された。フスが死んだとはいえ、ボヘミアではフスの人気は根強く、貴族たちの間では反カトリックの同盟が結成された。

ヴェンツェル死後にジギスムントがボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なタボル派を中心としてジギスムントの十字軍を何度も撃退し、一時は一方的に国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させるなど大いに盛んとなったが、やがてフス派の穏健派が中心となって皇帝と和解し、皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でカトリック教会に復帰した。しかしボヘミアは以後もカトリック教会においてほとんど独立した状態を維持していた。

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[編集] 人文主義の宗教観:エラスムス

エラスムス15世紀末から16世紀前半にかけて、ヨーロッパに最も影響を及ぼした人文主義者の一人であった。エラスムスはパウロの「ローマの信徒への手紙」に影響を受け、聖書を自ら再検討しようと考え、ギリシア語を学んで『校訂ギリシア語新約聖書』を著した[71]。これは印刷術の進歩による後押しもあって当時広汎な地域に流通し読まれた[72]

エラスムスは教会の腐敗と信仰における聖書の重視を訴え、教会が聖書解釈を独占しようとして一般信徒に聖書を調べることをしばしば禁じていることを批判し、一般信徒が理解しやすい自国語で聖書に書かれた福音を聞くことがキリストの御心に沿うものであることを主張した。この面でエラスムスはのちの宗教改革者と同じ平面に立っていたが、彼は教皇首位権の普遍性を疑っておらず、また宗教改革派が世俗権力と結びつく傾向を見て、これを公然と批判するようになった。またエラスムスとルターの教義解釈において、決定的な相違点としては自由意志の問題がある。ルターは「ローマ信徒への手紙」とアウグスティヌスに影響されて予定説に基づいた信仰義認説にいたったが、そこではただ「信仰のみ」が救いに至る道であるとされたのに対し、エラスムスは大部分の人文主義者と同じように信仰における自由意志を信じていた。ともかく両者はこのように、教会の腐敗への批判と聖書の重視という点では一致していたが、その教義上の立場も政治上の立場も全く異なるものであった。

エラスムス自身は教会の普遍性を信じ、カトリックプロテスタントの統一に尽力したが、エラスムスの死後に宗教改革がますます激しさを増すと、当初は広汎に聖職者の支持を集めていたかに思えた[73]彼の著作が宗教改革派との共通点を指摘されて、1546年トリエント公会議で禁書処分にされた。

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[編集] 近代社会とキリスト教(1500年~1800年)

ルター「95ヶ条の論題」を発表して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった
ルター
「95ヶ条の論題」を発表[74]して贖有がもたらす宗教的危機を指摘した。これは当初の予想をこえて教義論争に発展し、1520年にルターは三大文書、『教会のバビロン捕囚』『キリスト者の自由』『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』によって改革の理論と実践を固めた。とくに『ドイツ国民のキリスト教貴族に与える書』で諸侯に、その職務に基づいて改革運動に加わるよう呼びかけたことは、ドイツ国内の政治問題への宗教改革の関与を規定することになった

宗教改革は純粋に宗教内での問題から出発したにも関わらず、すぐに世俗的問題と結びついて近代国家の成立を基礎づけたばかりか、近代思想にも影響を及ぼした。宗教改革が主権国家を単位として宗教生活を規定する方向に進んだことは、普遍的なキリスト教世界に立脚していた一つの教会という理念を破壊し、教権の基盤を脅かした。近代にはいると、すでに教権は各主権国家に対して優位性を主張することができなくなり、今日まで続く国民を単位とした政治社会が形成される。一方、思想面においては内面の自由、良心の自由が確立され、近代政治思想における基本概念の一つとなっていった。

[編集] 宗教改革(プロテスタント側から)

1517年アウグスティノ修道会士であったルターによって「95ヶ条の論題」が発表され、宗教改革が開始された。発表当初は贖有状を巡る僧職どうしの内輪もめと世間に受け取られていたが、やがて教皇首位権が主要な争点になると、人文主義者も続々この論争に関与するようになった。

神聖ローマ皇帝カール5世エラスムス派の人文主義者、穏健的なカトリック聖職者の姿勢はこの論争に際して宗教の統一を重視し、プロテスタントカトリックの歩み寄りを期待した。実際両陣営において当初から妥協と和解が不可能ではないことが認識されており、教義においてはルターの思想がカトリック的であることは当時も後にも様々な局面で指摘された[75]。一方教皇クレメンス7世とその後継者パウルス3世はプロテスタント側への歩み寄りが教皇首位権の破壊につながることを警戒して和解を拒否し、カール5世を警戒してドイツの分断を狙うフランス王、バイエルン公もこれに同調した。ルター派の側もザクセン選帝侯などが政治的理由から硬化した態度を取り、ルター派の基盤が形成されると当初は寛容的な態度も持っていたルター自身も非妥協的になった。かくして宗教改革は教義の問題をこえて政治問題と化した。

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[編集] ドイツの領邦教会制度

当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる[76]

[編集] シュマルカルデン戦争

1530年カール5世はアウグスブルクに帝国議会を招集した。この議会では両派の歩み寄りの努力がされたが、結局決裂した。さらに同議会ではルター派から「アウグスブルク信仰告白」が提出されたが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。

アウグスブルク帝国議会(1530年)この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった
アウグスブルク帝国議会(1530年
この議会ではプロテスタントとカトリックの歩み寄りが期待されていたが、結局はカトリック側の主張がほぼ一方的に認められた形となった

これに対してプロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウグスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。

カール5世は対外的な事情から情勢を黙認していたが、フランスとの講和がなると一転ドイツ国内の問題に専心するようになった。1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウグスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフトが宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。

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[編集] アウグスブルクの平和令
アウグスブルク宗教平和令1555年にマインツで印刷された版本の表紙
アウグスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

このような情勢の中、ザクセン公は再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウグスブルク帝国議会で、アウグスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[77]

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[編集] 宗教改革派の諸思想

ここでは、宗教改革における改革派の思想を概説する。前述したように改革派の間には当初から宗派対立が存在したが、これは改革派どうしの間でも教義および政治的立場において異なる傾向があったことに起因する。ここでは宗教改革諸派の代表的思想家を概観することで、それぞれの宗派の教義および政治的立場における特徴の背景を概説する。

[編集] ルター

ルターの思想はアウグスティヌスに決定的な影響を受けている。その要点を示すと、信仰における個人主義と内面の尊重、自由意志の否定、「二世界論」である。

ルターはアウグスティヌスに従って人間の原罪を重視し、人間は本質的に罪人である上に神の絶対的支配の下にあるのだから、神の意志を超えた人間の意志による善行があるとすれば、それによって救われるのではないとして自由意志を否定し、ただ神の恩寵によってのみ救われることが可能であるとした。この神の恩寵に預かるためにはひたすら神を信頼し、信仰を寄せることによって救いに至ることができる。この神と個人との間には基本的に介在するものはないという。ここから万人司祭主義、神の前での信仰における人間の平等、聖職者の特権の否定が説かれる。従来教義などの信仰の根拠が教会に求められていたのに対し、ルターはそれを聖書にあるとする。たとえ教会の教えであっても聖書に記載のないものは神の言葉ではないという。教会が独占していた聖書の解釈も万人が自由におこなってよいと述べた。以上のように、ルターは聖書解釈や信仰における教権の優位性を否定した。

政治社会との関係でいえば、重要なのは「二世界論」である。ルターは神がこの世界に二種の支配を作り出したといい、一つは霊的な教会で、目に見えないものでありかつキリスト教徒のみに許されているという。もう一つは世俗的な剣の支配で、これはキリスト教徒に限られず、世界のあらゆる民族を包含している。ルターはキリスト教に反しない限り世俗支配は積極的に受け入れるべきであると説くが、教皇もしくは皇帝が違反した場合にはこれに抵抗することができるという。しかしながら、ルターはあらゆるキリスト教徒が抵抗の主体となることを認めているわけではない。抵抗の主体となりえるのは自らの領民をキリスト教のもとに保護する責務がある諸侯のみである。しかも世俗法においては皇帝と諸侯は契約によって関係を結んでいるのだから、同等であるという。農民のような民衆は皇帝と対等ではないので、抵抗すれば反乱である。これは信仰における諸侯の絶対的権限、領邦教会制度を理論的に認めるものであった。

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[編集] フランスのコンフェッショナリズムと主権理論

コンフェッショナリズムとは、政治闘争が信仰の対立と密接に結びついた、宗教改革の時期特有の政治状況である。このような形での宗教対立が最も典型におこなわれたのが16,17世紀のフランスであった。フランスの宗教改革派はカルヴァン派が主流で、ユグノーと呼ばれる[78]。このユグノーと王権やカトリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。

[編集] フランスの改革派、ユグノー
カトリーヌ・ド・メディシスアンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った
カトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世の妃で、メディチ家出身。夫の死後は相次いで息子を即位させ、実権を握った

フランスにおいても宗教改革と通じる福音主義的思想が現れた。その最初期のものは、ルフェーブル・デタープルによるパウロの書簡の注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。だが改革派は急速に影響力を増大させ[79]、1550年代にはカルヴァンの指導の元で組織化が図られるようになった。

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。これに対し改革派は1559年に第1回全国改革派教会会議を開催し、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で息子たちの後見として実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だつようになった。

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[編集] ユグノー戦争

前述の状況の中、1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった(第一次宗教戦争)。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスをオランダ独立戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。これに対し改革派は1574年に第1回改革派政治会議を開き、改革派の優勢な地域での徴税とそれを財源とした常備軍設立を決定し、オランダの改革派と結びついて、ほとんど独立した状態となった。また1581年にブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルを「保護者("Protecteur")」として推戴した。アンリは改革派の軍事指揮権と改革派支配地での司法官や財務官の任命権を得たが、一方でユグノーの顧問会議によってその権力は制限されていた。これは後述するユグノーの共和政的政治思想の影響も無視できない[80]

サン・バルテルミの虐殺ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ
サン・バルテルミの虐殺
ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。この事件の影響はたちまち全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ

カトリック貴族もギーズ公アンリを中心に「カトリック同盟(ラ・リーグ、"la Ligue")」を結成し、独自の軍事組織を持った。こうして王権・改革派・カトリック派の政治闘争はいよいよ本格的な武力闘争に発展した。ユグノーの背後にはオランダとイングランドが、カトリック同盟の背後にはスペインと教皇庁が存在し、内乱は国際的な宗派対立と密接に連動していた。一方でこの時期フランス王権は対ハプスブルグ外交としてオスマン帝国に接近した。

この内乱に教皇は積極的にカトリック支援を意図して介入し、とくにグレゴリウス13世はサン・バルテルミの虐殺においてカトリック同盟を支持した。またグレゴリウス14世は同盟支援のために軍隊を派遣した。ハプスブルグ家のフェリペ2世1580年ころからカトリック同盟を露骨に援助するようになると、国王アンリ3世はユグノーに接近し、国王は刺客を放って1588年ギーズ公アンリを暗殺した。しかし翌年には国王も同盟側によって暗殺され、ナヴァル王アンリが王位継承者(アンリ4世)となるが、カトリック勢力は根強く反抗した。1593年にナヴァル王アンリはカトリックに改宗して翌年パリに入城することができた。アンリ4世の改宗に改革派は危機を覚え、改革派政治会議を全国組織にし、会議は1595年から97年の間王権と並ぶ統治機関として機能した。この会議はオランダの改革派との合同も模索したが、これに対しアンリ4世は改革派に宗教上の保証を与えるナントの勅令を1598年に発布した。改革派はこれに満足し、王権への忠誠を誓った。

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[編集] ナントの勅令廃止まで

ナントの勅令の実施状況の監督に当たっては、各州改革派とカトリックから選ばれた国王親任官が各教区を巡回した。しかしパリ高等法院やカトリックの聖職者たちはともすればこの勅令を非寛容な方向に厳密に解釈して適用しようとし、種々の訴訟を起こして改革派を陰に陽に弾圧しようとした。改革派にとって最大の後ろ盾であったアンリ4世の暗殺後には、改革派内部に明確な亀裂が生じ、北部のパリノルマンディの改革派は王権への服従とカトリックとの妥協を目指す「穏健派」を形成し、南部のギュイエンヌやラングドックの改革派は「強硬派」を形成した。「穏健派」は徐々に王権神授説に傾いた。

アンリ4世の死後摂政となった妃のマリー・ド・メディシスは改革派に配慮を示していたが、成人したルイ13世は改革派に威圧的な態度を取った。1620年ルイ13世が、改革派が多数を占めるベアルヌ地方でカトリックを支持する裁定を下すと、改革派は反発し、その年の12月に開かれた全国会議で「強硬派」が優勢となって武装蜂起を決定した。ユグノー側の軍事的指導者となったのはロアン公アンリである。1621年から1622年にわたっておこなわれた戦いは、ほぼ王側の優勢のうちに決着したが、和平においてはルイ13世が譲歩する形でナントの勅令が再確認された(モンプリエ条約)。

ユグノーの多く居住する地域(17世紀)
ユグノーの多く居住する地域(17世紀

しかしルイ13世はモンプリエ条約の遵守に熱心でなく、改革派は不満を隠しきれなかった。1625年に再び戦闘が開始されると、宰相リシュリューは改革派の拠点ラ・ロシェルを包囲し、ロアン公アンリ率いる改革派をうち破ったが、このときリシュリューは外交方針を変更して三十年戦争でプロテスタント側を援助することも考慮していたため、1626年には講和してモンペリエ条約を再確認した(パリ条約)。だが平和は短かった。1627年にリシュリューは再びラ・ロシェルを包囲し、改革派はイングランドの援助を受けたが、イングランド艦隊は有効な支援ができず、1628年10月ラ・ロシェルは陥落した。1629年には王軍がラングドックにも侵攻して決定的な勝利を得、またロアン公アンリを国外へ追放した。6月和平がなりアラスの勅令が出され、ここでナントの勅令が再び確認されたものの、改革派は武装解除され、これは「恩恵の勅令」と言われるように、王権が改革派を決定的に従属させるものであった。

1630年から1660年にかけての30年間は、王権への臣従姿勢によって改革派が比較的安定した時期を迎えていた。例えばリシュリューの庇護のもとアカデミー・フランセーズを設立したヴァランタン・コンラールも改革派の文筆家であった。とはいえ、この時期改革派に圧迫が加えられてもいる。リシュリュー死後、実権を握ったマザランは改革派全国教会会議の開催を禁止した。

ルイ14世が親政を開始すると、改革派の権利が徐々に剥奪されていった。まず1661年にフランス全土に官吏が派遣され、改革派の礼拝について調査が行われた。そしてさまざまな条例を発布して公職から徐々に改革派を閉め出した。1679年ドラゴナードという制度が定められ、これは竜騎兵を改革派の家に宿泊させ、暴力的威嚇によって改宗を強制するものであった[81]。これに対して1683年に改革派の多い南部で散発的な抵抗運動が起こったが、すぐに鎮圧された。1685年にはついにナントの勅令廃止が宣言され、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられた。

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[編集] 政治思想(モナルコマキとポリティーク)

カルヴァンは信徒に抵抗を認めなかったが、ユグノーに対する弾圧が強くなると、ユグノーたちの間に支配権力に対する抵抗理論が現れた。1572年のサン・バルテルミの虐殺によって宗教対立がいよいよ抜き差しならない段階に入ると、武力抵抗を肯定する必要が生じた。こうして武力抵抗を肯定する理論として暴君は打倒しても良いとする暴君放伐論が現れ、暴君放伐論者をモナルコマキという。暴君放伐論として代表的なのはテオドール・ド・ペーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1573年)とユニウス・ブルートゥスというペンネームの著者が著した『暴君に対する自由の擁護』である。

ジャン・ボダン国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである
ジャン・ボダン
国家の統一を維持すべきという観点から宗教的寛容を主張した。主権の形態としては君主制に優越性を認めていたが、それはつねに主権の行使者が一者であるということと世襲的であるということが、継続的な永続性を実現していると考えたからである

ペーズは為政者が人民の同意しない権力を行使した場合は、これに抵抗することが可能であるという。ただし抵抗の主体となることができるのは個々の人民ではなく、三部会もしくは大貴族よってのみ国王を放伐することが可能であるとした。後者の著作はペーズのものより体系的な政治理論を展開しており、一連のユグノーの暴君放伐論の中では絶頂であると考えられている。まず君主が神の代理人として地上で神の法を行う義務を負うと述べ、次に旧約聖書を引用して神と、君主およびその支配下にある人民の間に契約があるという。次に君主と人民の間にも契約があり、君主がこの契約に守らない場合は、人民はこれに服従しなくてもよいとする。このように契約論を展開する一方で『暴君に対する自由の擁護』は、ペーズ同様、等族国家の原理に影響を受けた身分制的な思想を展開する。君主の契約違反に人民は服従しなくてもよいが直接抵抗することは認められない。君主に抵抗できるのは身分ある貴族だけで、身分のない人民は貴族の抵抗に荷担するか、消極的に君主の支配から逃亡するかである。最後にこの著作が示す興味深い論は、近隣の君主が暴君の支配に苦しむ国に干渉戦争をおこなうことを認めている点である。

ラ・リーグの側でも、同様の抵抗理論が展開された。ただカトリック強硬派の政治理論に特徴的なのは、従来の教権擁護の理論を継承して、国王の解任権やその不当支配に対する抵抗権の条件に教会、とくに教皇の承認を重視する点である。

一方で、カトリック穏健派はモナルコマキたちが君主への抵抗に神との契約違反を見たり、教皇の承認を重視したりする傾向に批判的であった。彼らはむしろ国家を重視し、宗教上の問題に寛容な解決をもたらすことで、政治的統一を尊重すべきと説いた。彼らを国家主義者という意味でポリティークと呼ぶ。

ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンで、彼は一方で近代的な主権理論の祖ともいわれる。ボダンは中世的な国王大権を発展させて、主権概念をつくった。この主権とは、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限のことで、国王にのみ固有のものである。彼によれば、「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」である。つまり主権は国家そのものと不可分である。要するに、伝統的な封建制や従来の身分制社会では、国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンは主権を設定することによって、中間権力を排除して、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義した。これによりモナルコマキたちが主張した、貴族などが支配権の一部を分担しているという観点から抵抗権を認める暴君放伐論を否定した。この主権概念と対立するのは伝統的な普遍支配権を主張する皇帝と教皇である。まずボダンは皇帝を選挙によって選ばれるのであるから、選挙を行なう支配者たちの主権を譲渡された受益者に過ぎないとこれを主権から外す。また教皇の至上権に対しては、国家の自律性・自然性を強調し、領域国家内の政治から宗教上の争いが排除されなければいけないとして政教分離を主張した。

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[編集] 日本近代法制史における政教分離

大政奉還がなされて明治政府が誕生し、日本の近代史が始まる。ここでは近代の法制史の立場から政教分離に関連する歴史を概説する。

政教分離に関連する明治政府の政策の初見は、1868年(明治元年)「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論ですでに神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立して行政制度において独自の位置を占めた。しかし1871年には神祇省に格下げされて、さらに翌年には廃止されて教部省が仏教・神道ともに管掌することとなった。

1873年1月には太陽暦が導入され、1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年には官国弊社の神官が葬儀に関与することを禁じ、国家祭祀に専念させることとし、国民的な習俗として一般的な宗教とは区別されることが方向付けられた。

第二次世界大戦後の1945年GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、現行憲法では政教分離が原則的には実現されている。

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[編集] 参照文献

記事執筆に際しては以下の諸文献を参照している。

[編集] 全体的な視座

  • 森安達也著『近代国家とキリスト教』平凡社ライブラリー、2002年[82]
  • 歴史学研究会編『現代歴史学の成果と課題 1980年-2000年 2 "国家像・社会像の変貌"』青木書店、2003年

[編集] 各国史全般

  • 成瀬治ほか編『世界歴史大系 ドイツ史』1~3、山川出版社、1997年
  • 青山吉信ほか編『世界歴史大系 イギリス史』1~3、山川出版社、1991年
  • 樺山紘一ほか編『世界歴史大系 フランス史』1~3、山川出版社、1995年
  • 今井登志喜著『イギリス社会史』上下、東京大学出版会、1953年
  • 村岡健次ほか編著『イギリス近代史 宗教改革から現代まで』ミネルヴァ書房、1986年
  • 大原祐子著『世界現代史31 カナダ現代史』山川出版社、1981年

[編集] キリスト教史

  • 上智大学中世思想研究所編訳・監修『キリスト教史』1~11、講談社、1990年
  • 水垣渉ほか編『キリスト論論争史』日本キリスト教団出版局、2003年
  • J・B・デュロゼル著、大岩誠ほか訳『カトリックの歴史』白水社、1967年
  • 小田垣雅也著『キリスト教の歴史』講談社学術文庫、1995年
  • 出村彰ほか編『聖書解釈の歴史』日本キリスト教団出版局、1986年

[編集] 法制史

  • 勝田有恒ほか編『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房、2004年
  • 吉野悟著『ローマ法とその社会』近藤出版社、1976年
  • ピーター・スタイン著、屋敷二郎監訳『ローマ法とヨーロッパ』ミネルヴァ書房、2003年

[編集] 中世史

  • ハンス・K・シュルツェ著、千葉徳夫ほか訳『西欧中世史事典』ミネルヴァ書房、1997年
  • ハンス・K・シュルツェ著、五十嵐修ほか訳『西欧中世史事典Ⅱ』ミネルヴァ書房、2003年
  • アンリ・ピレンヌ著、中村宏ほか訳『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1960年
  • 尚樹啓太郎著『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年
  • 堀米庸三編『世界の名著67 ホイジンガ』中公バックス、1979年
  • ヨーロッパ中世史研究会編『西洋中世史料集』東京大学出版会、2000年
  • 樺山紘一ほか編『岩波講座(新)世界歴史7 ヨーロッパの誕生』岩波書店、1998年
  • 堀米庸三ほか編『岩波講座(旧)世界歴史10 中世4』岩波書店、1970年
  • 堀越孝一編『新書ヨーロッパ史・中世編』講談社現代新書、2003年
  • 菊池良生著『神聖ローマ帝国』講談社現代新書、2003年
  • 江村洋著『ハプスブルク家』講談社現代新書、1990年
  • 五十嵐修著『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の<ヨーロッパ>』講談社選書メチエ、2001年
  • 阿部謹也著『阿部謹也著作集』2、8、10、筑摩書房、1999年
  • 堀米庸三著『中世国家の構造』日本評論社、1948年
  • 増田四郎著『西洋中世世界の成立』講談社学術文庫、1996年
  • 増田四郎著『西洋中世社会史研究』岩波書店、1974年
  • ラウール・マンセッリ著、大橋喜之訳『西欧中世の民衆信仰』八坂書房、2002年
  • J・ル・ゴフ著、池田健二ほか訳『中世とは何か』藤原書店、2005年[83]
  • エリザベス・ハラム編、川成洋ほか訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
  • エドマンド・キング著、吉武憲司監訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年

[編集] 思想史

  • 福田歓一著『政治学史』東京大学出版会、1985年
  • 碧海純一ほか編『法学史』東京大学出版会、1976年

[編集] 近代史

  • ウィリアム・ウッドラフ著、原剛ほか訳『概説 現代世界の歴史 1500年から現代まで』ミネルヴァ書房、2003年

[編集] 日本近代法制史

  • 水林彪ほか編『新体系日本史 2 法社会史』山川出版社、2001年

[編集] カトリック教義・神学論

  • ジャン・ピエール・トレル著、渡邉義愛訳『カトリック神学入門』白水社、1998年
  • 日本カトリック司教協議会諸宗教部門編『諸宗教対話 公文書資料と解説』カトリック中央協議会、2006年[84]
  • 教皇庁教理省著、和田幹男訳『宣言 主イエス』カトリック中央協議会、2006年[85]
  • 教皇ヨハネ・パウロ2世回勅、石脇慶總ほか訳『聖霊 生命の与え主』ペトロ文庫、2005年
  • E・スキレベークス著、伊藤庄治郎訳『救いの協力者聖母マリア』聖母文庫、1991年[86]

[編集] ヴァンダル王国に関して

  • アズディンヌ・ベシャウシュ著、藤崎京子訳『カルタゴの興亡』知の再発見双書、1994年

[編集] グレゴリウス改革について

  • 瀬戸一夫著『時間の民族史 教会改革とノルマン征服の時間史』勁草書房、2003年

[編集] 異端について

  • クルト・ルドルフ著、大貫隆ほか訳『グノーシス 古代末期の一宗教の歴史と本質』岩波書店、2001年
  • 甚野尚著『世界史リブレット20 中世の異端者たち』山川出版社、1996年
  • D・クリスティ・マレイ著、野村美紀子訳『異端の歴史』教文館、1997年
  • ルネ・ネッリ著、柴田和雄訳『異端カタリ派の哲学』法政大学出版局、1996年
  • 原田武著『異端カタリ派と転生』人文書院、1991年
  • 西川杉子著『ヴァルド派の谷へ』山川出版社、2003年

[編集] 王の霊威に関して

[編集] マリア信仰について

  • 竹下節子著『聖母マリア <異端>から<女王>へ』講談社選書メチエ、1998年

[編集] 宗教改革について

  • 金子晴勇著『宗教改革の精神 ルターとエラスムスの思想対決』講談社学術文庫、2001年
  • 永田諒一著『ドイツ近世の社会と教会』ミネルヴァ書房、2000年
  • 小泉徹著『世界史リブレット27 宗教改革とその時代』山川出版社、1996年
  • S・ムール著、佐野泰雄訳『危機のユグノー』教文館、1990年
  • I・ジョン・ヘッセリンク著、廣瀬久允訳『改革派とは何か』教文館、1995年

[編集] 関連項目

[編集] 帝権と教権

[編集] 各国史

[編集] 教会

[編集] ヨーロッパ外の祭祀王権との比較

[編集] 脚注

コンスタンティノープルの陥落1453年メフメト2世の時代にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。それは従来イスラームからヨーロッパの東側を守ってきた壁がなくなったことを意味し、ヨーロッパ諸国に脅威を与えることになった
コンスタンティノープルの陥落
1453年メフメト2世の時代にコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。それは従来イスラームからヨーロッパの東側を守ってきた壁がなくなったことを意味し、ヨーロッパ諸国に脅威を与えることになった

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  1. ^ カール大帝はすでに国王として塗油されていたし、それは本来のキリスト教典礼にはなかった。事実この時期のビザンツ帝国では総主教が皇帝に塗油することはなく、帝国ではのちになってこの典礼が「模倣」されて導入されている。
  2. ^ 血統霊威については家門を参照。
  3. ^ ただしこれは従来いわれた「皇帝教皇主義」「皇帝教皇制度」のように、皇帝が教会の首長もかねていたわけではない。コンスタンティノープル総主教は皇帝権の掣肘を受け、概して皇帝の高級官僚であるかのような役割を演じることもあり、それはオスマン帝国の治世においても同様かあるいはその傾向が進展したが、正教会の首長はつねにコンスタンティノープル総主教であった。またビザンツ帝国をはじめとする東方教会においてはカトリック的西ヨーロッパと異なり、行政区分に準じた主教管区が維持され、帝権と教権の関係は西方に比べると安定しており、叙任権闘争のような対立はおこらなかった。また典礼についても西方世界ではラテン語による典礼が義務づけられていたのに対し、東方では現地の民族語による典礼も一部認められていた。ただし民族語の典礼においては一度民族語訳が定められると、それが正統の翻訳として固定化される傾向にあり、改訳はおこなわれない傾向にあった。
  4. ^ オスマン帝国治下にコンスタンティノープル総主教の影響力が増すと、東方教会はギリシャ化し総主教もギリシャ人から出ることが多かった。しかしたとえばギリシャ独立運動に対しては、総主教がむしろ弾圧側のオスマン皇帝を支持したので、ギリシャの正教会はアテネ大主教を中心に独立した。
  5. ^ 1923年ローザンヌ条約によるトルコとギリシャの住民交換によって、トルコ内の正教徒が激減したことが決定的であった。
  6. ^ 福田歓一は過渡期の思想家であるとしつつも、キリスト教政治思想・国家論を初めて体系的に理論づけた人物であるとして高く評価している。福田は西洋における歴史哲学の成立もアウグスティヌスに帰しているが、岡崎勝世もキリスト教思想・神学・歴史学におけるアウグスティヌスの役割を非常に重く見ている。金子晴勇は文献を引用しつつ、アウグスティヌスは西ヨーロッパを古代文化とは異なった中世文化へと方向付けたとし、西ヨーロッパの「新生」に貢献した人物であると述べている。
  7. ^ 福田歓一『政治学史』に従って、アウグスティヌスは自由意志を否定したとしたが、補足説明を加える。アウグスティヌスはペラギウスと自由意志を巡る論争で、自由意志を認めつつも、人間性は「無知」と「無力」のゆえに自由意志によって救いに至ることができないと述べた。したがって金子晴勇『宗教改革の精神』に従えば、アウグスティヌスは自由意志を否定したのではなく、その価値を認めて自由意志を許容したが、人間はその原罪のゆえに自由意志を制限されており、信仰なくしては救いに至ることができないのであると説いたのだという。アウグスティヌスを発展させて明確に自由意志を否定したのがルターである。
  8. ^ ただしゲラシウス1世は一方で教権が帝権の上位にあることを論じているから、俗権と教権は完全に並列的であると考えられていたわけではない。
  9. ^ レオ3世ラテラノ大聖堂に取り付けさせたモザイク画では、ペトロが教皇にパリウムを、皇帝にを与えている。ペトロは最初のローマ司教(のちのローマ教皇)となりローマで殉教したとされる使徒である。『シュヴァーベンシュピーゲル』のなかには次のような記述がある。"主は両剣をペトロに委ねた。ゆえにその後継者である教皇が自ら教会の剣を行使し、皇帝に世俗の剣を与える。"
  10. ^ この教皇は2世とも3世ともされる。ここではローマ教皇の一覧に従う。en:List of popesおよびen:Pope Stephen IIを参照。
  11. ^ ハドリアヌス1世はこのとき、さらに『偽イシドールス法令集』中の『コンスタンティヌス帝の寄進状』を持ち出して、イタリア全土が教皇の支配に服するようになることをカール大帝に要望した。
  12. ^ 領域的な問題と参照文献の記述を勘案して、ここでは主に便宜上の理由からカール大帝の帝国を「西ローマ帝国」とする。この場合の「西ローマ」はどちらかといえば領域的な用語で、イタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す。したがって帝国の実状は、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国とは基本的に異なる。その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」であり、理念を重視すれば「キリスト教帝国」「カトリック帝国」となる。ヨーロッパという枠組みに限れば、「西方帝国」となる。カール大帝自身の皇帝権の性質については後述の戴冠時の政治状況に関する注を参照。
  13. ^ このときフランク王国の領域は西ヨーロッパのキリスト教社会の大部分を支配しており、実状も皇帝にふさわしかった。
  14. ^ a b カール大帝の戴冠について補足説明する。この事件はヨーロッパ中世世界を決定づけたものの一つであり、その前後の事情には西ヨーロッパ世界の置かれていた政治状況と西ヨーロッパ世界のその後の歩みを方向付ける要素が満ちている。以下諸家の記述に従って戴冠前後の政治状況を簡単に記す。
    ※なお以下の記述で人名表記は基本的にそれぞれの著書に従うため、同一人物を「イリニ」と「イレーネ」のように分けている。
    カール大帝の玉座
    カール大帝の玉座
    1. 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』にしたがって、主にビザンツ帝国の側から事情を示せば、780年に即位したコンスタンディノス6世は10歳という幼さであったため、母后イリニが政治を後見した。コンスタンディノス6世は成長するにつれ、イリニとそれを補佐する宦官たちと対立するようになり、とくにイコン崇拝を巡ってはイリニがイコン擁護派であったのに対し、コンスタンディノス6世はイコン破壊派と結びつくようになった。最終的に796年、イリニが近衛軍を掌握してクーデタを起こして797年コンスタンディノス6世を追放し、イリニは帝国を一人で統治するようになった。西方では、カロリング朝が領土を拡大し影響力を増した。また教皇はこのころローマ市生まれの人物がつくことが多くなり、東方で盛んであったイコン破壊運動にも不満を持っていたのでじょじょにビザンツ帝国に距離を置くようになっていた。教皇レオ3世はコンスタンディノス6世が追放されて以後はローマの皇帝位は空白であると考えた。そこで800年のクリスマスの日にローマを訪れていたカール大帝に皇帝位を授けた。カール大帝はこの戴冠にあまり乗り気ではなかった。カール大帝はビザンツ帝国の承認を得ようとし、必要であればイリニとの結婚さえ提案するつもりであった。このときの状況はかつてローマ帝国の皇帝が東西に分立していた時とは異なっていた。ローマ教皇もビザンツ皇帝も、皇帝と教会は一つであるべきだと考えていたから、カール大帝が西ローマ皇帝位の承認を求めても拒絶に遭うだけであった。ビザンツ皇帝はカール大帝を「皇帝」と認めても、「ローマ人の皇帝」とは認めなかったし、カール大帝も「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。
    2. ハンス・シュルツェ『西欧中世史事典』にしたがえば、カール大帝の王国が西ヨーロッパで支配的な影響力をもつようになるにつれ、ローマ教皇も自身の宗教的権威の後ろ盾となる政治権力の必要性からこれをますます頼みとするようになった。カール大帝自身も自分の地位の上昇に明確な意識を持っていた。教皇レオ3世が反対派から暴行を受け、幽閉された先からカール大帝の宮廷に逃れてきたとき、カール大帝には「教皇の問題」に関わるべき権限が本来ないはずであったが、彼はレオ3世と反対派の陳述を聞いて判決を下した。800年のクリスマスにカール大帝の戴冠がおこなわれた。儀式はビザンツ帝国を意識したものであったが、ビザンツでの戴冠が「戴冠→民衆による歓呼→総主教による聖別」という順番であったのに対し、「教皇による戴冠→民衆による歓呼」という順番でおこない、意図的に教皇の役割を高めたものであった。カール大帝は東方のビザンツ皇帝、女帝イレーネに対しては彼女が女性であり、息子である前皇帝を盲目にして追放したという理由から、これを帝位請求権を持つ者とは考えていなかった。しかしイレーネにつづくニケフォロス1世とは「共存関係」を結ぼうとした。カール大帝はかつてのローマ帝国の東西分割に範をとって、自身の帝国を「西帝国」と呼んだ。
    3. ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』にしたがえば、ローマ教皇ハドリアヌス1世が死んだ頃には、カール大帝の意識の中に「キリスト教の保護者」という考えを見ることができる。カール大帝は教皇レオ3世にあてた書簡で自身を「全キリスト教徒の支配者にして父、国王にして聖職者、首長にして嚮導者である」と述べている。800年の戴冠によって成立した皇帝は二重の意味でかつての西ローマ皇帝の再現ではなかった。まず教皇はカトリック教会の皇帝としてカール大帝を戴冠させた。教皇はカール大帝に帝冠を与えたのがローマの市民ではなく教皇であるということを示し、さらにその皇帝は世俗的な意味合いが全くなかった。教皇はすでにあるカールの帝国を聖別を施したというべきである。なぜならカール大帝の即位によって何らかの帝国組織、帝国制度が創出されたわけではないからである。次にカール大帝の帝国はかつての西ローマ帝国のように地中海に重心をもつのではなく、その重心は北方にあった。カール大帝は自らの称号で「ローマ人の皇帝」とは名乗らなかった。彼は「ローマ帝国の統治者」と述べたのであり、つづく「フランク人およびランゴバルド人の王」というのがより現実的な支配領域を指していた。カール大帝の帝国の中心はローマではなくて、アーヘンであった。ピレンヌによれば、カール大帝の皇帝戴冠は彼がフランク国王としてキリスト教の守護者を任じていたこと、より広く見れば西ヨーロッパが地中海中心の世界から内陸世界へと移行していく過程の必然の結果であって、とくにビザンツ帝国での女帝イレーネの存在をカール大帝の即位の理由において重大であったとする見方を否定する。
    4. 『世界歴史大系 ドイツ史1』渡辺治雄は、ピレンヌの見方とは反対にビザンツ帝国の女帝イレーネ即位という偶然的事象を重視している。カール大帝は皇帝になることは全く考えていなかったが、聖職者たちが女帝の支配は違法であり、ビザンツ帝国では帝位が消滅しているという理由から、カール大帝に皇帝即位を積極的に薦めた。教会主導でおこなわれた800年の戴冠以後は「西ローマ帝国の復興」という理解が一般化した。802年に女帝イレーネが追われてニケフォロス1世が登極してからは皇帝空位論は成り立ちえず、したがってカール大帝の皇帝即位はビザンツ帝国の政情に依存するところが大きかった。
    5. 瀬戸一男『時間の民族史』は、歴史的に見れば事後の影響が大きかったものの、戴冠自体は前後の政治状況から考察すると極めて状況的かつ偶然的な出来事であったとする。教皇の目論見はビザンツ帝国の政治的圧力の回避にあり、そのためにフランク族の影響力を用いて当時混乱していたコンスタンティノープルの政局を遠隔操作することにあった。シャルルマーニュの目的はビザンツ帝国と同格かつ独自の「王国=教会」共同体をラテン地域に打ち立てることであった。両者の間にはしたがって一定程度の隔たりがあったのだが、レオ3世の不安定な地位が問題を棚上げして、一方的に帝冠の授与を行った。明らかに教皇の政治判断は理念的にも現実的にも破綻していたが、これが成功したのには当時のビザンツ政権が基盤が貧弱な女帝イレーネーによっていたことも大きく寄与した。彼女は反対派の攻勢に晒されており、そのため対外的に親フランク的な政策をとった。イレーネーはシャルルマーニュとの婚姻にも好意的で、シャルルマーニュもこれには乗り気であった。しかしこれは一時の微妙な政治状況から成り立ったのであって、それが過ぎれば二帝問題・聖俗二元統治の実際上の問題などいろいろな矛盾を事後的に正当化する必要が生じた。つまり計画的なものであったとは考えられず、戴冠は必然的ではなかった。にも関わらず、戴冠は教皇という宗教的権威が「ローマ人の皇帝」を創造するといった永続的な宗教的政治的意味を後世にもたらすものとなった。
    以上から結論づけると、カール大帝の皇帝権の性質については諸家必ずしも一致しない。政治状況においてはカール大帝の戴冠が教皇の東ローマ帝国からの自立を決定づけたこと、カール大帝と教皇の間に意識の相違が見られ、おそらく戴冠を積極的に推進したのが教会側であることが共通している。このことはカール大帝の戴冠が、のちに教権と帝権の理想像として振り返られたにも関わらず、その見解を巡って教権と世俗王権の間で相違が見られたことにも影響を及ぼしている。カール大帝の戴冠が西ローマ帝国の復活であるといえるかどうかという問題については、それは古代的な西ローマ帝国の復活ではなかったが、一つの帝国の成立であり、同時代人に「西ローマ帝国」「西帝国」と考えられたように(またカール大帝もそのような考えを示唆しているように)、東ローマ帝国の存在を意識したものであった。ただしピレンヌはこの時代、東ローマ皇帝とフランク人の皇帝は本質的にはお互いを無視しあっていたといい、その帝国の成立に関して東ローマ帝国の存在を重視していない。したがって帝国成立の前提に東ローマ帝国が考えられるというわけではない。カール大帝(あるいはその帝権を支持するカトリック教会)がその皇帝位を理念上は唯一者としていることを諸家が指摘していることからも、東ローマ帝国と並立的であったというよりは、異質な帝権であった。
  15. ^ 中世の王権がゲルマンの古い伝統に基づく、あるいは何らかの宗教的権威を持つという観念はおそらく後世になって形成されたものである。「王権の超自然的権威の獲得過程」節を参照。
  16. ^ この節は主にピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』の示唆に従って記述する。ただしピレンヌの研究は多くの批判研究によってさまざまな面で乗り越えられている。よって講談社『キリスト教史』、山川出版社『世界歴史大系』、岩波書店『岩波講座世界歴史』などを参照し、それらにも留意して記述したため、必ずしもピレンヌに完全に依拠しない。
    ボニファティウス「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。彼は元々アングロ・サクソン人で、ウィンフリドといった。719年に教皇グレゴリウス2世にフリースラントへの布教を依頼され、ボニファティウスの名を授けられた。カール・マルテルの保護を受けてフランク王国の北部・東部地域にカトリックの教会組織を確立しようとした。742年あるいは743年にはアウストラシアの大司教となり、マインツを拠点とした。以後マインツはゲルマニアのキリスト教の中心地となった。のちにマインツ大司教はケルン大司教を抑えてドイツの聖界諸侯の筆頭となり、さらに金印勅書では「帝国大宰相」として選帝侯の筆頭かつ国王選挙の主催者とされた。15世紀には従来アーヘンでおこなわれていた戴冠式もマインツ大司教管轄下のフランクフルト・アム・マインでおこなわれるようになった
    ボニファティウス
    「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。彼は元々アングロ・サクソン人で、ウィンフリドといった。719年に教皇グレゴリウス2世にフリースラントへの布教を依頼され、ボニファティウスの名を授けられた。カール・マルテルの保護を受けてフランク王国の北部・東部地域にカトリックの教会組織を確立しようとした。742年あるいは743年にはアウストラシアの大司教となり、マインツを拠点とした。以後マインツはゲルマニアのキリスト教の中心地となった。のちにマインツ大司教はケルン大司教を抑えてドイツの聖界諸侯の筆頭となり、さらに金印勅書では「帝国大宰相」として選帝侯の筆頭かつ国王選挙の主催者とされた。15世紀には従来アーヘンでおこなわれていた戴冠式もマインツ大司教管轄下のフランクフルト・アム・マインでおこなわれるようになった
  17. ^ a b ドナティスト、あるいはドナトゥス派とは4世紀初めの北アフリカのカルタゴ司教ドナトゥスによって唱えられた、聖職にある者といえども、堕落した人物が授与する秘蹟は無効であるとする説を奉じる異端。人効論ともいう。カトリック正統信仰は、どのような聖職者からであれ、与えられた秘蹟は効力を持つとされる事効論に立つ。
  18. ^ たとえばルスペの司教フルゲンティウス。
  19. ^ 東ローマ帝国によって再征服されたあと、イスラームの支配が及ぶまで北アフリカは正統信仰に戻ることができた。
  20. ^ トゥールのグレゴリウスによる。
  21. ^ クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と王権の教会への妥協であり王権の衰微であるという見解がある。ピレンヌは前者の見解を取る。
  22. ^ ピレンヌは次のような人物を列挙する。テウデベルト1世の寵臣であったアステリオルスおよびセクンディヌスは修辞学に秀でていた。おなじくテウデベルト1世に仕えたパルテニウスもローマで教養を身につけた人物であった。クロタール2世の王室財務官をつとめたカオールのデシデリウスも雄弁術やローマ法に精通していた。
  23. ^ この時期のブリテン諸島は東部がブルトン的・アングロ・サクソン的で、ガリアや北海と結びついていたのに対し、西部はケルト的であるという著しい対照をなしていた。このころイベリア半島のタラコは、西地中海交易の拠点カルタゴと深く結びついて、ジブラルタル海峡を越えてアイルランドまで続く大西洋岸の交易網の基点となっていた。このアイルランド交易は5世紀後半に顕著となる。西ゴート族のイベリア占領にもタラコはほとんど影響を蒙ることなく、4~5世紀の間西地中海の交易拠点であり続けたが、東ローマ帝国による地中海再征服の影響で5世紀半ば頃から徐々に衰退に向かった。
  24. ^ ピレンヌによると、豪族たちはこのころ司教職を通じて地方支配に浸透していたと思われる。ネウストリアにおける反エブロインの先頭に立ったのはオータンの司教レジェーであったが、彼は豪族の出身であった。また反エブロインの豪族たちをカロリング家は支援していた。一方でエブロインは王国全体に対するネウストリアの支配を強化するために、アウストラシアの分国王タゴベルト2世をおそらく暗殺した。これ以降アウストラシアでは分国王はほぼ無力となり、カロリング家の影響が一段と高まった。
  25. ^ エブロインは673年以降豪族たちの反発によって影響力を大幅に低下させていたが、675年ごろ豪族による国王キルデリク2世暗殺で豪族勢力に対する反発が強まると、権力を回復しレジェーを処刑して人事を一新した。しかしその暗殺後はウァラトがネウストリアの宮宰となったが息子のギスレマールによって追放され、ピピン2世の軍を破るなど一時強勢となるがおそらく暗殺された。ウァラトが再び宮宰となり、686年のその死後は女婿であったベルカールが跡を継いだが、豪族たちがすぐさま反乱した。
  26. ^ ピピン2世の死後6歳のテウドアルト(暗殺されたピピン2世の子グリモアルト2世の子)が宮宰の位を継ぐと、ピピンの妃プレクトルディスが後見したが、ネウストリアではこれに対する豪族の反乱が起こった。豪族たちはラガンフレッドなる人物を宮宰に推戴したが、カール・マルテルにうち破られた。
  27. ^ この国王はメロヴィング家の血筋であるという以外全く知られていない。
  28. ^ イスラム勢力に対抗するためというのは通説的な見解。『世界歴史大系 フランス史1』佐藤彰一はカール・マルテルの積極的な軍事行動が長距離移動に適した騎兵軍の創設を促したという。
  29. ^ ピレンヌによれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。
  30. ^ 勝田有恒ほか編『概説西洋法制史』p.70、五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』pp.43-45。
  31. ^ この時カール大帝はアウストラシア北部・ネウストリアなどの王国北部を、カールマンはアウストラシア南部・ブルグント・アレマニアなど王国南部を領した。堀越孝一『新書ヨーロッパ史・中世編』によれば、カール大帝はランゴバルド王の娘ゲルペルカと結婚したが、おそらくそれはカールマンへの牽制の意味があったという。カールマンが死ぬと、カール大帝はゲルペルカと離婚した。後世になるとゲルペルカをカールマンの妃とする説話が作られたという。それに対し五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』はカールマンの妃をゲルベルガとし、カールの妃であったランゴバルト王女は名称不明としている。
  32. ^ ランゴバルド討伐の際ローマの復活祭に出席したカール大帝はヴェネツィアスポレトベネヴェントなどを新たに教皇に寄進することを約束した。が、この約束は履行されなかった。ランゴバルド人であるベネヴェント公は東ローマ帝国と結びついてイタリアにおける皇帝の代理人として認められた。カール大帝はしばしばベネヴェント公国を攻撃したが、宗主権を完全に及ぼすことはついにできなかった。
  33. ^ たとえばカール大帝は聖像崇拝を容認したニカイア公会議を批判するなど、キリスト教の教義問題にも介入する姿勢を見せ、また802年の一般巡察使勅令などで聖職者の腐敗を厳しく戒め、その倫理性を高めようとしている。すなわち国王巡察使は伯の地方行政を監視するとともに、一面で聖職者の風紀についても改善を目指す職務を求められていた。
  34. ^ ハンス・シュルツェ『西欧中世史事典Ⅱ』p.136、五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』p.151-153。
  35. ^ 教皇レオ3世の幽閉事件および女帝イレーネの即位を指す。フランク王国ではこれらはキリスト教的規範からの著しい堕落、これらの権威の失墜を象徴する出来事と考えられた。
  36. ^ ハンス・シュルツェ『西欧中世史事典Ⅱ』p.248。
  37. ^ 『ディオニシアーナ』のこと。
  38. ^ この文書の出自は明かでなく、いくつか説がある。9世紀にフランスの聖職者によって教皇権擁護のために作られたとするもの(勝田有恒ほか編著『概説西洋法制史』p.142)、8世紀中頃ラテラノの聖職者によって教皇への対抗のために作られたとするもの(菊池良男著『新書ヨーロッパ史・中世編』p.36)、同じく8世紀中頃、教皇パウルス1世在位中に教皇に仕える聖職者が作ったとするもの(五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国』p.171)などである。
  39. ^ この時代の教会改革について、「教皇革命」「グレゴリウス改革」「(司教)叙任権闘争」という主要な用語があるが、ここでは堀米庸三「グレゴリウス改革と叙任権闘争」(『岩波講座(旧)世界歴史10』所収)に従って、「グレゴリウス改革」を、教皇レオ9世のランス公会議(1049年)より始まる教会の包括的改革とする。したがって「叙任権闘争」は1075年からヴォルムス協約に至る、主に皇帝権を相手としての、俗権叙任に関わる政治闘争という意味で用い、「教皇革命」という用語は使わない。
  40. ^ この点については「中世の民衆信仰」節で後述する。
  41. ^ この点については「等族国家と公会議主義」節で後述する。
  42. ^ ただし前述したようにこの三部会では国王が主導的な役割を当初から持っており、三部会招集は対教皇のための政策として実行された側面が強いことが指摘されている。
  43. ^ マルク・ブロックによれば、フィリップ4世はキリスト教に敬虔な人物であり、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と比べると、一見なぜ教権に対してこのような敵対行動を取ったかが理解しがたく思えるが、それはボニファティウス8世の即位事情からすれば十分納得できるという。すなわち教皇ニコラウス4世の死後、教皇選挙会議はオルシニ派とコロンナ派の対立によって2年の間決着がつかず、結局ケレスティヌス5世が即位したが、教皇庁を統治することができずに5ヶ月で辞任した。その後にボニファティウス8世が即位するのだが、このときケレスティヌス5世が辞任したのはボニファティウス8世が不正手段を用いたからだという認識が当時おもに教権の敵対者を中心に存在した。
    トマス・ベケットの暗殺前半生はヘンリー2世のもとで大法官として辣腕を振るったベケットであったが、1162年にカンタベリー大司教となると一転、教会の利害を代弁するようになった。クラレンドン法に強硬に反対し、一時はフランスへ逃亡した。1170年に帰国したが騎士4名によりカンタベリーの聖堂内で惨殺された。のちに殉教者として尊崇を集め、その墓は多くの巡礼者が訪れた。たとえばチョーサーの『カンタベリー物語』はこの巡礼の途中で巡礼者同士が語った物語となっている
    トマス・ベケットの暗殺
    前半生はヘンリー2世のもとで大法官として辣腕を振るったベケットであったが、1162年にカンタベリー大司教となると一転、教会の利害を代弁するようになった。クラレンドン法に強硬に反対し、一時はフランスへ逃亡した。1170年に帰国したが騎士4名によりカンタベリーの聖堂内で惨殺された。のちに殉教者として尊崇を集め、その墓は多くの巡礼者が訪れた。たとえばチョーサーの『カンタベリー物語』はこの巡礼の途中で巡礼者同士が語った物語となっている
  44. ^ フィリップ4世は宰相ノガレに命じてテンプル騎士団員を逮捕させ、拷問などによって自白を強要して異端告発したらしい。教皇があらためて騎士団員の取り調べをおこなうと、彼らはこれまでの自白の一切を取り消したという。教皇は裁判をやり直すこととしたが、フィリップ4世は教皇を脅迫する一方、フランス世論をたきつけてテンプル騎士団への非難をあおったとされている。
  45. ^ クレメンス5世は枢機卿会議を教会法の控訴の法廷とすることにし、枢機卿法廷が成立した。また1334年には教皇庁控訴院(トリブナリア・ロータ、"tribunalia rota")が設けられ、当初は聖職禄の授与に関わっていたが、のちに教会法に関する訴訟上の最終審をおこなうようになった。さらに教皇庁内赦院(ペニペンティアリア・アポストリカ、"poenitentiaria apostolica")は教会法上の不法行為の免除、保留事件の処理をおこなうものであった。
  46. ^ ウィリアム1世以来の慣習と1164年のクラレンドン法のこと。ウィリアム1世は教皇グレゴリウス7世と争って教皇首位権は承認したものの、イングランド国内の教会に対する教皇の監督権を認めず王権によって管轄するものとした。一方でウィリアム1世はイングランド教会に広汎な裁判権を認めたが、ヘンリー2世は1164年クラレンドンで宗教会議を開き、裁判権を王権の側に回収することを定めた。これはただちにカンタベリー大司教トマス・ベケットの反発を生み、王と教会の長い争いが続いたのち多くの条文が削除されたが、重要な聖職者の任命権などは王権に確保された。
  47. ^ 教皇の要求をジョン王が受け入れたのは1213年5月15日のことであるが、なお交渉が続けられ、聖務停止が解除されたのが1214年7月2日のことである。
  48. ^ このことを巧みに見抜いたイングランドの聖職者たちはマグナカルタ派の反乱に荷担せず、この反乱はもっぱら世俗諸侯によって遂行されたのである。
  49. ^ 公文書における「パーラメント」の初出は1236年だという。ただしその語意は明らかでない。明白に議会を意味するようになるのは次のエドワード1世時代である。
  50. ^ このとき枢機卿団はフランス人が圧倒的に多かったが、イタリア人教皇を求める声は強く、さらにフランス人枢機卿の間にも分裂が生じていた。
  51. ^ シスマ、あるいは大シスマともいう。ただしシスマは教皇の二重選挙による教会のさまざまな分裂状況に一般的に使われる用語であり、大シスマの場合は東西教会の分裂を指すこともある。
  52. ^ この大分裂は単に支配者、聖職者の間でのみ問題となったのではなく、広く西ヨーロッパ全体の社会に影響を与えた大きな社会現象であった。ホイジンガは『中世の秋』のなかで、次のような事例を記述する。"ブリュージュの街がローマ教皇支持からアヴィニョン教皇支持へ転じたとき、ローマ教皇派の大勢の民衆が街を出て、付近のローマ教皇支持の街へと移住した。"また、"フランス王の臣下で著述家のピエール・サルモンがユトレヒトにやってきたときのこと、彼のために復活祭のミサをおこなう司祭は一人もいなかった。なぜならピエールはアヴィニョン教皇を支持する側にいると考えられたからである。"ホイジンガは中世末期に民衆の間にさえ見られた、このような党派対立の原因を経済的利害であるよりは、民衆の心性に存した「復讐欲」であると見ている。彼によれば、この時代(13世紀から15世紀、ただし地域差がある)は「国民の時代」であるというよりは、「党派の時代」である。ホイジンガはブルゴーニュ公領ネーデルラントに限定してのことではあるが、このような党派対立のなかからネーデルラントに民族意識の萌芽が見られるようになり、ハプスブルク家などの外来の支配者との対決を通じて国民感情に発展したという。
  53. ^ このときウルバヌス6世の側には、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝と帝国の大部分、ハンガリーボヘミアネーデルラントの諸国、イングランドなどが支持にまわった。一方のクレメンス7世にはフランススコットランドサヴォワハプスブルク家のオーストリアが支持を表明した。さらに当時道徳的に優れていたとされ教会に信頼されていた聖職者たちからも、両教皇の正当性について全く分裂した意見が表明された(具体的には聖カタリナはウルバヌス6世を、聖ヴィンケンティウス・フェレリウスはクレメンス7世を支持した)。
  54. ^ 枢機卿団はナツィオではない。
  55. ^ しかし「サクロサンクタ」は公会議が教権に優越することを永久的に定めたものとは見なされなかった。
  56. ^ コンスタンツ公会議では司教だけでなく神学者も会議に参加することが許された。
  57. ^ ただし公会議主義は教権の統一が果たされると、急速に影響力を低下させ、世俗の政治社会における議会のように明確に制度化にはつながらなかった。
  58. ^ より厳密に言うならば、マルク・ブロックの研究においては、王家の正統なる男系君主というのが事例に則していると思われる。すなわち王家と言うよりは王権の、それも男系の王権に備わる霊威であるとする。ただし家門に付随する血統霊威という観点を導入すれば、王家に霊性の根拠を求める見方も取りうる。マルク・ブロックの事例でも、示される霊威について血統の観念は否定されていない。
  59. ^ この節は全体的にマルク・ブロック『王の奇跡』に依拠している。
  60. ^ マルク・ブロックに従って実例を示せば、ジルベール・ラングレの『医療概論』(13世紀前半)、ロジェ・ド・パルムおよびロラン・ド・パルムの『外科学概論』に付された注釈(13世紀末~14世紀初頭)、ベルナール・ド・グルトンの『医学の白百合』(16世紀以前)、ジョン・オヴ・ガジュデンの『実用医学』(16世紀以前)など。
  61. ^ クローヴィスはキリスト教に改宗したメロヴィング朝君主であるが、中世フランスでは塗油されて聖別されたと誤って信じられていた。
  62. ^ さらにマルク・ブロックによれば、中世末の王権論者は、すでに王権の聖性において「塗油」さえ問題にしなくなっていたという。マルク・ブロックは著者不明の説話集『果樹園の夢想』から次のような事例を引く、"王が「塗油」されて聖別されるのは見せかけだけに過ぎず、実際はフランス王権固有の聖性が王権の治癒能力の源泉である。なぜなら、ほかの「塗油」された国王たちは瘰癧を治癒することができないのだから。"ここには明らかにフランス王権の優越性を主張する国民的な感情が見て取れる。
    殺害されるワット・タイラーこの反乱に参加した説教師ジョン・ボールは、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、いったい誰が領主だったのか?("When Adam delved and Eve span, Who was then the gentleman?")」と述べて領主の特権を批判した
    殺害されるワット・タイラー
    この反乱に参加した説教師ジョン・ボールは、「アダムが耕し、イヴが紡いだとき、いったい誰が領主だったのか?("When Adam delved and Eve span, Who was then the gentleman?")」と述べて領主の特権を批判した
  63. ^ このように聖人が奇跡を特殊に取りなすという信仰は、救いにおける普遍的な地位を主張する教会の立場と基本的に相反するものであった。
  64. ^ J・ル・ゴフ『中世とは何か』p.212。
  65. ^ J・ル・ゴフ『中世とは何か』p.264。
  66. ^ マリアに関しては4つの教義があり、
    1. 431年エフェソス公会議で定められたマリアを「神の母」とする教義。
    2. 649年ラテラノ公会議で定められた「処女受胎」の教義。
    3. 1854年に出された『無原罪の御宿り』により定められた「無原罪受胎」の教義。
    4. 1950年の『聖母の被昇天』により定められた「被昇天」の教義。
    現在第5の教義として聖母マリアをキリストの「共同贖罪者」とする教義を成立させようとする運動が、アメリカを中心におこなわれている。この点についての正統神学の立場は次注参照。
  67. ^ このことは、聖書の中で聖母マリアの信仰心が内的に成長し、段階的に完成されていることから明らかである。現在のカトリックの教義を要約すると、聖母マリアは原罪から免れているが、贖罪からは免れていないというものである。そのためカトリックの公文書では「共同贖罪者」という聖母マリアの称号は現れず、「贖罪の協力者」と述べるに留まっている。「共同贖罪者」という言葉は、聖母マリアが贖罪の行為者の側にいるような錯覚を起こしがちだからである。
  68. ^ 1401年に議会で異端者を火刑に処すことを認める法が成立し、異端運動の弾圧は本格化した。にもかかわらず、ロラード派は一定の信者を獲得していたらしく、下級貴族や下級聖職者の信者がかなりいたと思われる。1381年ワット・タイラーの乱において理論的指導者となったジョン・ボールはウィクリフの思想を説教していた。1402年にロラード派のオールドカースルという下級貴族が反乱を企てる事件があった(オールドカースルの乱)。1431年にはロラード派の大規模な反乱が起こった(ジャック・シャープの乱)。
  69. ^ プラハ大学の学生は出身地によって4つの「同郷団(ナツィオ、"natio")に分けられた。
  70. ^ ヴェンツェルはチェック人同郷団の票を3倍にして計算することとし、ドイツ人の3つの同郷団に対抗させた。
  71. ^ ルターのドイツ語訳聖書もエラスムスの聖書を底本として利用した。
  72. ^ エラスムスの聖書は約30万部以上売れたと考えられているが、従来のヴルガタに取って代わるところまではいかなかった。
  73. ^ たとえばルターとの論争で有名なヨハン・エックがその著作が宗教改革派類似のものであるとしてエラスムスに対して攻撃を加えると、1518年にエラスムスは自身の著作について教会の公認を取り付けている。この時期の教皇や多くの枢機卿と親交があり、その思想はカトリック穏健派と共通し、その広汎な支持を集めていた。
  74. ^ 従来説のようにヴィッテンベルク城の聖堂の扉に掲載されたという説は現在疑問視されている。
  75. ^ たとえばツヴィングリ、カルヴァンなどほかの改革派はルターのプロテスタンティズムを教義において保守的であると批判している。またルターの教義の核心である信仰義認説については1511年に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達しており、同時代ではイングランドメアリー女王のもとでカンタベリー大司教であった枢機卿ポール、人文主義者でケルン司教区の改革に従事していたグロッパーなどが個別に信仰義認説に到達している。コンタリーニ、グロッパーなどはカトリックの穏健派で、論争に際してはルターとの和解を模索した。
  76. ^ しかし一方でルター訳聖書が近代ドイツ語の基礎となったように、文化的側面においてはドイツの統合をもたらす側面もあった。
  77. ^ ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された。
  78. ^ フランスのプロテスタンティズムは、概して民衆の自発的な選択によっていたことが大きな特徴である。
  79. ^ 1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こっている。
  80. ^ 佐野泰雄『危機のユグノー』訳者まえがき、p.19、福田歓一『政治学史』pp.258-262。
  81. ^ 1685年の事例によれば、竜騎兵たちは疲労しないよう交替しながら、改革派信徒を眠らせないよう太鼓を鳴らし、罵倒し、体を揺さぶり、針を突き刺し、命に別状ないやり方で苦痛を与えた。
  82. ^ 宗教改革以後のキリスト教と近代国家の問題を中心に扱ったもの。森安は本書でせまい地域史にとらわれて時代区分を見失ってしまう弊害を指摘し、「近代とはなにか」という大きな視点が必要だと示唆する。森安の結論によれば、近代国家が宗教に対して制度として確立できたのは「せいぜい政教分離の原則」で、宗教根絶の試みは不毛であったという。
  83. ^ アナール学派の泰斗がインタヴューに答える形で自身の考える西欧中世像について述べている。
  84. ^ 第二ヴァチカン公会議以降進められた諸宗教対話の姿勢に関する、教会の公文書の抜粋と解説。
  85. ^ 2000年にイエス・キリストと教会の救いの唯一性と普遍性について、諸宗教の影響や科学などによって信仰が相対化されるべきでないと述べた宣言。少なからず反響のあった本宣言の、和田幹男による全訳と概説である。
  86. ^ 一部に教義を超えた独自の見解を展開しているものの、マリア神学、マリア論の全体がよく俯瞰されている著作。

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