浜田省吾
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浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市出身の日本のシンガーソングライター、ロックミュージシャン。O型。広島県立呉三津田高校卒業、神奈川大学法学部中退。
1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。メディア露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。その為、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されているバラード楽曲の他にも父親の被爆体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最もプロテスト色の強いアーティストである。また、ロック=英語という既成概念に疑問をもち、日本語による歌詞や歌唱にこだわった。このことは、以降のミュージシャンにも少なからず影響を与えた。
山口百恵、和田アキ子、甲斐よしひろ、松田優作、時任三郎、吉田栄作等に楽曲を提供している。 愛称は「浜省」または「省吾」。
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[編集] 来歴
- 特高警察の父の転勤のため、1955年頃から御調郡向島町岩子島、佐伯郡廿日市町宮内、佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区)、広島市元宇品(現南区元宇品)と広島県内で転校を繰り返す。18歳までに20回近く引越しをした。
- 1963年、江田島の海沿いの町、鷲部に転居。この頃ラジオから流れるビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴く。当時の洋楽はスイートなポップミュージックが主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントであるギターを取り上げギター演奏を始める。
- 1968年、県内有数の進学校、広島県立呉三津田高等学校入学(野球部で広岡達朗の後輩)。野球部を辞めた後はフォークソング・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり地元の学生運動にも積極的に参加。ベトナム戦争を進めるアメリカに加担しながら、この年広島平和記念式典に出席した佐藤栄作首相の行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。「アカ」と批判する父親とも激しくぶつかった。町支寛二らとバンドを結成、「広島フォーク村」にも参加した。大竹市に転居、広島市内の予備校、英数学館に通う。この頃はアメリカン・ニューシネマをよく見た。またビートルズの他、モータウン・サウンド、ボブ・ディラン、ザ・ビーチボーイズ、ラスカルズ、J・D・サリンジャーに傾倒、アメリカに強く憧れた。
- 1973年、音楽にのめり込み大学中退。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学のセクトと他から来たセクトとの激しい内ゲバが発生。火炎瓶が飛び交い、学生達は傷ついてキャンパスに転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見た。広島に戻り「広島フォーク村」の音楽仲間と共に愛奴を結成。愛奴ではドラムを担当。デパートの屋上やこの頃は地元のテレビで演奏したりした。
- 1974年、再び上京し、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドに愛奴(ドラム担当)として参加。それまでドラム経験はほとんどなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。
- 1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』、シングル「二人の夏」でレコードデビュー。当時CBSソニーでは大量にプロモーションを行い、浅田美代子の「赤い風船」(セールス80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。バンド内での自分の存在や、シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田省吾が手掛けており、当時からソングライティングの意欲、素質を備えていた。
- 1976年4月21日にアルバム『生まれたところを遠く離れて』、シングル「路地裏の少年」でソロデビュー。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に矢沢永吉のフィルムコンサートの前座を務めた。また当時アイドルだった竹内まりやの前座を務めた事もある。他にも歌わせてもらえる所ならどこでも、レコード店の店頭はもちろん、スーパーマーケットの催し、果ては演歌のながしのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃全国巡業での観客は30人から多くて200人程度で、描いた夢にはほど遠かった。70年代はセールスに恵まれなかったものの、着実な楽曲制作と地道なライブ活動によって確実にファンを獲得していく。
- 1980年、6thアルバム『HOME BOUND』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、ニッキー・ホプキンスやTOTOのスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。
- 1983年4月1日に所属事務所であったホリプロダクションから独立し、音楽事務所「ロード&スカイ」を設立。後に尾崎豊(所属は約1年程で個人事務所アイソトープを設立し独立)、三浦知良、スピッツ、などが所属することになる。
- 1985年7月27日‐28日つま恋多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「ONE LAST NIGHT in つま恋」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲でドラムをたたく。その際吉田拓郎から「浜田、前よりドラムうまくなったな」と言われる。
- 1990年、「誰がために鐘は鳴る」を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。
- 1992年にテレビドラマ「愛という名のもとに」の主題歌として発売されたシングル「悲しみは雪のように」(1981年リリース曲のリメイク)が初のオリコン・シングルチャート第1位(10週連続)を獲得。200万枚近いセールスを記録。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期軽い鬱状態になり、全くメディアに出てはこなかった。
- 1995年、シングル「我が心のマリア」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は神戸を舞台にしたラブソングで、その年に発生した阪神・淡路大震災の復興を願い、印税収入を寄付。このシングルは事務所の後輩であるスピッツや区麗情らとともに制作。
- 1998年には20世紀から21世紀をまたぐツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホールやアリーナ、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアーでは127ヶ所196公演を数え60万人もの観衆を動員。
- 1999年、「HOME BOUND」「愛の世代の前に」「PROMISED LAND ~約束の地」「DOWN BY THE MAINSTREET」「J.BOY」「FATHER'S SON」」「誰がために鐘は鳴る」のオリジナルアルバム7作にリマスタリングを施し再発。「DOWN BY THE MAINSTREET」「誰がために鐘は鳴る」はリミックス、「J.BOY」はリミックス、リアレンジメントが更に施されている。
- 2004年、小説家の春嵐、アレンジャーの水谷公生と結成したユニットFairlifeとして、シングル「永遠のともだち」、アルバム「Have a nice life」でデビュー。ボーカリストにポルノグラフィティの岡野昭仁や元プリンセスプリンセスの岸谷香らを迎えた。
- 2006年8月9日に2枚のベストアルバム、The Best of Shogo Hamada Vol.1/Vol.2をリリース。また、The History of Shogo Hamada "Since1975"が3面紙ジャケット仕様(セルフライナーノート付き)で期間限定にて同時リリースした。
[編集] エピソード
- 初めて日本武道館公演が決まった時、ヒット曲を持たなかったため、お客さんが入ってくれるのか、プレッシャーで押しつぶされそうになった。更に音楽評論家の大貫憲章が、「ゲス・フー*は100人くらいしか入ってなかったよ」と言うので更に大きなプレッシャーがかかった。結果はチケットが15分で完売するなど、大成功を収めた。
※ゲス・フーとは「アメリカンウーマン」の大ヒット曲を持つカナダのバンドで、有名なザ・フーとは違う。
- この時にアンコールで演奏した「ラストダンス」を近年行われたツアー「ON THE ROAD 2001」の最終日に再び武道館で演奏。久々に歌われた事と、当時のバージョンと全く同じアレンジ、演出で演奏された為多くのファンは感極まった。これは同ツアーを追ったDVDにも収録されている。
- 同じく武道館でのアンコール曲「Midnight Blue Train」では、歌いだしてすぐにギターが足元に落ちるというハプニングがあった。ちょうど「ギター抱えて 夜汽車に揺られ」という箇所で、浜田は外れたギターを胸に抱えて歌った。コンサート直後ゲスト出演した烏丸せつこのラジオ番組NHK「サウンドストリート」で、このことが話題になり、ストラップがきちんと留まっていなかったようだ、と原因を語り、「歌詞の内容と合っていたから演出かと思った」という烏丸に対し「まさか(笑)」と答えていた。このギターが床に落ちた音は、LIVE盤『ON THE ROAD』で聞ける。
- 烏丸はビートたけしが最初に噂になった女優で、甲斐よしひろとも噂があったが、浜田と烏丸もけっこう親しくしており、女性週刊誌でも地味に話題になったりもした。烏丸のアルバム『キス・ミー』(1981年)に浜田は「Dancing Doll」「バラード」の2曲を提供している。次のアルバムでは「街角の天使」をデュエットするという話もあったが実現されてはいない。
- 「街角の天使」はもともと大貫妙子とのデュエット曲として録音されたが、結局そのテイクは没になり、浜田のボーカルのみのテイクがアルバムに収録された。
- サングラスをかけだした由縁は好きなミュージシャン―ボブ・ディラン、スティービー・ワンダー、ジョン・レノン―がみんなサングラスをかけてたから真似してかけたというのもあるが、本人曰くドラムは目立たないから何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策であったらしい。
- 無名だった頃、ギターを持ってタクシーに乗ったとき「ミュージシャンなの?」と運転手に聞かれて、「はい、実は浜田省吾っていいます」と答えると運転手は「あぁ知っているよ。サングラスしていたから分からなかった」と答えたそうだ。
- メディアとは距離を置いているが、かつてラジオ番組「セイ!ヤング」(文化放送)で、1980年に約1年間ほどDJを務めていたことがある。音楽の話はもちろん、野球ネタや映画ネタ、そして当時のバンドの生ライブなどで人気となった。他にもかつてニッポン放送で吉田栄作が浜田の大ファンだった経緯もあって、当時吉田本人が持っていたラジオ番組「吉田栄作Take Off」に出演したこともある。
- 1979年、「風を感じて」が、日清食品カップヌードルのCMソングに使われ初のスマッシュヒット。この関係で日清食品がスポンサーだった『ヤングおー!おー!』(毎日放送)の公開放送に何度か出演し歌った。客席の通路で歌った事もあったといわれている。明石家さんまとか芸人との絡みは無かったと思われる。
- この時の事をのちのインタビューで述べている。朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返しほぼ丸一日、ワンルーフ(1番とサビ一つの2分くらい)2分を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだったという。結局これを含めて『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回のテレビ出演がある。
- 近年は若い女性アーチストも、早いうちから曲作りを始めることが話題となるが、浜田が本格的に曲作りを始めたのは、神奈川大学に入ってから、20歳の頃である。それまでは、作詞を浜田が手掛け、作曲は町支がしていて、自分に曲が作れるという発想があまりなかった。夏の暑い日、大学の正門の前にあった下宿で、好きだったザ・ビーチ・ボーイズの『サーファー・ガール』に影響をうけ『二人の夏』を作り、町支らに聞かせるとブリティッシュロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴くウエストコースト風のサウンドに「いいよ、これはいいよ」と絶賛されその気になった。あの時町支らがけなしていたら曲作りは止めていたかも知れないと言う。
- その『二人の夏』のドラムをたたいているのも浜田だが、何と貧乏の極みでドラマーなのにドラムセットを持ってなく、レンタルドラムでレコーディングに挑んだ。更に自分で作った歌は自分で歌おうと初めてヘッドホンをして自分の歌を聞くと音痴だと気付いた。苦労して苦労して録音したという。
- 自分の初期のシングルやアルバムに対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「初めの頃のは全部廃盤にして欲しいぐらい」と語ったこともある。
- 70年代後半の長い下積み時代、小さな街で300人ぐらいを集めてのライヴに全精力を使い果たしてホテルに帰ってテレビを付けると「ザ・ベストテン」をやっていて、あとからデビューした人達が、何10万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、ライヴはカウンターカルチャーだっと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達はていねいにすくって、大切に育ててきた、という自負をインタビューで述べている。
- 若いとき、音楽評論家・渋谷陽一のラジオ番組にゲスト出演。このとき議論が白熱し浜省がブチ切れ「結局なんでしょ あんたたちゃぁ 人の作ったものにケチつけてメシ喰ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。その後、渋谷は自身の発刊するロック誌で何度も浜省の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜省を支援し続けている。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーチストと述べている。
- 尾崎豊、福山雅治、桜井和寿ら浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」と言う内容のようである。
- 1986年の名作「J.BOY」のアルバムタイトルは、のちの「J-POP」、「Jリーグ」という言葉を誘発したとされる。初のチャート1位に輝いた「J.BOY」まで、プロデビューから12年の歳月が流れていた。
- 1999年夏、北海道でのコンサートに向かうメンバーとスタッフを乗せたANA61便がハイジャックに遭遇。
- ライブでは味のある話をすることで知られる。例として、渋谷に久しぶりに行った際に、電気屋に行こうとしたら昔あった場所にない。遠くに「電気」の看板が見えたのでそこに移転したと思って近づくと、そこは東京電力のミュージアムである電気館だったというオチ。
- 「南海日々新聞」にて(~久々の大物歌手が名護で公演するチケットの売出し日・・・中略・・・全盛期を過ぎており、まさかここまで根強い人気があるとは~)と掲載され、ステージで早速、笑いのネタにする。後日、新聞に(あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした。)と記事が掲載される。
- コンサートでは、お客さんの年齢層を毎回確かめている。(10代の人手を叩いてみて、というように)
- 2000年、黒磯でのコンサート中、開始二曲目で「脹脛断裂」してしまう。しかしコンサートをやり遂げる。ワイドショーでもニュースになったほどである。しかし、このニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは「風を感じて」であった。本人はこのことが一番ショックだったと語っている。
[編集] ディスコグラフィー
[編集] アナログシングル
愛奴時代 | 1975年5月1日 | 二人の夏(b/w雨模様) | EP | ||
愛奴時代 | 1975年9月1日 | 恋の西武新宿線(b/w愛奴のテーマ) | EP | ||
1st | 1976年4月21日 | 路地裏の少年(EP用)(b/w壁にむかって(EP用)) | EP | ||
2nd | 1976年10月21日 | 愛のかけひき(シングルバージョン)(b/wキャンパスの冬) | EP | ||
3rd | 1977年4月21日 | ラブ・トレイン(b/w君に会うまでは) | EP | ||
4th | 1977年11月21日 | 木枯しの季節(b/w独りぼっちのハイウェイ) | EP | ||
5th | 1978年8月21日 | 涙あふれて(b/wあの頃の僕) | EP | ||
6th | 1979年4月21日 | 愛を眠らせて(b/w片想い) | EP | ||
7th | 1979年8月21日 | 風を感じて(b/w朝のシルエット) | EP | ||
8th | 1979年12月21日 | さよならにくちづけ(b/wミス・ロンリー・ハート) | EP | ||
9th | 1980年2月21日 | 青春のヴィジョン(b/wとぎれた愛の物語) | EP | ||
10th | 1980年7月21日 | 明日なき世代(シングルバージョン)(b/w演奏旅行) | EP | ||
11th | 1980年10月21日 | 東京(b/w火薬のように) | EP | ||
12th | 1981年3月21日 | 陽のあたる場所(b/wあばずれセブンティーン) | EP | ||
13th | 1981年8月26日 | ラストショー(b/wさよならの前に) | EP | ||
14th | 1981年11月21日 | 悲しみは雪のように(b/wセンチメンタルクリスマス) | EP | ||
15th | 1982年2月25日 | ON THE ROAD(b/wラスト・ダンス (ライブバージョン)) | EP | ||
16th | 1982年11月21日 | マイホームタウン(b/w恋に落ちたら) | EP | ||
17th | 1984年8月1日 | DANCE(12インチシングルヴァージョン)(b/wTHE LITTLE ROCKER'S MEDLEY(ライブバージョン)) | 12inch | ||
18th | 1985年5月22日 | LONELY-愛という約束事(シングルヴァージョン)(b/wもうひとつの土曜日(シングルヴァージョン)) | EP | ||
19th | 1985年12月8日 | BIG BOY BLUES(シングルヴァージョン)(b/wSWEET LITTLE DARLIN' (シングルヴァージョン)) | EP | ||
20th | 1986年7月16日 | 路地裏の少年(12インチシングルヴァージョン)(b/w晩夏の鐘(12インチシングルヴァージョン)/WALKING IN THE RAIN ) | 12inch | CT | |
21st | 1987年6月21日 | 二人の夏(b/wLITTLE SURFER GIRL) | EP | ||
22nd | 1988年5月29日 | BREATHLESS LOVE(c/wBLOOD LINE(シングルヴァージョン)) | 12inch | CT | |
23rd | 1992年2月1日 | 悲しみは雪のように(シングルヴァージョン)(c/w愛という名のもとに(シングルヴァージョン)) | CT | ||
24th | 1997年10月22日 | イメージの詩(c/w生まれたところを遠く離れて(シングルヴァージョン)) | EP |
[編集] CDシングル・マキシシングル
1st | 1988年5月29日 | BREATHLESS LOVE(c/wBLOOD LINE(シングルヴァージョン)) |
2nd | 1989年3月21日 | 路地裏の少年(1stシングルヴァージョン)(c/w愛のかけひき(シングルヴァージョン)) |
3rd | 1989年3月21日 | 木枯しの季節(c/w涙あふれて) |
4th | 1989年3月21日 | 明日なき世代(シングルヴァージョン)(c/w 東京) |
5th | 1989年3月21日 | ラストショー (Original Album Version)(c/wON THE ROAD) |
6th | 1989年3月21日 | マイホームタウン(c/w陽のあたる場所(Original Album Version)) |
7th | 1989年3月21日 | LONELY-愛という約束事(シングルヴァージョン)(b/wもうひとつの土曜日(シングルヴァージョン)) |
8th | 1989年3月21日 | BIG BOY BLUES (シングルヴァージョン)(c/wDANCE(12インチシングルヴァージョン) |
9th | 1991年6月8日 | J.BOY(LIVE IN "ON THE ROAD '90"駒沢大学記念講堂)(c/w WALKING IN THE RAIN) |
10th | 1991年6月8日 | 二人の夏((浜田省吾ヴァージョン)(c/w二人の夏((愛奴ヴァージョン) |
11th | 1991年6月8日 | HELLO ROCK&ROLL CITY(ライブバージョン)(c/w THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY(ライブバージョン) |
12th | 1991年6月8日 | 風を感じて(ライブバージョン)(c/wラスト・ダンス(ライブバージョン)) |
13rd | 1992年2月1日 | 悲しみは雪のように(シングルヴァージョン)(c/w愛という名のもとに(シングルヴァージョン)) |
14th | 1992年12月12日 | アヴェ・マリア(c/w永遠の恋人(シングルヴァージョン)) |
15th | 1994年4月25日 | 星の指輪(c/wこんな気持のまま) |
16th | 1995年7月1日 | 我が心のマリア(c/w恋は魔法さ(シングルヴァージョン)) |
17th | 1996年9月30日 | さよならゲーム)(c/wあれから二人) |
18th | 1997年10月22日 | イメージの詩(c/w生まれたところを遠く離れて(シングルヴァージョン)) |
19th | 1998年4月1日 | モノクロームの虹(c/w 青空) |
20th | 1998年10月1日 | LOVE HAS NO PRIDE(c/w GIVE ME ONE MORE CHANCE) |
21st | 1998年12月2日 | 詩人の鐘(c/w 日はまた昇る) |
22nd | 2000年4月1日 | …to be ”Kissin'you”((french edit))(c/w 真夏の路上/…to be "kissin' you") |
23rd | 2001年8月1日 | 君の名を呼ぶ(c/w演奏旅行) |
24th | 2003年9月10日 | 君に捧げるlove song(c/wモダンガール(21 ctr. Ver.)) |
25th | 2005年4月13日 | 光と影の季節(c/w Midnight Blue Train 2005(リメイク2005バージョン)) |
26th | 2005年7月17日 | I am a father(c/w 君と歩いた道) |
27th | 2005年10月12日 | THANK YOU(c/w あの娘は誰/さよならの前に(2005Ver.)) |
2005年3月24日1st~18thシングルまでをマキシシングルにリサイズして再発売
[編集] アルバム
(愛奴時代) | 1975年5月1日 | AIDO (愛奴) | LP | CT | |||
1st | 1976年4月21日 | 生まれたところを遠く離れて | LP | CT | |||
2nd | 1977年5月21日 | LOVE TRAIN | LP | CT | |||
3rd | 1978年9月21日 | Illumination | LP | CT | |||
4th | 1979年5月21日 | MIND SCREEN | LP | CT | |||
5th | 1979年12月5日 | 君が人生の時… | LP | CT | |||
Compilation | 1980年8月1日 | SLOW DOWN(現在は廃盤) | CT | MD | |||
6th | 1980年10月21日 | Home Bound | LP | CT | |||
7th | 1981年9月21日 | 愛の世代の前に | LP | CT | |||
8th | 1982年2月25日 | ON THE ROAD | LP(2枚組) | CT(2本組) | |||
9th | 1982年11月21日 | PROMISED LAND ~約束の地 | LP | CD | CT | ||
10th | 1983年12月1日 | Sand Castle | LP | CD | CT | ||
11th | 1984年10月21日 | DOWN BY THE MAINSTREET | LP | CD | CT | ||
CLUB SNOWBOUND(現在は廃盤) | LP | CT | |||||
12th | 1986年9月4日 | J.BOY | LP(2枚組) | CD(2枚組) | CT(2枚組) | ||
CLUB SURFBOUND(現在は廃盤) | LP | CT | |||||
13th | 1987年6月28日 | CLUB SURF&SNOWBOUND | CD | ||||
14th | 1988年3月16日 | FATHER'S SON | LP | CD | CT | ||
15th | 1989年9月1日 | Wasted Tears | LP | CD | CT | ||
16th | 1990年6月21日 | 誰がために鐘は鳴る | CD | CT | |||
17th | 1991年9月1日 | EDGE OF THE KNIFE | CD | CT | |||
18th | 1993年9月6日 | その永遠の一秒に~The moment of the moment~ | CD | CT | MD | ||
19th | 1996年2月29日 | ROAD OUT "TRACKS" | CD | MD | |||
20th | 1996年11月11日 | 青空の扉 ~THE DOOR FOR THE BLUE SKY~ | CD | MD | |||
21st | 1997年1月22日 | 初夏の頃 ~IN EARLY SUMMER~ | LP | CD | MD | ||
22nd | 2000年11月8日 | The History of Shogo Hamada "Since1975" | CD | ||||
23rd | 2001年8月22日 | SAVE OUR SHIP | CD | ||||
24th | 2003年9月26日 | 初秋 | CD | ||||
25th | 2005年7月6日 | My First Love | LP | CD | |||
26th | 2006年8月9日 | The Best of Shogo Hamada vol.1 | CD | ||||
27th | 2006年8月9日 | The Best of Shogo Hamada vol.2 | CD |
[編集] 映像作品
- 1989.05.21 ON THE ROAD "FILMS" (VHS/LD)(後にDVDで再発売)
- 1996.02.29 ROAD OUT "MOVIE" (VHS/LD)(後にDVDで再発売)
- 2002.07.31 ON THE ROAD 2001 (DVD)
- 2002.08.21 WE ARE STILL ON THE ROAD (DVD)
- 2005.08.31 SHOGO HAMADA Visual Collection "FLASH&SHADOW" (DVD)
[編集] コンサート数
- 1976年 15回
- 1977年 50回
- 1978年 53回
- 1979年 70回
- 1980年 96回
- 1981年 88回
- 1982年 122回
- 1983年 119回
- 1984年 87回
- 1985年 76回
- 1986年 64回
- 1987年 38回
- 1988年 90回
- 1989年 10回
- 1990年 55回
- 1991年 54回
- 1993年 37回
- 1994年 58回
- 1995年 3回
- 1996年 16回
- 1997年 13回
- 1998年 52回
- 1999年 61回
- 2000年 48回
- 2001年 35回
- 2002年 2回
- 2005年 26回
- 2006年 28回
- 合計 1466回
[編集] ツアータイトル
- 1986年 「I'm a J.BOY」
- 1988年 「FATHER'S SON」
- 1991年 「ONE AND ONLY」
- 1993年 「OCEAN AVENUE 7493」
- 1994年 「THE MOMENT OF THE MOMENT」
- 1996年 「Tender is the night」
- 1998 - 2001年 「THE MONOCHROME RAINBOW」「THE SHOGO MUST GO ON」
- 2005年 「MY FIRST LOVE」
- 2006年 - 2007年「MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL」
[編集] 参考文献
- 「青空のゆくえ ― 浜田省吾の軌跡」 渋谷陽一著 ロッキング・オン(1999年)
カテゴリ: 日本のシンガーソングライター | 過去のホリプロ所属者 | 広島県出身の人物 | 竹原市 | 1952年生