東海道本線優等列車沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東海道本線優等列車沿革(とうかいどうほんせんゆうとうれっしゃえんかく)とは、東海道本線が開業した時以来に運行された、特急列車・急行列車・準急列車の運行を主に記載する。なお、以下のものについてはそれぞれ指し示す項目を参照されたい。
目次 |
[編集] 除外される主な系統
- 本来の東海道本線(在来線)の別線扱いとされた東海道新幹線(新幹線)。・・・当該項目及び「のぞみ」・「ひかり」・「こだま」の各列車項目。
- いわゆる、湘南列車→湘南電車と称された東京駅~小田原駅~熱海駅~三島駅~沼津駅間(支線・私鉄直通も含む)運行の列車。・・・踊り子 (列車)
- 京阪神発着で中央本線(いわゆる中央西線)直通運行列車。・・・・しなの (列車)・ちくま_(列車)
- 京阪神発着で高山本線直通運行列車。・・・ひだ (列車)
- 京阪神発着で北陸本線直通運行列車。・・・雷鳥_(列車)・きたぐに_(列車)・日本海_(列車)
- 名古屋・京阪地域始発で神戸駅まで東海道本線を経由して山陽本線方面へ向かう列車群。・・・山陽本線優等列車沿革。
[編集] 列車の沿革
なおダイヤ改正時の各種優等列車の様子については、主なダイヤ改正時の東海道本線優等列車を参照。
[編集] 東海道本線開業
- 1872年(明治5年)10月 新橋駅~横浜駅(新橋は後の汐留駅、横浜は桜木町駅の位置)間に日本初の鉄道が開業。
- 1889年(明治22年)7月 後に「東海道本線」と命名される、新橋駅~神戸駅間が全通する。
[編集] 優等列車設定
- 1896年(明治29年)9月 2年前に神戸駅~広島駅間で運行を開始した山陽鉄道(現在の山陽本線を当時運営していた私鉄)の急行列車に刺激され、国有鉄道でも新橋駅~神戸駅間に1往復の急行列車を設定する。新橋~神戸間の所要時間は下りが17時間22分、上りが17時間9分であった。この急行列車は「急行料金」などといったものは徴収せず乗車券のみで乗車できたが、40哩(マイル=約64km)以上の区間でなければ乗車券を販売しないなどといった乗車制限は設けた。
- 1898年(明治31年)8月 新橋駅~神戸駅間に夜行の急行列車が設定され、急行は2往復となった。
- 1900年(明治33年)10月 新橋駅~神戸駅間の夜行急行列車に一等寝台車が連結開始された。
- 1901年(明治34年)12月 急行列車に食堂車が連結開始される。しかしながら、箱根越え(当時の東海道本線の国府津駅~沼津駅間は、急勾配が存在する現在の御殿場線のルートを取っていた。)などといった難所を当時の東海道本線は抱えていて、この路線で食堂車1両を連結することにもかなり無理があったらしく、食堂車は新橋駅~神戸駅間全線のうち、新橋駅~国府津駅間・沼津駅~馬場駅(後に大津駅となり、現在は膳所駅)間・京都駅~神戸駅間といった急勾配区間を省いた区間でしか連結されていなかった。急勾配区間前後の駅で解結を繰り返していたのである。
- 1903年(明治36年)1月 食堂車が全区間で連結されるようになる。
- 1904年(明治37年)2月 日露戦争が勃発した影響で、急行列車はすべて普通列車となる。
- 1904年(明治37年)7月 3往復の急行列車が復活する。
- 1904年(明治37年)9月 再び急行列車が全廃。
- 1905年(明治38年)1月 新橋駅~下関駅間に、山陽鉄道に直通して運転される急行1・2列車が設定された。しかしながら約3ヶ月で廃止となった。
- 1906年(明治39年)4月 新橋駅~神戸駅間に、一等車と二等車のみで編成された最急行1・2列車(急行よりも上格の意、現在の特急列車の前身とする考え方もあり)が設定される。この列車に乗車するには乗車券の他に「急行列車券」が必要とされ、日本で初めて乗車券の他に「料金」を徴収する列車となった。また同区間には、三等車のみで編成された急行5・6列車も新設された。この列車はそれまでの食堂車が高級な「洋食堂車」であったのに対し、大衆向けの「和食堂車」を初めて連結した列車であった。
- 1906年(明治39年)12月 山陽鉄道は鉄道国有法によって国有化される。
[編集] 特急誕生
- 1912年(明治45年)6月 新橋駅~下関駅間に日本初となる「特別急行」(特急)1・2列車が運行を開始。前述した最急行を格上げ・区間延長する形で運行された。一・二等車のみで構成され、大衆が多く利用していた三等車は連結されなかった。最後尾には一等展望車を連結し、当時行われていた東京からパリ・ロンドンに至るまでの国際連絡運輸の一環を担っていた。そのような豪華列車であり要人や外国人も多く利用したことから、この列車の業務を取り仕切った列車長(シェフ・ド・トラン)は英語が話せた。この列車は日露戦争に勝利して列強(世界の強国)の仲間入りした日本の威信を象徴するものでもあり、設備・装飾なども相当豪華なものとなっていた。
- 1914年(大正3年)12月 新橋駅に変わる東京のターミナル駅として、1908年(明治41年)3月から建設が進められていた「東京駅」が開業、特急列車などの東海道本線の列車はすべて東京駅始発となった。
- 1921年(大正10年)8月 それまでの東海道本線は、大津駅(現、膳所駅)~京都駅間で南回りの遠回り経路をとっていたが、この時現在のルートが新逢坂山トンネル(2325.5m)の開削によって開通し、距離がそれまでと比べて4.5km短縮された他、同区間に存在していた急勾配も解消され、列車の大幅なスピードアップに貢献した。
- 1923年(大正12年)7月 東京駅~下関駅間に、それまで唯一の特急列車であった1・2列車に加え、特急3・4列車が設定される。1・2列車は一等車・二等車のみの編成だったのに対して、3・4列車は三等車のみで編成された。食堂車も1・2列車が洋食堂車だったのに対して、3・4列車は和食堂車だった。なお、1・2列車と3・4列車は数十分の間隔を置いて運行(続行運転という)された。
- 1923年(大正12年)9月 関東大震災が発生し、東海道本線は甚大な被害を受け約2ヶ月間不通、開通後も1926年(大正15年)ごろまで列車は減速運転を行った。
[編集] 戦前黄金時代
- 1929年(昭和4年)9月 特急1・2列車に「富士(ふじ)」、3・4列車に「櫻(さくら)」という愛称が付けられた。これが日本における「列車愛称」の始まりである。
- 1930年(昭和5年)10月 東京駅~神戸駅間に新しく特急「燕(つばめ)」(11・12列車)の運行を開始。同列車は「超特急」と人々から呼ばれ、その名の通りそれまでの特急「富士」・「櫻」が東京駅~大阪駅間を11時間弱、急行列車が12時間前後で運行していた中、同区間を8時間20分で結んだ。これはすこぶる好評で、翌年12月からは続行運転の臨時便も運行するようになる。なお「燕」は洋食堂車連結であったが、一・二・三等の各等車両をすべて連結した。またこの時それまでの「富士」・「櫻」もスピードアップが行われ、前述した東京駅~大阪駅間の所要時間を9時間前後とし、約2時間もを一気に短縮した。
- 1931年(昭和6年)2月 それまでの寝台車は一等・二等のみであったが、この時三等寝台車が登場。初めは東京駅~神戸駅間の夜行急行列車に連結され、これが好評であったことから12月より「櫻」にも連結されるようになる。
- 1934年(昭和9年)12月 丹那トンネルの開通により、東海道本線国府津駅~沼津駅間のルートがそれまでの御殿場経由から熱海経由に変更となって、距離は12km短縮、勾配はそれまでの25‰(パーミル)から10‰に緩和され、東京~大阪間の所要時間は特急「燕」で約20分、「富士」・「櫻」で30~40分、急行列車で35~40分も短縮されることとなった。これに伴いダイヤ改正が実施され、まず「富士」に三等車、「櫻」に二等車が連結されるようになり、続行運転は取りやめられて運転間隔を1時間30分とした。
これにより「富士」は朝鮮の釜山への関釜連絡船へ接続し、その釜山からは京城(日本統治下におけるソウルの呼称で、当時も朝鮮総督府がおかれるなど朝鮮の中心地であった)や満州国(1932年建国)の新京(現・長春)へ向かう列車へ連絡していて、さらにそこから先の列車と接続して北京、モスクワ、パリ、ローマ、ロンドンなどへ向かうことができ、その他にも関門連絡船で海を渡った門司駅から長崎駅への急行列車と接続し、そこから上海への航路と接続するなど、前述した国際連絡運輸の一環をなす列車へ、「櫻」は同じ門司駅から九州の鹿児島・宮崎方面の列車と接続へと、それぞれ役割分担が図られるようになった。 - 1937年(昭和12年)7月 この月の1日、東京駅~神戸駅間に新たに特急列車「鷗(かもめ)」が新設される。「櫻」を30分先行する時刻で運転され、一・二・三等各車両で編成された。同区間を走る「燕」、同時間帯を走る「富士」・「櫻」の補助的性格が強い列車であり、展望車は1939年(昭和14年)3月まで連結が見送られ、利用率次第ではすぐに臨時列車へ格下げする予定であったといわれる。この「鷗」の設定された頃が、戦前の鉄道の最盛期であった。しかしながら同列車の設定された6日後の7日に盧溝橋事件が起こって日中戦争が勃発し、日本は次第に戦時体制に突入して行き、鉄道を取り巻く環境も変化していくこととなった。
[編集] 戦時・戦後
- 1939年(昭和14年)11月 日中戦争の戦況が進み、満州・中国等大陸へ向かう需要が増加、この改正で急行列車が何本か増発される。その一方通勤列車なども増発したため、一部地域では平行ダイヤ(優等列車と普通列車の所要時間をほぼ同等とすることで、間隔を詰めて列車本数を増発する方法)化がおこり、一部上り急行列車の所要時間が東京口で延伸した。
- 1940年(昭和15年)10月 急行列車が何本か増発される。その一方で、下りの夜行急行列車の所要時間が一部延伸された。これもまた、通勤列車の増発に伴って平行ダイヤを採用したためである。また東京駅~名古屋駅間運行という、当時としては短距離の急行列車も設定された。
- 1941年(昭和16年)7月 三等寝台車全廃。列車需要が急増したことによる混雑を緩和するのが目的であった。
- 1942年(昭和17年)11月 前年12月に勃発した太平洋戦争の戦況が深刻化する中関門トンネルが開通して、東京駅~下関駅間運行であった特急・急行列車の多くが、九州まで足を延ばすようになった。これに伴って実施されたダイヤ改正により、「富士」は東京駅~長崎駅間運行となり、前述した上海航路への接続列車ともなった。「櫻」は鹿児島駅まで足を延ばす事になったものの、急行列車(7・8列車)に格下げされて愛称も消滅する。
- 1943年(昭和18年)2月 前年10月に閣議決定された「戦時陸運非常体制」に基くダイヤ改正が行われ、列車が各線で大幅に削減される。東海道本線では特急「鷗」が廃止、「燕」が東京駅~大阪駅間運転に区間短縮、急行7・8列車が東京駅~熊本駅間運転に区間短縮、東京駅~名古屋駅間運行の急行が廃止されるなどした。
- 1943年(昭和18年)7月 それまでの特急列車を「第一種急行」、急行列車を「第二種急行」とする。この時「特急」の呼称は制度上は廃止された。なお、第一種急行にはそれまでの特急「富士」・「燕」の他に、かつての「櫻」であった7・8列車も指定された。
- 1943年(昭和18年)10月 「決戦ダイヤ」と称される時刻改正が行われ、「燕」は廃止、「富士」は東京駅~博多駅間運転に区間短縮されて所要時間も伸びた。その他にも7・8列車が廃止されるなど、各線で列車の大幅削減・所要時間延伸が行われた。
- 1944年(昭和19年)4月 「決戦非常措置要綱」に基きダイヤ改正。「富士」が廃止され、第一種急行すなわち特急列車が消滅。その他一等車・展望車・寝台車・食堂車も全廃され、列車もまた大幅に削減された。
- 1944年(昭和19年)10月 それまで大垣駅~関ヶ原駅間には25‰の関ヶ原方面へ向かって登り急勾配区間が存在したが、戦時貨物輸送の増強を図るべくそれを10‰に緩和した迂回線が建設され、この時から使用が開始された。なお同区間には垂井駅が存在したが、それへの代替で同迂回線には新垂井駅が下り列車専用の駅として設置された。(新垂井駅はその後、1986年<昭和61年>11月に廃止される)
- 1945年(昭和20年)3月 急行列車は全国でも、東海道本線・山陽本線の東京駅~下関駅間運転の1往復(1・2列車)のみとなる。(1・2列車は同年6月、門司駅まで延伸)
- 1945年~1946年(昭和20~21年) 石炭事情の影響により、列車は増発と削減が繰り返された。
- 1947年(昭和22年)1月 石炭事情が悪化した事により、列車が大幅に削減されて急行列車・二等車は全廃される。これは日本の鉄道史上、最悪の事態であった。
- 1947年(昭和22年)4月 東京駅~博多駅・門司駅間に1往復づつ、計2往復の急行列車が復活。以後列車は増発されていくようになる。
- 1948年(昭和23年)7月 戦後初の白紙ダイヤ改正が行われ、全国で急行列車と、2年前の11月に東北地域で初登場していた準急列車が設定・増発されるなどした。東海道本線でも不定期の準急列車が5往復設定されたが、その一方で急行列車の速度は低下した。なおこの改正により、東海道区間における急行列車は定期3往復・不定期2往復となった。
[編集] 復興への歩み
- 1948年(昭和23年)12月 東京駅~鹿児島駅、東京駅~大阪駅間運行の急行列車2往復(1・2列車、11・12列車)に「特別寝台車」を連結開始。外国人観光客向けのもので、日本人には売れ残った場合のみ寝台券を販売したが、ともかく日本人が乗れる寝台車が復活した。
- 1949年(昭和24年)5月 特別寝台車は、一等寝台車に改称。
- 1949年(昭和24年)6月 国有鉄道の運営が、それまでの運輸省から公共企業体の「日本国有鉄道」へ改められる。
- 1949年(昭和24年)9月 大規模なダイヤ改正を実施。東京駅~大阪駅間にて特急「へいわ」が運行を開始。同区間は9時間を要し、1934年(昭和9年)12月改正時の「燕」の8時間にはまだまだ及ばなかったが、ともあれ国鉄における特急列車が5年ぶりに復活した。さらに、「へいわ」と東京駅~鹿児島駅間運行の急行1・2列車で食堂車の営業が開始され、これまた5年ぶりの復活となっている。またこの時、東京駅~大阪駅間で運行していた急行15・16列車(この改正で、11・12列車から改番)に「銀河」と命名している。これは急行列車では(戦前の大陸などを除いて)初の列車愛称であった。新しく命名された「銀河」は、この改正で三等車を廃して一・二等車のみの編成となり、最後部には銀河をかたどったバックサインを掲げていた。しかしまだ三等車の混雑がひどい時代で、他の急行列車はどれも乗客ですずなりとなっている中、「銀河」は利用率が悪く常に短い編成でガラガラの状態で走るという有様となったため、客の分散を図るため運転開始9日目には三等車が連結されるようになった。ちなみに東海道本線での急行列車は、この時定期7往復となった。また、東京駅~名古屋駅間には夜行準急列車31・32列車が設定された。
- 1950年(昭和25年)1月 「へいわ」は、「つばめ」(戦後は平仮名書き)に改称される。名列車の名前が蘇った。
- 1950年(昭和25年)6月 「つばめ」の姉妹列車として、東京駅~大阪駅間に特急「はと」を設定。「つばめ」・「はと」のコンビは以後、1975年(昭和50年)3月まで続くこととなる。またこの時、特急列車に女性乗務員の「つばめガール」・「はとガール」が乗るようになった。
- 1950年(昭和25年)10月 前年に引き続き再び大規模なダイヤ改正を行う。「つばめ」・「はと」は、東京駅~大阪駅間の所要時間を8時間とし、ようやく戦前の「燕」の水準に追いついた。二等寝台車もこの頃復活する。また、「銀河」の運転区間が東京駅~神戸駅間に延長されたほか、東京駅~宇野駅間直通の急行列車(東京駅~岡山駅間では、これまた新しく設定された東京駅~広島駅間運転の39・40列車と併結)が初めて設定され、同列車は「せと」と命名された。他にも東京駅~熊本駅間(筑豊本線経由)に1往復、東京駅~湊町駅(関西本線、現・JR難波駅)・鳥羽駅(参宮線)間に1往復などの急行列車が新しく設定(東京駅~湊町駅・鳥羽駅間の急行201・202列車は、前年登場した東京駅~名古屋駅間準急31・32列車の格上げ・区間延長の形態)され、東海道区間の急行列車は9往復となり、ようやく活気が戻ってきた。
- 1950年(昭和25年)11月 「銀河」・「せと」に限らず急行列車に広く愛称をつける事になり、東京駅~大阪駅間運転の11・12列車に「明星」、同15・16列車に「彗星」、同湊町駅・鳥羽駅間運転の201・202列車に「大和」、同熊本駅間運転の31・32列車に「阿蘇」、同鹿児島間運転の33・34列車に「霧島」、同長崎駅間運転の35・36列車に「雲仙」、同博多駅間運転の37・38列車に「筑紫」、同広島間運転の39・40列車に「安芸」とそれぞれ命名。
- 1951年(昭和26年)4月 東京駅~大阪駅間にて、「つばめ」の2~10分後を追う時刻で臨時特急「さくら」(平仮名書き)が運行開始。以後、多客期には必ず設定される列車となった。
- 1951年(昭和26年)9月 「せと」は、「安芸」との併結を取りやめて単独運転となる。
- 1951年(昭和26年)11月 それまで、大阪駅~大社駅(大社線、現在廃止)間で運行されていた準急列車が東京まで延伸し、同時に急行列車へ格上げされる。この急行は東京から山陰へ向かう初の列車となり「いずも」と名づけられ、大阪駅まで「せと」と併結する事になった。「霧島」は、平仮名書きの「きりしま」となる。
- 1952年(昭和27年)4月 それまで、日本に進駐していた連合国軍用の専用列車として運行されていた列車が、「特殊列車」となって一部ながら日本人に開放するようになる。料金上は急行列車のそれとして扱われた。この時東海道区間を走る列車で開放されたのは、東京駅~佐世保駅間運転の1001・1002、1005・1006列車で計2往復であった。
- 1952年(昭和27年)9月 名古屋駅~大阪駅間に、毎日運行の不定期準急3405・3406列車設定。
- 1953年(昭和28年)3月 「筑紫」は鹿児島駅まで延長運転開始。東京~鹿児島間を2夜行で走った。また、それまで大阪駅~博多駅間運行の急行列車であった「げんかい」が、東京駅~博多駅間運行となる。
- 1953年(昭和28年)11月 東京駅~大阪駅間で、各等で編成された夜行急行「月光」が運行開始。また「大和」の鳥羽駅行きの編成が分離され、「伊勢」と命名された。準急3405・3406列車は定期列車となり、列車番号は405・406列車とされた。
- 1954年(昭和29年)8月 特殊1005・1006列車が、博多駅発着に短縮される。
- 1954年(昭和29年)10月 特殊列車は、完全に普通の急行列車に転換されて愛称もつけられることになり、東京駅~佐世保駅間運転の1001・1002列車は「西海」、東京駅~博多駅間運転の1005・1006列車は「早鞆」となった。
- 1955年(昭和30年)7月 「げんかい」は、漢字書きの「玄海」となる。また同月、一等寝台車が利用率の悪かったことから廃止され、それまでの一等寝台は二等寝台A・B室、それまでの二等寝台は二等寝台C室となる。東京駅~名古屋駅間に、昼行準急列車「東海」を設定。
- 1956年(昭和31年)3月 「明星」・「銀河」に三等寝台車の連結を開始。1941年(昭和16年)に廃止されて以来、15年ぶりの復活となった。
- 1956年(昭和31年)11月 東海道本線の全線電化が完成。これに伴い大幅にダイヤが改正され、まず「つばめ」・「はと」は東京駅~大阪駅間を7時間30分で走破するようになり、1934年(昭和9年)12月以来22年ぶりに記録を更新した。
そして東京駅~博多駅間に、1944年(昭和19年)4月に廃止された「富士」以来これまた12年ぶりとなる特急列車である「あさかぜ」が運行を開始。「あさかぜ」は東京駅~博多駅間を17時間25分で走破し、戦前の「富士」の所要時間である20時間3分もを凌いで、速達性を発揮した。さらに、それまでの旅客列車の殆どが必ず関西圏を意識した時刻で通過していたのに対して、この「あさかぜ」は一応、京都駅・大阪駅・神戸駅で旅客扱いの停車はしたものの、同地域を深夜時間帯に通り過ぎるなど、さまざまな面で画期的な列車ともなった。なおこの改正で、「玄海」は「あさかぜ」に東海道区間を譲り、京都駅~長崎駅間運転の列車となった。
その他にも、東京駅~大阪駅間を結ぶ昼行急行列車「なにわ」が新設されたり、「早鞆」が「筑紫」に、それまでの「筑紫」が「さつま」へ改称、「いずも」・「せと」が分離運転される事になってそれぞれ漢字書きの「出雲」・「瀬戸」に改称される、「彗星」が不定期列車化される、などといった動きがあった。この年7月に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」と書いたが、鉄道もまさしく「戦後復興期」を脱したといえるだろう。
[編集] 戦後黄金時代
- 1957年(昭和32年)7月 「あさかぜ」が好評であったことから、それの補助列車として「あさかぜ」に下りは30分先行、上りは30分後発する時刻で、東京駅~博多駅間に臨時特急「さちかぜ」が設定される。
- 1957年(昭和32年)10月 「さちかぜ」は好評であったため定期列車に格上げられ、同時に長崎駅発着となる。また同時に「彗星」も再び定期列車となり、14両編成のうち荷物車と最後尾の三等車を除く12両が寝台車で組成される、寝台列車の元祖というべき列車となった。「東海」は3往復に増発され、使用車両も“湘南電車”と呼ばれた80系電車になった。また、名古屋駅~大阪駅間運転の準急列車も3往復に増発されて80系電車使用列車となり、翌月には「比叡」と命名された。
- 1958年(昭和33年)10月 「あさかぜ」はそれまで寄せ集めの旧型客車で運行されていたが、この改正で国鉄初の固定客車編成でありその車体色からのちに「ブルートレイン」と呼ばれるようになった20系客車に置き換えられ、装いを新たにした。また、それによって不要となった「あさかぜ」の客車を使用して、東京駅~鹿児島駅間に特急「はやぶさ」が設定された。これに取り替えられる形で、「さつま」は門司港駅~鹿児島駅間運転と大幅に区間短縮される。さらに、「さちかぜ」の名前が「あさかぜ」と紛らわしく誤乗が絶えなかったため、「平和」と改められた。臨時特急「さくら」廃止。東京駅~大阪駅間に、臨時夜行急行「あかつき」を設定。「東海」・「比叡」はこの時から153系電車(当初は91系。初めに「東海」へ使用したことから「東海型電車」とも呼ばれた。)に使用車両を順次変更することになり、同時に「東海」は夜行1往復が増発されて2往復、「比叡」は2往復増発されて5往復になった。
- 1958年(昭和33年)11月 東京駅~大阪駅間に、日本初の長距離電車特急「こだま」が2往復設定される。車両は151系電車(当初は20系。初めに「こだま」に使われたことから、後に「こだま型電車」とも呼ばれる様になった。)を使用した。東京駅~大阪駅間をそれまでの「つばめ」・「はと」より40分早い6時間50分で走破して、滞在時間は2時間のみであるが東京~大阪間の日帰りが可能になったことや、編成が仕事客向けのものであったことなどから、同列車は「ビジネス特急」と呼ばれた。
- 1959年(昭和34年)4月 この月10日に、明仁皇太子(現、今上天皇)と正田美智子(現、皇后)との結婚式が催され、国鉄はそれを記念し下り9日・上り10日に東京駅~大阪駅間に臨時の夜行電車急行「ことぶき」を、10・12日に東京駅~伊東駅間に臨時準急「ちよだ」をそれぞれ運行。「ちよだ」は151系電車を使用したが、これは同系が準急に使用された唯一の例となった。「ことぶき」は153系電車を使用し、急行列車への電車使用のさきがけともなった。またこの月1日より、行楽用の臨時準急列車「日本平」が東京駅~静岡駅間で運行されるようになった。
- 1959年(昭和34年)7月 「平和」に20系客車が導入、「さくら」と改称する。「こだま」は、東京~大阪間の所要時間を6時間40分に短縮。東京駅~金沢駅間(米原駅経由)に夜行急行「能登」が、東京駅~新宮駅間に同じく「那智」が新設。「能登」・「那智」・「伊勢」は東海道区間では併結運行を行った。またこの年の夏季には、修学旅行用の155系電車の間合いを使用して、東京駅~大阪駅間に臨時急行「すばる」も運行された。
- 1959年(昭和34年)9月 「新東海」の愛称で東京駅~名古屋駅間に1往復、「伊吹」の愛称で名古屋駅~大阪駅・神戸駅間に2往復の、全車指定席による準急列車がこの時設定される。いずれも既に同区間を走っていた全車自由席の「東海」・「比叡」より停車駅が少ないなど、それらの一ランク上の列車としての役割を担った。また、東京駅~浜松駅間に準急「はまな」新設。
- 1960年(昭和35年)6月 「つばめ」・「はと」共に、車両が「こだま」との格差が大きかったことから151系電車に置き換えられ、同時に「はと」は「つばめ」に統合されて「第1つばめ」・「第2つばめ」となった。これによって一等車は消滅した。また、「こだま」・「つばめ」は東京~大阪間の所要時間を6時間30分に短縮する。これは、旅客列車では現代に至るまで破られない東海道本線の記録となった。(起終点が異なるものの、JR貨物が2004年に投入したスーパーレールカーゴを使用した高速貨物電車は、東京貨物ターミナル駅~安治川口駅間を6時間11~12分で結び、44年ぶりに記録を更新した)
また同区間に、157系電車(日光型電車)を使用した臨時特急列車「ひびき」と、それまで東海道の定期列車では準急「東海」・「比叡」のみに使われてきていた前述の153系電車を使用した、日本初の電車による定期急行列車となる「せっつ」も、新たに設定された。「せっつ」は東京~大阪間を「なにわ」より約1時間早い7時間46分で走破した。電車の時代が本格的に到来してきていた(なお、「せっつ」運行当初153系電車にはリクライニングシート装備の二等車が存在していなかったため、止む無く従来からの回転クロスシート装備の二等車が充当された)。
さらに、東京駅~姫路駅間に臨時の夜行電車急行「はりま」が、東京駅~鹿児島駅間に臨時客車急行「桜島」が、それぞれ新設されている。なお「はりま」も80系電車を使用したが、同車両は急行に使うには見劣りが隠せない車両であった。しかしこの運行が、同車両を用いての最長距離運転の列車となった。そして「あかつき」は寝台列車化された。
準急列車では、沼津駅~名古屋駅間に「するが」、東京駅~大垣駅間に臨時の「長良」新設。 - 1960年(昭和35年)7月 先月に一等車が消滅したことから、それまでの二等車が一等車に、三等車が二等車になった。またこの時、「はやぶさ」も20系客車化される。
- 1961年(昭和36年)3月 「なにわ」も客車から153系電車化され、さらに同車両を用いて夜行急行「金星」が新設された。「なにわ」・「せっつ」に使われる153系電車は準急との格差を設けるべく、この時よりリクライニングシートの一等車を2両、ビュッフェ車を2両連結する12両の豪華編成で組成されるようになった。
- 1961年(昭和36年)7月 「はりま」は153系電車化される。しかし一等車はリクライニングシートでないなど、「なにわ」・「せっつ」より劣る編成であった。
- 1961年(昭和36年)10月 俗に年月を取って「サン・ロク・トオ」と後に呼ばれる全国規模での大ダイヤ改正がこの時行われ、特急・急行・準急が大幅に増発された。東海道本線では特にそれが重点的に行われ、まず電車特急では東京駅~宇野駅・神戸駅間に「富士」が2往復、東京駅~大阪駅間に「はと」が1往復それぞれ新設された。さらに東京駅~名古屋駅間でも「新東海」を格上げする形で「おおとり」が新設されたので、既存の「こだま」・「つばめ」4往復と合わせて東海道昼行特急は8往復となった。
次に客車特急では、東京駅~熊本駅間に不定期ながら実質毎日運行の「みずほ」が新設された。「みずほ」は既に登場していた「あさかぜ」・「さくら」・「はやぶさ」の補助的性格の強い列車で、客車も20系ではなく旧型の一般客車の寄せ集めであり、格差が目立った。
電車急行ではそれまでの「なにわ」・「せっつ」に加えて東京駅~大阪駅間に「いこま」・「よど」・「やましろ」・「六甲」が新設され、定期だけでもそれまでの昼行2往復・夜行1往復の計3往復から昼行6往復・夜行3往復の計9往復へと大躍進した(他に、臨時で夜行2往復が存在。なおこの当時は同じ区間を運行するものでも、指定券の誤発行を防ぐことと電報の都合から、列車ごとに別の愛称を与えられることが多かった。)。電車急行はこの時から、東京~大阪間を客車時代の特急「つばめ」などと同じ7時間30分で走破するようになる(下り「いこま」は、大阪駅~宇野駅間運行の準急「鷲羽」と接続させるため7時間25分運転)。「なにわ」・「せっつ」・「いこま」・「よど」・「やましろ」・「六甲」の6種類の電車急行列車は、どれも前述した153系電車の12両編成で組成されたので、「東海道電車急行6人衆」と後になって呼ばれるようにもなった。
客車のほうでは、「金星」が電車から客車化されて寝台列車となり、その代わりとして臨時の「あかつき」が廃止されたので、東京駅~大阪駅間運行の列車は「銀河」・「明星」・「彗星」・「月光」・「金星」の5往復(東京駅~湊町駅間運行の「大和」を加えれば6往復、大阪以西へ運行するものもそれに付け加えれば9往復。)となり、他にも東京駅~大分駅間に急行「ぶんご」が新設(東京駅~門司駅間では「筑紫」と併結)され、「能登」が単独運行になるといった動きがあった。
準急列車では「東海」が6往復、「比叡」が8往復に増発され、「長良」の表記が平仮名の「ながら」になった。 - 1962年(昭和37年)6月 広島駅まで山陽本線の電化が完成。これにより、特急「つばめ」2往復の内1往復は広島駅まで延長運転されるようになる。また「つばめ」と同区間に電車急行「宮島」が昼行1往復・夜行1往復の2往復設定され、その代わりに「やましろ」と夜行の「よど」が廃止された。「宮島」はそういった経緯からか153系電車12両編成を継続使用した。これは同電車含む急行形車両使用の最長距離定期列車(894.8km)として記録に残るものである。また急行「あかつき」が以前と同じ区間で定期の寝台列車として復活し、「みずほ」も定期列車に昇格した。
- 1963年(昭和38年)4月 「ひびき」の内1往復が定期列車となる。これにより東海道の定期電車特急は9往復となった。
- 1963年(昭和38年)6月 「みずほ」に20系客車が導入される。
- 1963年(昭和38年)10月 夜行の電車急行「なにわ」1往復が客車に置き換えられて寝台列車となり、「すばる」と名を改めた。これによって揃った「銀河」・「明星」・「彗星」・「月光」・「金星」・「あかつき」・「すばる」の7種の急行列車は、いずれも東京駅~大阪駅間を運行する夜行寝台急行列車であったので、「東海道寝台急行7人衆」と後世になって呼ばれるようにもなった。
[編集] 東海道新幹線開業後
- 1964年(昭和39年)10月 この月の1日に東海道新幹線が開業した。これに伴うダイヤ改正では1時間に1本ずつ「ひかり」・「こだま」が設定され、これにより東海道における輸送の主体は新幹線に移り、在来線の優等列車は大幅に削減されることとなった。
まず昼行電車特急の「こだま」・「つばめ」・「ひびき」などは全廃され、電車急行は「せっつ」2往復が全廃、「宮島」は大阪駅~広島駅間に区間短縮されて、東海道区間では「なにわ」・「いこま」・「よど」・「六甲」の定期4往復だけが残った。(「つばめ」・「はと」は、山陽本線を走る特急列車に転じた。)
客車急行でも「あかつき」・「彗星」・「すばる」が廃止となり、東京~大阪間夜行は4往復となった。そのほかにも、「筑紫」・「ぶんご」が廃止される一方で、東京駅~宇野駅間に「さぬき」が新設され、「那智」も紀伊勝浦駅まで延長運転されるなどといった動きがあった。
またこの時、東京駅~大分駅間に5番目の九州方面ブルートレインとなる寝台特急「富士」が新設された。
準急列車では「伊吹」が廃止され、「東海」も昼行1往復削減により5往復となる。 - 1965年(昭和40年)10月 このとき実施されたダイヤ改正で、新幹線は「ひかり」・「こだま」ともに1時間に2本づつのダイヤが組めるようになり、翌月からはその増発とスピードアップが行われ、東京駅~新大阪駅間を「ひかり」は3時間10分で走るようなる。
その一方で昨年の改正以後乗客の多くが新幹線に転移したのを受け、再び在来線列車の削減が行われた。電車急行では「いこま」・「よど」・「六甲」が消滅し、「なにわ」が1往復増発されたので、東京~大阪間では2往復となった。また、東京駅~姫路駅間臨時電車夜行急行の「はりま」や寝台客車急行の「金星」・「月光」も廃止されて、「銀河」は運転区間を東京駅~姫路駅間に延長、「能登」は「大和」と併結運行することとなった。準急列車でも、「東海」の昼行・夜行1往復ずつが廃止されて3往復となり、「比叡」も4往復に削減された。「はまな」・「ながら」も廃止され、「するが」は毎日運転の不定期列車へ格下げられると同時に、伊豆箱根鉄道駿豆線の修善寺駅へ乗り入れて修善寺駅~三島駅~大垣駅間の運転となる。 - 1966年(昭和41年)3月5日 修学旅行列車「わこうど」の間合いで、東京駅~下関駅間に電車の臨時急行「長州」を設定。なお、「長州」自体は1964年(昭和39年)10月から多客期の臨時列車として設定されていた。また、運転距離100kmを越す準急列車は全て急行列車へ格上げする事になり、「東海」・「するが」・「日本平」・「比叡」は急行列車となった。
- 1966年(昭和41年)3月25日 「するが」は定期列車となって「中伊豆」と改称。急行としての「するが」は僅か20日間の運転に終わった。
- 1966年(昭和41年)9月25日 「日本平」がこの日の運転をもって廃止となる。
- 1967年(昭和42年)10月 東京駅~長崎駅・大分駅間に、臨時急行「五島」・「くにさき」が新設される(門司駅まで併結)。団体専用列車のダイヤを引き継ぐ形で設定された。
- 1968年(昭和43年)10月 「ヨン・サン・トオ」と後に年月をとって呼ばれる事になる大改正がこの時行われた。
電車急行の「なにわ」2往復が廃止され、東京駅~大阪駅間を運行する昼行列車は消滅。
他の東海道急行では「明星」は「銀河」に、「さぬき」は「瀬戸」に統合され、「銀河」・「瀬戸」は2往復となった。「能登」・「中伊豆」は廃止され、「五島」・「くにさき」の内「くにさき」が新大阪駅始発となり「べっぷ」と改称、「五島」は東京駅始発として残ったが「ながさき」に改称、「高千穂」と「霧島」が併結運行となり、「雲仙」は京都駅始発の、「西海」は大阪駅始発の列車の名となって東京駅始発の「雲仙」・「西海」は廃止、「大和」・「那智」は統合されて「紀伊」に改称される(東京駅~紀伊勝浦駅・王寺駅・鳥羽駅間、奈良駅~王寺駅間は普通列車扱い。)、「東海」は4往復の内2往復を東京駅~静岡駅間に運転区間を短縮する、などといった動きがあった。これにより、昼の東京~大阪間を走る列車は「霧島」・「高千穂」の1往復のみとなった。またこの時、東京駅~博多駅間に寝台特急「あさかぜ」が1往復増発されて2往復となった。 - 1969年(昭和44年)5月 等級制度が廃止され、それまでの一等車はグリーン車、一等寝台車はA寝台車となり、二等車・二等寝台車はそれぞれ普通車・B寝台車となった。
- 1970年(昭和45年)3月~8月 大阪万博開催により、上りの新大阪駅~三島駅間に臨時の夜行急行列車「エキスポこだま」を設定。三島駅で同駅始発の臨時新幹線「こだま」に接続させ、東京近郊の通勤輸送に支障を与えることなく大阪~東京間の輸送を確保した。
- 1970年(昭和45年)10月 「霧島」が「桜島」に改称される。急行「安芸」が特急「あさかぜ」に統合されて下関駅まで運行することとなり、「あさかぜ」は3往復となる。臨時急行「ながさき」廃止。
- 1972年(昭和47年)3月 山陽新幹線が岡山駅まで開業したことにより、大規模なダイヤ改正がまた行われた。東海道の列車では、「瀬戸」は1往復に削減された上で特急に格上げ、「出雲」も特急に格上げ、「銀河」のうち1往復と「紀伊」が併結運行となって、「銀河」の大阪駅~姫路駅間と「紀伊」の王寺駅・鳥羽駅行き編成を廃止、「桜島」・「高千穂」の食堂車が廃止される、「東海」は全便が東京駅~静岡駅間運転となる、「比叡」が2往復に削減される、といった動きがあったまた、「比叡」のビュッフェ車サハシ153は営業休止となった。「比叡」での営業中止理由は、名阪間2時間20分台の運転では食事時間帯にかからない列車もあり、赤字であったからとされる。しかし、北陸トンネル列車火災事故以来、主に急行列車での食堂車・ビュッフェの休止・廃止が相次いだ。
- 1975年(昭和50年)3月 山陽新幹線が博多駅まで開業した事により、大規模なダイヤ改正が行われる。「あさかぜ」は東京駅~博多駅間の1往復が廃止されて2往復になり、「桜島」・「高千穂」も廃止。同列車の廃止により、東京~大阪間を走破する昼行優等列車は消滅。東京駅~米子駅間に新たに寝台特急「いなば」が新設され、この時急行から特急に格上げられた「紀伊」と名古屋駅(運転停車)まで併結して運行されることとなった。それと引き換えに、「銀河」1往復は廃止された。また、臨時急行「長州」も廃止。
- 1978年(昭和53年)10月 このときのダイヤ改正で「いなば」は「出雲」に統合される。
- 1980年(昭和55年)10月 このときのダイヤ改正で「東海」を2往復に、「比叡」を1往復に減便。
- 1981年(昭和56年)10月 「東海」の内上り1本は、浜松駅~静岡駅間普通列車という形で区間延長する。
- 1984年(昭和59年)2月 このときのダイヤ改正で「紀伊」・「比叡」廃止。
- 1986年(昭和61年)11月 国鉄最後の大規模ダイヤ改正が実施され、「東海」の浜松駅始発の列車を再び静岡駅始発とする。
- 1991年(平成3年)6月 ブルートレイン「みずほ」の食堂車営業を終了。
- 1993年(平成5年)3月 ブルートレイン「あさかぜ」・「はやぶさ」・「富士」・「さくら」食堂車営業を終了。
- 1994年(平成6年)12月 「あさかぜ」の東京駅~博多駅間1往復と、「みずほ」廃止。
- 1996年(平成8年)7月 「東海」は、東京駅~大垣駅間運転の夜行普通列車とともに使用車両を153系から性能向上させた165系電車に置き換えられていたものの、それも老朽化していたことから、この時新製された373系電車 への置き換えを実施。この時「東海」は特急列車に格上げられ、夜行普通列車は全車指定席の快速列車「ムーンライトながら」となった。
- 1998年(平成10年)7月 「瀬戸」と「出雲」の内1往復が285系電車化され、同時に「出雲」は伯備線経由となって東京駅~岡山駅間で「瀬戸」と併結運行される事になり、それぞれ「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」となった。
- 1999年(平成11年)12月 「はやぶさ」と「さくら」が東京駅~鳥栖駅間で併結運行となる。
- 2005年(平成17年)3月 「あさかぜ」、「さくら」が廃止され、「富士」と「はやぶさ」が門司駅まで併結運行となった。
- 2006年(平成18年)3月 東京駅~出雲市駅間の寝台特急「出雲」が廃止される。これで、東京駅発着で単独運行する寝台特急列車が消滅した。
- 2007年(平成19年)3月 「東海」、利用客の減少に伴い廃止。
[編集] 列車名の由来
- 「安芸」(あき) 広島県西部の旧国名「安芸」にちなむ。
- 「あかつき」 明け方を表す言葉の「暁」にちなむ。
- 「あさかぜ」 朝に目的地に到着することから、朝吹く風の「朝風」にちなむ。
- 「いこま」 大阪府と奈良県にまたがる「生駒山」にちなむ。
- 「出雲」・「いずも」 島根県東部の旧国名「出雲」にちなむ。
- 「伊勢」(いせ) 三重県中部の旧国名「伊勢」にちなむ。
- 「いなば」 経由地鳥取県東部の旧国名「因幡」にちなむ。
- 「伊吹」(いぶき) 滋賀県・岐阜県の県境にある「伊吹山」にちなむ。
- 「雲仙」(うんぜん) 長崎県にある火山の「雲仙岳」にちなむ。
- 「おおとり」 伝説上の鳥である鳳凰の異称でもあるが、単に大形の鳥の意の「おおとり」にちなむ。
- 「鴎」(かもめ) 鳥の「カモメ」にちなむ。
- 「紀伊」(きい) 和歌山県南部・三重県南部の旧国名「紀伊」にちなむ。
- 「霧島」・「きりしま」 鹿児島県と宮崎県にまたがる「霧島山」にちなむ。
- 「銀河」(ぎんが) 天体の「銀河」にちなむ。
- 「金星」(きんせい) 太陽系惑星の「金星」にちなむ。
- 「くにさき」 大分県北部の「国東半島」にちなむ。
- 「月光」(げっこう) 月の光を表す「月光」にちなむ。
- 「玄海」・「げんかい」 目的地付近の海域名「玄界灘」にちなむ。
- 「こだま」 その日の内に行って帰ってこられることから、音がかえってくる現象名「木霊」にちなむ。
- 「五島」(ごとう) 目的地の長崎県西方に位置する「五島列島」にちなむ。
- 「ことぶき」 めでたいことを表す「寿」にちなむ。
- 「西海」(さいかい) 九州地方の海を表す「西海」にちなむ。
- 「櫻」・「さくら」 日本を象徴する花の「サクラ」にちなむ。
- 「桜島」(さくらじま) 鹿児島県にある「桜島」にちなむ。
- 「さちかぜ」 「幸せを運ぶ風」の意味で作られた造語による。
- 「さつま」 鹿児島県の旧国名「薩摩」にちなむ。
- 「さぬき」 目的地宇野駅対岸の、宇高連絡船で渡った先にある香川県の旧国名「讃岐」にちなむ。
- 「サンライズ瀬戸」・「サンライズ出雲」(-せと・-いずも) 使用する285系電車の愛称が「サンライズエクスプレス」であることから。「サンライズ」は名の通り「日の出」を意味する。
- 「新東海」(しんとうかい) 「『東海』よりも一ランク上の新しい列車」の意味で命名。
- 「彗星」(すいせい) 天体の「彗星」にちなむ。
- 「すばる」 天体の「昴」(プレアデス星団)にちなむ。
- 「するが」 静岡県東部の旧国名「駿河」にちなむ。
- 「せっつ」 大阪府北部の旧国名「摂津」にちなむ。
- 「瀬戸」・「せと」 目的地付近の海、「瀬戸内海」にちなむ。
- 「高千穂」・「たかちほ」 霧島山の「高千穂峰」にちなむ。
- 「長州」(ちょうしゅう) 山口県西部の旧国名「長門」の別称「長州」にちなむ。
- 「ちよだ」 皇居(旧、江戸城)の別名「千代田城」にちなむ。
- 「筑紫」(つくし) 福岡県の旧国名「筑紫」にちなむ。
- 「燕」・「つばめ」 鳥の「ツバメ」にちなむ。
- 「東海」(とうかい) 地方名の「東海」、また街道・路線名の「東海道」にちなむ。
- 「中伊豆」(なかいず) 伊豆半島(旧伊豆国)の中部へ向かう列車であるから。
- 「ながさき」 目的地の県名・市名「長崎」にちなむ。
- 「長良」・「ながら」 岐阜県を流れる「長良川」にちなむ。
- 「那智」(なち) 目的地の吉野熊野国立公園の「那智滝」・「那智山」にちなむ。
- 「なにわ」 大阪の古名「なにわ」にちなむ。
- 「日本平」 静岡県静岡市にある景勝地「日本平」にちなむ。
- 「能登」(のと) 石川県北部の旧国名「能登」にちなむ。
- 「はと」 鳥の「鳩」にちなむ。
- 「はまな」 静岡県西部の「浜名湖」にちなむ。
- 「早鞆」(はやとも) 関門海峡の「早鞆の瀬戸」にちなむ。
- 「はやぶさ」 鳥の「ハヤブサ」にちなむ。
- 「はりま」 兵庫県西南部の旧国名「播磨」にちなむ。
- 「比叡」(ひえい) 京都府・滋賀県県境に位置する「比叡山」にちなむ。
- 「ひびき」 音の「響き」にちなむ。
- 「富士」(ふじ) 日本を象徴する山の「富士山」にちなむ。
- 「ぶんご」 大分県の旧国名「豊後」にちなむ。
- 「平和」・「へいわ」 「平和」を願うという意味から。
- 「みずほ」 瑞々しい稲穂を表す言葉の「瑞穂」から。
- 「宮島」(みやじま) 日本三景の「厳島」の通称「宮島」にちなむ。
- 「明星」(みょうじょう) 金星の異称「明星」にちなむ。
- 「やましろ」 京都府南部の旧国名「山城」にちなむ。
- 「大和」(やまと) 奈良県南部の旧国名「大和」にちなむ。
- 「よど」 大阪付近を流れる「淀川」にちなむ。
- 「六甲」(ろっこう) 神戸市北部にある「六甲山」にちなむ。
[編集] 参考文献
- 寺本光照『国鉄・JR 列車名大事典』(中央書院、2001年7月)ISBN 4887320930