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イスラーム建築

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Category:イスラム教

イスラーム建築Islamic architecture)とは、草創期から 現代に至るまでに、イスラームの人々によって生み出された建築である。ムスリム建築、ムハンマダン建築とも呼ばれる。たいへん多様な建築であり、建築材料も建築技術も多岐にわたるが、一定の統合的な原理を持ち、また、古代建築の特徴を西洋建築よりも色濃く受け継いでいる。

イスラーム文化の領域内においては、モスクミナレットミフラーブ、ムカルナスなどの施設が採用されたため、建築のデザインや構成は地域性を超えて大きな影響を受けた。また、イスラームでは偶像崇拝が禁止されていたため幾何学模様と文字装飾が発展し、美しいアラベスクカリグラフィーがイスラーム建築を彩っている。

ここでは、イスラーム建築をいくつかの地域に分け、その変遷の歴史を展開した上で、構成要素を展開する。現代イスラーム建築についても、簡単に触れる。

目次

[編集] 概説

イスラーム建築とは、7世紀から18世紀、ないしは19世紀までの期間に、イスラーム文化圏で形成された建築を指している。現代のイスラーム世界の建築は、現代建築としてこの言説では触れられないこともある。ほぼ1200年に渡る時間と、世界の半分と言ってもよいほどの地域を占めており、その意匠はイスラームを信奉する民族と同じほど多様性を持つと言っても過言ではない。ただし、イスラーム教は宗教であると同時に社会構造であると言ってもよく、このため、イスラーム建築には地域性を超えた、共通した特質が認められる。

イスラーム建築は、カロリング朝滅亡の後に古代と断絶したヨーロッパ諸国の建築に比べ、古代建築の諸形態をよく受け継ぎ、今日に至るまで維持してきた。このため、イスラーム建築の形態は、おおまかに、南西部アナトリア半島から北部シリアパレスティナエジプトリビア沿岸部から北アフリカ西部までのかつてのローマ帝国および東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配地域と、メソポタミアアフガニスタンパキスタンなどのサーサーン朝ペルシャ帝国の支配地域に分けることができる。

アッバース朝滅亡の後に勃興し、あるいは衰退していったイスラーム諸国は、特定の宗教施設、社会施設を導入し続けた。これについては、少なくともウマイヤ朝の成立からアッバース朝が滅亡するまでの間は、ローマ式の社会制度と建築施設を各地に建設し続けたローマ建築と状況はよく似ている。実際に、礼拝モスク、ミナレットミフラーブ、ムカルナスなどの施設はイスラーム建築の最も目立つ共通性となている。

イスラーム建築の歴史については、便宜的に次のように区分することができる。つまり、「前古典期」あるいは「形成期」、「古典期」、「ポスト古典期」である。「形成期」は、イスラームが生まれる前の建築を積極的に導入し、同化していった時期で、ウマイヤ朝、アッバース朝、初期ファーティマ朝後ウマイヤ朝、そしてサーマーン朝ガズナ朝、初期セルジューク朝の建築がこれにあたる。「古典期」は、ムカルナスと尖頭アーチが普及していった時期で、建築技法や建築形態は、国や民族の壁を超えて自由に交錯した。「ポスト古典期」は、イスラーム建築の(現代イスラーム建築を除く)最後の改変期で、オスマン帝国サファヴィー朝、そしてムガル朝の建築のことである。これらの巨大勢力の建築は、地理的に隣接しているにも関わらず相互に全く影響を及ぼさなかった。

[編集] 歴史

[編集] 形成期の建築

アッバース朝の歴史家イブン・サードは、預言者ムハンマドの伝記において、ムハンマドが信者の財産を無駄にするということで建物の建設を禁じたと伝えている。豪華な建築物の建立と偶像を禁止するという預言者の教えに従い、ムハンマの存命中と彼の後継者である正統カリフの時代には、イスラーム建築はほとんど発展が望めない状況にあった。しかし、ウマイヤ朝の時代になると、イスラームは芸術に対する関心を示すようになり、これにともなって建築も発達する。ウマイヤ朝からアッバース朝の時代にかけて、イスラーム建築は古代の建築を吸収し、イスラーム特有の建築形態を模索することになるのである。

[編集] 預言者ムハンマドと正統カリフの時代

マッカの「カアバ神殿」
マッカの「カアバ神殿」

ムハンマドがキブラカアバ神殿に定めたのは624年のことであったが、マッカとカアバ神殿がクライシュ族から奪還され、イスラームの聖地となったのは630年であった。この場所はイスラーム以前から聖地として巡礼者を集めていたが、ムハンマドが偶像崇拝を禁止したため、カアバ神殿内の偶像は全て破壊され、壁面にイエス聖母マリアアブラハム預言者、そして天使と木々だけが残った。カアバ神殿はイスラーム最初の建築物であるが、すでに存在していた建築物であって、イスラーム建築と呼べるものではない。

7世紀中に、ムスリムの軍隊は、ペルシャシリアエジプトマグレブ(そして8世紀にはイベリア半島)に領土を拡大していった。それらの領域の支配において、ムスリムが一番重要と考えたのが、信仰の拠点となるモスクの整備であった。638年、サード・ブン・アル・ワッカースはクーファの町を建設し、ここに会衆モスクを建設した。周囲をによって一辺約104mの正方形に区切り、キブラに向かって木造屋根を架けた列柱を持つだけの、たいへん簡素なものである。しかし、このような建物が最初のイスラーム建築で、635年頃に建設されたバスラの会衆モスクは葦で囲われただけであった。

宗教施設と比較すると、世俗建築はより強固な建築であった。635年にバスラには政庁府(ダール・アル・イマーラ)が建設され、638年には、クーファにも政庁府が建設されるが、賊が侵入したことによって、ウマル・イブン=ハッターブはクーファの政庁府をより堅牢なものに建て替えるよう命じている。また、644年から656年の間に、ムアーウィアによってダマスカスの政庁府が建設されている。しかし、やはり建築物には何らの装飾も行われなかったようで、東ローマ帝国の使節はこの政庁府を評して、上は鳥の巣、下はネズミの巣と述べている。

[編集] ウマイヤ朝によるイスラーム建築の発達

エルサレムの「岩のドーム」
エルサレムの「岩のドーム」
ダマスカスのウマイヤ・モスク
ダマスカスのウマイヤ・モスク

それまでの正統カリフの時代に比べると、ウマイヤ朝はイスラームに芸術をもたらすことになるが、その着想はサーサーン朝の装飾やシンボルの影響がたいへん強く、少なくとも芸術分野においては、ウマイヤ朝はサーサーン朝の後継者であった。東ローマ帝国の影響があまり認められないのは、コンスタンティノポリスを攻略できなかったことが大きいと考えられる。建築については、やはりサーサーン朝のペルシャ様式の影響が濃いものの、ローマ建築古代エジプトビザンティン建築の影響も認めることができる。

ウマイヤ朝による初期のイスラーム建築の傑作は、7世紀末に完成したエルサレム岩のドームと、8世紀初頭に完成したダマスカスのウマイヤ・モスクである。アル=アクサー・モスクも、現存する建物は ワリード1世によって建設されたものが中核となっているが、アッバース朝の時代に大増築され、さらに後の時代になっても度重なる変更が成された。現存する部分では、東側の廊下の一部がワリード1世の時代のものと考えられている。

岩のドームは、ウマイヤ朝の全盛期を築き上げた第5代カリフであるアブドゥルマリクの手によるもので、八角形の台座の上に、室内に光を取り込むドラムと呼ばれる円筒状の部分を設け、その上に金色に輝くドームを設けた。台座にあたる部分は、カアバと違って八角形で、内陣(聖なる岩がある)を周歩廊が取り囲むが、この形式は、4世紀にローマに建設されたサンタ・コンスタンツァ聖堂、ないしはエルサレム聖墳墓教会堂のロトンダの部分と類似している。

ダマスカスの大モスクは、ローマ帝国時代にユピテル神殿が、東ローマ帝国の時代にはヨアンニス聖堂があったが、ワリード1世は、706年に教会堂を破壊し、その場所をテメノス(聖域)にしたモスクを建設した。ウマイヤ・モスクの中央に設けられた袖廊の北側正面は、コンスタンティノポリスにあった皇帝宮殿のハルケ門や、スプリトのディオクレティアヌスの邸宅、イタリアラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂モザイクに描かれた東ゴート王国テオドリック王の宮殿などとの共通性が指摘されている[1]。このペディメントの形式は、シリアのローマ建築を発祥とするもので、ダマスカスの大モスクでも、テオドリックの王宮と同じようにモザイクがちりばめられ、中庭と廊下はカーテンで仕切られていたようである。

[編集] ペルシャ建築とトルキスタン建築

[編集] 初期のペルシャ建築

サーマッラーのモスク
サーマッラーのモスク
ブハラの「カルヤーン・ミナレット」とモスク
ブハラの「カルヤーン・ミナレット」とモスク
ガズナの「ミナレット」
ガズナの「ミナレット」

アラビア半島に続いて、イスラーム世界に取り込まれたのは歴史的シリア、エジプト、そして、サーサーン朝が君臨していた現在のイランイラクである。

イスラーム建築の多くがサーサーン朝以来のペルシャ建築の伝統を引き継いだ。762年にアッバース朝第2代カリフのマンスールのによって建設されたバグダードは同心円状の三重の城壁をもつ都市プランをもった円形都市であった。このモデルは、古代のニネヴェハトラ、ハッラーン、さらにはサーサーン朝時代に建設されたイランのフィールーザーバード Fīrūz-ābād といったイラン、イラクの諸地域に過去存在した、古代の宇宙論的な思想によって選ばれ建設された円形の都市構造を受継いだ物であった。マンスールによるバグダード建設のアイデアは、元はゾロアスター教徒であった宮廷占星術師ナウバフト Nau-bakht とペルシア系と思われるバスラ出身のユダヤ教徒マーシャーアッラーフ Māshā' Allāh らから来ている。この円形都市バグダードの建設は、当時マンスールなどが強力に推進していたサーサーン朝の君主たちによる占星術的な天命思想を模範とする、アッバース朝初期の統治イデオロギーの具体的な表出と考えられている[2]

847年には、アッバース朝の手によって、イラクサーマッラーに大モスクが完成した(サーマッラーの大モスク)。第8代カリフムウタスィム(在位833年-842年)はマムルークを保護するためにバグダードからサーマッラーへ遷都し、モスクの建設を開始したが、ムウタスィムの存命中に大モスクは完成することはなかった。サーマッラーの大モスクは、螺旋型のミナレットを持つ。岩のドームやウマイヤ・モスクが地中海世界が育んできた建築様式を採用したのに対し、サーマッラーのモスクを契機に、イスラーム独特の建築様式を持つようになる。ムハンマドの時代にはミナレットが存在しなかったことを考慮に入れる必要がある[3]。アッバース朝の衰退とともに、イランや中央アジアは、アッバース朝が掌握できないようになった。しかし、アッバース朝のカリフという建前上とはいえ、ムハンマドの代行者が存在していること、各地の地方政権が、モスク建設の際に、当時、流行しだしたサーマッラーの建築様式を採用しだした。サーマッラー以東の建築は煉瓦を用い、像の足のように太い構造柱(ピア)を用いた。この様式の影響は、カイロのイブン・トゥールーンのモスクにまで影響を与えた[4]

サーマッラーの大モスクは、イラン、イラク、中央アジアで建設されるモスクに大きな影響を与えた。1117年に完成したブハラ(現ウズベキスタン)のカルヤーン・ミナレットは、煉瓦で作り出された様々な模様の横縞で描かれている[5]し、また、ガズナ朝スルタン、マスウード3世が1100年頃にアフガニスタンガズナに建てたミナレットも煉瓦の置き方によって模様を作り出す技法を用いている[6]ことからも明らかである。

セルジューク朝時代は、従来のモスクや墓廟建築に加え、マドラサが宗教施設の要素として確立された時期である。ニザームルムルクによって創設されたニザーミーヤ学院はニーシャープールにはじまりバグダード、エスファハーン、ライイなどに設置された。これはルーム・セルジューク朝、ザンギー朝やアイユーブ朝などセルジューク朝系の諸政権によってアナトリアやシリア、エジプトなどでもマドラサが一般化していく契機となった。この時期のマドラサとしてはザンギー朝の君主ヌールッディーンのヌーリーヤ学院やアッバース朝第36代カリフ・ムスタンスィルがバグダードに創設したムスタンスィリーヤ学院がある。 また、セルジューク朝時代はモスクやマドラサの建築様式として、中庭や水盤を中心として四方にイーワーンを十字形に配した四イーワーン形式が登場した時期でも有り、現存するものでもムスタンスィリーヤ学院(1234年竣工)ウルグ・ベク・マドラサ、エスファハーンの金曜モスク、イマーム・モスク、マムルーク朝のバイバルス2世廟(1306年)、スルタン・ハサン・マドラサ(1363年)など後世への影響は甚だ大きい。イーワーンを中庭を挟んで対面させる二イーワーン形式や、イーワーンを中庭を挟んで四方に配する形式はサーサーン朝時代や12世紀初頭にガズナ朝のマフムード3世が建設した宮殿群などで見られるようだが、現在見るような四イーワーン形式は12世紀頃にイラン中部のエスファハーン周辺で誕生したと考えられる[7]

タブリーズのマスジェデ・カブート(ブルー・モスク)
タブリーズのマスジェデ・カブート(ブルー・モスク)

その後、イラン世界は、モンゴル帝国(フレグ・ウルス)の支配を受けた。1260年にはモンゴルの西方遠征軍を指揮していたフレグがアーザルバーイジャーン地方の州都タブリーズで即位すると、タブリーズ周辺でさまざまな施設の建設がはじまった。有名な物ではナスィールッディーン・トゥースィーに建設を命じたマラーゲの天文台がある。1295年にフレグの曾孫ガザンが即位すると、経済的活況にともないマドラサ、廟墓などの各種巨大な宗教・寄進施設の建設が相次いだ。代表的なものでは、現在は消滅したがタブリーズにはガザンの名を冠したガーザーニーヤや同じくラシードゥッディーンのラシード区など墓廟を中心とする都市規模の巨大な寄進複合施設が出現し、次代のオルジェイトゥの時代には首都となったソルターニーヤ、および現存するイラン・中央アジア最大の墓廟建築でオルジェイトゥ自身の墓であるオルジェイトゥ廟がある[8]。エスファハーンの金曜モスクなどフレグ・ウルスの領域全土でモスクなどで大規模な改修が行われたのもガザンからオルジェイトゥ、アブー・サイードの時期であった。

ティムール以降の中央アジアは後述するが、ティムールが病没した後のアナトリア、アゼルバイジャン方面は、ティムール帝国の支配から脱した。その後、かつてのフレグ・ウルスの首都であったタブリーズを占領したのが、白羊朝のウズン・ハサンであった。ウズン・ハサンの手によって、タブリーズに1465年に建設されたマスジェデ・カブートは1778年の地震によって、イーワーンしか現存していないものの、かつては、青色のタイルで彩られたモスクであり、従来のペルシャ建築の伝統を引き継いでいる。

[編集] ティムール建築

トルキスタン市の「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟」
トルキスタン市の「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟」
サマルカンドの「グーリ・アミール」(ティムール一族の廟)
サマルカンドの「グーリ・アミール」(ティムール一族の廟)
サマルカンドの「ウルグ・ベク・マドラサ」
サマルカンドの「ウルグ・ベク・マドラサ」

ティムールの時代にイランの宮廷文化は、さらにいっそうの輝きを見せた。中央アジアトルキスタン(ティムール)建築は、15世紀にペルシャ、アナトリア、中央アジアに大帝国を建設したティムール時代に起源を持つ。サマルカンドヘラートティムールとその後継者たちによって壮大でかつ壮麗な建物は、インドにフレグ・ウルスで発達した建築様式を広めるのに大いなる貢献をした。ティムール建築の端緒は、ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟(現カザフスタンのトルキスタン市)とサマルカンドにあるティムール一族の廟である「グーリ・アミール」である。

トルキスタン建築は、トルキスタン建築が登場する以前に流行したペルシャ建築の影響を受けている。全てのトルキスタン建築の建物は線対称に建設された。サマルカンドのシャー・ゼンダーやマシュハドのゴワール・シャーのモスクがその一例である。様々な形の2つのドームは豊富に存在し、外郭は明るい色彩で飾られた。また、ティムール帝国の第4代カリフであるウルグ・ベクは、学問を奨励したことで有名であるが、サマルカンドに現存するウルグ・ベクのマドラサもまた、ティムール建築の傑作の1つとして数えることが可能である。

[編集] サファヴィー建築

詳細はサファヴィー建築を参照
エスファハーンの「イマーム広場」
エスファハーンの「イマーム広場」

トルキスタン様式の影響を受け、「エスファハーンは、世界の半分」とまで繁栄したのが、サファヴィー朝である。エスファハーンに見られる青を主体とした色鮮やかに輝くタイル装飾は、17世紀イラン美術の真骨頂である[9]

エスファハーンのタイルの系譜は、1つは、アルハンブラ宮殿などにも用いられているモザイク・タイルであり、アルハンブラ宮殿などが、直線的な幾何学紋様と組紐紋様を採用したのに対し、イランでは、植物の曲線的な紋様が採用された。もう1つが、絵付けタイルであり、20cm角の正方形であり、それらを集成して模様を描くスタイルであった。

加えて、エスファハーンは、10世紀のシリアの建築には見られなかったアーケード建築が建設された。同様のアーケードは、イスタンブルにも見られる。ここに、イランのイスラーム建築は、ある程度の成熟を見ることとなった。

イラン中央アジア(東西トルキスタン)の建築物は、一部木材が使われたり外壁に陶器等のタイルで覆われているものの、伝統的に基礎部分から建物全体が泥レンガ(アドベ)で構築されているため、地震風化に対しては脆弱である。また、シリア、アナトリア、イランなどの各地域の都市は造山帯のなかにあるため、戦争以外でも地震などによって都市全体が壊滅したという記録も多い。例えば、ニーシャープールはセルジューク朝のトゥグリル・ベクによって最初の首都に定められ繁栄したことでも有名だが、イスラーム帝国に征服されてからモンゴル帝国の侵攻まで幾度かの戦乱に加え、地震によってたびたび市街地全体が崩壊しその都度住民の殆どが死滅するほどだったと当時の記録は伝えられている[10]。同じくイルハン朝の首都となったタブリーズも歴代ハーンたちによって多数の巨大建築施設が創建されたが、そのほとんどがサファヴィー朝時代までに地震によって崩壊し、続く黒羊朝白羊朝オスマン朝といった勢力の境域紛争などによって放棄され、近年のイランの都市整備計画によってそれらの跡地も瓦礫ごと撤去され消滅してしまっている[11]。これらの地域の都市規模の地震被害としては、近年では2003年ケルマーン州周辺を襲った地震で壊滅的被害を受けた世界遺産アルゲ・バムがある。

[編集] ムーア建築

コルドバのメスキータ「円柱の森」
コルドバのメスキータ「円柱の森」
アルハンブラ宮殿のライオンの中庭
アルハンブラ宮殿のライオンの中庭
テルエル大聖堂
テルエル大聖堂
セビリャのアル・カサル
セビリャのアル・カサル

785年コルドバでモスクの建設が始まった。このことが、イベリア半島及びマグレブにおけるムーア建築の始まりである。コルドバのメスキータの特徴は、モスク内部のアーチ建築にある。改築の頂点は、後ウマイヤ朝第代カリフ、ハカム2世(在位961年-976年)の時代に行われた。この時期の改築により、コルドバの大モスクは、礼拝ホールが拡張されると同時に、増築部の中央入り口の上にドームが追加された。さらに、新しいミフラーブの正面と両側にドームが加えられた。また、カリフの威厳を際立たせるために設けられ、マッカに面する壁の通路で宮殿とつながった仕切られたスペースであるマクスーラと礼拝ホールなどを区切ったのは、交差するアーチと豊かな色彩のガラス・モザイクの外装で出来た精緻な仕切りであった[12]

ムーア人におけるイスラーム建築の頂点は、アルハンブラ宮殿である。13世紀ナスル朝首都となったグラナダに建設されたアルハンブラ宮殿は、単なる宮殿ではなく、壁と塔に囲まれた東西720m、南北220mの区域の中に、宮殿、官僚・宮臣の住宅、モスク、店舗、浴場などの公共建築に加え、14世紀に宮殿は東に拡張され、複数の中庭を持つようにいたった複合建築物である。アルハンブラ宮殿は、天井や軒は木造であり、壁はモザイク・タイルで飾られると同時に、壁の上部は、ムカルナスと呼ばれる漆喰で密な彫刻が施された。

レコンキスタが完了したあとでさえも、イスラーム建築がイベリア半島に残した影響は大きなものであった。とりわけ、スペインに残した影響は大きく、中世スペインの建築様式として数えられるムデハル建築は、イスラーム建築のイミテーションであった。ムーア建築の影響を最も色濃く受けたムデハル建築の最も良い例がセビリャのアル・カサル(王宮)や世界遺産にも登録されているアラゴンテルエルサラゴサに点在する)のムデハル建築である。

[編集] エジプトにおけるイスラーム建築

[編集] ファーティマ建築

ケルアンの「オクバ・モスク」
ケルアンの「オクバ・モスク」
スースの「リバート」
スースの「リバート」
カイロの「イブン・トゥールーン・モスク」
カイロの「イブン・トゥールーン・モスク」
カイロ市街の城門
カイロ市街の城門

アラビア半島、歴史的シリア、ペルシャとほぼ同時に、イスラームを受容したのが、エジプト以西の北アフリカである。北アフリカにおける最初の拠点はナイル川沿いの軍事都市フスタートであり、ここを起点にイスラームは、西へと勢力を拡大した。支配地を拡大する中で、モスクの需要が求められたのは、ペルシャ、シリアと同様であった。北アフリカは、ウマイヤ朝、アッバース朝の支配を受けた地域であったが、9世紀のアッバース朝の衰退とともに、他の地域と同様に、地方の自立化が始まった。

北アフリカにおけるイスラーム建築の端緒は、前述のフスタートであり、現在もその特徴を残しているのは、670年に建設されたケルアン821年に建設された城塞都市スースである。また、9世紀、カイロに建設されたイブン・トゥールーン・モスクのミナレットは、サーマッラーの大モスクの影響を受けて建設された。

スースの「リバート」は、ジハードを推し進めるイスラーム戦士の砦として、現存しているものであり、もとは、4世紀のビザンツ建築による教会堂があった。建物の外形は、40m四方で、堅固な石積みの建築で出来ており、四隅には櫓の性格を持つボルジュがある。南東部のボルジュは、ミナレットの役割を果たした。加えて、城壁の内部には、東西17m、南北14mの中庭があり、南辺には、モスクがあるという特徴を持った城塞都市である[13]。スースの城塞都市の構造は、後にアルハンブラにも影響を与えた。

10世紀に入るとアッバース朝の権威は著しく衰退し、3カリフが鼎立する時代となる。現在のカイロを建設したファーティマ朝は、トゥールーン朝が培ってきた建築手法を用いることで、世界最古の大学であるアズハル大学とそのモスクを作り上げた。また、第6代カリフであるハーキムの建造によるアル・ハーキム・モスクは、ファーティマ建築の傑作であり、ここで、ファーティマ朝のカリフの宗教的、政治的役割を強調する式典が執り行われた。このアル・ハーキム・モスクは、モハンマド・ブルハルッディーンの手によって、修繕されている。また、ファーティマ建築の代表作としてアル・ハーキム・モスクと同様に挙げられるのが、カイロ市街の城門である。

[編集] マムルーク建築

バイバルスのモスク
バイバルスのモスク
スルタン・ハサンのモスク
スルタン・ハサンのモスク
アレッポのグレート・モスク
アレッポのグレート・モスク

マムルーク朝1250年-1517年)の時代は、カイロを中心に多くのイスラーム建築が花開いた時代であった。ムスリムの信仰の深さは、宗教建築に数多く反映された。信仰の深さによって、人々は建築及び美術に関しては寛容なパトロンとなっていったのである。パトロンの形態は、イスラームの寄進制度であるワクフに基づいて行われた。マムルーク朝統治下のエジプトは、貿易農業で栄華を極め、首都カイロは、近東世界では最も裕福な都市の一つとなると同時に、芸術、文化活動の中心となった。イブン・ハルドゥーンの言葉を借りれば、当時のカイロは、「宇宙の中心、世界の庭」となる。マムルーク建築は、絵画の明暗法を用いると同時に、建物にも光の効果を利用した。

マムルーク朝は、キプチャク高原出身のマムルークがスルタンとして君臨したバフリー・マルムーク朝(1250年-1382年)時代とブルジー・マムルーク朝時代に分けられる。だが、バフリー・マムルーク朝時代に、マムルーク美術の大枠が定まった。マムルーク美術は、とりわけ、ガラス製品、象眼した金属加工、木工製品、織物といったものが代表として挙げられるが、マムルーク朝時代のガラス製品は、ヴェネツィアン・グラスに大いに影響を与えたように、この時代の芸術作品は地中海世界、ヨーロッパに大きな影響を与えた。

バイバルスとその後継者であるカラーウーン(en:Qalawun)は、マドラサ、霊廟、ミナレット、病院などの建築において、パトロンの役割を果たした。その代表例がカイロに現存するカラーウーン時代の複合建築である。カラーウーン時代の複合建築はカイロに残るイスラーム建築の中でも異色を放つ。馬蹄形アーチ、二心尖頭アーチ、大理石円柱、コリント式柱頭などの細部、丸窓二連アーチの組み合わせ、高窓層を持つ三廊構成、周廊建築を伴う墓建築などがその例である[14]。ハサン・モスクの複合体の建設が始まったのは、1356年である。

ブルジー朝のスルタンもまた、前代のバフリー朝時代と同じように、ワクフを用いて、宗教を保護した。ブルジー朝時代に建設されたものの中で、初期では、バルクーク(1382年-1399年)、ファラージュ(1399年-1412年)などの複合建築がある。

イランとヨーロッパの間の織物の交易が東地中海世界で復活すると経済の復興は著しいものとなった。また、商業の活性化によって、マッカやマディーナへの巡礼(ハッジ)が、活発になった。アル・カーディー・ハーンの倉庫のような巨大な貯蔵施設が貿易のために建設された。また、アレッポやダマスカスにも公共建築の建設の波が押し寄せた。

15世紀後半には、アル=マリク・アル=アシュラフ・サイフッディーン・カーイト・バイ(en:Qaitbay)(1468年-1496年)のワクフによって、マッカとマディーナの復興が行われた。商業施設、宗教施設、橋梁などが多くの主要都市で建設されると同時に、カアイト・ベイの手によるカイロの共同墓地の建設も行われた。カーイト・バイ以後も、断続的に複合建築の建設は行われ続けたが、1517年、オスマン帝国の手によりマムルーク朝が滅亡すると、マムルーク建築は、オスマン建築に影響を残す形で浸透していった。

[編集] オスマン建築

詳細はオスマン建築を参照
イズニクの「イェシル・モスク」
イズニクの「イェシル・モスク」

オスマン帝国では、宮殿、モスク、モスクを中心としたマドラサ、病院や救済施設を融合した複合施設であるキュッリイェ、住宅などで活発な建築活動が行われた。オスマン建築で特筆すべきはその独自性で、初期の形成期を除けば、衰退期にのみ西ヨーロッパの建築装飾の影響を受けたにすぎない。

オスマン帝国がアナトリアに勃興したのは13世紀末であるが、国勢の安定していなかった初期の建築に独自性はあまり見られず、ルーム・セルジューク朝の建築とペルシャ建築が混成したものであった。1333年イズニクに建設されたハジュ・オズベキ・ジャミィは、ドームを扇形のスクインチ[15]で支えるセルジューク朝のシングル・ドーム形式を採用している。また、第3代皇帝ムラト1世時代に宰相を務めた、同じくイズニクにあるチャンダルル・カラ・ハリルの建設したイェシル・モスクは、ペルシャ建築から着想を得たものである。

イスタンブルの「アヤソフィア」
イスタンブルの「アヤソフィア」
エディルネの「セリミェ・モスク」
エディルネの「セリミェ・モスク」

しかし、1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、その領土を一気に拡張して莫大な富を得るようになると、オスマン建築は独自の建築を確立していった。その代表的な建築物が皇帝によって建設された王立金曜モスクである。最初のモスクはシングル・ドーム形式を単純に拡張したものにすぎなかったが、オスマン帝国史上、最高の建築家ミマール・スィナン1489年-1588年)によって、王立金曜モスクは決定的な転換を迎えた。

スィナンは代表作のひとつであるスレイマニエ・モスクの設計にあたって、ビザンツ帝国で最高位の格式を誇ったアヤソフィアの構成を参考にした。東方正教の教会堂であったこの建物は、ビザンツ帝国を滅ぼした第7代君主メフメト2世(在位1451年-1481年)の指示によって、大聖堂に接続する総主教館と内部の十字架が撤去されていたが、ミフラーブと四隅のミナレットが追加され、アヤソフィア・ジャーミイとして最も格の高いモスクとして再生していた。スィナンは、このモスクの改修に携わった経験もあったため、スレイマニエ・モスクでは、アヤソフィアと同じように中央にドームを載せ、前後に半ドームを有する大空間を構築した[16]。このように、スィナンのモスクはアヤソフィアから着想を得たものが多いが、彼自身が傑作と呼ぶセリミェ・モスクは、構造的にはアヤソフィアとはまったく異なる独創的なものである。直径31mもの巨大なドームは、フライング・バットレスによって補強された軽快な構造体の上に載り、内部空間を明るく落ち着きのあるものにしている。スィナンによって建設されたスレイマニエやセリミェの壮麗さは、ブルー・モスクなど、その後の王立金曜モスクに受け継がれた。

トプカプ宮殿内の「バグダッド・キョシュク」
トプカプ宮殿内の「バグダッド・キョシュク」
サフランボル旧市街
サフランボル旧市街

15世紀に建設されて以来、トプカプ宮殿は増改築を繰り返しながらオスマン帝国の政庁として機能してきた。この宮殿は、オスマン建築の他の施設や、他のイスラーム諸国の宮殿建築に比べると幾何学的対称性に欠ける。第2中庭の政庁・第3中庭の玉座の間・第3中庭の謁見の館における玉座の位置に見られるように、軸線は建物隅部分を意識している。トプカプ宮殿のこのような非対称性は、つまりこの宮殿が公共のための建物ではく、私的な住宅複合体であることを意味している。自然の地形をそのまま利用し、非対称な空間を好むのは、起伏に富む小アジアの風土とトルコ民族の民族性に由来するようである[17]

実際に、オスマン建築では住宅建築を無視することは出来ない。17世紀以降、宮殿や貴族の邸宅では、キヨスクの語源となるキョシュクが建設され続けたが、19世紀に至るまで、材質や装飾、調度品の豪華さの程度はあるものの、平面的には皇帝や貴族と庶民の間には基本的な差異はなかった。宮殿であっても内部空間大きさは人間的な尺度で作られ、決して壮大なものではない。また、特定された目的のための部屋を作るという意識はほとんどなかった。居住空間としての柔軟性が求められているのは、それが本質的に住宅であることを示している。庶民の住宅は、黒海に近い隊商都市として発展し、その町並みが世界遺産にも登録されているサフランボルの住宅群が参考となる。サフランボルには、現在でもおよそ100年から200 年前に建設された住宅が残っている。かつては一族郎党が一軒家に暮らし、夏と冬の住み分けが行われていたものの、部屋の用途は柔軟であった。このほか、この町には13世紀に建設されたモスクや浴場が残る[18]

[編集] ムガール建築

デリーの「クトゥブ・ミナール」
デリーの「クトゥブ・ミナール」
デリーの「フマーユーン廟」
デリーの「フマーユーン廟」
アーグラのレッド・フォート
アーグラのレッド・フォート
アーグラの「タージ・マハル」
アーグラの「タージ・マハル」
ハイデラバードの「チャハール・ミナール」
ハイデラバードの「チャハール・ミナール」

インドにイスラームが流入したのは、10世紀ごろのことと思われる。アッバース朝が衰退していく過程で、ガズナ朝がインダス川流域に進出を開始した。その後、ゴール朝の支配が展開された。したがって、初期のインドにおけるイスラーム建築は、トルキスタン建築の影響を受けた。その典型例が、現在、デリーに残るクトゥブ・ミナールである。アフガニスタンに建てられたジャームのミナレットの大きな影響を受ける形で、奴隷王朝の創始者であるクトゥブッディーン・アイバクの手によって、1202年にミナレットは建立された。赤砂岩と白大理石を素材として建てられたこの塔の下には、かつて、ヒンドゥー支配者の宮殿や寺院が存在し、寺院から転用された石材で、モスクが構築された。裏を返せば、クトゥブ・ミナールと隣接して建てられたモスクは、厚いアーチ壁を除き、ヒンドゥー建築をそのまま転用したものである[19]

インドのイスラーム化は、奴隷王朝に始まるデリー・スルタン朝(デリー・サルタナット、1206年-1526年)の約300年間で進展した。トゥグルク朝1320年-1413年)の臣下が独立したバフマニー朝1347年-1527年)の時代には、イスラーム化は、デカン高原にまで拡大した。デカン高原の中央部の都市ビーダルには、インドでは珍しいペルシャ建築やトルキスタン建築の影響を受けたガーワーン学院が建築された。ガーワーン学院は、建物の表面を色鮮やかなタイルで装飾された。中庭を囲む形で3階建ての小部屋が配置されたが、ペルシャなどでは、1階あるいは2階建ての小部屋しか建築されなかったことの相違がある。3階建てを可能にしたのは、ガーワーン学院における建築素材は、粗石とモルタルを用いた点で、ペルシャの煉瓦による建築という点で違いが見受けることが可能である[20]

デカン高原の大都市ハイデラバードには、1591年に、ムハンマド・クリ・クトゥーブ・シャーによって建設されたチャハール・ミナールが建設された。クトゥブ・シャーヒー王国の全盛期を築いたムハンマドの手によって建設されたチャハール・ミナールは、1階の四面に大きなアーチを開き、2階をモスクにしたが、四隅に4本のミナレットが建っているという点で、後に登場するタージ・マハルとは異なる。ミナレットの意義が礼拝を呼びかけるという元来の意味から街のメルクマールの1つになった好例である[21]

その後、北インドを統一したのがムガール帝国である。ムガール帝国は、インド建築とトルキスタン建築を融合させる形で、インド独自のイスラーム建築を作り上げていった。フマーユーン廟に見られるように、墓建築の分野でもインドにおけるイスラーム建築は発展の過程を見ることが出来る。そのフマーユーン廟に影響を受けたムガール建築最高の傑作の1つが、タージ・マハルである。第5代皇帝シャー・ジャハーンが、14番目の子供を生むときに亡くなった愛妃ムムターズ・マハルのために建築したタージ・マハルは、タージ・マハルの特徴は、完全な線対称の形をとっていることにある。

竣工に20年以上を費やした総白大理石によって建築された。しかし、その白大理石のみならず、碧玉翡翠トルコ石ラピスラズリサファイアカーネリアンなどの宝石・功績が象嵌として埋め込まれたため、ムガール帝国の国庫は破産寸前の状態にまで陥った。

[編集] 中国におけるイスラーム建築

西安の「大清真寺」
西安の「大清真寺」
北京の「牛街清真寺」
北京の「牛街清真寺」
カシュガルの「艾提朵爾」
カシュガルの「艾提朵爾
トルファンの「モスク」
トルファンの「モスク」

中国に最初のモスクが建設されたのは、7世紀の代の西安である。現存の建物は、代に建てられた西安大清真寺は、伝統的なイスラーム建築を模写していない点で特徴がある。その代わり、伝統的な中国建築を模倣している。中国におけるイスラーム建築は、トルキスタンなどの西部では、地理的に近接しているトルキスタン建築の影響を受けている一方で、中国の中心部は、その影響を受けておらず、逆に、道教儒教仏教の寺院の建築様式の影響を最も受けている。具体的には、中国の都市における四合院と呼ばれる中庭住宅の伝統を用いる。四合院の手法により、中国のイスラーム建築は、中庭をいくつも通過することで、礼拝所(西安大清真寺であれば、一番東の中庭から5つの中庭を通ることによって)にたどり着くようになっている[22]

中国におけるイスラーム建築で最も強調されているのは、対称性である。対象性が、壮大さを暗示している。このことは、全てのモスクに当てはまる。唯一の例外は、庭園である。出来るだけ対称にならないように建築されている。中国の巻物に描かれている絵画のように、庭園の構成要素の基本的な原則は、流れを重視することである。

中国におけるイスラーム建築は、赤あるいは灰色の煉瓦で建築されてはいるが、最も重要なのは、木製の構造だということである。木製にすることで、地震に対しての耐性は煉瓦建築よりも確保することが出来るようになったが、火災に関しては脆弱になった。典型的な中国のモスクの屋根は、曲線美を持っている。すなわち、切妻屋根に分類され、ヨーロッパ建築の円柱の様式と比較される。

[編集] 周辺世界におけるイスラーム建築

[編集] サハラ地帯におけるイスラーム建築

ジェンネ
ジェンネ
トンブクトゥ
トンブクトゥ

北アフリカでのイスラームの浸透は、カイロのアズハル大学のように有名なイスラーム建築を生んだ。また、北アフリカからサハラ交易によって、イスラームがサハラ地帯に広がることとなった。サハラ南部におけるイスラーム建築の発展は、ガーナ王国の時代が始まりである。11世紀のガーナ王国時代に、ムラービト朝との間で、岩塩の交易が推進さ、13世紀マリ王国時代には、王権自体がイスラーム化した。その後も、在地のイスラーム王国が存亡を繰り返した[23]

13世紀に成立したマリ王国の首都として建設されたトンブクトゥは、サハラ交易における商都の役割を果たしたのみならず、サハラ地帯の宗教センターも兼ねた。その中で、1324年、アンダルシア出身の建築家であるアブー・イシャク・アッサーヘリーによって、大モスクが建設された。イスラーム建築の主流がサーマッラー以東が煉瓦、サーマッラー以西が石であるが、トンブクトゥやジェンネに現存するイスラーム建築の建築材料は日乾煉瓦と塗である。ミフラーブやミナレットというイスラーム建築の根幹の部分には、イスラーム建築の伝統である日乾煉瓦を使用しているが、アフリカの伝統的工法である泥、樹皮を剥いた自然木、石をそれ以外のもとに使用することで、他の地域とはっきりと区別しうる建築様式が誕生した[24]

[編集] スワヒリ文化圏

キルワのモスク
キルワのモスク
ザンジバルの「ストーン・タウン」
ザンジバルの「ストーン・タウン」

サハラ交易によって、イスラームがサハラ地帯に広がったのに対して、現在のスワヒリ文化圏に含まれるケニアタンザニアなどに点在するインド洋に面したイスラーム都市群が建設されたのは、インド洋交易によって、イスラームがアラビア半島やペルシャから伝わったことが大きい。スワヒリ語が形成されたのもイスラーム商人と現地の商人が交易をする中で、現地の商人が自らの語彙にアラビア語の語彙を加えていったからである[25]

12世紀、王権を確立したスルタンの手によって、キルワでモスクの建設が開始された。現在では以降となっているキルワのモスクは建材として、初めは木材が使われたが、後に石が使用されるようになった。加えて、珊瑚を建材として使用した点で特色がある。産後は海の中で切れば軟らかいが、海から陸に上げ建材になるほど硬くなるという特質がある。また、他の地域のイスラーム建築が装飾にタイルを使用しているが、キルワにおいては、その代用という形で、陶器が埋め込まれている[26]

[編集] 東南アジア世界のイスラーム建築

クアラルンプールの金曜モスク
クアラルンプールの金曜モスク

東南アジア世界もまた、イスラーム教徒が多い地域である。インドネシアマレーシアブルネイフィリピンミンダナオ島タイのマレーシア国境付近の南部諸州に数多くのムスリムが居住する。東南アジアのイスラーム化もスワヒリ文化圏と同様にムスリム商人が香料を求めて、この海域へ進出を開始し、その程で、浸透したことが背景にある。

イスラームが浸透する以前のマレー世界は、仏教文化、ヒンドゥー文化が反映した地域である。そのことは、現在のバリ島でも確認することが可能である。

また、19世紀にクアラルンプールに建設された金曜モスクは、イスラーム世界の中心の建築様式を様々な形で採用している。赤と白の縞模様は、コルドバのメスキータ、正面のアーチは、スペインや北アフリカ、ムガル建築で多く見受けることが出来る多弁オジー・アーチ(花弁型、しかも曲線が反転している)である。クアラルンプールの金曜モスクがこのような南国情緒を漂わせる建築様式となったのは、イギリス人の建築家ハボックによる設計である。ハボックの設計は、近代オリエンタリズム思想という西洋人によるイスラームへのフィルターの反映でもあった。そして、マスジェデ・ネガラが一つの雛形となって、マレーシアやインドネシアでは、無国籍のイスラーム建築が数多く建設された[27]

[編集] 現代のイスラーム建築

イスラマバードの「ファイサル・モスク」
イスラマバードの「ファイサル・モスク」
カサブランカの「ハサン2世モスク」
カサブランカの「ハサン2世モスク」
ジャカルタの「イスティクラル」
ジャカルタの「イスティクラル」

モダニズム建築の影響は、1300年近い伝統を持つイスラーム建築にも大きな影響を与えた。20世紀前半には、西欧の植民地であった北アフリカ、中東、中央アジア、インド、東南アジア、独立を達成していたが、西欧化を標榜していたトルコ、イランにもその影響が広がった。20世紀前半におけるこれらの地域の建築は、駅や市庁舎、銀行、博物館、大学、病院といった近代的システムで運営される建造物がモダン建築の影響を受けて、建設された。しかし、宗教建造物は、伝統的様式に従っていた。

宗教建造物が、モダニズム建築の影響を受け随時、建設されたのは、これらの地域が独立を達成し、大規模な国立モスクを建設するようになったからである。とはいえ、コンクリートなどの新しく登場した建築素材を用いながらも、それぞれの伝統様式とモダン建築を融合した建築が多く見受けることが可能である。

例えば、カサブランカのハサン2世モスクは、ムーア建築の影響を色濃く残す建築様式であるし、イスラマバードのキング・ファイサル・モスクは、四隅に建つミナレットはオスマン建築の影響を色濃く残す。

また、1983年に、アーガー・ハーン3世が創設したアーガー・ハーン賞を受賞したヴィソコの白いモスク(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)は、鉄筋コンクリートで建設されたが、従来のこの地方での建築様式を踏襲しながらも、礼拝室の殺ぎ落とされた立体に仕組まれた4つの明り取りの窓が並ぶ外観、真っ白な壁面を彩る黒いアラビア文字は、動乱と対立が続くこの地域において、宗教性を脱却した印象を与えたモスクである[28]

[編集] 構成要素

[編集] ドーム

詳細はドームヴォールトを参照
ブハラの「サーマーン廟」
ブハラの「サーマーン廟」

ドーム」のことをアラビア語でクッバ قبّة qubba、ペルシア語ではグンバド、ゴンバド گنبد gunbad/gonbad と言うが、ドーム建築がイスラームに固有のものであるかといえば、必ずしもそうではなくほかの地域の建築様式に由来していると記したほうが正確である。具体的に言えば、イスラーム建築に大きな影響を与えたのは、古代ローマの建築(例えば、パンテオン神殿)やビザンティン建築の傑作であるアヤソフィア(オスマン帝国以後、4本のミナレットが追加されたが、建築自体は、東ローマ帝国時代である)などの初期キリスト教世界の建築様式やサーサーン朝の建築様式の影響を受けている[29]

ドームは、墓建築やモスクに用いられた。イスラーム建築において、ドームが利用されるようになったのは、ルサレムの岩のドームをその始まりとする。岩のドームの建築の動機が預言者ムハンマドの昇天の出発点となるその記念碑的な岩を覆うためにドームを架けることによってムスリムの記念碑を残そうという意図があったと伝えられている[30]わけであった。墓建築が重要になったのはムスリムの死生観が背景にあり、墓は彼らにとって、最後の審判までの待機所であったからである[31]

墓建築とドームの関係は強固である。特にペルシア語でゴンバドと言うと、多くの場合、墓廟そのものを指す。また、それぞれの地域色豊かなドームが各地で建設されるようになった。10世紀に建設されたブハラのサーマーン廟(en:Samanid mausoleum)をはじめとする四角い部屋にドームを戴く建築方法が最も世界中に普及した形であり、西はマグレブ、東は中国、インドまで広がった。この建築方法をキャノピー・トゥーム(天蓋墓)と呼ぶ[32]。最大規模のキャノピー・トゥームは、カルナータカ州の都市ビジャプールにあるゴル・グンバッズであり、一辺が45mに及ぶ[33]

また、墓建築が建設されるにあたって、イスラームにおける聖者崇拝(スーフィズム)との関連性を排除することはできない。カザフスタンのホジャ・アフメッド・ヤサウィ廟のように、廟のドームよりも大きい集会室に大ドームを戴くようになる[34]

[編集] イーワーン

タージ・マハルのイーワーン
タージ・マハルのイーワーン
エスファハーンの金曜モスクのイーワーン。12世紀初頭の建設。(ミナレットは15世紀に追加。)
エスファハーンの金曜モスクのイーワーン。12世紀初頭の建設。(ミナレットは15世紀に追加。)

イーワーンは、サーサーン朝の持つ建築伝統に由来している点では、ドームと同様である。部屋の四辺のうち一辺を戸外、時にはドーム室などより大きな空間に向かって開き、また、正面には大アーチが設けられることが多い。しかも、普通の部屋よりも大きく、天井が高い開放的な空間となる場合もある。

柱のない大空間としてのイーワーンは、紀元前後のオリエント建築に誕生したが、現代のイスラーム建築に採用されるようになったのは、12世紀のペルシャ世界が始まりとされる。大ドームとセットになることで、モスク建築に取り入れられるとともに、このイーワーンとドーを組み合わせた形が、大モスク建築のスタンダードとなり、13世紀には、エジプト、アナトリア、インドでも採用された[35]

[編集] アーチとアーケード

コルドバのメスキータ(交差アーチの一例)
コルドバのメスキータ(交差アーチの一例)
詳細はアーケード_(建築物)アーチを参照

イスラーム建築の登場以前からアーチ建築は活発に行われた。具体的には、古代ローマ建築の石造半円アーチ、古代ペルシャ建築の煉瓦造放物線アーチなどであるが、ユダヤ教やキリスト教において、アーチは聖性を意味した。

イスラーム建築においてはアーチの形の種類画像がすると同時に、使い方も多岐にわたるようになった。基本的にモスクのミフラーブは、アーチの形をとるのが一般的である。イスラーム建築で使われるアーチは以下の通りである。

馬蹄アーチは、のような形を採った形でシリアが最古の例であるが、マグレブ、アンダルシアで好まれて使われてきた。尖頭アーチは、円弧をつないで、頂部が尖った点となる。中心の数によって、二心、三心、四心アーチとなるが、イスラームは四心アーチが主流である。オジー(反転)アーチは、アーチの上部の傾きが逆になって反転する形をとり、16世紀以降のインド・イスラーム建築に多く見られる形態である。多弁アーチは、複数の円弧曲線を花弁状につないだアーチで装飾性が強い。スペイン、北アフリカで好まれ、近世のインドで特に発展した。交差アーチは、アーチを交差して文様を描く[36]

また、アーケード建築は、これらのアーチをつないで建設されたものである。

[編集] 庭園

詳細は庭園#イスラムの庭園を参照
ラホールのシャーラマール庭園
ラホールのシャーラマール庭園

クルアーンでは庭園を楽園のアナロジーとして用いている。そのため、クルアーンの記述はイスラーム建築において多大な影響を与えた。そのため、イスラーム建築には、様々な庭園が建設された。

数多くあるイスラーム建築の中で著名な庭園は、世界遺産にも登録されているグラナダのアルハンブラ宮殿、エスファハーンの王のモスクとその広場や、ラホールのシャーラマール庭園、アーグラのタージ・マハルなどが代表である。また、庭園には、イスラーム建築の住宅が中庭を持つ住宅であることが多いことからわかるとおり、それぞれに特色があるが、共通点として挙げられるのが、中庭である場合には、ほぼ矩形で中心軸が設定され、周囲に列柱廊が好んで使われる。

[編集] 墓塔とミナレット

サーマッラーの大モスクのミナレット(螺旋形)
サーマッラーの大モスクのミナレット(螺旋形)
ラバトのマンスール・モスク(角塔)
ラバトのマンスール・モスク(角塔)
詳細はミナレットを参照

ミナレットは、もともと、屋根の上で行われた礼拝の際の参加を呼びかけであるアザーンを行う機能を持った。素材は地域により異なるが、多くは煉瓦か石でできており、建築様式や装飾、本数も地域によって様々である。また、イランのミナレット(例えば、エスファハーンの王のモスクなど)はタイルで鮮やかな装飾が施されている場合が多い。

9世紀のサーマッラーの大モスクは、現存する形とすれば、3例しかない螺旋形である。9世紀にスペインからイランにかけて流行した角塔ラバトのマンスール・モスクなど)、10世紀以降に中央アジアからペルシャ世界で流行した円塔(ブハラのカリヤン・モスクなど)、二基一対円塔のドゥ・ミナール(ヤズドの「金曜モスク」など)、インドで流行したドゥ・ミナールの変形である多塔形、カイロのアズハル・モスクに代表される分節形、1から6本のミナレットを建築する近世オスマン建築の鉛筆形に分類することが可能である。

コンヤのジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー廟(13世紀半ばの造営)聖者廟に用いられた錐状屋根の一例
コンヤのジャラールッディーン・ムハンマド・ルーミー廟(13世紀半ばの造営)聖者廟に用いられた錐状屋根の一例

また、ミナレットを検証する上で、墓建築との関係についても検証する必要がある。錐状屋根を戴く墓塔の最古例は、11世紀初頭のイラン・ゴルガンにあるゴンバディ・ガーブーズ廟である。ズィヤール朝の君主ガーブースが存命中に建設を命じたこの廟は、従来の墓建築がドーム屋根を戴く形が主流だったのに対して、異色を放ったが、その背景には、ミナレットの円筒を模倣した可能性は否定できないまでも、ゾロアスター教の影響を考慮に入れる必要があり、死後の宮殿を意図したものであった[37]

その後、墓塔建築は、セルジューク朝期にカスピ海南岸地域を中心に、建設されていったが、墓塔の錐状屋根は、ダブル・ドーム(二重殻ドーム)への以降の引き金となった。ダブル・ドームとは、外側の錐状屋根と内側の丸天井の間には空隙が差し込まれ、構造的に分離したドームの建築方法である。しかし、墓建築がトルコ民族の西進とともに、アナトリア方面へ伝播していったが、必ずしも墓塔はイスラーム建築の主流になることはなく、11世紀初頭から15世紀末までの中世アナトリア・ペルシャ・中央アジアに限定された。また、15世紀には、イランとアナトリアの一部しか残らず、15世紀以降は一部の聖者廟の建設にのみ限定された[38]

[編集] ミフラーブ

ヤズドの「金曜モスク」より
ヤズドの「金曜モスク」より
詳細はミフラーブを参照

ミフラーブとは、マッカ礼拝(サラー)の方角と決定した時[39]に、ムスリムがマッカの方角がどちらであるかを知るために、モスクに設けられたものである。そのため、マッカのマスジド・ハラームを除き、全てのモスクに備え付けられている。その多くは、アーチ型をしていて、普通は、モスクの最奥の壁に取り付け、あるいは埋め込まれる形でも受けられていて、モスクの核となる装置である。

ミフラーブのアーチ型の由来は、ユダヤ教やキリスト教といった既存の一神教の伝統に存在した至高の場所を示すアーチの形が使用された説が有力とされているが、その語源は、はっきりしていない。また、ミフラーブが方角を示す役割を果たした以上に大きな意味を持たされていた。儀式との関連、カリフ権の象徴、建築の見せ場として用いられ、次第にアーチの形がイスラーム建築の表象となっていくという進化を見ることが可能である[40]

また、ミフラーブは、モスク建築のみならず、墓建築の中でも見出すことが可能である。例えば、デリーのフマーユーン廟は、透かし細工の西壁にアーチの形が光の中に浮かび出るように建築されているが、その先には、フマーユーン廟の西門があり、その先には、マッカがある[41]

[編集] ムカルナス

エスファハーンの「王のモスク」より。ムカルナスが外面で使われている一例
エスファハーンの「王のモスク」より。ムカルナスが外面で使われている一例
アルハンブラ宮殿「二姉妹の間」のムカルナス
アルハンブラ宮殿「二姉妹の間」のムカルナス

英語鍾乳石を意味するスタラクライト、あるいは蜂の巣天井を意味するハニカム・ヴォールトのことをムカルナスMuqarnasمقرنس)と呼ぶ。ドームやミナレットがイスラーム以前の建築様式を受け継いできた歴史を持つのに対し、ムカルナスは、イスラーム建築の中で生まれ愛好されてきた。この技法は、鍾乳石状、蜂の巣状に小さな曲面を集合させて、全体として凹曲面を作り出す建築的な装置である。

ムカルナスという語彙自体、アラビア語ペルシャ語トルコ語共通の単語であり。1183年イブン・ジュバイルの旅行記にカルナシという言葉が用いられて、手の込んだ仕事を意味すると同時に、ムカルナス・ドームを著していたのが最古の例であり、中世アラビア語の"Q-R-N-S"の配列の第三の意味である「突き出た崖」から派生した言葉という節が有力である[42]。ムカルナスは、装飾的役割を果たすものとして自然発生し、10世紀には、東方イスラーム世界の構造的役割を起源とするものと融合する形で、現在のムカルナスが誕生した。その結果、ムカルナス自体は、中世、遅くとも12世紀初頭にはペルシャを中心に活用されてきたことがわかっている。そして、ペルシャや中央アジアといったペルシャ語文化圏のみならず、12世紀半ばには、ダマスカス、フェスまで伝播したことがわかっている。

イスラーム建築において、ムカルナスが積極的に用いられた場所は、ハニカム・ヴォールトの言葉あるとおり、天井が格好の場となった。また、ドーム移行部もムカルナスの頻出する場所であるし(例えば、サーマーン廟)、イーワーンのような天井にもムカルナスは積極的に用いられた。

[編集] アラベスク(幾何学性のある装飾)とカリグラフィー

詳細はアラベスクイスラームの書法を参照

[編集] アラベスク

エスファハーンの「王のモスク」より。極座標の考え方の典型例。
エスファハーンの「王のモスク」より。極座標の考え方の典型例。

アラベスクは、イスラーム美術の基本要素であり、モスクやムスリムの住宅の壁を装飾する装置として用いられた。その紋様は、コンパス定規によって考案された。イスラームの図学の基本は、いわゆる直交座標と極座標の考え方を利用した。直交座標の典型例は、タージ・マハルなどの四分庭園である。また、直交座標のみならず、60度に交わる3つの平行線群(これで六芒星や正三角形、正六角形の描画が可能となる)、45度に交わる4つの平行線群(これで八芒星や菱形、正八角形の描画が可能となる)、30度に交わる6つの平行線群(これで十二芒星、正十二角形の描画が可能となる)、36度に交わる5つの平行線群(これで五芒星や十芒星、正五角形、正十角形の描画が可能となる)などの直交座標以外の直線によって描画ができる星も重要視された。加えて、ドームの紋様は、ドームの中心を極とした極座標を使用する例が多い。それらを反復することで、アラベスクは描画することが可能となる[43]

[編集] カリグラフィー

メクネスの「マドラサ」より
メクネスの「マドラサ」より
アルハンブラの「カリグラフィー」
アルハンブラの「カリグラフィー」

カリグラフィーは、イスラーム美術の特徴であるアラベスクと同様に、イスラーム建築の壁や天井を彩る。イスラーム世界の現代の芸術家は、カリグラフィーの遺産に基づいて、自らの作品に用いている。

ムスリムにとって、カリグラフィーは、視覚的に最上の芸術表現であると評されるのは、イスラーム美術がイスラームという宗教とアラビア語の間に密接な関係があるからである。クルアーンがアラビア語、とりわけ、アラビア語のアルファベットの発展に最も寄与しているわけであるが、クルアーンから引用される言辞や文節は、今もなお、カリグラフィーにとって、重要な資源である。

[編集] 関連項目

Wikimedia Commons
ウィキメディア・コモンズに、イスラーム建築に関連するカテゴリがあります。

イスラーム建築及びイスラーム建築に基づいて建設された都市の多くがUNESCO世界遺産に登録されている。以下に、国別に例示する。

[編集] 参考文献

  • 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』(東京堂出版、2003) ISBN 4-490-20498-1
  • 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』 (講談社現代新書、2005) ISBN 4-06-149779-0
  • J. Esposito編・坂井定雄監修・小田切勝訳 『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 (共同通信社) ISBN 4-7641-0551-9
  • 世界遺産アカデミー監修『世界遺産学検定 2 ヨーロッパの世界遺産+世界の危機遺産』 (講談社、2006) ISBN 4-06-213250-8
  • 世界遺産アカデミー監修『世界遺産学検定 3 南北アメリカ、アジア、アフリカ、オセアニアの世界遺産』 (講談社、2006) ISBN 4-06-213250-8
  • 今公三 『イスラームとユダヤの世界遺産 Best99』 (角川書店、2006) ISBN 4-04-853979-5
  • アンリ・スチールラン著・神谷武夫訳『イスラムの建築文化』 (原書房)
  • ディミトリ・グタス著・山本啓二訳 『ギリシア思想とアラビア文化 初期アッバース朝の翻訳運動』 (勁草書房)
  • 本田実信「スルターニーヤの建設」『モンゴル時代史研究』 東京:東京大学出版会 1991年. pp.343-356(初出「スルターニーヤ建都考」『東方学会創立四十周年記念東方学論叢』1987年)
  • 羽田正「『牧地都市』と『墓廟都市』—東方イスラム世界における遊牧政権と都市建設—」 (『東洋史研究』49-1、1990年)
  • 文部省科学研究費重点領域研究「イスラムの都市性」総括班編『「イラン・地震・都市性を考える」 : イスラムの都市性・公開セミナー』東京 : (東京大学東洋文化研究所。1991年)

[編集] 脚注

  1. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.46ほか。これはよく知られた事実である。当初のファサードは1069年の火災により焼け落ち、後再建されたが、さらに1893年の火災によって消失した。このため、今日の正面はオリジナルとは異なるので、比較しても類似はしない。
  2. ^ アンリ・スチールラン著・神谷武夫訳『イスラムの建築文化』 (原書房)pp.58-59、ディミトリ・グタス著・山本啓二訳 『ギリシア思想とアラビア文化 初期アッバース朝の翻訳運動』 (勁草書房)pp.33-68
  3. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.147-151
  4. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.159
  5. ^ J. Esposito編・坂井定雄監修・小田切勝子訳 『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 (共同通信社)p.322
  6. ^ J. Esposito編・坂井定雄監修・小田切勝子訳 『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 p.303
  7. ^ アンリ・スチールラン著・神谷武夫訳『イスラムの建築文化』 (原書房)pp.83-99
  8. ^ 本田実信「スルターニーヤの建設」『モンゴル時代史研究』 東京:東京大学出版会 1991年. pp.343-356(初出「スルターニーヤ建都考」『東方学会創立四十周年記念東方学論叢』1987年)、羽田正「『牧地都市』と『墓廟都市』—東方イスラム世界における遊牧政権と都市建設—」 (『東洋史研究』49-1,pp.1-29,1990.6
  9. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.175
  10. ^ 文部省科学研究費重点領域研究「イスラムの都市性」総括班編『「イラン・地震・都市性を考える」 : イスラムの都市性・公開セミナー』東京 : 東京大学東洋文化研究所。1991.1
  11. ^ 羽田正「『牧地都市』と『墓廟都市』—東方イスラム世界における遊牧政権と都市建設—」 (『東洋史研究』49-1,pp.1-29,1990.6
  12. ^ J. Esposito編・坂井定雄監修・小田切勝子訳 『イスラームの歴史 1 新文明の淵源』p. 334
  13. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.93-94
  14. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.104
  15. ^ 「立方体に内接する半球形を載せるとき、四隅の部分に45度方向にアーチや筋交い梁を入れた処理を指す。(中略)東のドームの系統を支えた技法である。」深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.49
  16. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.134
  17. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.129-130
  18. ^ http://whc.unesco.org/archive/advisory_body_evaluation/614.pdf
  19. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.97
  20. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.211-216
  21. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.97-98
  22. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.248-251
  23. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.235-236
  24. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.238-240
  25. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』p.236
  26. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.243-244
  27. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.254-257
  28. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.137-144
  29. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.47-48
  30. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.63
  31. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.64-65。ただし、イスラーム初期は、遺体を埋葬した地上に記念的建築物を建立するのは良くないことだといわれたため、岩のドーム以降で、次の墓建築は、9世紀のサーマッラーにあるアッバース朝第11代カリフ・ムンタスィルの墓、クッバト・アッ=スライビーヤ(スライビーヤ廟)を待たなければならない。
  32. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.67
  33. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.67
  34. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』p.68
  35. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.55-57
  36. ^ 深見奈緒子『世界のイスラーム建築』pp.56-57
  37. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.82-84
  38. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.84-85
  39. ^ 井筒俊彦『コーラン』(上)p.37
  40. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.108-119
  41. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.122-124
  42. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築のみかた』pp.134-135
  43. ^ 深見奈緒子『イスラーム建築の見かた』pp.153-158

[編集] 外部リンク

英語版をそのまま、採用している。

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