学校群制度
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学校群制度(がっこうぐんせいど)とは入試実施方法の一つであり、複数の学校が「群れ」を作ってその中で学力が平均化するように合格者を振り分ける方法である。各自治体の公立高校全日制普通科のみが対象であり、専門学科や国立、私立高校は対象には入らなかった。
特に東京都、千葉県、愛知県、岐阜県、三重県、福井県において高校入試で学校間の格差をなくすために用いられた。
「総合選抜」と異なる点は、学区内に複数の学校群があり個々の学校群は「単独選抜」と同様の難易度の格差があったことである。総合選抜をとっていた広島県でも、三次地区と廿日市地区では2校間の総合選抜で実質的に学校群制度と同一だった。また京都府や兵庫県、山梨県などでは現状でも総合選抜が実施されている。また「総合選抜」との共通点は、小学区制度かそれに近い形式を採ることである。
公立学校間格差を無くし均質化を実現したことで成果を挙げたが、東京都では東大合格者数1位を記録していた日比谷をはじめ西、戸山、新宿、小石川、両国、小山台などの名門都立諸高の東大進学実績が落ち込んだ。
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[編集] 各地の状況(現在は全て廃止)
[編集] 東京都
- 1928年 入試制度改革により東京府立各校が内申書による選抜法導入。志願者が概ね減少(ただし、文部省の方針が定まらず各校とも口問による口答・筆答の形式を併用、入試制度の実質的変化は無かった)。
- 1940年 学区制度施行(当時の国家社会主義的色彩の強い戦時統制経済の下で施行。なお国民学校・国家総動員法も参照)。4学区に分けたが学区間での受験は緩やかであった(その後1945年には7学区、1949年の新制高等学校への改編に伴ない10学区に分ける。これは戦後GHQによる学制改革及び小学区制・男女共学・総合選抜の三点モデルの影響下にあった)。東京府立各校が内申と面接のみの入試制度を採用する。
- 1952年 学区合同選抜制度採用される。通学区域保証という考え方から「受験」ではなく「受検」とし、第一志望に落ちても学区内であれば実際に合格圏内に入れる学校まで志望をだせるようになり滑り止めができるようになった。
- 1967年 東龍太郎都知事時代(美濃部亮吉都知事時代に実施、鈴木俊一都知事時代に廃止)、小尾乕雄(おびとらお)教育長によって都立高校入試に学校群制度が採用されることになる。詰込教育批判への対応から9→3教科受験になり、内申を実質的にペーパーと半々で考慮し比重が高まった。
- 都立の特権進学校をなくし八ヶ岳的に進学実績がなだらかになることを狙ったものと云われているが、国立や私立高校、ひいては私立中学へ受験生が流出し都立高校の進学実績が全般的に低下することになった。また、これ以降、15歳どころか12歳の春を泣かせることになり受験低年齢化に拍車をかけた、あるいは当初の八ヶ岳的な多様性を狙いとするのなら国私立も含めた大枠からの施行であるべきところ、単に国私立の特権校をつくりだしただけだ、などとの批判も根強く、学校群施行前から指摘されてもいた。つまり社会科学的見地からも選択肢の多い東京など大都市圏では特にその実効性を上げ難いことが云われていた。内申点の重点化は、中学生の部活動加入を高め、また偏差値による輪切りが見られるようになるなど、戦後民主主義の思想的潮流と同時に当時の管理教育の時代背景があることも見逃せない。
- 学校群編成にあたり、旧制中学系と旧制高女系の一流校は同一の群とされ、名門校の温存が図られた。その結果、学校群内の学力は均質化されたものの、今度は学校群間に格差が発生した。また、もともと校風の全く異なる学校同士を組み合わせたため、本来の志望校以外に振り分けられた場合の違和感は大きく、多くの都立棄権者を出すことになった。
- 学校群制度は、その内容から俗に「日比谷潰し」と称された。同校は九段及び三田と学校群「11群」を形成したが、(1)他の主要学校群がおよそ二校なのに比して三校で群を形成、(2)受験生の意思による単独での学校選択が出来なくなったこと(その他に部活動に関しても、入学後は野球をする意志のある者は野球部のない三田には入学しないであろう)、(3)住民抄本提出の義務等など学区外からの越境入学が難しくなり受験出来る者が限られたこともあり、志願者層の変化が起こったこと、(4)1965年の進学指導中止を申渡す「第1次小尾通達」もあり、学園紛争の影響下、都立各校では進学指導を中止する動きが広まったことや補習科の廃止など、教える側の熱意が奪われたこともあり教育内容面での変化も起きたこと、(5)新中間層の出現など大衆受験社会の到来もあり時代的に国私立の中高一貫校の台頭など進学ルートの多様化が既に見られたことなど、その他の要因(学校個々の文化資本etc)もあるにせよ東大合格者数トップの座を失い、以後も同じ都立高である西や戸山等と比較しても急速に東大合格者数上位校からもその名が消えることになった。1977年には文部省から公立中学・高等学校に「ゆとり教育」も打ち出される。
- 1982年 学校群制度廃止。学区内でおよそ2つのグループに分けた合同選抜(グループ合同選抜制度)を採用。5教科受験になる。志望順が尊重されるようになり第一志望に落ちても学区内で実際に合格圏内に入れる高校を三校まで第二志望をだせ滑り止めができるようになった。グループに分けたのは特定校への受験集中を緩和する意図があったためである。また事実上は隣接学区からの受験者もいた。
- 1994年 グループ選抜制度廃止。各校毎の単独選抜制度に移行。内申の取扱も各校毎の事情に合わせて比重が異なるようになった。特に2000年以降、内申の評価が相対から絶対に移行し学習進度を正確に表さなくなった為に、その傾向が顕著になってきた。隣接学区枠を設ける。1996年には推薦入学選抜を初めて実施。私学協会の反対もあり適性試験は行われず。
- 2003年 学区制度廃止。
- 学校群(1967年の制度発足当時)
-
- 1980年当時の各学校群のおよその難易度(晶文社高校受験案内より)
- 特 22群(戸山・青山)32群(西・富士)72群(立川・国立)
- A1 11群(日比谷・九段・三田)21群(新宿・駒場)34群(大泉・石神井・井草)41群(小石川・竹早)52群(上野・白鴎)61群(両国・墨田川・小松川)74群(武蔵・三鷹) 国分寺 調布北
- A2 14群(小山台・田園調布)23群(広尾・都立大学附属・目黒)25群(千歳・松原)33群(豊多摩・杉並・荻窪)42群(北園・豊島・板橋)53群(江北・足立)64群(江戸川・小岩)75群(府中・神代) 城東 八王子東 保谷 狛江
- 1980年当時の各学校群のおよその難易度(晶文社高校受験案内より)
[編集] 千葉県
各学校の希望者のうち、成績上位の者から、各学校の募集定員の20%(1976年からは30%)を優先的に希望校に配分。残りの合格者については、成績分布や男女比均等、通学所要時間を考慮し、出来るだけ希望を尊重しつつ振り分けられた。
結果として、既存校と新設校との格差はある程度改善されたが、名門校の進学実績は温存されることになった。千葉県の学校群制度は当初から反対の声も多く、教育現場に無用の混乱をもたらしたため、わずか3年で廃止された。
[編集] 愛知県
- 1973年(昭和48年) 仲谷義明(なかやよしあき)教育長(のち県知事)によって、名古屋、豊橋、一宮、岡崎、刈谷地区の公立高校普通科入試で採用される(刈谷地区は女子校の刈谷北高校を共学校に転換して実施)。この時、採用が予定された蒲郡地区は地元の反対で見送り、豊田地区は、女子校の豊田東高校が共学校に転換されなかったため実施されなかった。
名古屋地区は県・市立の15校が各校2つの学校群に所属する15の複合学校群。
豊橋地区は4校で2学校群、一宮・岡崎・刈谷各地区は2校で1学校群の単独学校群を採用。
しかし、学校群の編成は1973年のみで、1974年以降の新設校の学校群への組み込みは頓挫し、各校で単独選抜を実施した。 - 東京都の学校群が「日比谷潰し」と呼ばれたのに対し、愛知県の学校群は、「旭丘潰し」と位置づけることができる。しかし、名古屋市では当初案の単独学校群ではなく複合学校群が採用されたことで、旭丘高校(旧愛知一中)と名古屋2群を組んだ千種高校(昭和38年開校)が、これまた伝統校の市立菊里高校(旧市立第一高女)と名古屋1群を組んだことによりにわかに進学校化し、2群を受ければ千種高校か旭丘高校のどちらかには必ず入学できたため、旭丘高校の進学実績や社会的評価が大幅に低下することはなかった。これは、東京のような国私立の名門校が無かったことも一因である。旭丘高校の組み合わせのもう一方の名古屋3群は交通の便が悪い市立北高校と組んだため不人気で、1群・2群から振り分けられた生徒が通う千種高校が県内の高校でトップの進学実績をたたき出すこととなった。
- 千種高校と同様に、伝統校である名古屋西高校(旧県立第二高女)・明和高校(旧明倫中・県立第一高女)と学校群を組むことができた中村高校(昭和28年開校)も進学実績が大きく上昇した一方で、組み合わせに恵まれなかった瑞陵高校(旧愛知五中)や豊橋東高校(旧豊橋二中)では進学実績が大きく低下した。また一部の生徒は他地域と同様に、「どちらの高校に振り分けられるかわからない」学校群を避けるようになり、尾張地方では、西春高校、五条高校、市立名東高校といった名古屋市内・近郊の公立新設校や私立の東海中学校・高等学校と滝中学校・高等学校が躍進・台頭した。反面、三河地方では、躍進・台頭した私立高校はなかった。
- 1989年(平成元年) 学校群制度廃止される。
別日程で2校を併願できる複合選抜制度に移行。複合選抜制度下では、普通科入試においては学区外の高校を受験したり、群を跨いでの併願をすることはできないが(一部例外あり)、同一学区・同一群内のA・Bグループ各1校の併願ができる。 - 学校群廃止後、予想されたことではあったが、学校群制度導入により大躍進した千種高校、中村高校、岡崎北高校、刈谷北高校の入試難易度は易化し、進学実績は再び落ち込んだが、その程度には差が見られる。
もっとも、豊橋南高校のように、進学実績は再び落ち込んだものの、中間学力層にはかえって地元(豊橋市南部)にお手頃な入試難易度の公立普通科高校ができて良かった、という功罪相半する高校もある。また、すべての伝統校の入試難易度・進学実績が回復したかと言うと、必ずしもそうはなっていない。 - 学校群制度導入の目的であった「学校間格差の縮小・解消」、「名古屋市内と市外の地域格差の縮小・解消」、「男女共学の促進」、「地元高校への進学指導」等は賛否はあるものの一応それなりに達成され、その精神は引き続き複合選抜制度に受け継がれることとなった。
- 学校群
[編集] 岐阜県
- 岐阜学区2群 長良 岐山
- 岐阜学区3群 岐山 岐阜北
- 岐阜学区4群 岐阜北 加納
- 岐阜学区5群 加納 岐阜
上記の5校以外の岐阜学区の高校は単独選抜。
この当時は現在と異なり加納高校が学区内2番手、岐阜北高校が学区内3番手であった。この当時の加納高校は岐阜高校を目標としていたため非常に校風は厳しく、その成果もあり最盛期には東京大学・京都大学合わせて20人以上合格する年もあった。現在の加納高校は、その反動のためか自由な校風であり、大学合格実績では岐阜高校、岐阜北高校の国公立大学合格者が250名を超えるのに対し、加納高校は150名程度と大きく水をあけられ、コンスタントに140名前後の国公立大学合格者を出す岐山高校にも肉薄されている。岐阜県に関して言えば学校群制度により学力の低下が顕著に見られるということは他県に比べて少なかったように考えられる。
西濃学区では1974年~1979年は大垣北高校・大垣東高校・大垣南高校の3校で、1980年~1982年の入試では大垣西高校も含めた4校で学校群が組まれた。
- 西濃学区2群 大垣東 大垣南
- 西濃学区3群 大垣南 大垣北
- 西濃学区1群 大垣北 大垣西
- 西濃学区2群 大垣東 大垣南
大垣西高校ができた当時は上記のように大垣北高校との組み合わせだったため、創立当初から進学実績の高い高校であった。しかし1983年に学校群制度が廃止されると、大垣西高校は大垣市のはずれという非常に不便な場所に位置していたため、偏差値が急落。それ以降は国公立大学の合格者が10名程度にまで成績が落ち込んでしまった。また大垣南高校も設立当初は市内の中心部に位置し進学実績も良かったのだが、1974年に大垣東高校が設立された際に、大垣市南部の浅中に移転したため、設立が古く伝統がある大垣南高校よりも、大垣東高校のほうが進学実績が上となってしまった。(国公立大学合格者数 大垣北 毎年270名前後、大垣東 毎年150名前後、大垣南 毎年60名前後)
[編集] 三重県
~1995年実施。
学校群制度末期の1990年代初頭、四日市の進学実績が目にわかる形で落ち込んだ。1995年に学校群制度が廃止される一年前に、即座に四日市が新学科を設けて対抗。四日市南、津西、宇治山田のレベルが相対的に低下した。津西は廃止後もそれなりに健闘しているのに対し、四日市南と宇治山田は壊滅的と形容できるほど低下した。地理的に恵まれなかったとも言われる。また、南勢学区は人口が希薄だったこともあり、もともと3群のレベルは他と比べて随分劣っていたが、学校群制度の廃止によって宇治山田の進学実績は国公立大学の合格者数が50人に満たないほどにまで低下している。
現在は伝統的進学校の四日市、津の二雄が圧倒的な進学実績を誇る。
[編集] 福井県
学校群制度による選抜を実施する前は高志より藤島が学力の高い傾向を示していた。学校群制度を廃止してからは高志に人気が集まる傾向を示していが、学校群廃止後一期生の大学進学成績では藤島が高志をリードしている。
[編集] 広島県
呉・三原・尾道・三次・廿日市地区にて1976年~1998年まで実施。
同時に実質的に小学区制(47学区制)から大学区制(4学区制)に移行したため(正式には1962年)通常「市内五校」と呼ばれた総合選抜実施校は、県内広範囲から受験者を集めることができ、目立った学力低下は見られなかった。
大学区制による下宿生の増大などの問題を解決するため、中学区制に移行した。 同時に『市内五校』のほか、新たに6地区(呉・三原・尾道・福山・三次・廿日市)で総合選抜実施する。 そのうち、呉地区は三校間、三原、尾道、三次、廿日市地区では二校間でしかなかったため実質的に学校群制度と同一であった。 さらに、中学区制移行に伴い、広島、三次地区では、学区内に総合選抜高以外に公立普通科高がなくなり、実質小学区制となった。移行措置として、各高校とも定員の10%(第4学区「市内五校」は20%)は他学区の生徒を受け入ることが可能であった。しかし、その措置も1981年からは全高校とも定員の3%に縮小、1998年5%に再拡大するも、進学実績が徐々に振るわなくなっていった。 特に、県北部の進学校である三次地区の三次高校は、実質小学区制になったうえに総合選抜相手高である日彰館高校が地理的に冬季は下宿を必要とする可能性があったことや、福山地区では、総合選抜各校の距離が遠いこともあり、さらに進学実績も振るわないようになっていく。
- 1988年 福山地区(旧第9学区)総合選抜5校を6校にしたうえに(既存の福山明王台高校の総合選抜加入)、東西の学校群(グループ・各3校)に分割。
- 1991年 総合選抜制度下の「広島市内六校」を東西の学校群(グループ)に分割。国泰寺高校・皆実高校・基町高校は東部グループに、観音高校・井口高校・舟入高校は西部グループに各所属することになる。
- 1991年 三次地区(旧第13学区)総合選抜廃止。単独選抜へ移行。
- 1998年 全地区で総合選抜制度廃止され、各校毎の単独選抜制度となる。14学区制から15学区制へ移行(第3学区を2地区に分割(安芸・安佐))。
- 2003年 中学区制(15学区制)から中学区制(6学区制)に移行。学区外定員を今までの5%から30%に拡大。
- 2006年 学区制廃止。大学区制(全県1学区制)に移行。
- 大学区制(4学区制)時代(高校数など1962年発足当時・高校数に分校を含まず)
- 中学区制(14学区制)時代(高校数など1976年発足当時・高校数に分校を含まず)(但し学区外から定員の3%-20%を限度に受け入れ)
- 第1学区(旧加計町など)(普通科高数2校)
- すべて単独選抜
- 第2学区(大竹市・廿日市市・旧佐伯郡・広島市佐伯区など)(普通科高数4校)
- 第3学区(安芸郡・広島市安佐南区安佐北区安芸区など)(普通科高数5校)
- すべて単独選抜
- 第4学区(広島市中区東区南区西区)(普通科高数5校)
- 第5学区(東広島市・旧賀茂郡)(普通科高数4校)
- すべて単独選抜
- 第6学区(呉市・旧江田島町・旧音戸町など)(普通科高数8校)
- 第7学区(竹原市・旧安芸津町など)(普通科高数3校)
- すべて単独選抜
- 第8学区(三原市・尾道市・旧因島市など)(普通科高数8校)
- 第9学区(福山市など)(普通科高数7校)
- 第10学区(府中市・旧神辺町など)(普通科高数5校)
- すべて単独選抜
- 第11学区(旧世羅町・旧三和町・旧上下町など)(普通科高数3校)
- すべて単独選抜
- 第12学区(庄原市・旧東城町・旧西城町など)(普通科高数2校)
- すべて単独選抜
- 第13学区(三次市・旧吉舎町など)(普通科高数2校)
- 第14学区(旧吉田町・旧高宮町など)(普通科高数2校)
- すべて単独選抜
- 第1学区(旧加計町など)(普通科高数2校)