陰陽師
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陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)とは、古代日本の律令制下に於いて陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを行う方技(技官)として配置され、後には本来の律令規定を超えて占術・呪術・祭祀全般をつかさどるようになった職掌のことをいう。中世以降は、主に各地において民間で個人的に占術・呪術・祭祀を行う非官人の者を指すようになり、現代においては民間で私的祈祷や占術を行う神職の一種として定義付けられている。連声化せずに「おんようじ」と発音されることもある。
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[編集] 歴史と概要
[編集] 陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足
全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五要素の組み合わせによって成り立っているとする陰陽五行思想、ないしこれと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計などは、5世紀から6世紀にかけて飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した512年(継体天皇7年)ないし易博士が来日した554年(欽明天皇15年)の時点までに、中国大陸(隋)から朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)経由で伝来した。
当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、602年(推古天皇10年)に日本における陰陽道のパイオニアとも言うべき觀勒(観勒 かんろく)が百済から来日し、聖徳太子や多くの官僚に諸学を講じると大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用され、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために607年(推古天皇15年)には先進文明国である随に向けて遣隋使の派遣が始められたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土や朝鮮半島から多数の僧侶ないし学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては『日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る』ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。
7世紀には、壬申の乱の際に自ら式(ちょく)を取って占うほど天文遁甲の達人で陰陽五行思想に造詣の深かった天武天皇が、676年(天武天皇4年)に「陰陽寮」や日本初の占星台を設け、685年(天武天皇13年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなど、陰陽五行思想はさらに盛んとなり、718年(養老2年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮の設置が明文化され、これに方技(技官)として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常任されることが規定されると、神祇官の龜卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。大陸伝来の技術を担当する方技だけに、各博士や陰陽師には、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて漢・高句麗(コグリョ、こうくり)・百済(ペクチェ、くだら)、まれに新羅(シルラ、しらぎ)から帰来した学僧が任命されている。
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮(せんぜい)、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的儀礼や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。
[編集] 律令官制としての陰陽寮の機構と陰陽師の職務
- 陰陽頭(おんみょうのかみ)
- 陰陽寮長官。陰陽寮を統括し、天文・暦数・風雲・気色をのすべてを監督して、異常発生時には外部に漏れることなくこれを記録密封し極秘に奏上(天文密奏)、暦博士が作成した新年の暦を毎年11月1日までに調進(御暦奏)、また都度占筮及び地相の結果を奏上する職務。定員1名。官位は従五位下。
- 陰陽助(おんみょうのすけ)
- 次官、陰陽頭の補佐業務を行った。定員1名。従六位上。
- 陰陽允(おんみょうのじょう)
- 判官(ほうがん)、寮内を糾見し書類の審査など事務全般の管理を行った。定員1名。従七位上。
- 陰陽大属(おんみょうのたいぞく)
- 上級主典(さかん)、公文書の記載・読上げなどの記録実務を行った。定員1名。従八位下。
- 陰陽小属(おんみょうのしょうぞく)
- 下級主典、陰陽大属を補佐して記録実務を行った。定員1名。大初位上。
技官である方技として、
- 天文博士(てんもんはくじ)
- 天文道の主担当者。天文の気色を観測して異変があれば部外に漏れぬようこれを密封するとともに、修習生である天文生10名を指導する教官。定員1名。正七位下、陰陽諸道の中では天文道が最も難しいとされていたため、他の博士よりも位が高く設定されている。
- 陰陽博士(おんみょうはくじ)
- 陰陽道の主担当者。陰陽生10名を指導する教官。定員1名。正七位下、天文博士と同様に高い位に設定されている。
- 陰陽師(おんみょうじ)
- 占筮(吉凶を占うこと)・地相(方位を観ること)の専門職。定員6名。従七位上。
- 暦博士(れきはくじ)
- 暦道の主担当者。暦の作成・編纂・管理を担当し、暦生10名を指導する教官。定員1名。従七位上。
- 漏刻博士(ろうこくはくじ)
- 時間管理の主担当者。漏刻(水時計)の設計・管理を指導し、実際に守辰丁を率いて漏刻を稼動させ、その目盛りを読み時刻を管理する職務。2交代制のため定員は2名。従七位下。
陰陽道修習生として、
- 天文生(てんもんのしょう)
- 定員10名。
- 陰陽生(おんみょうのしょう)
- 定員10名。
- 暦生(れきのしょう)
- 定員10名。
これらは官人の子弟にとどまらず、民間人からの登用も可能であった。
他に庶務職として、
- 守辰丁(しゅしんちょう)
- 漏刻博士の管理の下で漏刻を測り、毎時ごとに鳴り物(太鼓、鐘鼓)を打ち鳴らして時報を知らせる実務担当者。定員20名。
- 使部(じぶ)
- 各省共通に配置された庶務職。定員20名。
- 直丁(じきちょう)
- 各省共通に配置された労務職。定員2名。
が配置されていた。
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義ずけることができる。また、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ばれることもあった。
律令おいては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん一般官僚から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置ないし陰陽諸道に関する文献について、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じられていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた9世紀初頭の平安時代初期まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理された。
その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格(きゃく)」・「式(ちょく)」が発令されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになった。
- 内部事務一般を管理する判官である陰陽允は、正式に陰陽大允(おんみょうのだいじょう)・陰陽小允(おんみょうのしょうじょう)のダブル配置となった。定員はそれぞれ1名で、官位は双方同格の従七位上に設定されたが、陰陽小允は陰陽大允を補佐する立場をとった。
- 本来は員外配置である「権職(ごんのしょく)」が、常態化された。
- 大学寮の修業生(しゅうぎょうのしょう)(学を修め大学寮に残って博士を目指す者、現代における大学院修士課程に相当)の運用にならって、天文得業生(てんもんのとくぎょうのしょう)(定員2名)、陰陽得業生(おんみょうのとくぎょうのしょう)(定員3名)、暦得業生(れきのとくぎょうのしょう)(定員2名)が、各博士職や陰陽師職の公認候補として設置された。
- 庶務職においても、陰陽史生(おんみょうのししょう)(定員不明)が設置され、文書の複写や寮内で稟議書を届けて回る伝令として用いられた。本来律令で定められた使部(じぶ)の一部が転用されたとする説や、新規に職制として設置されたとする説があるが、現存する記録が不充分でその実態は明らかにされていない。
[編集] 律令制下における陰陽師の待遇の変遷
一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できるいわゆる殿上人(てんじょうびと)は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下人(じげにん、しもびと)あった。
律令制定当初は、方技である各博士や陰陽師には、もっぱら先進各国から来日した渡来人の学僧が任命されていたが、修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材が登用された。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、かつ僧籍にある者に対して還俗(げんぞく)(僧籍を脱して俗人に戻ること)を能動的に強要するには勅令をもってしか考えられず、このような勅令を乱発することもはばかられることから、俗人官僚に陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとの目的によるものである。
当初は四等官(行政官)と方技(技官)は厳密に区別して任命されていたほか、7世紀後半まで、技官である各博士ないし陰陽師に任命された学僧が就任する際には勅令によって還俗していた。ただ、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになっている。ただ、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である「官位相当」の原則によって方技の職制のままでは位階を上げることが出来ないため、「権(「ごんの」)」の付く員外配置(律令本来の定めにはない運用法で、実態は該当職務を行わないにもかかわらず該当職と同等の待遇とする暫定職位、正式な○○職任命者以外に任命された『権(ごんの)○○』と呼称する○○職待遇のこと)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。
しかし、838年(承和5年)を最後に遣唐使が廃れた(894年(寛平6年)を最終回の遣唐使とする説もあるが、この回は大使・菅原道真が中止を勧上して実際には行われなかったとする説が有力)ことにより、大陸や朝鮮半島から優秀な渡来人を招聘する機会が失われ、わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技(技官)の育成を続けた結果、9世紀の平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなうポスト不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一ポストとして利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇ポスト化する傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家へのポスト充足を主目的とするものであった。
後に10世紀に入って、後述の賀茂氏と安倍氏の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の諸職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが朝廷中枢に重用されたため、賀茂氏と安倍氏は、その実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。特に安倍氏は後の11世紀には従四位上格にまで取り立てられるようになり、12世紀の室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。
[編集] 平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師のカリスマ化
9世紀平安時代に入ると、藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために悪霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなったことを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。そして、この讖緯思想・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽寮に機構統合されるに至って、陰陽道は道教ないし仏教(特に8世紀末に伝わった密教の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術)から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せ持つ性格を見せ始めた。9世紀後半以降に陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである。また、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。
やがて平安時代中期に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が緩むと、律令の禁を破って、正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の正式な「陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務よりも、それを越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。
10世紀に入ると、天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・賀茂保憲(かものやすのり)親子ならびにその弟子である安倍晴明(あべのせいめい)が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の加茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で秘伝秘術化したため、賀茂氏・安倍氏からのみ長けた陰陽師の輩出が続出し、安倍清明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は加茂氏と安倍氏が、本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位を両家の世襲でほぼ独占し、さらにはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他のさらに上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師はもっぱら宗教的で呪術的・祭祀的色合いの濃いカリスマ的な朝廷内における精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、10世紀から11世紀における朝廷中枢の為政者に対しては、左大臣藤原時平が菅原道真を大臣職から太宰権帥に左遷した際に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位にまで多大な影響を及ぼした。
また、本来律令で禁止されている陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では蘆屋道満(あしやどうまん)などをはじめとするカリスマ陰陽師が多数輩出した。
11世紀-12世紀を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。源平の戦いのころには安倍晴明の子安倍吉平の玄孫にあたる安倍泰親が正四位上、その子の安倍季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、南北朝時代の両統に呼応した家内騒動によって、その勢力は一時衰退した
[編集] 武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落
12世紀後半の平安時代末期には、院政に際して重用された北面の武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、1192年に武家政権である鎌倉幕府が成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を利用した。
3代将軍源実朝暗殺後は、北条氏による執権政治が展開されるようになり、将軍は執権北条一族の傀儡将軍として代々皇族や公家から招かれるようになり、招かれた将軍らは当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍源(藤原)頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ存府の鎌倉から吉方であるとされた現在の横浜市鶴見区所在の秋田城介善景の別屋敷にまで移転(陰陽道で言う方違え)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の変の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、事実上の実権を持つ北条執権政権は陰陽道にこだわりを持っておらず、配下のいわゆる東国武士から全国の地域地盤に由来する後に「国人」と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率ないし領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。、
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開き南北朝時代が到来すると、京に幕府を持ち北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった。
陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に勘解由小路(かでのこうじ)家(居宅が勘解由小路にあったことから室町時代に賀茂氏が名乗るようになったもので、藤原北家日野流や斯波流の勘解由小路家とは異なる)を名乗った加茂氏の勢力は徐々に凋落し、室町時代中期にはその得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至ったものの、安倍氏だけは上手く立ち回り、安倍有世(安倍晴明から14代の子孫)は、将軍足利義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位下にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子安倍有盛から安倍有季・安倍有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍氏を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、16世紀の安倍有宣の代には勘解由小路家(旧賀茂氏)の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、安倍有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門家(あくまで地名から取ったもので、村上源氏の流れをくむ源通親系土御門家とは異なる)を名乗って、朝廷・将軍のから支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。
しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続いておらず、室町時代中盤以降となると、三家四職も細川氏を除いてはおしなべて衰退しており、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を帯びて派閥闘争を生み応仁の乱などの戦乱が頻発するようになり、さらに守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で陰陽道などにはことさら興味を示さず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって庇護者であるはずの朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。16世紀前半の天文期には、安倍(土御門)有宣は平時には訪れることのなかった所領の若狭国名田荘(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子土御門有春・孫土御門有脩(ありなが)の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく勘解由小路在富を召しだして諸々の勘申を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなってゆき、太閤豊臣秀吉が養子の関白豊臣秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩が豊臣秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張に流されることとなり、さらに秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は一旦完全にその実態を失うこととなった。
律令制の完全崩壊と豊臣秀吉の弾圧にともない、陰陽寮ないし官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中世・近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求するエセ神官・僧侶や穢多・非人集団も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックでうさんくさいイメージが広く定着することとなった。
[編集] 近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆
豊臣秀吉が没し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡かいで村・寺戸村、葛野郡梅小路村・西院村、紀伊郡吉祥院村にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰し、1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の 日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂氏・安倍氏)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂氏の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策している。
この動きを得て、土御門氏勢力は、1682年(天和2年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、再興家の幸徳井家賀茂氏を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府から唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、さらにその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧りみられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、有職故実の名のもとに幕府官僚によって研究対象の分野とされるようになっている。
各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原流、嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。
1684年(貞享元年)には、幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の1755年(宝暦五年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多くむしろ科学的に作られた貞享暦より劣っていたとされている。
[編集] 現代における陰陽師排除政策と現状
大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、土御門晴雄本人の死去によりこの案が取り上げられることはなかった。
逆に、陰陽寮からの改暦提案を受けた明治政府首脳の間では、「富国強兵を目して西洋的な先進技術の導入を進めるにあたり、陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心となる畏れが強く、陰陽道を排除すべきである」とする西洋文明導入論者に加え、「天皇親政を行うにあたっては、過去に見られる公家や武家などの臣下が天皇を差置いて実権を行使する蛮行や、天皇の行動を指図するような非礼はまかりならず、ましてや日本古来の神道があるにもかかわらず外国(中国)由来の技法である陰陽道がまかり通ることなど許容しがたい」とする神道論者ないし攘夷論者の主張が共鳴して、陰陽道を排斥する意見が多数を占め、土御門晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭土御門晴栄がごく幼少であったために自発的に反論できない状況を捉えて、明治政府は1870年(明治3年)に陰陽寮を廃止し、その職掌であった天文・暦算を国立大学・国立天文台、ないし大日本帝国海軍の一部に移管、旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。1872年(明治5年)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対しては行われることもなく、土御門家は陰陽諸道をつかさどる官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道をさらに神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を失うこととなった。
明治政府による禁止令以降、公的行事はもちろん民間での流行も陰陽道由来のものは見られなくなり、現在では、土御門家が旧領若狭の福井県おおい町(旧名田庄村)に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽家として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみである。
現代では、陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、特に、陰陽道を禁止する旧明治法令・通達が廃止された第二次世界大戦後には再び広く一般に用いられているようになっているが、あくまで暦注としてのみ使用されており、自身の行動指針を陰陽道ないし陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られない。占術や暦については九星占術を基本とする東京都上野区の株式会社 神宮館による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。
[編集] 主な陰陽師
[編集] 飛鳥時代以前の陰陽家
- 恵慈(えじ) (?-623年)
- 飛鳥時代、595年(推古天皇3年)に高句麗から来朝し、聖徳太子の仏法の師となる。仏法を広め、翌596年(推古天皇4年)に法興寺(現在の飛鳥寺安居院)が建立されると百済から帰来した僧・慧聡(えそう)とともに「三宝の棟梁」としてこれを守った。仏法にあわせて陰陽五行思想をもたらしている。615年、聖徳太子が著した仏教経典三経義疏(法華経・勝鬘経・維摩経3経の注釈書)を携えて高句麗へ帰国。
- 觀勒(観勒 かんろく) (?-?)
- 602年(推古天皇10年)に百済から帰来した学僧。日本における初代僧正。天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想にもとづく遁甲(とんこう)方術・摩登伽経を伝え、聖徳太子をはじめ、選ばれた34名の弟子たちに講じた(日本書紀)。陽胡玉陳(やこのたまふる)(後の陽胡史(やごのふひと)の祖)に暦法を、大友(大伴)村主高聡(おおとものすぐりたかさと)には天文遁甲を、山背日立(やましろのひたて)には方術を授けた。その元嘉暦の暦本は聖徳太子により604年に官暦として正式に採用された(政事要略)。日本の陰陽道のルーツとなるパイオニア的存在で、後に「先在した五芒星文化勢力を陰陽道で封じるために観勒像を鎮座させ」られるほど、初代僧正としての貫禄を見せている。当初は飛鳥寺、曽我氏由来の法興寺、元興寺に居を構え、639年(舒明天皇11年)に大和国百済川のほとりに百済大寺を開創した。後に建立された陰陽寮や占星台の址である天武天皇時代の飛鳥池遺跡からは1998年に「天皇…丁丑年(677年)…観勒…」と、その名を記した木簡が出土している。
- 陽胡史祖玉陳
- 推古朝に漢から帰来
- 僧旻
- 推古朝に前漢から帰来
- 大友村主高聡
- 推古朝に前漢から帰来
- 道顕
- 斉明天皇の時代に高句麗から帰来
- 角福牟
- 天智天皇の時代に百済から帰来
- 行心(幸甚)
- 天智朝に新羅から帰来
- 法蔵
- 天武天皇の時代に百済から帰来
- 吉備眞備(きびのまきび)
- 奈良時代の公卿・学者で、遣唐使として派遣された際唐から陰陽五行思想を学び、これににかかわる文献を多数持ち帰って、陰陽家としての才能を発揮した。聖武天皇のもとでそれまでの呪禁師を廃止して陰陽道を採用したり、陰陽道に基づいた大衍暦を採用するなどした。藤原仲麻呂により左遷されたが、後に仲麻呂の乱を鎮圧した功により 右大臣まで出世している。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の怨霊を鎮めた話(今昔物語)が知られている。
- 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) (698年(文武698年)-770年(宝亀元年))
- 奈良時代の遣唐使に留学生として随行し、猛勉強して唐の科挙(上級官吏候補の公務員試験に相当)に合格し、唐の高官にまで登ったが、日本への帰国を果たすことはなかった。中国名「朝衡」。後に安倍清明が自らの祖であると自称しているが、史実は異なる。
- 大津連首(おおつのむらじおびと) (?-?)
- 新羅系渡来人の家柄。出家して僧・義法として活動していたが、新羅へ大使として派遣され帰国後に還俗して大津連首の名を賜わった。後の大津宿禰大浦(おおつのすくねおおうら)に至るまで代々陰陽師として重用されることとなった大津氏の祖。別称「大津連意毘登」。陰陽頭 兼 皇后宮亮(730年頃)。
[編集] 奈良時代に律令に定める本来業務を行っていた陰陽師
- 津守連通
- 別称・津守連道。
- 高金蔵
- 陰陽師(大宝元年-養老7年)。百済出身、和名「信成」。
- (角彔)兄麻呂
- 陰陽博士(大宝元年~神亀4年?)。(角彔)は「角+彔」、別称・「角兄麻呂」。
- 王中文(王仲文)
- 天文博士(大宝元年-神亀年間)。高句麗出身、和名「東楼」。
- 金財(金宅良)
- 大宝2年~神亀元年。新羅出身、和名「隆観」、諡「国看連宅良」。
- 文忌寸広麻呂
- 陰陽師(慶雲年間)。漢出身。
- 池辺史大嶋
- 漏刻博士(慶雲年間)。漢出身?。
- 山口忌寸田主
- 陰陽暦博士(和銅2年-天平2年)。漢出身。
- 余秦勝
- 養老5年。百済出身。
- 志我閇連阿彌陀
- 養老5-7年。漢出身。別称・「志我閇連阿弥太」。
- 楢日佐諸君
- 大属(神亀5年)。漢出身
- 余真人
- 神亀年間。百済出身。
- 谷那庚受
- 神亀年間。高句麗出身。別称「谷那康受」、諡「難波連庚受」。
- 礒氏法麻呂
- 太宰陰陽師(天平2年)。
- 難波連吉成
- 天平2-3年。高句麗出身。
- 高麦太
- 陰陽頭[おんみょうのかみ=「陰陽寮長官」にあたる職制] 兼 陰陽師(天平9-12年)。高句麗出身。
- 余益人
- 太宰陰陽師(宝字2-8年)。百済出身。諡「百済朝臣益人」。
- 山上朝臣船主
- 陰陽頭 兼 天文博士(景雲元年-延暦24年)。
- 百済公秋麻呂
- 陰陽大属(景雲元-3年)。百済出身。
- 国見連今虫
- 天文博士(景雲元年)。新羅出身。
- 大津宿禰大浦
- 陰陽頭(宝字2年-宝亀6年)。大津連首の孫と言われている。
- 紀朝臣本
- 陰陽頭(宝亀5年-延暦元年)。皇族出身。
- 栄井宿祢蓑麻呂
- 陰陽頭(天平18年-延暦2年)。高句麗出身。別称「日置造蓑麻呂」。
- 高橋朝臣御坂
- 陰陽頭(延暦4年)。皇族出身。
- 船連田口
- 陰陽助[おんみょうのすけ=「陰陽寮次官」にあたる職制](天応元年-延暦3年)。百済出身。
- 藤原刷雄
- 陰陽頭(勝宝4年~延暦10年)。
- 路三野真人石守
- 陰陽助(延暦5年)。皇族出身。別称「三野真人石守」。
- 藤原菅嗣
- 陰陽頭(宝亀4年~延暦10年)
[編集] 平安時代前期に律令に定める本来業務を行っていた陰陽師
- 大津海成
- 陰陽允(延暦16年)。
- 菅原世道
- 陰陽少属(延暦16年)。
- 中臣志斐連国守
- 陰陽博士(延暦16年-弘仁元年)。天文博士(大同3-弘仁元年)。
- 江沼臣小並
- 陰陽助(弘仁6-11年)。
- 志斐人成
- 陰陽生(弘仁11年)。
- 廣幡淨繼
- 陰陽生(弘仁11年)。
- 道祖息麻呂
- 陰陽師(弘仁11年)。
- 藤原竝藤
- 陰陽頭(天長9年-承和14年)
- 刀伎直浄浜
- 暦博士(天長8年)。
- 土師雄成
- 太宰陰陽師(天長10年)。
- 大春日良棟
- 暦博士?(天長-承和年間)
- 春苑玉成
- 陰陽師(承和3-4年)。遣唐陰陽師 兼 陰陽請益(承和6-8年)。陰陽博士(承和8-9年)
- 滋岳雄貞
- 暦請益(承和6年)。
- 大春日公守
- 陰陽頭(承和7年)。
- 大春日真野麻呂
- 暦博士(斉衡3年-貞観4年)。陰陽頭(貞観2-4年)。
- 笠名高
- 陰陽権博士(天安元年)。陰陽博士(貞観13年)。陰陽助(天安2年-貞観13年)。
- 中臣志斐連春継
- 天文博士(貞観2-12年)
- 良階貞範
- 陰陽允(貞観4-11年)。
- 日下部利貞
- 陰陽大属(貞観5-6年)。陰陽権允(貞観15年)。陰陽助(元慶元-6年)。
- 百済淸貞
- 少属(貞観5年)。
- 家原郷好
- 暦博士(貞観9年-元慶8年)。陰陽助(貞観14年)。陰陽頭(元慶元-8年)。
- 宮道弥益
- 漏刻博士(元慶元年)。
- 秦經尚
- 陰陽権允(元慶元年)。
- 山村曰佐得道
- 陰陽博士(元慶3年-仁和3年)。
- 中臣志斐連安善
- 天文博士(元慶5年)。
- 大春日氏主
- 権暦博士(元慶6年)。
- 中臣志斐連広守
- 天文博士(仁和2年)。
- 葛木宗公
- 暦博士?。
- 葛木茂経
- 暦?。
- 大春日弘範
[編集] 平安時代中・後期の呪術的カリスマ陰陽師
- 滋岳川人(しげおかのかわひと) (?-868年)
- 「滋丘川人」とも呼ばれる、平安時代前-中期、文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した陰陽師。式占・遁甲の大家で呪術にも長けたと言われ、しばしば虫害除去や雨乞いの祭祀を行ったとされる。「世要動静教(せようどうせいきょう)」、「指掌宿曜経(ししょうすくようきょう)」、「滋岳新術遁甲書(じがくしんじゅつとんこう)」、「六甲六帖(ろっこうりくじょう)」、「宅肝経(たっかんきょう)」など多数の技術書を著したとされるが、残念ながら現存する著書はない。今昔物語には、安倍安仁(あべのやすひと)とともに過ちを犯し地神(つちのかみ)の怒りをかって追われるものの、滋岳川人が得意とした隠形の術で身を隠し逃げ延びることができたいう「滋岳川人、地神に追はるる語」という話で知られる。
- 陰陽博士 854年(斉衡元年)-874年(貞観16年)。兼・陰陽権允 854年(斉衡元年)。兼・陰陽権助 857年(天安元年)-865年(貞観7年)。兼・播磨国権大掾 861年(貞観3年)。兼・陰陽頭 874年(貞観16年)。
- 弓削是雄(ゆげのこれお) (?-?)
- 平安時代中期、清和天皇・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師、滋丘川人の弟子。怪僧と言われた道鏡とは同族で、式占の達人であったといわれている。藤原有陰(ふじわらのありかげ)に招かれて近江に赴いた際、穀蔵院の使者である伴世継(とものよつぎ)と行き会い、悪夢を見たと言う伴世継が弓削是雄に占ってもらい対策をしてもらって九死に一生を得たという話(今昔物語「天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」)や、陰陽頭在任時に、60歳を過ぎてもいまだに試験に合格せず僧侶の位がなかなか得られない修行者を憐れんで、何とか試験に合格させてやろうと呪術を用いて立会の試験官を排除してしまい、仲の良かった三善清行(みよしきよゆき)の一存でその高齢修行者を合格させてやったという話(善家異説)などが知られている。
- 陰陽師 864年(貞観6年)-873年(貞観15年)。陰陽允 873年(貞観15年)-877年(元慶元年)。陰陽権助 877年(元慶元年)-885年(仁和元年)。陰陽頭 885年(仁和元年)。
- 賀茂忠行(かものただゆき) (?-960年)
- 後に世襲陰陽家の名門となった賀茂氏の祖。賀茂保憲の父。安倍晴明の師。奈良時代に活躍した修験道の開祖・役小角の末裔であると言われている。940年に平将門の乱・藤原純友の乱が勃発した際、この対策のために時の権力者藤原師輔に、当時は密教の高僧でも知らなかったとされている「白衣観音法」を進上したことがきっかけで重用されるようになった。陰陽道にかぎらず天文道・暦道など様々な分野に明るかったほか、卜占(ぼくせん)にもよく通じておりその正確さは有名で、村上天皇が水晶念珠を見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説が残っている(三善為康「朝野群載」)。早くから嫡男・賀茂保憲や弟子・安倍晴明の才能を見出し育成したことで知られている。
- 賀茂保憲(かものやすのり) (917年-977年)
- 加茂忠行の子で父と並び平安中期を代表する陰陽師のひとり。安倍晴明および長男賀茂吉平の師、「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と賞賛されるほどの評価を得ていた。官僚としても出世して陰陽頭にまでなっている。嫡子の加茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作った。今昔物語に、弟子の安倍晴明との間で隠された中身を当てる占術試合「占覆(せきふ)」を行った話が収録されているとされ、また「暦林」・「保憲抄」という暦道や陰陽道の技術書を著したとされているが、残念ながらどれも現存していない。
- 賀茂光栄(かものみつよし) (939年-1015年)
- 賀茂保憲の嫡子。安倍晴明と並び称される有能な陰陽師。父・賀茂保憲が天文道を安倍晴明に伝授禅譲したために暦道のみを継承することとなり、これが原因で安倍晴明をライバル視していたことが「続古事談」に記されている。暦道に優れたほか予知能力にも長けており「的中すること掌を返すが如し」と絶賛された。藤原道長が安倍晴明とともに呼び寄せて頻繁に相談や占術を行わせていたことが「御堂関白記」や「栄花物語」にも記されており、多くの貴人から重用された。
- 安倍晴明(あべのせいめい) (921年-1005年)
- 後の土御門氏の祖。遣唐使に参加して陰陽の本場城刑山で伯道上人(白道仙人とも)に学び、帰国すると特殊化・秘伝秘術化した独特の陰陽道を築き上げた。「占事略決」や、陰陽道の名典「金烏玉兎集」を著したとも言われているが、伯道上人に教えを受けた際にこれを授けられたという説も多い。陰陽諸道の中で最も難しいと言われていた天文道に長じ、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代天皇、藤原道長・藤原実資に重用されて影響力をふるった。天文博士を勤めた後には陰陽寮を超えて主計権助・大膳大夫・左京権大夫・大国である播磨守などの官職を歴任して「従四位下」まで昇進した。時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で、極めて謎の多い人物でもある。セーマン(晴明桔梗・清明紋・五芒星)という呪符を使い、人形(ひとかた)を使って「青龍」・「勾陳」・「六合」・「朱雀」・「騰蛇」・「貴人」・「天后」・「大陰」・「玄武」・「大裳」・「白虎」・「天空」の式神(しきがみ)十二神将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとされている。また、没後かなり早い段階から“鳥が話す言葉を理解できた”、“母は信田の森に棲む「葛葉」という白狐だった”、“両性具有者だった”など、その超人ぶりと特異性をあまりにも誇張した数多くの伝説が残っており、古事談・大鏡・宇治拾遺物語・古今著聞集・今昔物語集・體源抄・日本紀略・権記・平家物語・大江山絵詞・元亨釈書・源平盛衰記・発心集・北条九代記・私聚百因縁集、歌舞伎や文楽の題目信田妻(しのだづま)・蘆屋道満大内鑑、仮名草子安倍清明物語、はては近年の夢枕獏による小説や岡野玲子による漫画、数多くの映画化・ドラマ化やゲームのキャラクターなど、中世から近世・現代に至るまであまたの著作の題材として取り上げられている。1007年に一条天皇によって屋敷址の一部に建立された晴明神社は、一度は焼失したものの復興されて京都市上京区堀川通一条上ル806に現存しているほか、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町には清明神社の飛地境内としてその墓標が残っている。
- 安倍吉平(あべのよしひら) (954年-1026年)
- 安倍清明の嫡子。父同様に賀茂光栄と並び称される陰陽師として藤原道長・藤原実資らに重用され、天文博士・陰陽博士から陰陽助にまで昇進し、位階は従四位上まで取り立てられた。五龍祭や四角祭を勤め(日本紀略)、藤原頼道に取り憑いた具平親王の悪霊を賀茂光栄と共に祈祷して取り除いたり(宝物集)、親仁親王出産の際に死去した皇妃嬉子の入棺・葬送に関する方法を藤原頼道に勧申したり(栄花物語)している。古今著聞集には医師・丹波雅忠(たんばのまさただ)と宴を囲んでいた際に地震を予知したとの詳しい記載がある。
- 安倍吉昌(あべのよしまさ)
- 安倍晴明の2子。感受性豊かで向学心が強かったため賀茂保憲に目をかけられ、1017年に安倍晴明もなれなかった陰陽頭(おんみょうのかみ)に昇進。日食を予言したことで知られる。
- 安倍章親(あべのあきちか)
- 安倍吉平の子、安倍清明3代の子孫。1055年に陰陽頭就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めている。
- 安倍泰成(あべのやすなり)
- 安倍晴明4代の子孫。神明鏡では、妖狐・玉藻前と呪術で対決したと言われている。陰陽頭まで出世している。
- 安倍泰親(あべのやすちか)
- 安倍泰成の子、安倍晴明5代の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用されて1182年陰陽頭。卜占の天才で平家滅亡とその時期まで予言的中させ「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。肩口に落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。
- 蘆屋道満(あしやどうまん) (?-?)
- 道摩法師の名でも知られる平安中期の非官人陰陽師。播磨国(現在の兵庫県)の民間(ヤミ)陰陽師集団出身で、呪術に長けドーマン(九字を表す縦4本・横5本の格子模様)という呪符を好んで使ったとか、安倍晴明の清明紋を使って「ドーマンセーマン」と呼ばれるようになった等の説がある。安倍晴明が当時の関白藤原道長に重用されていたのに対し、蘆谷道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされ、これが両者の永遠のライバルとしての関係を決定づけた。室町時代の播磨の地誌である「峰相記(ほうしょうき)」には、藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として描かれることが多い。
- 道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16!」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、清明が式神(しきがみ)を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという話や、
- 遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて「金烏玉兎集」にまとめ上げたといった話が有名である。
- 阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」・「道満塚」・「道満井」の類が数多く残っている。
- 智徳法師(ちとくほうし)(?-?)
- 播磨国の僧侶でありながら陰陽道の呪法や占術を用いて金を稼ぎまくったヤミ陰陽師。今昔物語の、海賊に襲われた船主に同情して陰陽の術を用いて船荷を取り戻した話や、陰陽道を身につけて得意になり、噂に聞く安倍晴明の実力を確かめようと自分の式神(しきがみ)を連れて呪術対決に臨んだが、逆に安倍晴明に式神たちを隠されてしまい、陳謝して自分の式神を返してもらうというエピソードで知られる。人物像や環境設定が酷似しているため、蘆谷道満と同一人物ではないかとの説が有力である。
[編集] 陰陽師が用いた道具・呪法・呪符・呪文など
- 「臨(リン)兵(ビョウ)闘(トウ)者(シャ)皆(カイ)陣(ジン)裂(レツ)在(ザイ)前(ゼン)」
- 九字真言・ドーマンとも言われ、中国の「抱朴子」に見られる山に入る際に邪気をかわすための呪文をその起源としており、この九文字の意味はそれぞれ「青龍」・「白虎」・「朱雀」・「玄武」・「匂陳」・「帝后」・「文王」・「三台」・「玉女」の意を表す九星九宮のことで、陰陽道に限らず修験道・兵法・密教などで最強のものとして広く使われるようになった。一気に唱える事で一切の災厄と魔物から身を護る最強の呪文とされ、これを唱える際には、両手で印を形成して唱える剣印の法と、手刀で四縦五横に「九字を切る」破邪の法があるが、陰陽師は好んで破邪の法を用いる傾向がある。
- 「オン キリキャラ ハラハラ フタラン パソツ ソワカ」
- 一度切った九字を除垢する呪文。
- 「急急如律令(キュウキュウジョリツリョウ)」
- 元来は、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令の如く行え」の意、本来は「急」の字は「ロ(口編)」がつく。道家が呪文に取りいれたものを、陰陽師が吸収し「急急如律令呪符退魔」のように頻繁に呪文に付加して用いるようになったとされている。
- 六壬式盤(りくじんちょくばん)
- 天変地異を察知したり、吉凶を判断するための式占(ちょくせん)を行うための道具で、地を表す「與(よ)」と呼ばれる台座と、天を表す「湛(たん)」と呼ばれる円形の天板で作られ、「式封呪祭文」であるとか「式礼印法」と記載されている。
- 遁甲式盤(とんこうちょくばん)
- 元来は「三国志演義」の諸葛孔明が編み出した兵法「八陣の図」に従い賊を死門に誘い込む罠に由来する「奇門遁甲」と呼ばれる、陰陽二気の動きに応じて身を隠したり、災を回避するための方位魔術に使われる、八陣の図に倣って八門が表示された盤。天の九星・地の八卦に助けを借る事で、八門遁甲言われる八門(各方位への出入り口)を開く「景門」・「開門」・「死門」・「生門」・「杜門」・「驚門」・「休門」・「傷門」のうち、各方角の吉凶を占う「奇門遁甲(八門遁甲)」に使用する。
- 天球儀(てんきゅうぎ)
- 天文上の変異知る為に天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した。特に本来はあってはならない箒星(ほうきぼし=彗星のこと)が現れると大災や天変地異が起こるとされた。
- 呪符
- 霊符とも呼ばれ、目的に応じて使用されるマークや呪文を記載した札。安倍清明が好んで使用したという、陰陽五行の循環(木→火→土→金→水)を表しまた陰陽道の相剋(そうかつ)を示し、後々星辰信仰の影響や、その黄金比を多く持った美しい形状から、魔除けとして広く使用されるようになった「 セーマン(清明桔梗・清明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や、九字に由来すると言われ蘆谷道満が好んだ魔法陣とも言われる「ドーマン(九字格子)」が有名で、悪意ある邪眼をそらすために用いられたとされている。他にも「鎮宅七十二霊符」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「六芒星」や、「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。呪符を作成する際には、形態や字画を誤ると無効になってしまったり、場合によっては違う呪力を発揮してしまう怖れがあるため、細心の注意と集中力が必要とされる。庚寅(かのえとら)・壬子(みずのえね)・壬寅(みずのえとら)・癸卯(みずのとう)・癸酉(みずのととり)の日に作成するのが吉とされ、毛筆で黒墨ないし朱朱で記入するものとされている。また、一度でも呪符を作成するために使用した道具は一切他の用途に使えぬものとされ、使用した呪符もうかつに廃棄すると逆に呪がかかり疫災を招くとされたため、その処分は必ず所定の焚きあげによって行われた。
- 鎮宅七十二霊符
- 「太上鎮宅霊符」とも呼ばれる図形が標された呪符。道教の太上老君が天空から地上の山河を模写したという説話が起源とされており、大自然の造形を模写することによりその力までも写し取る意味を持っている。盗難や火災除けに使われる呪符で、家の柱梁に貼付したり、自身の身につけたりして使用する。
- 護符
- 御符などとも呼ばれる御札・お守りの原型で、陰陽道では呪文を書き付けた霊符呪術に用いる護身のための呪符。元来は「大隋求陀羅尼経」に隋求菩薩の真言を書写して持っていればご利益がある、と信じられたことを起源とする仏教由来とされているが、日本の陰陽道は陰陽五行思想に道教・古神道・密教・修験道などが複雑に絡み合って変遷した経緯があるのでその由来は各説入り乱れて定かではない。
- 禁呪符陣
- 呪符で敷いた陣(結界)で他者の呪力を禁ずる(封じる)ための呪術。
- 人形(ひとかた、ひとがた)
- 形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、手で撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習などもこれと同じ発想で行われた。人形に呪いかけたい相手の名前を書き、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こすことも出来るとされており、この用法では丑の刻参りの藁人形が有名。また、人形に式神(しきがみ)と呼ばれる鬼神を召還することも出来るとされ、安倍清明がこれを得意として十二神将を自在に操ったとされている。
- 式神(しきがみ)の法
- 「職神」あるいは単に「式(しき)」とも呼ばれる十二神将と呼ばれる神のことで、「式」は陰陽道で用いられる「六壬式盤(ちょくばん)」の式に由来しており、盤にも刻まれている「天一(てんいつ)」・「騰蛇(とうだ)」・「朱雀(すざく)」・「六合(りくごう)」・「勾陣(こうじん)」・「青龍(せいりゅう)」・「天空(てんくう)」・「白獣(はくじゅう)」・「大裳(たいじょう)」・「玄武(げんぶ)」・「太陰(たいいん)」・「天后(てんごう)」を使うことを指す。安倍清明が自在に使いこなしたとされるが、直接は使役せずに紙や木材・草葉などを人形(ひとかた)ないし形代(かたしろ)にして、呪文を唱え息を吹きかけるなどして式神を乗り移らせてから使役していたとされている。
- 「カラリンチョウカラリンソワカ」
- 式神を招く呪文。
- 「オン ウカヤボダヤダルマシキビヤク ソワカ」
- 式神を招く際の真言。
- 身固めの術
- 呪詛返しとも呼ばれ、呪殺の呪をかけられた者を守るために保護する術で、九字を切ったあと刀を持って印を結び中国式の呪文を唱え3箇所ないし6箇所を加持する方法や、保護する者の魂が離脱してしまわぬように一晩中抱き護り、ドーマン「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」を唱えつづける。この術が成功すると、かけられた呪が跳ね返され当初に呪殺の呪詛をかけた者が逆に死に至るとされている。
- 埋鎮の皿(まいちんのさら)
- 神名や呪符を記載して封じ、土中に埋めて神鎮めを行い邪気を封じ込めるための2枚組の皿。
- 禹歩(うふ)
- 「反閇」とも呼ばれ陰陽師が足で大地を踏みしめて呪文を唱えながら千鳥足様に前進して歩く呪法を指す。急星や北斗七星を象って歩む事で魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとしていおり、ドーマンの九字と同様、葛洪に『抱朴子』には薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されていることが起源である。「反閇」は禹歩ををより儀式的に整った形に直したものとする説もあるが、後世には禹歩も反閇も互換的に使われており、両者を明確な区別することは困難である。奇門遁甲における方術部門(法奇門)では占術上の凶を避けるために必ず行われていた呪術である。
- 六気法
- 木・火・土・金・水の五行に相火である三焦を合わせて六気とし、臓腑に溜まった邪気を体外に吐き出すとされる呼吸法。六気に属する固有音を頭のイメージの中で発しながら下腹をへこますようにゆっくりと息を吐き出し、その後に鼻から下腹を膨らますように息をゆっくりと吸い込むことを6回繰り返す。
- 木の呼吸法
- 目をしっかり開け、口を丸く開けて「ホーッ」という音を出すようなイメージで排気するのを6回繰り返す。春に行うのが吉とされ、眼病・肝臓病に対して有効であるとされている。
- 土の呼吸法
- 口の左右を大きく開き「ハーッ」と息を吐き出す。胃腸を壊した際に有効とされている。
- 水の呼吸法
- 両膝を抱えるようにして口をすぼめ、強く「スーッ」という音をイメージしながら排気し、吸気の際には上体を徐々に起こしていく。冷え性に有効とされている。
- 三焦の呼吸法
- 仰向けに寝て笑う時のような形に口を開き「シーッ」と排気する。解熱に有効であるとされている。
- 泰山府君祭
- 元来は道教の祭祀。
- 刀禁呪
- 元来は道教の呪文。
- 浄心呪
- 元来は道教の呪文。
- 浄身呪
- 元来は道教の呪文。
- 浄天地呪
- 元来は道教の呪文。
[編集] 陰陽師を取り扱った作品
平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルティックなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれている。
[編集] 小説
- 『陰陽師』(夢枕獏)
- 『帝都物語』(荒俣宏)
- 『陰陽ノ京』(渡瀬草一郎)
- 『妖界ナビ・ルナ』(池田美代子) - 琴月綾挿画。
- 『少年陰陽師』(結城光流)
- 『女陰陽師』(加野厚志) - 公武合体政策に反目する朝廷勢力が、皇女和宮と徳川家茂の政略結婚阻止のために和宮に瓜二つの女陰陽師・八瀬を送り込むというフィクション。
- 『封殺鬼』(霜島ケイ)
[編集] 漫画・アニメ
- 『陰陽師』(岡野玲子) - 夢枕獏の同名小説を漫画化。
- 『東京BABYLON』(CLAMP)
- 『シャーマンキング』(武井宏之)
- 『陰陽大戦記』(WiZ原作)
- 『アベノ橋魔法☆商店街』(GAINAX原作)
- 『MUSASHI -GUN道-』(モンキー・パンチ原作)
- 『王都妖奇譚』(岩崎陽子)
- 『少年陰陽師』(結城光流原作)
[編集] 映画・オリジナルビデオ
- 『陰陽師』『陰陽師II』(滝田洋二郎監督) - 夢枕獏の同名小説を映画化。
- 『帝都物語』(実相寺昭雄監督) - 荒俣宏の同名小説を映画化。
- 『陰陽師 妖魔討伐姫』(熊澤尚人監督) - 安藤希出演。舞台は現代。
- 『女陰陽師シリーズ』(ENGEL製作) - 一部R指定作品を含む。
[編集] テレビドラマ
[編集] ゲーム
[編集] パチンコ
[編集] その他
- 現代では「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目にアクセントを置くイントネーションが普通であったと言われている。
- 昨今の陰陽師ブームに乗って、石田千尋なる人物が自称陰陽師としてテレビ出演等をおこなっているが、その儀礼法は明らかに古神道に準拠するもので、陰陽道に基づいたものであるとは言い難い。また、関西で活動する播磨陰陽師・尾畑雁多(おばたかりんど)なる人物が教えるのは陰陽道とはかけ離れた武術風のものである。
- 格闘ゲーム『新豪血寺一族 -煩悩解放-』のBGMの一つとして『レッツゴー! 陰陽師』というユーロビート調の曲が存在する。このゲームのプロモーションビデオでは、陰陽師が3Dアニメで登場し、巫女や僧侶とともに曲に合わせて踊るものが発表され、動画配信サービスYouTubeへの投稿ならびにこれを記事にしたYouTube系ブログによって人気となった。2007年1月にニコニコ動画(β)が発足するとこれに転用されて、さらに人気を呼んだ。