アメリカ横断ウルトラクイズ
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アメリカ横断ウルトラクイズ(アメリカおうだんウルトラクイズ)は、日本テレビ系列で放送された視聴者参加型のクイズ番組。単にウルトラクイズあるいはウルトラと略される。
1977年、『木曜スペシャル』枠で「日本テレビ開局25周年記念番組」として第1回を放送。以来、年に1回ずつ制作・放送され、1992年の第16回を最後に放送終了となったが、1998年に「日本テレビ開局45年記念番組」として、1回限りの復活を果たした("今世紀最後")。
毎回の番組名は『史上最大! 第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』。英語表記は"TRANS AMERICA ULTRA QUIZ"である。タイトルロゴには"TRANS AM ULTRA QUIZ"と表記された。
番組に関連する書籍なども本項で扱うが、番組のクイズ形式についてはアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式を、番組を元にしたコンピュータゲームについてはアメリカ横断ウルトラクイズ (コンピュータゲーム)を参照のこと。
目次 |
[編集] 概要
日本全国から集まった挑戦者たちが、「知力、体力、時の運」を合言葉に、広大なアメリカ大陸を横断しながら1000問以上に及ぶクイズに挑戦し、決勝地ニューヨーク(第9回はフランス・パリ、"今世紀最後"は西インド諸島)を目指すという番組。
ニューヨークへ移動の途中、「チェックポイント」と呼ばれる各地にて風土や名所等に合ったクイズを行い、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進めるが、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けた後、「東京直行」というレッテルを貼られ日本へ強制送還させられる。
他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(高校生不可。高専生は4年生から可)でパスポートを所持していれば(他にも細かい規定はある)、オーディションなしで誰でも番組に参加可能であった。数々のチェックポイントを勝ち抜き、決勝地に辿り着けたのは各回2人(第11回は3人)。ここで最後のクイズを行い、優勝者「クイズ王」を決定した。
[編集] 「史上最大」規模のクイズ番組
本番組は数あるクイズ番組の中でも一目置かれた特殊な位置づけをされており、単に知識量や早押し技術などのクイズの能力を比較するクイズ番組とは一線を画していた。そのため、昨今様々なクイズ番組の優勝者を「クイズ王」と呼ぶことがあるが、開催規模・参加人数・番組コンセプト・放送時間の長さと質の高さ・視聴率等のありとあらゆる点で、ウルトラクイズの注目度は他のクイズ番組を明らかに圧倒していた。
1年に1度しか開催されなかったこと、世界各地を転戦しながら行われた多彩なクイズ形式、地球規模のスケールの大きさ、挑戦者達の人生そのものまで変えてしまう圧倒的な番組自体が持っているドラマ性等を総合すると、「クイズ番組の頂点に位置する最高傑作」「ウルトラクイズのクイズ王こそ真のクイズ王」と広く一般に認識されたことに、異論を挟む者は殆どいないとされる。
- 注:この番組では、第1回から優勝者を「クイズ王」と明言していた。上記の記述を読んだ上で「クイズ王」が「日本で一番クイズが強い人」とイコールでは無い点に注意されたい。「クイズ王」という固有名詞に厳密な基準、要素があるわけではなく、番組内での通称であるが、“ウルトラクイズ優勝者=クイズ王”という評価には、番組テーマである「知力、体力、時の運」が表すように、単純にクイズに強い以上のさまざまな要素が含まれているので、数あるクイズ番組の中での最大級の賛辞を込めた「実力+称号」とみるのが妥当である。
1987年に第24回ギャラクシー賞特別賞と第4回ATP賞優秀賞を、翌1988年には第25回ギャラクシー賞25周年記念特別賞ユーモア賞を受賞。ギネスブックには「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載された。
[編集] 独自の演出
タイトルは「クイズ」であっても、単にクイズの優勝者「クイズ王」を決めるためだけの番組ではなく、普通の人々が突然アメリカなどの広大な自然や冒険・難局に直面したときの表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であり、また本番組の醍醐味であった。番組の主眼は“挑戦者の人間模様”、そしてクイズに敗れた“敗者”にあり、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。
日本国外への渡航者を決める大事な第二次予選で、クイズとは全く関係のない「ジャンケン」を採り入れ、また敗者復活戦が随所に設けられるなどした。番組で共に旅したのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも多く、実際に挑戦者同士が結婚したケースもある。
各クイズ後、勝者と敗者はすぐ引き離されるため、クイズを行う時は挑戦者は必ず自分の荷物を傍らに運び込んでおく必要があった。あくまで旅の途上との演出も兼ね備えていた。基本的に挑戦者はいつクイズを行うかは直前まで知らされなかった。
たとえクイズの合間の観光に見えても、自分の荷物を持たされている限りいつクイズが始まるかわからないのであった。また、風光明媚な土地などでは、挑戦者を驚かせるため、クイズ会場までアイマスクをしたまま移動させることもあった。このようなシビアな条件が極限状況を生み出し、挑戦者同士の連帯感を生む要素ともなった。
チェックポイント一覧は事前に知らされたが、実際の行程は大幅に異なることも珍しくなかった(過去の挑戦者の個人ウェブサイトなどによる)。たとえば、"今世紀最後"の直前に発売された『アメリカ横断ウルトラクイズ 虎の巻』では予定チェックポイントを「グアム→ハワイ→ロスアンジェルス→デスバレー→ソルトレークシティー→ダラス→ナッシュビル→ナイアガラ→ニューヨーク」と紹介しているが、ロスアンジェルス以降はほとんど別物であった(実際のルートは「"今世紀最後"(第17回)」を参照)。
過去の挑戦者がウェブサイトで記述している内容によれば、スタッフから見て面白く映る挑戦者には、その挑戦者の得意ジャンルから問題が出題されるなど、その人物がクイズで勝ち抜けられるよう多分に配慮がなされていたようである。
特に女性や年配者には配慮が当てられた。国外脱出を果たした挑戦者のうち、30代以上の人は多くても3~5人前後になってしまい、また女性の挑戦者も男性に比べて少なく、準決勝以前で敗退してしまう事が多かったため、視聴者からみても女性や年配の挑戦者は番組を楽しむためにも貴重な存在であった。
また司会の福留功男は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、恋人や婚約者の名前、家族構成や勤務先などといったプライベートなことを聞き出し、番組の中で効果的に披露していた。当時を考えればそれほど違和感の無いものの、現在の感覚からするとややプライバシーに立ち入りすぎているという見方もできる。個人情報保護法のある現在では、許可なしに放送できないであろう場面も多々あった。
数万人の頂点に立つ「クイズ王」の優勝賞品は、「自分で組み立てる乗り物」「満潮になると沈む島」などといったひとクセもふたクセもあるものであることが多かったが、逆に「世界一周旅行」など日常では経験できないような賞品も用意された。
普通の人々が体験する未知の冒険や人間模様が画面全体に溢れ、番組が終了した現在も国民的人気を得ている。
[編集] 番組の移り変わり
レギュラー開催の司会を務めたのは、第1回~第15回(第一次予選第1問のみ)と"今世紀最後"が福留功男、第15回(第一次予選第2問)と第16回が福澤朗だった。
番組当初(1977-1987年頃)は、国外へ脱出できた挑戦者の大半が「海外旅行初体験」であり、初めて見る広大なアメリカなどの風景に心を躍らせる表情と、本当に喜びを素直に表現できる表情が演出ではなく生き生きと映像に映し出されおり、それがこの番組の魅力であった。しかし時代の変化とともに海外旅行は庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となり、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった。
しかしながら、観光地としては行くことが困難であるバローやフエゴ島などをルートとして選択し、スケールの大きさを維持した。また、「突撃○×どろんこクイズ」や「バラマキクイズ」などの定番クイズと共に、第10回ではアメリカ南北ルートの選択、第12回では北南米大縦断やアラスカ鉄道によるクイズ漬けなど、演出面でさまざまな工夫を凝らして参加者・視聴者ともに新鮮な番組を維持しようと努力を重ねた。
本番組は人間模様に焦点を当てていたため、単なるクイズに長けた人以外にも参加して活躍する余地がある番組構成になっていた点も、人気を呼んだ理由であった。逆にクイズだけ強い人はこの番組に似合わないとも目された。
第1回の参加者は404人であったが、回を重ねる毎に参加者は増え続け、1983年・第7回では初めて1万人を、第一次予選の会場が後楽園球場から東京ドームに改められた1988年・第12回では2万人を突破した。制作費を大量に費やしたが、視聴者の生き方をそのまま隠すことなく、素顔の人間像を映し出していた点は視聴者に大きな共感を与えた。
その後、視聴率の低迷や制作費などの問題により、1992年の第16回を最後にレギュラー開催は終了となった[1]。
それから6年後の1998年、日本テレビ開局45年記念番組として「ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ」と題して一度限りの復活を果たした。この回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いが強かった(ただし福留自身の著書『ウルトラクイズ伝説』では「第17回」と表現されている)。この大会では過去最多の50,453人が参加。さらに応募総数は7万人を超え、実に2万人を超える人々が東京ドームに入ることすらできなかったという。
テレビ放送は、第1回から第16回まで、当時木曜日に放送されていた『木曜スペシャル』で毎年10月~11月もしくは11月~12月の間に放送されていた。第1回は2週のみ(それでも当初は1週のみの放送予定が2週に拡大)の放送であったが、参加者の拡大や内容の充実などにより、第2回~第4回は3週、第5回~第11回ならびに第15回~第16回は4週、第12回~第14回は5週に分けて放送された。一方、"今世紀最後"は、既に「木曜スペシャル」が放送終了となっていた関係もあり、1998年11月22・23日に2日連続で放送された。
現在もなお、放送終了しているテレビ番組の中ではトップクラスの番組復活熱望の声が挙がり続けている。また、DVD化を望む声も多数あるが、肖像権などの諸問題から現段階では実現していない。
[編集] 司会(出題・海外リポーター)
この番組の厳密な意味での「司会者」は、スタジオで進行やルート紹介を行う「総合司会」であり(後述)、あくまで出題担当の福留・福澤は「出題・海外リポーター」であった。第1回より第16回まで、オープニングのクレジットでは一貫してこの表記がなされてきた。しかし、放送が回を重ねるにつれて、挑戦者とともにニューヨークを目指し、「ウルトラクイズ」という旅の実質的な進行を行う「出題・海外リポーター」が、番組の主軸をなす意味合いが強まってきた。そのため、現在では「ウルトラクイズの司会」といえば、福留・福澤を指すことが一般的である。
以下の2人に共通する決まり文句は「みんな! ニューヨークへ行きたいか~っ!!」「罰ゲームは怖くないか~っ!!」のふたつがある。
[編集] 福留功男
- 詳細は福留功男を参照
第1回~第14回の全編、第15回の第1問正解発表までと"今世紀最後"の全編を担当。
番組開始当時は35歳の中堅アナウンサー。局側から「アナウンサーならば1ヶ月ロケ分のギャラがかからないし、経費節減になる」との理由で選任されたが、当時クイズ番組の常識であった「主観的な進行と客観的な出題は別人の役割」を、一人でこなす技術を編み出し、一躍ウルトラクイズの看板となった。
1991年の第15回(福留が日本テレビを退社した年でもある)で、「体力の限界」を理由に第1問正解発表を以って司会を引退した。その後、1998年の"今世紀最後"には再び司会を務めた。この"今世紀最後"にて遂に名付けられた異名は"Mr.ウルトラクイズ"。
挑戦者たちにある時は笑いと感動を、またある時は脅威と絶妙なまでの脱力感を与えるその弁舌と巧みな進行手腕は一介のアナウンサーらしさを感じさせず、またいかなる状況でも挑戦者を受け止める感受性を併せ持ち、14年間にわたって司会を勤めた。そのため「ウルトラクイズ」の司会は彼でなければならないとの声も多い。
[編集] 福澤朗
- 詳細は福澤朗を参照
第15回の第2問以降と第16回の全編を担当。決まり文句は「ニューヨークへジャストミート!!」
着任当時は入社4年目の27歳。全日本プロレス中継の実況等で活躍していた若き成長株。同年『全国高等学校クイズ選手権』でも福留から司会を引き継いでいた。彼は着任早々、敗者復活戦の全面撤廃を宣言。新しいウルトラクイズの歴史を作っていくことを目指したものの、翌1992年の第16回をもって打ち切りとなった(第16回放送当時は1993年も開催される予定だった)。福澤司会のウルトラクイズが開催されたのはわずか2回だけとなった。
彼はサバイバル性を重視し、「明るく楽しい生存競争」をモットーに妥協を許さず、臨機応変でスピード感が溢れる進行振りを発揮した。また、挑戦者にニックネームを付けるなどの傾向も見られた。
[編集] 総合司会・リポーター
[編集] 総合司会(スタジオ司会)
スタジオでの番組全体の進行を担当した。詳しくはスタジオパートを参照。
第1回~第12回
第15回
- 小倉淳
- 第5回では本編終了後の「プレゼントコーナー」を担当するなど、陰ながら番組初期から関わってきた。またビデオ「史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズのすべて」ではナレーションも担当した。
- 永井美奈子
"今世紀最後"
[編集] 国内リポーター(敗者の味方)
国内予選会場(後楽園球場、東京ドーム、成田(羽田)空港)で、敗者へのインタビューを行いつつ、ヘルメットをかぶり敗れた挑戦者たちに玩具のピコピコハンマーで叩かれる役を毎回こなした。また、第一次予選で敗者復活戦の実施を福留に要求したり、第二次予選では開始前に福留・福澤の前に現れてジャンケンの撤廃や全員通過を訴えたりするなどの役を演じた。空港での敗者復活戦の進行役、そして敗者の代表として飛び立つ勝者機に向かってのシュプレヒコール役も務めた。
[編集] 国内リポーター(その他)
国内予選で登場した(海外リポーターとの兼任はここでは除外する)。
[編集] 海外リポーター
出題者の福留が万一病気などで司会進行ができなくなった場合、その代理として出題役を務めることができるようにするため設けられた。第13回・第14回では敗者予想も行った。
- 石川牧子(第7回・第8回)
- 日高直人(第9回・第10回。第10回では南米・地獄ルートの出題も担当)
- 増田隆生(第11回)
- 小倉淳(第12回~第14回。「二重音声クイズ」の出題も担当、第12回と第14回では賞品の贈呈も行った)
- 鈴木健(第14回)
[編集] コンピュータ予想
日本テレビのコンピュータルームにおいて、次のチェックポイントで失格となる挑戦者や、決勝戦で優勝する挑戦者の予想をコンピュータを用いて行った。スタジオパートを参照。
[編集] ナレーター
通常、ナレーションはクイズ進行役の福留・福澤が行うが、本編以外の次回予告や舞台裏などでは他のアナウンサーなどが担当する場合もあった。
- 小倉淳(第13回)
- 鈴木健(第14回・第16回)
- 郷里大輔("今世紀最後")
[編集] 主なスタッフ
- 審査委員長:佐藤孝吉、白井博、高橋靖二
- 大会委員長(第11~16回):北川信、岡田晋吉、高橋久仁、太田杜夫
- 企画:山崎将暉
- 構成:萩原津年武、望月敏、わたなべ研一、田淵寛、松井尚、原田俊弥、藤原拓也、堀越詔彦、折戸泰二郎、菊池裕一、麻川ルイ、岩沢景子、わぐりたかし、稲原誠、西田秀城、松村幸子、弓場伸治、山岡敏彦、江端裕文、村田直恵ほか
- 音楽:大谷幸、吉田邦夫(共に第16回のみ)
- イラスト:くどう昭
- 協力:米国商務省観光局、コンチネンタルミクロネシア航空、全日空、近畿日本ツーリスト、神本プランニング(第15回まで)ほか
- 撮影:川田正幸、金子二三夫、黒澤清図、深山健一郎、木村祐一郎ほか
- 演出:土橋正道、柏木登、加藤義人、加藤就一、篠崎安雄、雨宮秀彦、仲川陽介、稲垣昭彦、山根真吾、喜園伸一、狩野英一、箕野ちえみ、梅原幹、松崎聡男、川野真、小路丸哲也ほか
- 総合演出:白井博(第1回~第10回)、加藤就一(第11~15回、"今世紀最後")
- プロデューサー:重延浩、佐藤利明、高村裕、白井博、鶴野徹太郎、井上雅子、高橋靖二、武藤幸恵、小野毅、篠崎安雄、神成尚亮、初川則夫、廣田潤、下苧坪洋彦、チャールス・リー、稲塚秀孝、青海鉄山、安藤正臣ほか
- チーフプロデューサー:高橋靖二、篠崎安雄、城朋子
- 製作協力:ジャパン・クリエイト、テレビマンユニオン(第11回まで)、タキオン(第12~14回)、才 SAI(第16回)、トマホーク、チップトップ、日本テレビビデオ
- 制作:石川一彦、佐藤孝吉、藤原千晶、高橋進、篠崎安雄
[編集] 大会の流れ
この節では、1回ごとのウルトラクイズの大会の大まかな流れを解説する。なお、ここでは最もオーソドックスなパターンのみを記し、例外は極力省く。クイズの詳細についてはアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式を参照。
- ウルトラクイズはアメリカに旅立つ前にまず、日本国内における予選からスタート。8月中旬頃、日本各地から大会に応募した挑戦者たちは東京にある予選会場(第11回まで後楽園球場、第12回以降東京ドーム)に集合。ここで「国内第一次予選」が行われ、数多くの挑戦者の中から100人+αに絞られる。
- 8月末から9月初旬頃、第一次予選を通過した挑戦者たちは海外旅行用の荷物を持って日本テレビに集合し、ここから決勝地に向けての旅が始まる。翌朝、成田空港(第1回は羽田空港)付近のホテルにおいて「国内第二次予選」が行われ、人数は約半分の50人+αとなる。ここでの予選を通過して、挑戦者はようやく国外へ向かう飛行機に乗ることができる。ここで予選が終わり、本選に突入する。
- 本選ではまずグァムまたはサイパンへ向かう飛行機内で第1チェックポイント(ペーパークイズ)が行われ、以降、決勝地に辿り着くまで、10~15前後のチェックポイントでクイズが行われる。クイズで一定条件を満たせば勝ち抜けとなって次のチェックポイントへ進むことができた。敗れた場合は先へ進むことを許されず、日本へ送還される。
- 挑戦者の人数が2人(第11回は3人)にまで絞られると、最後のクイズ会場で決勝戦が行われ、ここでの勝利者が優勝、「クイズ王」となる。クイズ王となった者は賞品地へ赴き、優勝賞品を受け取ったあと日本へ帰国する。
以上が1回ごとの大会の大まかな流れである。日本テレビを出発してから決勝が行われるまでの行程は、およそ1ヶ月ほどであった。
[編集] 使用機材
ウルトラクイズでは以下に挙げるような機材が使われた。
[編集] 早押しテーブル
主に大陸上陸後の個人戦で使われた解答席「早押しテーブル」は、折りたたみ式のものが使用された。テーブルの上には解答者が問題に答えるときのマイクと早押しボタン(後述)が設置された。マイクは後述の早押しハットと同じ色のものが使われた。この早押しテーブルは早押しクイズだけでなく、三択クイズやリレークイズなど大多数の個人戦クイズで使用された。
デザインは濃紺に近い青地がベースで、下に白いラインが入っていた。前面には白いライン上に赤字で「アメリカ横断ウルトラクイズ」のロゴが、上の青い部分に番組シンボルマークである「?」マークが描かれていた。
ただしこのデザインになったのは第3回からであり、第1回は「?」マーク、「アメリカ横断」「ウルトラクイズ」がそれぞれ白地に赤い文字でステッカーで貼られていた。第2回では青のほかに白のテーブルもあり、それが交互に並べられていた。第8回からは「?」マーク周辺に星が彩られるようになった。ただ、第10回くらいまでは毎回微妙にデザインや色が異なっていた。第9回の決勝ではフランス国旗になぞらえて、ウルトラクイズのロゴの下の部分が赤い色になっていた。
早押しテーブルは挑戦者の人数分横一列に並べられたが、残り人数の多い段階(概ね10人以上)では2段に分けて配置されることもあった。挑戦者は原則として、カメラから向かって左側の席から(2段の場合は下段が先。ただし初期は上段が先の回もあった)ネームプレートに書かれている挑戦者番号の若い順に着席した。ただしリレークイズなどではあらかじめ抽選などで席順を決めた場合もあった。
[編集] 早押しハット(ウルトラハット)
挑戦者は早押しクイズを行うとき、早押しハット(ウルトラハット)と呼ばれる帽子を被って行った。これは、シルクハットを模した形状の早押し判定機で、赤・青・黄・緑・水色・紫などの色があった。シルクハットスタイルになったのは、挑戦者が立ったり座ったりするなど動きが多いので、挑戦者の身体に密着した形にする必要があったため。解答権を得ると上部にあるウルトラクイズのシンボルマーク「?」が跳ね上がる点が特徴である。このスタイルの稼動形式になったのは、ウルトラクイズの場合ほぼ全て屋外でクイズが行われるため、他の大多数のクイズ番組で使われる発光ランプによる方式だと、解答権を得た者を判別することが難しいためである。但し、クイズの形式によっては発光ランプも使われたことはある。(第8回・バハマや第14回・ツインレークス等)
第1回だけはハットのデザインと稼動方式が異なっていた。星の位置が以降の大会のものと異なっており、また稼動方式は、電磁石でくっついている「?」マークが解答権を得ると離れてバネの力で跳ね上がる方式だった。そのため、解答者がその都度いちいち手で立ち上がった「?」マークを元に戻す必要があった。第1回では挑戦者が立ち上がった「?」マークを手で倒す動作や、風で「?」マークがゆらゆら揺れているのが確認できた。第2回以降は現在のハットのデザイン(正面に大きな星があり、小さな星がハットの周りを囲んでいる)になり、モーターで「?」マークが跳ね上がる稼動方式(ソレノイド方式)に変わった。ハットは毎回新しく作り直されており、その都度、ハットの形状(つばの幅やハットの高さ、あご紐の形状など)に微妙な違いが現れている。
ハットの色は、第2回と第3回では橙・青緑・水色もあったが、第4回以降は赤・青・黄・緑・紫の5色に絞られ、後に水色が復活した(緑・黄・紫の3色は、最初は濃い色だったが、後にパステル系の淡い色になった)。
第6回までは挑戦者の数が多いときなどには、ハットに番号や個別の名前が振られている場合もあった(正面の大きな星の中に書かれているか、札が貼られていた)。他にも、後述の『史上最大の敗者復活戦』準々決勝と、第7回の準決勝では金色のハットが、第11回のクイズ王によるエキシビジョンマッチや"今世紀最後"・ハワイではアメリカ国旗模様のハットが登場した。決勝戦では、第1回と第2回では赤と緑のハットが使われていたが、第3回以降は赤と青のハットが伝統的に使われるようになった。3人で決勝戦が行われた第11回では、赤・青に加えて黄のハットも使われた。
早押しハットは挑戦者が残り10人前後になると登場することが多かったため、ウルトラクイズの挑戦者にとって、この早押しハットをかぶってクイズをすることは一つのステータスシンボルであった。ただし、予選や人数の多い段階でも、敗者復活や災害での代用に稀に使われたことがある。この際はハット自体はテーブルに固定されていることが多く、挑戦者が実際にかぶることはできない場合が多かった。また、「?」マークの稼動部分のみがテーブルに固定されてクイズが行われたこともある。
第13回ゴールドコースト(敗者復活戦)と第14回タヒチでは、無線機を使って持ち運びができるタイプが登場した。
2003年にはゲームセンターのクレーンゲーム機の景品として、高さ10cm程のミニチュアのウルトラハットが用意された。早押し機能はついていないが、ボタンが付属されており、押すと実物と同じように「?」マークがチャイム音と共に立ち上がる。稼動方式は第1回のときの電磁石による稼動方式。
この早押し判定機は、ファンには「ウルトラハット」の愛称が定着しているが、福留は一貫して「早押しハット」と呼んでいた。福澤は「ウルトラハット」と呼ぶこともあった。2006年に同局系の『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』に福留がゲスト出演した際、ウルトラハットが登場した。細かい部分では当時と違いがあったが、基本的に当時の仕様のまま番組内で使用された。この時もハットの名前を聞かれた福留は「早押しハット」と答えた。
[編集] 早押しボタン
早押しクイズでは、早押しテーブル上の挑戦者の右手の位置に早押しボタンが設置された。ボタンは、ハットと同色(初期は白で統一)の手のひらくらいの直方体のボックスに、指先で押すことができるくらいの小さなクリック式のボタンが付いたものであった。左利きの挑戦者に対しては考慮されていなかった。
ただし第7回のみ、テーブルの中央に、手のひらで押す(「叩く」という表現が近い)タイプの大きなボタンが配置されていた。この年はボタンを押すまでは両端のバーを両手で握っていないといけないというルールがあった。このスタイルの大型ボタンは、第7回以降もマラソンクイズなどのボタンを押す体制が定まりにくい早押しクイズなどで、たびたび使われた。後にこの大型ボタンは、押す部分全体がゴムで覆われている防水性タイプに発展して、このタイプのボタンが現在の『高校生クイズ』でも使用されている。
クイズを行う場所や形式の関係上、早押しテーブルを設置することが困難な場合は、早押しボタンのボックスを挑戦者の手に持たせてクイズを行った。
また、多人数が参加する国内予選の敗者復活戦では、頭部に装着し、頭の上の早押しボタンを手で叩く形式のものが使用されたことがある。この形式のものは第15回のハワイの対決早押しクイズでも使用された。
団体戦など特殊なクイズ形式では、ボタンの代わりに、足で踏むことによって解答権が得られるマット式のものが使われることもあった。
[編集] サウンド
チャイムの音・正解音・不正解音は、第5回まではチープなアナログ音だったが、第6回以降は、現在の『高校生クイズ』でも使われている特徴的な電子音になった。これらの音は現在でも日本テレビや、他局のテレビ番組でのクイズ企画などでよく使われる。中には、収録時は別の音を使っていながらアフレコでこの音に変えている例も見られる。
[編集] ネームプレート
第二次予選以降、各挑戦者の胸にプラスティック製のネームプレートが付けられた。これは、白い長方形のプレートに黒文字で挑戦者番号と苗字が書かれた名札である。
第4回までは横一列に番号と苗字を記載。第5回以降は上に番号、下に苗字が記載されていた。同じ苗字のものが複数いる場合は( )で解るようにしていた。
[編集] クイズ形式
ウルトラクイズでは、○×クイズ、早押しクイズ、三択クイズなどといった様々な形式のクイズが行われた。また、グァムにおいて恒例化した「○×どろんこクイズ」や、空から問題がばら撒かれる「バラマキクイズ」、大声を発して解答権を得る「大声クイズ」などといった、ウルトラクイズ独特のクイズも毎回行われた。このほか、訪れた土地にちなんだクイズ形式など、多種多様なクイズが出題された。クイズ形式によっては体力や運も試され、知力だけでは必ずしも勝ち進むことができるわけではなく、まさに「知力・体力・時の運」であった。
クイズ形式の詳細な説明はアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式を参照。
[編集] 罰ゲーム
主にグァム以降のチェックポイントで敗れた敗者に対し、様々な罰ゲームが行われた。一般的には演出上の理由だが、帰国したいがために安易に負け抜ける者が出ないようにという理由もあった。罰ゲームの放映時間は一般的に、1つのチェックポイントにつき3~10分ほどだが、収録にはおよそ2時間以上の時間が費やされていた。
放送では罰ゲーム終了時に失格者の氏名がテロップで「X月XX日 第○チェックポイント 失格者 ○○ ○○ 帰国」と表示されたが、罰ゲームの内容によっては「帰国?」と表示されることもあった(あくまでも演出上だけであり、実際にはちゃんと帰国している)。
代表的な罰ゲームの例を挙げる。
- インディアンに火あぶりの刑をかけられる(第1回アトランタ)
- ホワイトハウス前の庭で囚人服を着てゴミ拾い(第3回ワシントン)
- アメフト選手をたくさん乗せた状態の車で空港へ帰る(第4回ニューオーリンズ」)
- 闘牛に挑戦(第5回プラサメヒコ)
- メサの上で一泊(第6回・第10回 モニュメントバレー)
- リンカーン記念館前でウルトラ音頭を踊る(第6回ワシントン)
- 観光船のワイパー係(第7回ナイアガラ)
- ジョー・フレージャーとスパーリング(第8回フィラデルフィア)
- 米海軍士官学校へ体験入学し、厳しい教官の下訓練を受ける(第9回アナポリス)
- 10万匹以上の蜂に囲まれる(第10回アトランタ)
- 古代マヤ文明の墓の中で一泊(第11回チチェンイツァ)
- 二人三脚で空港へ帰る(第12回ゲティスバーグ)
- 二人はお互い反対方向を向いて二人三脚をし、ジャンケンで勝った人が自分の向いている方向へ20歩進めるというもの。これはPS2のゲームでも採用されている。
- スタッフに代わり、クイズ機材の撤収作業をする(第13回ロサンゼルス)
- 敗者が運ぶのに手こずる荷物を福留が軽々と持ち上げて見せるなど、スタッフの手際の良さと重労働ぶりの一端を見ることができた。
- ロデオ体験(第14回オレゴン街道・"今世紀最後"テキサス)
- ルー・テーズとプロレス無制限1本勝負(第15回ヨークタウン)
- 台風直撃でゴミが散乱した海岸を清掃(第16回グァム)
中にはドッキリ系の罰ゲームも行われた。
- パトカーでヒッチハイクして帰るが、車内で逮捕される
- ヒッチハイクして帰るが、運転手(本当は米国の俳優)に銃を突き付けられ恐喝される
- 『ウルトラクイズ伝説』によると、番組側の仕込んだ車に敗者を乗せるため、スタッフがあらかじめ敗者の手前で待ち伏せ、他の全ての車に「日本人が一人で歩いているが、手を上げても乗せないでください」と呼びかけていた。しかし、ある時脇道から予想外に入って来た車の人が敗者を乗せて行ってしまった。幸い、この車の主は無事敗者を空港まで送り届けていたという。
- カジノのディーラーになり、マフィア(本当は米国の俳優)に脅される(第12回ラスベガス)
- 川を下っているところを不法出国で捕まってしまう(第12回イグアス)
- 帰りのタクシー内で、ドライバーから高額な金を要求される("今世紀最後"サンフランシスコ)
第9回・第13回・第14回では準決勝終了後、敗者2人に対して罰ゲームを兼ねた「3位決定戦」が行われた。
- 第9回(ドーバー海峡)では○×クイズで誤答機に乗った2人が800問の3択ペーパークイズを行ったが、採点はされていない。
- 第13回(ボルティモア)では一問多答のリレークイズを行った。誤答するたびに首からぶら下げた袋に煉瓦を入れられ、立てられなくなったら負け(4位)。3位の挑戦者には、ニューヨーク州のピースを除いた全米49州ジグソーパズルが贈られた。終了後もこのクイズに使用したレンガを2人に持ち帰らせ、罰ゲームは続いていた。
- 第14回(キティホーク)では3択クイズを行った。その後、挑戦者やスタッフらが長距離移動に使っていたバスの洗車を行った。
[編集] スタジオパート
第13回・第14回・第16回を除く各回ではスタジオパートがあった。スタジオでは、総合司会("今世紀最後"ではスタジオ司会)がルートの紹介をするなど番組全体の進行を担当した。
スタジオでのルート紹介は、第1回~第12回では電飾が配置された地図のセットが使用された。緊迫感のあるBGMをバックに、総合司会の2人が地名とキーワードを順次読み上げ、そして最後は「ここまで辿り着けるのはたったの2人!」の文句で締めくくられた。地図のセットでは各チェックポイントのイメージがイラストによって紹介されていた。第15回でも同様のルート紹介が行われたが、BGMはそれまでとは異なる曲が使用された。"今世紀最後"ではCG画像を使って行われ、BGMは第12回まで使われていた曲が再び使用された。
チェックポイントの合間には総合司会の2人による、ジョークを交えたトークが行われた。また、別室においてコンピュータを使用しての敗者(または勝者)予想が行われた。
コンピュータ予想は主に挑戦者の正解率のデータを用いて行われ、各回趣向を凝らしたテレビゲーム風のコンピュータグラフィックが使われることもあった。しかし「予想」とはいっても、実際は結果が判明した後に収録している。後期の回では、正答率順で上位の人に敗者マークをつけ、実際の結果がその通りになったということや、何のデータも示さずCGで特定の挑戦者のアニメーションを流すこともあった。
番組終了時には、総合司会の2人で「勝てば天国!」「負ければ地獄!」「知力体力」「時の運」「早くこいこい」「木曜日("今世紀最後"では「月曜日」)」「史上最大」「第○回」「アメリカ横断」「ウルトラクイズで」「お会いしましょう!」という決まり文句を発していた。
決勝戦終了後は、クイズ王が出題者とともに優勝旗を持ってスタジオに登場し、総合司会からインタビューを受けた。その時にクイズ王の親族や準優勝者、準決勝進出者がスタジオに呼ばれる場合があった。準優勝者は第11回・15回以外で登場。それに加えて第3回では優勝賞品だった競走馬の名前の元になった女性挑戦者、第4回で優勝者に「必勝」のハチマキを渡した挑戦者、第6回ではスタジオで行われた結婚式の付添い人として準決勝進出者達3人、第9回では準決勝・ドーバー横断○×クイズの敗者2人、第15回では準決勝まで進出した2人がスタジオに登場した。"今世紀最後"では生放送であったため、現地にいるクイズ王が衛星中継を介してスタジオにいる両親と会話した。
[編集] 各大会の概要
1977年の第1回大会から、1992年の第16回大会までと、1998年に行われた"今世紀最後"大会をあわせて全17回が開催された。
日本国外では、主な舞台であるアメリカ合衆国の他、メキシコ、カナダ、バハマ、イギリス、フランス、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、オーストラリア、ニュージーランド、ドミニカ共和国の12カ国でクイズが実施された。
日本国外で最も多くクイズが開催された場所は「クイズの都」ことニューヨークであり、全大会においてクイズが行われた。ニューヨークで決勝戦が実施されなかった第9回と"今世紀最後"でも、チェックポイントとしてニューヨークは重要な位置に置かれた。その次に多く開催された場所はグァムとハワイ(ともに13大会)。アメリカ本土では、上陸後最初のチェックポイントとなることが多かったロサンゼルス(8大会)、次いでサンフランシスコ(7大会)となっている。
アメリカの州別で見てみると、ニューヨーク州の次に多く訪れたのは西海岸のカリフォルニア州である(全17回中、第5回と第14回を除く15大会)。一方、モンタナ州やアイダホ州、オクラホマ州、メイン州などでは、クイズが1度も開催されたことがない。
大会 | 開催年 | 視聴率 | 参加人数 | 優勝者 (クイズ王) |
クイズ開催国 (日本を除く) |
---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1977年 | 約25% | 404 | 松尾清三 | アメリカ |
第2回 | 1978年 | 23.9% | 700 | 北川宣浩 | アメリカ |
第3回 | 1979年 | 23.9% | 1,362 | 宗田利八郎 | アメリカ |
第4回 | 1980年 | 29.9% | 2,707 | 上田由美 | アメリカ |
第5回 | 1981年 | 27.2% | 6,473 | 真木法男 | アメリカ、メキシコ |
第6回 | 1982年 | 27.2% | 7,332 | 高橋直樹 | アメリカ |
第7回 | 1983年 | 34.5% | ※10,204 | 横田尚 | アメリカ、カナダ |
第8回 | 1984年 | 23.1% | 11,048 | 石橋史行 | アメリカ、バハマ |
第9回 | 1985年 | 22.2% | 11,754 | 金子孝雄 | アメリカ、イギリス、フランス |
第10回 | 1986年 | 26.8% | 17,162 | 森田敬和 | アメリカ、ボリビア、ブラジル |
第11回 | 1987年 | 20.4% | 18,017 | 稲川良夫 | アメリカ、メキシコ |
第12回 | 1988年 | 17.9% | 20,774 | 瀬間康仁 | アメリカ、ブラジル、アルゼンチン |
第13回 | 1989年 | 16.6% | 24,115 | 長戸勇人 | オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ |
第14回 | 1990年 | 15.0% | 26,735 | 佐藤光邦 | フランス領ポリネシア、アメリカ |
第15回 | 1991年 | 18.1% | 28,523 | 能勢一幸 | アメリカ、メキシコ、ドミニカ共和国 |
第16回 | 1992年 | 14.6% | 26,121 | 田中健一 | アメリカ |
"今世紀最後" | 1998年 | 21.2% | 50,453 | 小川圭太 | アメリカ、バハマ |
※:「史上最大の敗者復活戦」優勝者(グァム空港から参加)1人を含む。
- この節で述べる地名およびクイズ名称の表記は、番組内での表記に従うものとする。
- 実際の大会では実施されたが放映されなかったクイズ(どろんこクイズの勝者決定戦など)や、挑戦者の勝敗に直接関係のないクイズ(敗者予想クイズなど)は割愛する。また、各クイズの通過人数は放送上でのものであり、実際とは異なる場合がある。
- 「決勝戦の結果」は放送上のポイントであり、実際と異なる場合がある。
- 決勝戦進出者の氏名、年齢、職業は特記がない限り大会開催当時のものであり、現在のものではないので注意されたい。「No.」は、出場時に装着していたネームプレートの番号を指す。
[編集] 第1回(1977年)
日本テレビ開局25年記念番組として初開催。第1回ということで、非常にシンプルな大会であった。行われたクイズも大半が早押しクイズであった。また、当時は成田空港(新東京国際空港、現・成田国際空港)が未開港であったため、第二次予選の場所が唯一羽田空港となっていた。スタジオの観客に対し賞金付きクイズ王予想が行われた。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : ○×札上げクイズ(404→80人通過)
- 第二次予選 羽田空港 : ジャンケン(80→40人通過)
- 第1チェックポイント 東京→グァム : 機内800問ペーパークイズ(40→30人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計20人通過》
- ○×クイズ(30→17人通過、1問目で6人失格)
- 敗者復活戦 2問目失格者による○×クイズ(7→3人復活)
- 第3チェックポイント ハワイ : 1対1早押しクイズ(20→10人通過)
- 第4チェックポイント サンディエゴ : インスピレーションクイズ(10→6人通過)
- 第5チェックポイント フェニックス : 灼熱の早押しクイズ(6→5人通過)
- 第6チェックポイント ダラス : 早押しクイズ(5→4人通過)
- 第7チェックポイント ニューオルリンズ : 早押しクイズ(4→3人通過)
- 第8チェックポイント アトランタ : インスピレーションクイズ+早押しクイズ(3→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 松尾清三(38歳、No.?)
- 京都府出身。立命館大学卒業、材木店経営。
- 優勝時の年齢が歴代クイズ王中最年長。クイズ王で唯一福留よりも年上だった(福澤時代を含めても司会より年上だったのは松尾だけ)。当時は関西地区を中心にクイズ番組に参加していた。第2回優勝の北川とはクイズの優勝賞品だった海外旅行で一緒だった間柄。ダラスでは自身考案のテーマソング「♪かあちゃんの事なんか気にしない」を歌った。「機内ペーパークイズ1位で敗者復活経験なし」のクイズ王1人目。決勝後に「次(第2回)があるかわからない」ということで、決勝戦でかぶったピンク色の早押しハットを貰って帰った。
- 第11回準決勝では「栄光の初代チャンピオン」と紹介され、彼との勝負に勝てば決勝進出というクイズ形式がとられた。
- 準優勝 : 藤原滋子(27歳、No.?)
- 当時既に数多くのクイズ番組で優勝を果たしており、松尾以上の知名度を誇っていた。決勝後の優勝パーティでは、ウエイトレスの格好(今で言うコスプレ)をして登場した。
- 決勝戦の結果: (松尾) +10 VS +3 (藤原)
- クイズ王 : 松尾清三(38歳、No.?)
[編集] 第2回(1978年)
この回より、第一次予選が後楽園球場のグラウンドで行われるようになった。成田空港の開港により、第二次予選会場が羽田から成田となった。クイズにバリエーションを出し始めたが、まだその後のウルトラクイズの原型になるようなものはそれほどなかった。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : ○×走りクイズ(700→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 : ジャンケン(100→50人通過)
- 第1チェックポイント サイパンへ : 機内500問ペーパークイズ(50→40人通過)
- 第2チェックポイント サイパン 《合計20人通過》
- ○×クイズ(40→7人通過、8人失格)
- 敗者復活戦 カルタクイズ(25→13人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 記憶力クイズ(20→10人通過)
- 第4チェックポイント サンフランシスコ : インスピレーションクイズ(10→9人通過)
- 第5チェックポイント レイクタホ : 近似値クイズ→リレークイズ(9→8人通過)
- 第6チェックポイント リノ : 一発逆転ギャンブルクイズ(8→7人通過)
- 第7チェックポイント デンバー : 酸素欠乏・耐寒クイズ(7→6人通過)
- 第8チェックポイント シカゴ : 国際電話連想クイズ(6→5人通過)
- 第9チェックポイント ナイアガラ : 早押しクイズ(5→4人通過)
- 第10チェックポイント ボストン : バルーンダウンアップクイズ(4→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 北川宣浩(24歳、No.?)
- 東京都出身。東京都立大学(現・首都大学東京)卒。ウルトラクイズ出場以前からクイズ番組の優勝経験が豊富で、広くその名を知られていた。
- それまで勤めていた会社を辞めてウルトラクイズに参加した。サイパンの○×クイズで一度敗退したが、カルタクイズで敗者復活を果たした。本土上陸後、準決勝以外の全てのチェックポイントをトップで通過。優勝の喜びの余り福留とパンナムビルの屋上で相撲を取るなど大はしゃぎした。
- 2年後の第4回で第一次予選を突破するも、グァムのどろんこクイズで敗退し、どろんこクイズの敗者第1号となった。この第4回で負けたときに早押しハットの本物をスタッフからもらって帰った。もともとは第2回のときにスタッフに頼んでいたとのこと。
- 準優勝 : 間下友美子(26歳、No.?)
- 北川の影に隠れがちだったが、準決勝で一抜けして存在感をアピールした。
- 決勝戦の結果 :(間下) 0 VS +10(北川)
- クイズ王 : 北川宣浩(24歳、No.?)
- 賞品
- ニューヨークの最高級ホテル宿泊権
- 北川の家族2人を呼んで1泊した。
- ニューヨークの最高級ホテル宿泊権
[編集] 第3回(1979年)
番組テーマ曲がこの回から「スタートレックのテーマ」となった。体力系のクイズが本格的に行われ始め、バラマキクイズやダイビングクイズ(ドボンクイズ)など、その後のウルトラの代名詞になるようなクイズが登場し、ウルトラクイズのクイズ形式の基礎が築かれた。女性挑戦者が番組のマスコット、アイドル化したのもこの回から。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : ○×風船クイズ→○×走りクイズ(1,362→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 : ジャンケン(100→50人通過)
- 第1チェックポイント 東京→サイパン : 機内400問ペーパークイズ(50→40人通過)
- 第2チェックポイント サイパン : お泊まりクイズ(40→20人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : ダイビングクイズ(20→10人通過)
- 第4チェックポイント ロスアンゼルス : ゲストインスピレーションクイズ(10→8人通過)
- 第5チェックポイント グランド・キャニオン : 早押しクイズ(8→7人通過)
- 第6チェックポイント ツーソン : バラマキクイズ(7→6人通過)
- 第7チェックポイント サンアントニオ : 早押しクイズ(6→5人通過)
- 第8チェックポイント ヒューストン : ゲストインスピレーションクイズ+早押しクイズ(5→4人通過)
- 第9チェックポイント マイアミ : リ・タイヤクイズ(4→3人通過)
- 第10チェックポイント ワシントンDC : 早押し封鎖クイズ(3→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 宗田利八郎(29歳、No.17)
- 福島県出身。早稲田大学卒。愛称「ブッチャー」(挑戦者の1人がつけた愛称だが、それが福留に伝わり、以後定着した)。造り酒屋の若旦那。クイズより飲酒豪遊がモットー。
- 機内ペーパークイズ第5位。遊び疲れて睡眠不足になり、グランドキャニオンではクイズ収録中に寝てしまった。放送当時、優勝賞品(後述)の馬の名前の由来となった女性挑戦者と結婚するのではと視聴者の間で囁かれ、スタジオパートでも司会陣から「結婚しちゃえ」と2人は突っ込まれていた。
- 2年後の第5回でも後楽園球場の第一次予選を突破するが、ハワイで敗退。その回では婚約者(成田空港で敗退)と一緒に出場していたが、彼女は先述の第3回の女性とは別人だった。
- 準優勝 : 田上 滋(18歳、No.?)
- 浪人生。宗田とはペーパークイズで同順位(5位)。歴代挑戦者で唯一、10代での決勝進出を果たした。
- 決勝戦の結果 : (宗田)+10 VS +7(田上)
- クイズ王 : 宗田利八郎(29歳、No.17)
- 賞品
- 競走馬一頭
- 数え年で8歳(人間でいうと45歳程度)。この年ヒューストンまで進出し最後まで残った女性挑戦者の名前から「サウザンド・プランタン」(「千の春」という意味)と名づけられた。
- 競走馬一頭
[編集] 第4回(1980年)
準決勝に進出したベスト4がすべて女性となり、唯一の女性チャンピオンが誕生。どろんこクイズが初登場。各クイズに一ひねりを入れ始めた。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : ○×くす玉割りクイズ→○×走りクイズ(2,707→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 《合計51人通過》
- ジャンケン(100→50人通過)
- 敗者復活戦 ビンゴマシーン(50→1人復活)
- 第1チェックポイント 東京→グァム : 機内400問ペーパークイズ(最下位1人サイパンに置き去り/51→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム : ○×どろんこクイズ(40→20人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 新ダイビングクイズ(20→10人通過)
- 第4チェックポイント サンフランシスコ : ゲストインスピレーションクイズ(10→9人通過)
- 第5チェックポイント ソルトレイクシティ : 新バラマキクイズ(9→8人通過)
- 第6チェックポイント イエローストーン : 輝け!熱湯早押しクイズ(8→7人通過)
- 第7チェックポイント コロラドスプリングス : 裸足のかけ氷クイズ(7→6人通過)
- 第8チェックポイント アルバカーキ : インディアン早駆けクイズ(6→5人通過)
- 第9チェックポイント ニューオリンズ : 水風船タッチダウンクイズ(5→4人通過)
- 第10チェックポイント プエルトリコ : 早押し通過クイズ(4→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 上田由美(21歳、No.?)
- 千葉県出身。愛称"ハチマキ娘"。高校時代にフェンシングでインターハイ優勝の経歴を持つ。
- ウルトラクイズ唯一の女性優勝者・「クイーン・オブ・クイズ」だが、クイズ番組初挑戦での優勝。ウルトラクイズ以外のクイズ番組出場経験はない。成田のジャンケンで対戦相手が締めていた「必勝」と書かれたハチマキをもらい、常にこのハチマキを締めてクイズに臨んだ。左利きだが、早押しボタンは右手で押していた。
- 優勝時にパンナムビル屋上から恋人の名を叫んでおり、後にその男性と結婚し山口姓となる。優勝賞品の飛行機(後述)に感化され、後に日本航空の国際便フライトアテンダントになった。職業柄日本にいないことが多く、優勝以降はウルトラクイズへの予選参加が一時できない時期があったが、第14回以降は参加しており、"今世紀最後"では本放送前の特番で娘と一緒に東京ドームでインタビューを受けた。
- 準優勝 : 松澤典子(20歳、No.51)
- クイズの実力もあり、放送当時は上田以上に人気があった。
- 決勝戦の結果 : (上田) +10 VS +4 (松澤)
- クイズ王 : 上田由美(21歳、No.?)
- 賞品
- 1人乗り小型飛行機
- 自分で組み立てなければならなかった。上田は地方在住のファンに組み立てを依頼したが、結局は組み立てることができなかった。
- 1人乗り小型飛行機
[編集] 第5回(1981年)
初めて第1問を球場前で発表。グァム・サイパンを除けば初めてアメリカ合衆国以外の国(メキシコ)にチェックポイントを置いた。これ以降、第15回までアメリカ以外の国にも行くのが定着。奇襲クイズと通せんぼクイズが初登場。特に、準決勝・ノックスビルは前期ウルトラクイズでは最も激しい戦いが繰り広げられ、第13回・ボルティモアの激戦が行われる前までは「ウルトラクイズ史上最大の名勝負」と言われていた。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : ○×くす玉割りクイズ→○×走りクイズ(6,473→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 《合計55人通過》
- ジャンケン(100→50人通過)
- 敗者復活戦 ○×クイズ(50→5人復活)
- 第1チェックポイント 東京→サイパン : 機内400問ペーパークイズ(55→45人通過)
- 第2チェックポイント サイパン 《合計30人通過》
- 早起き空席待ちクイズ(45→20人通過)
- 敗者復活戦 ○×どろんこクイズ(25→10人復活)
- 第3チェックポイント ハワイ : クレーン宙づりドボンクイズ(30→14人通過)
- 第4チェックポイント ホノルル空港 : 眠気ざましの奇襲クイズ(ロサンゼルスで結果発表/14→13人通過)
- 第5チェックポイント ラスベガス : ゲストインスピレーションクイズ(13→12人通過)
- 第6チェックポイント アカプルコ : ドラフトクイズ(12→11人通過)
- 第7チェックポイント メキシコシティ・プラサメヒコ : メキシコの子供たち95人に聞きますクイズ(11→10人通過)
- 第8チェックポイント テオティワカン : 早押し 急がば祈れクイズ(10→9人通過)
- 第9チェックポイント フェニックス : 落下傘バラマキクイズ(9→8人通過)
- 第10チェックポイント エルパソ 《合計7人通過》 ※優勝賞品発表
- 早押しクイズ(8→6人通過)
- 敗者復活戦 先に眠った方の勝ち(2→1人復活)
- 第11チェックポイント ヒューストン : 早押しクイズ(7→6人通過)
- 第12チェックポイント メンフィス : ダウンタウンツアークイズ(6→4人通過)
- 第13チェックポイント ノックスビル : 通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 真木法男(24歳、No.6)
- 茨城県出身。中央大学の学生。細身の身体と色つきのメガネを愛用していたことから、愛称は「メガネカマキリ」。番組初の現役大学生クイズ王。
- 常に福留から虚弱ぶりをからかわれていた。サイパンで敗者復活を果たした。ルート前半では本人曰く「バイオリズムが最悪」だったらしく、殆どのチェックポイントでラスト抜け(それもかなりの苦戦)を繰り返した。中盤以降では、実力のある挑戦者を先に抜けさせて、早押しでの自滅を防ぐ「真木戦法」を使うなど戦略的な一面を見せたが、それが影響して以降も上位抜けがほとんど無かった。運も味方につけ決勝までたどり着き、下馬評では対戦相手の杉山が圧倒的に有利と思われたが、強気で攻めてクイズ王の座を獲得した。
- 準優勝 : 杉山 眞(32歳、No.73)
- 東京都出身。電気会社勤務。兄弟で成田予選を通過し、クイズの実績も既に十分に持っていた。彼の兄弟のうちの一人は第13回でオーストラリアに上陸している。
- 決勝戦の結果 : (真木) +10 VS +2 (杉山)
- クイズ王 : 真木法男(24歳、No.6)
- 賞品
- テキサスの油田採掘権
[編集] 第6回(1982年)
常夏のサイパンから極寒のアラスカへと駒を進めるなどバリエーションを持たせた。成田第二次予選は初めてクイズ(実体は殆どジャンケン)が行われた。双子神経衰弱クイズが初登場。機内ペーパークイズでは初めて女性が総合1位になった。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→○×走りクイズ(7,332→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 《合計50人通過》
- 1対1対決クイズ(ただし解答権を得るのはジャンケンで3回勝った方)(100→49人通過)
- 敗者復活戦 早押しクイズ(51→1人復活)
- 第1チェックポイント 東京→サイパン : 機内400問ペーパークイズ(50→40人通過)
- 第2チェックポイント サイパン 《合計24人通過》
- 早起きクイズ(40→20人通過)
- 敗者復活戦(成田空港にて) ○×クイズ(20→4人復活)
- 第3チェックポイント アラスカ : 1対1早押しクイズ(24→12人通過)
- 第4チェックポイント ロスアンゼルス : リレークイズ(12→11人通過)
- 第5チェックポイント バーストー : ゴーストうらめし早押しクイズ(11→10人通過)
- 第6チェックポイント モニュメントバレー : 荒野の決闘バラマキクイズ(10→8人通過)
- 第7チェックポイント ダラス : テキサス宅急便クイズ(8→7人通過)
- 第8チェックポイント ニューオリンズ : 早押し双子神経衰弱クイズ(7→6人通過)
- 第9チェックポイント ルイビル 《合計5人通過》 ※優勝賞品発表
- ケンタッキーダービークイズ(6→4人通過)
- 敗者復活戦 ニワトリ追っかけバラマキクイズ(2→1人復活)
- 第10チェックポイント ワシントンDC : 通せんぼクイズ(5→2人通過)
- 決勝ポイント ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 高橋直樹(29歳、No.59)
- 静岡県出身。愛称「トドさん」(体重100キロの巨漢)。
- ウルトラクイズ以前のクイズ経験は『パネルクイズ アタック25』優勝が唯一だったが、他の挑戦者は全くのクイズ未経験者であったため、大いに警戒された。結婚式をまだ挙げていなかったためスタジオで式(ケーキカット)を挙げる。付添い人は準優勝者の高木と準決勝進出者達がつとめた。
- 第3回でも後楽園の第一次予選を突破しているが、成田のジャンケンで敗退。"今世紀最後"ではかねてからの悲願であった娘と共に親子で参加。このとき高橋は第1問敗退、娘は第2問敗退だった。
- 準優勝 : 高木 剛(21歳、No.70)
- 茨城県出身。愛称「カッペ」(“田舎っぺ”より)。青山学院大学の学生。コンピュータ予想では常時トップにいた。翌年(第7回)も後楽園を通過するが、成田のジャンケンで敗退。
- 決勝戦の結果 : (高橋) +10 VS -1 (高木)
- クイズ王 : 高橋直樹(29歳、No.59)
- 賞品
[編集] 第7回(1983年)
歴代でもファンの評価が高い大会。視聴率は歴代最高を記録。
カナダに初上陸。急病で脱落者発生、挑戦者の身辺にトラブル発生などのアクシデントが多い大会でもあった。サポートアナウンサーが初同行。前年の『史上最大の敗者復活戦』優勝者が予選免除されるもグァムで敗退した。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 : 一塁側・三塁側お別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(10,203→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 《合計51人通過》
- ジャンケン(100→50人通過)
- 敗者復活戦 早押しクイズ(50→1人復活)
- 第1チェックポイント 東京→グァム 《合計40人通過》
- 機内400問ペーパークイズ(51→40人通過)
- 40人目の上陸決戦(機内最下位2人と『史上最大の敗者復活戦』優勝者の計3人が参加→2人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計24人通過》
- 突撃○×どろんこクイズ(40→19人通過)
- 敗者決定戦 激突!ドロレスカルタクイズ(21→5人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 早起きつな引きクイズ(24→12人通過)
- 第4チェックポイント バンクーバー 《合計11人通過》
- 恐怖の三択ふだ捨てクイズ(12→7人通過)
- 敗者決定戦 敗者決定切り株ド~ン(5→4人通過)
- 《この間、1人急病のためリタイア。合計10人に》
- 第5チェックポイント ジャスパー : 氷河イス取り早押しクイズ(10→9人通過)
- 第6チェックポイント ロサンゼルス : 双子神経衰弱(9→8人通過)
- 第7チェックポイント デスバレー : 猛暑早押しダブルチャンス(8→7人通過)
- 第8チェックポイント レイクパウエル : クイズヨットスクール(7→6人通過)
- 第9チェックポイント セントルイス : リレー珍発明クイズ(6→5人通過) ※優勝賞品発表
- 第10チェックポイント ナイアガラ : 早押しクイズ(5→4人通過)
- 第11チェックポイント オルバニー : 新・落下傘パラマキクイズ(4→3人通過)
- 第12チェックポイント ボストン : 早押しビンゴ通過クイズ(3→2人通過)
- 決勝 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 横田 尚(25歳、No.37)
- 東京都出身。日本大学卒。現在も新宿駅南口、タカシマヤタイムズスクエア前に存在する「桂屋旅館」を営む若旦那で、身長183センチの長身。
- クイズ番組初挑戦での優勝。ウルトラクイズ以外のクイズ番組の出場経験はない。機内ペーパークイズ第1位。グァムのどろんこクイズで誤答し、カルタクイズで敗者復活を果たした。
- 準優勝 : 渡辺晶夫(29歳、No.42)
- 千葉県出身。成田空港勤務。こちらも当時クイズ番組出場経験はなし。横田と同様にグァムでの敗者復活者。
- 決勝戦の結果 : (横田) +10 VS +6 (渡辺)
- クイズ王 : 横田 尚(25歳、No.37)
[編集] 第8回(1984年)
初の全都道府県からの参加となった。大声クイズとジョギング(マラソン)クイズ初登場。準々決勝ではバハマに上陸し、海底でクイズを実施した。大学を中心としたクイズ研究会の進出がこの大会から始まった。パンナムビルで決勝戦を行った最後の大会。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 《合計101人通過》 ※優勝賞品発表
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(11,048→100人通過)
- 敗者復活戦(1人復活)
- 第二次予選 成田空港 《合計54人通過》
- ジャンケン(101→51人通過)
- 敗者復活戦 航空券争奪敗者復活戦(50→3人復活)
- 第1チェックポイント 東京→グァム : 機内400問ペーパークイズ(54→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計24人通過》
- 突撃○×泥んこクイズ(40→22人通過)
- 敗者決定戦 ドロンコボール争奪クイズ(18→3人通過、ここまで合計25人通過)
- 暁の奇襲作戦 敗者たらいまわしクイズ(25→24人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 朝めし早食いつな引きクイズ(24→12人通過)
- 第4チェックポイント サンフランシスコ : 双子神経衰弱クイズ(12→11人通過)
- 第5チェックポイント リノ : 遙かなる山の大声クイズ(11→10人通過)
- 第6チェックポイント フェニックス : 時間差バラマキクイズ(10→9人通過)
- 第7チェックポイント ラピッドシティ : ご先祖様リレークイズ(9→8人通過)
- 第8チェックポイント ダコタ 《合計7人通過》
- 早押しクイズ(8→6人通過)
- 敗者復活戦 先に泣いたほうが勝ち(2→1人復活)
- 第9チェックポイント インディアナポリス : ジョギング早押しクイズ(7→6人通過)
- 第10チェックポイント キーウエスト : 早押しWチャンス潮干狩りクイズ(6→5人通過)
- 第11チェックポイント バハマ : 海底早押しクイズ(5→4人通過)
- 第12チェックポイント フィラデルフィア : 通過クイズ(4→2人通過)
- 決勝 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 第一次予選 後楽園球場 《合計101人通過》 ※優勝賞品発表
- 決勝戦進出者
- 賞品
- 高級クラシックカー
- マイアミで贈呈。自分で組み立てなければならず、エンジンを自前で調達しなければならなかった。
- 高級クラシックカー
[編集] 第9回(1985年)
当時のパリ市長ジャック・シラクの招致で、パリが決勝地になった。ニューヨークから大西洋を越え、ヨーロッパのイギリス、フランスに上陸。歴代の大会でも極めて「運」の要素が強い大会であった。機内ペーパークイズの成績トップ3が米本土上陸前に全滅、本土上陸後に優勝最有力候補といわれていた挑戦者もロンドンで姿を消すなどの大波乱も起こった。団体戦クイズが初登場。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 《合計101人通過》
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(11,754→100人通過)
- 敗者復活戦 お守りを発見した人が復活(1人復活)
- 第二次予選 成田空港 : 日高直人アナウンサーの腕立て伏せの結果により「全員通過」
- 第三次予選 成田空港 《合計59人通過》
- ジャンケン(101→50人通過)
- 敗者復活戦 離陸直前空席待ち早押しクイズ(51→9人復活)
- 第1チェックポイント 東京→グァム : 機内400問ペーパークイズ(59→45人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計30人通過》
- 突撃○×どろんこクイズ(45→24人通過)
- 敗者復活戦 どろんこ3択カルタクイズ(21→6人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ 《合計18人通過》
- クイズ・ジャポン ワイらキキ一髪(30→15人通過)
- 敗者復活戦 アンケートクイズ(15→3人復活)
- 第4チェックポイント サンフランシスコ 《合計16人通過》
- バケツリレー6連発クイズ(18→12人通過)
- 敗者決定戦 一問三答早押しクイズ(6→4人通過)
- 第5チェックポイント ヨセミテ : ヨセミテや岩にしみいる大声クイズ(16→14人通過)
- 第6チェックポイント ロスアンジェルス : 懐かしのTVスターハリウッド版あの人は今(14→13人通過)
- 第7チェックポイント ラスベガス : 足あげエアロビクスクイズ(13→12人通過)
- 第8チェックポイント アルバカーキ : 夕陽の決闘!!イバラマキクイズ(12→11人通過)
- 第9チェックポイント ナッシュビル : パルテノン双子ペアマッチクイズ(11→10人通過)
- 第10チェックポイント オーランド : 絶叫!! 恐怖のジェットコースター・クイズ(10→9人通過)
- 第11チェックポイント アナポリス : アナポリス早押しダブルチャンスクイズ(9→8人通過)
- 第12チェックポイント アトランティックシティ 《合計7人通過》
- 21のババ抜きギャンブル・クイズ(8→6人通過)
- 敗者決定戦 スロットマシン(2→1人通過)
- 第13チェックポイント ニューヨーク : ニューヨークシティマラソンクイズ(7→6人通過)
- 第14チェックポイント ロンドン : 迷路バラマキクイズ(6→5人通過) ※優勝賞品発表
- 第15・16チェックポイント ドーバー
- おかしなおかしなゲストクイズ(5→4人通過)
- ドーバー横断○×クイズ(4→2人通過)
- 決勝 パリ : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 第一次予選 後楽園球場 《合計101人通過》
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 金子孝雄(20歳、No.73)
- 東京都出身。愛称「林真理子」(顔が似ていることから)。埼玉大学クイズ研究会所属。優勝時の年齢が歴代最年少。
- 福留曰く「最弱のクイズ王」。機内ペーパークイズ31位(歴代優勝者ワースト)。成田の空席待ちクイズによる敗者復活戦、アトランティックシティのスロットマシンによる敗者決定戦での通過、準決勝「ドーバー横断○×クイズ」では残っていた席が正解の×飛行機だけであったなど、驚異的な運で勝ち上がった。しかし、アナポリスでのトップ通過、アトランティックシティではクイズ解答回数が最多であった等、実力も備わっていた。
- 第9回本放送終了の翌週、渋谷公会堂(現:渋谷C.C.Lemonホール)で『ザ・トップテン』に福留と共に出演。ウルトラクイズのテーブルとハットを使って、近藤真彦との3問勝負の早押しクイズ対決を行ったが誤答し、結果は近藤の勝ち。これは近藤がウルトラクイズのファンで、金子と近藤が同じ歳だったこと(2人とも1964年生まれ)と、歴代クイズ王で最も庶民的だった金子だったからこそ実現できた企画だった。
- 準優勝 : 長谷川威夫(23歳、No.77)
- 東京都出身。愛称「やりガイ」(勤務していた会社の当時のコマーシャルから)。出版会社の営業職。グァム・ハワイと2度も敗者復活するなど、こちらも驚異的な運で勝ち上がったが、機内ペーパークイズの順位は10位で金子よりも上。
- 決勝戦の結果 : (金子) +10 VS +8 (長谷川)
- 実際にはスルーが多く、収録は非常に長引いた。
- クイズ王 : 金子孝雄(20歳、No.73)
- 賞品
- 1人乗り小型潜水艦
- サイパンで贈呈。金子が優勝時に叫んだ言葉から"お母様ヤッタ号"と命名。「ウェット型」という形式で潜水艦内部に水が入ってくるため乗員はアクアラング等の潜水具が必要。
- 1人乗り小型潜水艦
[編集] 第10回(1986年)
全大会で唯一、第二次予選が「腕ズモウ」で行われ、機内ペーパークイズが2機の機内で同時に行われた。ベスト10が残った時点で北米ルートと南米ルートに分かれ、それぞれのチャンピオンがニューヨークで合流。スタジオのルート紹介では、分岐地点であるアトランタに辿り着くまで南北分岐は隠されていた。
北米ルートは通称"天国ルート"と呼ばれ、遊園地や豪華客船上などでクイズを行い、クイズ以外ではバハマも訪れた。一方の南米ルートはボリビアとブラジルを訪問し、標高が高く酸素が薄いという厳しい環境でクイズが行われ、通称"地獄ルート"と呼ばれた。北米ルートは福留、南米ルートは同行アナウンサーの日高直人がクイズ司会を担当。決勝戦は、リバティ島の自由の女神像の前で行われ、まさに北米王者と南米王者の名にふさわしく互いの意地と執念と誇りがぶつかりあった大激戦であった。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 《合計110人通過》
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(17,162→100人通過)
- 敗者復活戦1 ○×正解予想(第1問不正解者から4人復活)
- 敗者復活戦2 提示された条件に会う人&ぶらさがり健康器(敗者全体から6人復活)
- 第二次予選 成田空港 《合計70人通過》
- 腕ズモウ(110→55人通過)
- 敗者復活戦 敗者復活なぞなぞ団体戦(55→15人復活)
- 第1チェックポイント 成田★旅立ち : ○×クイズ(70→35人通過、敗者35人は敗者復活戦へ)
- 第2チェックポイント(+敗者復活戦) 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(勝者側35→33人通過、敗者側35→10人復活。合計43人通過)
- 第3チェックポイント グァム : 突撃○×どろんこクイズ(43→28人通過)
- 第4チェックポイント ハワイ 《合計22人通過》
- 富める者も貧しき者も一問多答つな引きクイズ(28→21人通過)
- 敗者復活戦 山手線サバイバルクイズ(7→1人復活)
- 第5チェックポイント シアトル : 日米親善インスピレーションクイズ(22→17人通過)
- 第6チェックポイント モハーベ砂漠 : 驚異のゲスト三択クイズ(17→16人通過)
- 第7チェックポイント ロサンゼルス : Wチャンス大声+念力クイズ(16→15人通過)
- 第8チェックポイント モニュメントバレー : 大西部マラソンクイズ(15→13人通過)
- 第9チェックポイント エルパソ : 13人の金曜日!!砂地獄早押しクイズ(13→12人通過)
- 第10チェックポイント ダラス : 飛んで飛んで飛んでばらまきクイズ(12→11人通過)
- 第11チェックポイント アトランタ : 南・北お別れ早押しクイズ(11→10人通過、北米ルートへ5人・南米ルートへ5人)
- 北米(天国)ルート
- 第12チェックポイント オーランド : そっくりファミリー一家総出の双子神経衰弱クイズ(5→4人通過)
- 第13チェックポイント マイアミ : カリブ海ぞうきんがけ早押しクイズ(4→3人通過)
- 第14チェックポイント ナイアガラ : ナイアガラ通過クイズ(3→1人通過、北米チャンピオンが決定)
- 南米(地獄)ルート
- 決勝 ニューヨーク : 早押しクイズ(南北チャンピオンが合流、2→1人通過、クイズ王決定)
- 第一次予選 後楽園球場 《合計110人通過》
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 森田敬和(26歳、No.33)
- 東京都出身。"南米チャンピオン"。拓殖大学卒。
- ウルトラクイズ挑戦以前から、多数のクイズ番組で優勝をおさめていた実力者。成田の○×問題で誤答し機内ペーパークイズで敗者復活(総合第2位)。グァムのどろんこクイズでも誤答し、その後○×クイズで2度目の敗者復活を果たした(未放送だが、「クイズ王の本」にその旨が書かれている)。ボリビアでは慣れない環境で高熱と腹痛に苦しみ、このとき残っていた南米ルートの他の挑戦者達が森田の看護・治療・サポートを行った。これによって挑戦者間の連帯感が強まり、南米ルート決勝では、挑戦者間で「誰が勝っても、勝者を南米ルート代表として快く送り出そう」という約束が交わされた。さらに北米ルートと合流する前に森田は、敗者と南米ルートスタッフ全員から手厚い激励を受けたという。
- 優勝直後にクイズ引退を表明するが、後に撤回。第13回の東京ドームでは福留から「最強のチャンピオン」と紹介された。
- 準優勝 :西沢泰生(24歳、No.89)
- 東京都出身。"北米チャンピオン"。森田同様、数多くのクイズ番組を制覇した実力者。機内ペーパークイズ総合第3位。決勝戦後「二度とクイズに出るな」というジョークを書いたTシャツを森田に送った。スタジオパートで語った「永遠に縮まらない2ポイント」という言葉は、本番組のファンの間で名言との声が高い。
- 決勝戦の結果 : (森田) +10 VS +8 (西沢)
- 2人とも一度はリーチ(+9)をかけ、その後誤答して後退するなど、決勝戦としては歴代最大の激戦だった。
- クイズ王 : 森田敬和(26歳、No.33)
- 賞品
- 熱気球
- アルバカーキで贈呈。3人乗りの本格派、中古品。飛び立ったときにゴンドラから「南米直行」の垂れ幕がぶら下がっていた。
- 熱気球
[編集] 第11回(1987年)
福留が引退を宣言するも、徳光と高島忠夫の説得で宣言を撤回。後楽園球場で第一次予選を行った最後の大会。成田へ行く前に埼玉県の久伊豆神社で第二次予選を行い、また敗者復活戦を名古屋で行うなど、日本国内からグァムに至るまでの行程において一工夫が施された。また、一足跳びとしてチェックポイント免除を実施。スタジオのルート紹介では一足飛び部分が前回の南北分岐と同様に隠されていた。6年ぶりにメキシコを訪問。タイムレースクイズ初登場。決勝戦は当初は従来どおり2人の予定であったが、準決勝での第1回クイズ王・松尾清三との対決クイズの結果により、3人が決勝に進出した。
- ルート
- 第一次予選 後楽園球場 《合計104人通過》
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(18,017→100人通過)
- 敗者復活戦 歯医者と縁のない人の卵割り(4人復活)
- 第二次予選 久伊豆神社 : 凶の出来事クイズ(104→103人通過、敗者1人は名古屋へ)
- 第三次予選 成田空港 : ジャンケン(103→52人通過、敗者51人は名古屋へ)
- 勝者組
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(52→40人通過)
- 敗者組
- 敗者復活戦 名古屋縦断ミニトラクイズ : クイズ&パチンコ(52→7人復活)
- 第1チェックポイント 名古屋→グァム : 機内400問ペーパークイズ(7→3人通過)
- トレードクイズ(グァム) : 深夜トレード早押しクイズ(敗者組3人+勝者組下位3人の計6人が参加→3人通過。ここまで合計40人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計28人通過》
- 突撃○×ドロンコクイズ(40→21人通過)
- 敗者決定戦 泥んこリンボー早押しクイズ(19→7人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ 《合計24人通過》
- 命預けます一問多答つな引きクイズ(28→21人通過)
- 敗者復活戦 あつあつワイキキ新婚クイズ(7→3人復活)
- 第4チェックポイント ロサンゼルス : 戦車ロシアン・ルーレットクイズ(24→12人通過)
- 第5チェックポイント パームスプリングス : 強風かけこみ大声クイズ(12→11人通過)
- 第6チェックポイント デビルスタワー : ご存知バラまきクイズ(11→10人通過)
- 第7チェックポイント バッドランド : 国境突破!!一足跳びクイズ(10→9人通過。うち先着2人は次チェックポイント免除でチチェンイツァへ、残り7人はリンカーンへ)
- 第8チェックポイント リンカーン : 一問多答早押しリレークイズ(7→6人通過。その後2人合流し8人に)
- 第9チェックポイント チチェンイツァ : 恐怖のピラミッドかけのぼり数字クイズ(8→7人通過)
- 第10チェックポイント カンクン : 日の出タイムショック(7→6人通過) ※優勝賞品発表
- 第11チェックポイント マイアミ 《合計5人通過》
- 爆走エアーボートカルタクイズ(6→4人通過)
- 敗者復活戦 日本・米国早起き連想クイズ(2→1人復活)
- 第12チェックポイント ワシントン : ワシントンつぶし合いクイズサミット(5→4人通過)
- 第13チェックポイント ニュージャージー : ニュージャージー封鎖クイズ(4→3人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(3→1人通過、クイズ王決定)
- 第一次予選 後楽園球場 《合計104人通過》
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 稲川良夫(25歳、No.94)
- 岐阜県出身。立命館大学クイズ研究会(RUQS)設立者で、初代会長。
- 成田のジャンケンで敗れ、名古屋のパチンコによって敗者復活を果たし、最後まで「名古屋敗者復活」のたすきをかけていた。機内ペーパークイズ総合第1位。
- 翌年の東京ドームでの優勝旗返還では、貰った島にちなんで、『ひょっこりひょうたん島』の曲に併せて登場した。また、第13回でも予選を突破するが、グァムのどろんこクイズで敗退した。
- 準優勝 : 山賀恵美子(20歳、No.86)
- 埼玉県出身。青山学院女子短期大学の学生。グァムでどろんこになったものの、泥んこリンボー早押しクイズで敗者復活。就職活動中だったため、決勝戦ではリクルートスーツを着用。最後の女性決勝進出者。
- 第3位 : 高橋充成(21歳、No.22)
- 決勝戦の結果 : +10(稲川) VS 0 (高橋) VS +1(山賀)
- 決勝戦では稲川以外でクイズに解答したのは山賀の1回だけ。番組史上最も一方的な決勝戦だった。また、解答席の並びは挑戦者番号順ではなく、準決勝で早く勝ち抜けた順であった(席順は上記のとおり)。
- クイズ王 : 稲川良夫(25歳、No.94)
[編集] 第12回(1988年)
参加資格年齢の上限が45歳から50歳に延長され、第一次予選の会場が東京ドームへと移り変わった。"敗者の味方"が徳光から渡辺正行にバトンタッチし、徳光は初めて一般挑戦者として出場した。北極付近のバローから南極付近のフェゴ島まで南北アメリカ大陸を縦断し、縦断後にアメリカ合衆国再上陸というスケールの大きいルートを辿った過酷な大会。南米ではブラジルとアルゼンチンを訪問した。この大会から第16回まで決勝戦は「プリンセス号」の船上で行われた。
- ルート
- 第一次予選 東京ドーム : 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(20,774→100人通過)
- 第二次予選 成田空港 《合計55人通過》
- ジャンケン(100→50人通過)
- 敗者復活戦 備えあれば復活ありクイズ(10→5人復活)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(55→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム : 突撃○×どろんこクイズ(40→20人通過)
- 第3チェックポイント バロー 《合計18人通過》
- 一問多答人間ピラミッドクイズ+カラオケ通過クイズ(20→15人通過)
- 敗者復活戦 しもやけ早押しクイズ(5→3人復活)
- 第4チェックポイント フェアバンクス(アラスカ鉄道・アンカレッジまで) 《合計15人通過》
- 勝ち抜けクイズ 三択クイズ(18→3人通過)
- 置き去りクイズ 突撃取材クイズ(15→1人失格)
- 勝ち抜けクイズ 空席待ちクイズ(14→8人通過)
- 置き去りクイズ 時間ですよ!早押しクイズ(6→1人失格)
- 勝ち抜け&置き去りクイズ 早押しクイズ(5→4人通過)
- 第5チェックポイント サンフランシスコ : 知力派VS体力派トレード新・マラソンクイズ(15→14人通過)
- 第6チェックポイント パシフィカ : クイズわたしがママよ!(14→13人通過)
- 第7チェックポイント ラスベガス : クラップス早押しクイズ(13→11人通過)
- 第8チェックポイント モハーベ砂漠 : バラマキクイズ(11→10人通過)
- 第9チェックポイント サンパウロ : 勝利への脱シュートクイズ(10→9人通過)
- 第10チェックポイント イグアス : 大滝びクイズ(9→8人通過)
- 第11チェックポイント ブエノスアイレス : クイズタンゴアルゼンチーノ(8→7人通過)
- 第12チェックポイント フェゴ島 《合計6人通過》 ※優勝賞品発表
- 最南端で災難クイズ(7→5人通過)
- 敗者復活戦 二重音声クイズ(2→1人復活)
- 第13チェックポイント ゲインズビル : 爆走ドラッグレースクイズ(6→5人通過)
- 第14チェックポイント ワシントンDC : 大統領選挙クイズ(5→4人通過)
- 第15チェックポイント ゲティスバーグ : 激戦!!通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 瀬間康仁(24歳、No.1)
- 群馬県出身。RUQS所属(2人目のRUQS出身クイズ王)。本人曰く「趣味は献血」ウルトラ参加当時で63回の献血をした。2007年現在では献血回数は300回を大きく超えている。
- 第一次予選の最後の問題で誤答したため、第一次予選突破100人の中には入らなかったが、補欠繰上げにて成田第二次予選に参加。公務員試験を捨てての挑戦。アラスカ鉄道での置き去りクイズとブエノスアイレスでは苦戦し、ラスト通過となったが、ゲインズビル以降はすべてトップ通過。決勝は紋付袴を着て臨んだ。これ以降、スーツ以外で決勝に登場する挑戦者が増えた。
- 第10回の第一次予選も突破していたが、第二次予選の腕相撲にて敗退。また、『クイズ$ミリオネア』では1000万円の問題で敗退したが、『タイムショック21』の団体戦に、第12回でともに米大陸に上陸したメンバー4人と共に出場し、優勝した。
- 準優勝 : 大江成人(21歳、No.69)
- 決勝戦の結果: (瀬間) +10 VS +6 (大江)
- クイズ王 : 瀬間康仁(24歳、No.1)
[編集] 第13回(1989年)
第1問と敗者復活者が読売新聞の紙上で発表された。ルート前半はオーストラリアとニュージーランドでクイズを行い、後半でアメリカ本土へ。挑戦者のレベルが全大会中最も高く、クイズプレーヤー・研究会による激戦が繰り広げられた。特に準決勝・ボルティモアは、第5回・ノックスビルの再現といわれ、その時以上の激しい激戦が行われウルトラクイズの中で史上最大の名勝負との声が高い。シドニーでは当時日本で話題を呼んでいたMr.マリックがゲストとして出演し、敗者復活戦も行った。
第1回から続いたスタジオパートとコンピュータ予想が廃止され、代わりに人工衛星の画像を用いたルート紹介やスタッフ・挑戦者による敗者予想など新たな傾向が試みられた。
- ルート
- 第一次予選 東京ドーム 《合計104人通過》 ※優勝賞品発表(ヒントのみ)
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(24,115→100人通過)
- 敗者復活戦 13回皆勤の挑戦者、およびその挑戦者が選んだ芸能人に似ている人が復活(4人復活)
- 第二次予選 成田空港 《合計55人通過》
- ジャンケン(104→52人通過)
- 敗者復活戦 先に泣いた方が復活!!(52→3人復活)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(55→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計25人通過》
- 突撃!○×ドロンコクイズ(40→22人通過)
- 敗者復活戦 逆ドロンコクイズ(18→3人通過)
- 第3チェックポイント グァム→オーストラリア : 3時のあなた私がマクラをかかえたらクイズ(25→24人通過)
- 第4チェックポイント ゴールドコースト 《合計22人通過》
- 団体一問多答ライフセーバーのようなクイズ(24→18人通過)
- 敗者復活戦 ダウトクイズ(6→4人復活)
- 第5チェックポイント モーリー : 史上最大!サバイバルクイズ(22→14人通過)
- 第6チェックポイント ブルーマウンテン 《合計13人通過》
- ステレオ二重音声クイズ(14→7人通過)
- モノラル一問二答クイズ(7→6人通過)
- 第7チェックポイント シドニー 《合計11人通過》
- 日豪親善超インスピレーションクイズ(13→10人通過)
- 敗者復活戦 サイキックイズ(3→1人復活)
- 第8チェックポイント クイーンズタウン : Mt.Nicholas まァ!うんと憎らし早押しクイズ(11→10人通過)
- 第9チェックポイント ショットオーバー : 地獄のお叫びクイズ(10→9人通過)
- 第10チェックポイント ロサンゼルス : クイズわたしがママよ(9→7人通過)
- 第11チェックポイント ツインレークス : トマト戦争遠すぎた塹壕(7→6人通過)
- 第12チェックポイント チムニーロック : 三択クイズ → 爆走!!コンボイリレークイズ(6→5人通過)
- 準々決勝 メンフィス : アヒルタイムショック(5→4人通過)
- 準決勝 ボルティモア : 激戦!!通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 第一次予選 東京ドーム 《合計104人通過》 ※優勝賞品発表(ヒントのみ)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 長戸勇人(24歳、No.60)
- 京都府出身。RUQS所属。彼の優勝でRUQSの3連覇が実現した。現役大学生だったが、当時はウルトラクイズ参加直前まで南米旅行をしていたため、休学扱い。歴代クイズ王の中でも極めて豪快な性格と言動・関西人特有のノリで異彩を放っていた。クイズでのお手つきや通過時の言動が派手なことや、彼自身のルックスから、ウルトラクイズのクイズ王個人としての人気は非常に高い。
- 予選参加時は、その前の南米旅行時にA型肝炎を発病していたが、それを振り切って参加。成田のジャンケンと機内ペーパークイズはパジャマ姿と髭面で挑戦し、決勝戦もパジャマを着用。髭はグァムで剃り落としたが、福留から「髭があったほうが良かった」と突っ込まれていた。機内ペーパークイズ第1位。グァムではドロンコクイズで誤答するが、逆ドロンコクイズによって敗者復活。「クイズはスポーツ」が信条で、ニュージーランド以降はラグビーのオールブラックスのジャージを時々着用。
- 第12回でも第一次予選で突破はしていないが、決定直前の問題までは勝ち進んでいた。"今世紀最後"では妻と子供を連れて出場し、この時に最強のクイズ王と紹介があった。福留からも「20世紀最強のチャンピオン」と呼ばれている。後に『ワールド☆レコーズ』のベルトコンベアから流れてくる30個の品をすべて記憶するという企画ですべて記憶し、ギネス記録を持った。
- 準優勝 : 永田喜彰(26歳、No.50)
- 決勝戦の結果 : (永田) -1 VS +10 (長戸)
- オンエア時には編集されており、実際の永田のポイントは-3。
- クイズ王 : 長戸勇人(24歳、No.60)
[編集] 第14回(1990年)
この年パート2・パート3が公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をテーマとした大会。レギュラー放送では、福留が全編の司会を担当した最後の大会。第1問が早朝のテレビ番組で発表された。グァムでは台風の影響で○×どろんこクイズができないという事態が発生。グァムの次にはフランス領ポリネシアのタヒチを訪れた。アメリカ本土西海岸のポートランドに上陸後は、東海岸の準決勝地キティホークまで全てバスのみで移動。前年とはうって変わって社会人やクイズ未経験者の多い大会だった。
- ルート
- 国内第1次予選 東京ドーム 《合計101人通過》
- 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(26,735→100人通過)
- 敗者復活戦 大ジャンケン大会(1人復活)
- 国内第2次予選 成田空港 《合計55人通過》
- ジャンケン(101→50人通過)
- 敗者復活戦 顔面の温度を上昇させる(51→5人復活)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(55→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム : 台風直撃!!緊急事態○×クイズ(40→24人通過)
- 第3チェックポイント タヒチ 《合計17人通過》
- 無人島カヌー対決クイズ(24→12人通過)
- 敗者復活戦 近似値クイズ(12→5人復活)
- 第4チェックポイント タヒチPARTII 《合計16人通過》
- 早い者勝ちクイズ(17→1人通過)
- ゲリラクイズ(16→15人通過)
- 第5チェックポイント オレゴン街道 《合計13人通過》
- 幌馬車マラソンクイズ(16→12人通過)
- 敗者復活戦 リレークイズ(4→1人復活)
- 第6チェックポイント グランドテートン : 13人のガンマン対決!大声クイズ(13→12人通過)
- 第7チェックポイント ソルトレーク 《合計10人通過》
- 近似値クイズ → 空席待ち列車タイムショック(12→8人通過)
- 敗者決定戦 バラマキクイズ(4→2人通過)
- 第8チェックポイント アーチーズ : 地獄のクイズ道(10→8人通過)
- 第9チェックポイント ツインレークス : トマト戦争遠すぎた塹壕PART2(8→7人通過)
- 第10チェックポイント レバノン : アメリカど真ん中距離獲得クイズ(7→6人通過) ※クイズ会場到着前に優勝賞品発表
- 第11チェックポイント エリー : サバイバルWチャンスクイズ(6→5人通過)
- 第12チェックポイント レイクミシガン 《合計4人通過》
- バック・トゥ・ザ・フューチャークイズ(5→4人通過)
- バック・トゥ・ザ・フューチャークイズPART2(先ほどの敗者も参加。5→4人通過)
- 敗者決定戦 二重音声クイズ(2回のクイズ各々の失格者が参加。2→1人通過)
- 準決勝 キティホーク : 激戦!!通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 国内第1次予選 東京ドーム 《合計101人通過》
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 佐藤光邦(33歳、No.64)
- 準優勝 : 高松康典(25歳、No.54)
- 熊本県出身。佐藤とは対照的に、トマト戦争などの体力系のクイズを得意としていた。決勝戦では自分の勤務する会社の制服を着て臨んだ。
- 決勝戦の結果 : (高松) -5 VS +10 (佐藤)
- 賞品
[編集] 第15回(1991年)
第1問終了後、司会者が福留から福澤に交代。第一次予選通過者が130人に拡大されたが、敗者復活戦は一切行われず、サバイバル性の高い厳しい大会となった。罰ゲームが過激化したことも特徴の一つであり、番宣CMやオープニング映像でも罰ゲームの過激さが強調されていた。クイズ研究会の影響などで、本土上陸後の挑戦者の大半が学生となった。ドミニカ共和国に上陸。
小倉淳と永井美奈子の総合司会でスタジオパートが復活した。
- ルート
- 第一次予選 東京ドーム : 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(28,523→130人通過)
- 第二次予選 成田空港 : ジャンケン(130→65人通過)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(65→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム : 突撃○×どろんこクイズ(40→26人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 対決生首クイズ(26→13人通過)
- 第4チェックポイント ロサンゼルス : 恐怖のドッグファイト早押しクイズ(13→12人通過)
- 第5チェックポイント モハベ : 砂漠の熱闘バラマキクイズ(12→11人通過)
- 第6チェックポイント サンシティ : クイズあの時君は若かった!(11→10人通過)
- 第7チェックポイント エルパソ : 国境突破!!大声クイズ(10→9人通過)
- 第8チェックポイント ジャクソン : 早押しクイズ(9→8人通過) ※優勝賞品発表
- 第9チェックポイント ニューオリンズ : ジャズ歴史三択クイズ(8→7人通過)
- 第10チェックポイント ドミニカ共和国 : 新大陸獲得クイズ(7→6人通過)
- 第11チェックポイント オーランド : マラソンクイズ(6→5人通過)
- 第12チェックポイント オーランドPARTII : 奇襲大作戦(5→4人通過)
- 第13チェックポイント ヨークタウン : 激戦!!通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 能勢一幸(22歳、No.84)
- 準優勝 : 松原史和(21歳、No.49)
- 決勝戦の結果 : (松原) +8 VS +10 (能勢)
- オンエア時には編集されており、実際の松原のポイントは+5。同一大学出身かつ同一クイズ研究会による決勝戦であった。
[編集] 第16回(1992年)
レギュラーとしては最後の大会。チェックポイントがアメリカ合衆国内にとどまり、スケールが縮小された。台風の影響もあり、参加者が初めて前年より減少した。敗者復活戦が復活するなど、ルールが前年より若干緩和された。ラサール石井が参加するも、第1問で敗退。第14回に続き、この回でもグァムで台風の被害を被った。
スタジオパートは再び無くなり、ルートの紹介は他大会のように事前には行われず、番組冒頭に流れた前週までのプレイバックでのみ行われた。
- ルート
- 国内第一次予選 東京ドーム : 一塁側・三塁側お別れクイズ→スタンド・グランドお別れクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(26,121→100人通過)
- 国内第二次予選 成田空港 《合計55人通過》
- ジャンケン(100→50人通過)
- 敗者復活戦 心の優しい方(50→5人復活)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : 機内400問ペーパークイズ(55→40人通過)
- 第2チェックポイント グァム : 空席待ち早押しクイズ(40→24人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 対決ドボンクイズ(24→12人通過)
- 第4チェックポイント ハワイPARTII : 真夜中のウルトラツアー○×クイズ(12→11人通過)
- 第5チェックポイント サンフランシスコ : 11人早押しクイズ(11→9人通過)
- 第6チェックポイント キャメロンパーク : 飛行時間獲得クイズ(9→8人通過)
- 第7チェックポイント レイクパウエル : 湖に絶叫!!大声クイズ(8→7人通過)
- 第8チェックポイント サンタフェ 《合計6人通過》
- 聖地を駆けろ!!新バラマキクイズ(7→5人通過)
- 敗者復活戦 国際☎連想クイズ(2→1人復活)
- 第9チェックポイント アトランタ : クイズ私がママよ(6→5人通過) ※優勝賞品発表
- 第10チェックポイント フロリダキーズ : マラソンクイズ(5→4人通過)
- 第11チェックポイント フィラデルフィア : 激戦!!通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝戦 ニューヨーク : 早押しクイズ(2→1人通過、クイズ王決定)
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 田中健一(22歳、No.14)
- 準優勝 : 大西 肇(34歳、No.7)
- 呉服屋の若旦那。関西クイズ愛好会出身、クイズ番組出場経験多数の実力者。東京ドームからニューヨークまで、一貫してクイズには和服を着て臨んだ。成田のジャンケンで敗退後、敗者復活を果たした。機内ペーパークイズ第2位。
- 決勝戦の結果 : (大西) +7 VS +10 (田中)
[編集] "今世紀最後"(第17回・1998年)
6年ぶり、1度限りの復活。司会に福留が再登板、"敗者の味方"も徳光が担当した。年齢上限が撤廃され、体力クイズ(バラマキクイズなど)は行われなかった。ピカイチ技・ポン食い予選の導入、400問3択ペーパークイズの廃止、決勝戦は西インド諸島でどろんこクイズを行いその模様を衛星生中継で流すなど、今までの伝統をことごとく打ち破るクイズ方式を行った。クイズ番組での優勝経験豊富な高齢挑戦者(機内クイズ第1位)がハワイで落ちるなどの波乱もあった。
再び復活したスタジオパートは伊東四朗と松本明子が務め、ルート紹介はCGで行われたが、決勝地は生中継で決勝が行われる直前まで明らかにされなかった。
- ルート
- 第1次予選 東京ドーム 《合計128人通過》
- ○×札上げクイズ→内野・外野お別れクイズ→○×走りクイズ(50,453→100人通過)
- 敗者復活戦 高齢者のクイズ正解人数+高齢者全員が復活(28人復活)
- 第2次予選 成田空港 《合計69人グァム行き、1人米本土へ》
- ピカイチ技(128→一次審査で30人合格、本選で24人通過)
- ゆで卵ポン食い決戦!(104→46人通過)
- 掟破りの大勝負 ジャンケン(1人は一足先にアメリカ本土上陸、もう1人が失格)
- 敗者復活戦 ジャンケン(59→1人復活)
- 第1チェックポイント 成田→グァム : フィッシュorチキンクイズ(69→42人通過)
- 第2チェックポイント グァム 《合計20人通過》
- 大家族どろんこ綱ひきクイズ(42→21人通過)
- 奇襲クイズ団体行動(21→18人通過)
- 敗者決定戦 深夜の出前クイズ(3→2人通過)
- 第3チェックポイント ハワイ : 負けたらスカイダイビングクイズ(20→10人通過)
- 合流○×クイズ(一足先にアメリカ本土上陸した挑戦者1人に対し出題→正解し、合流決定。合計11人に)
- 第4チェックポイント サンフランシスコ : THIS IS AMERICA(11→8人通過)
- 第5チェックポイント レイクパウエル : クイズ完璧主義(8→7人通過) ※優勝賞品発表
- 第6チェックポイント シルバートン : 列車クイズ止まってドボン!!(7→6人通過)
- 第7チェックポイント デュランゴ 《合計5人通過》
- お友達クイズ(6→4人通過)
- 敗者決定戦 お友達絶縁クイズきのうの友は今日の敵(2→1人通過)
- 第8チェックポイント テキサス : 牛追いタイムバトルクイズ(5→4人通過)
- 準決勝 ニューヨーク : 通せんぼクイズ(4→2人通過)
- 決勝地 西インド諸島 : 突撃○×どろんこ決勝(2→1人通過、クイズ王決定)
- 第1次予選 東京ドーム 《合計128人通過》
- 決勝戦進出者
- クイズ王 : 小川圭太(21歳、No.93)
- 準優勝 :清水耕司(25歳、No.7)
- 信州大学の学生。成田予選をポン食いで通過し、グァムの奇襲クイズでは敗者決定戦で辛くも勝ち抜けた。ハワイとニューヨークで勝ち抜けしたときに号泣した。
- 決勝戦の結果(○×どろんこ決勝の結果。不=不正解、正=正解)
挑戦者 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|
清水(先攻) | 不 | 不 | 不 | 正 | 不 | 1 |
小川(後攻) | 不 | 不 | 正 | 正 | - | 2 |
- 賞品
- 高級ハウスボート
- マイアミ沖に浮かんでいたが、すぐさま爆破して魚礁となった。
- 高級ハウスボート
[編集] 歴代クイズ王の傾向
歴代クイズ王は総じて機内ペーパークイズが上位のものがなる傾向があったが、全体で見ると、以下の3パターンに分かれる。
- 最初から実力を発揮したクイズ王
- ほとんどのチェックポイントで上位抜けをし、危なげなく決勝進出を果たし、下馬評どおりに優勝したクイズ王。このケースに当てはまるクイズ王が一番多かった。これに当てはまるのは第1回・松尾、第2回・北川、第4回・上田、第8回・石橋、第10回・森田、第13回・長戸、第15回・能勢、第16回・田中、"今世紀最後"・小川。
- 最初はあまり目立たなかったが、後半で尻上がりに実力を発揮したクイズ王
- 中盤までは他の目立つ挑戦者に隠れており、あまり表に出てこなかったが、勝ち進むにつれて頭角を現し優勝したクイズ王。トップ抜けをすれば、ラスト抜けもするなど、浮き沈みが激しい傾向があった。これに該当するのが、第3回・宗田、第6回・高橋、第7回・横田、第11回・稲川、第12回・瀬間、第14回・佐藤。
- 全体的な結果があまり良くなかったが、最後に優勝したクイズ王
- 下位抜けが多かったが、運も味方につけて決勝までたどり着き、最後には優勝したクイズ王。これにあたるのが、第5回・真木と第9回・金子。
[編集] 優勝賞品について
優勝賞品の多くはほとんど、あるいは全く役に立たないものであり、福留も第9回のエンディングでは「ほとんど罰ゲームみたいな優勝賞品」と評していた。役に立つものであっても税金などの経費負担が重く結局手放さなければならない場合が殆ど(初年度のみ日本テレビが諸経費を負担。第16回のブドウ畑など)であった。しかし、中には第11回の稲川が獲得した島のように、その後長期に渡って保有している例もある。第15回優勝賞品の温泉は特に珍しいものではなく、地元の人々も自由に作って入っている。
優勝賞品の発表は、残り人数が6~7人と少人数になった頃のチェックポイントで行われることが多かった。例外として第8回と第13回では第一次予選会場で発表された(第13回では3つのヒントのみが発表された)。その発表時点では優勝賞品はあたかも豪勢な物のように説明された。
ウルトラクイズの賞品はあくまでも「おまけ」であり、優勝を果たすまでの長い旅路の過程、アメリカなど各国の広大な景観・自然、一緒に長い旅をすることで得た世代を超えた友人達や何物にも変え難い人生経験、「ウルトラクイズのクイズ王」という名誉自体が「本当の優勝賞品」という認識をされている。これは優勝者だけでなく、その前までに敗れ去った敗者たちにとっても同様である。
クイズ王の優勝賞品は、当初はまともな賞品にする予定であったが、公正取引委員会の指導で、賞品は100万円相当を限度にしていたため、第1回では砂漠のど真ん中の土地しか買えなかったという。しかし、これがきっかけで、以降も風変わりな賞品を出すようになった。
[編集] メインテーマ曲と番組で流されたBGM
番組では、メインテーマ曲を初めとする様々なBGMに、ハイセンスな洋楽や当時放映の洋画音楽を使用しており、いずれも印象的な「番組の顔」と成り得た。現在では「ウルトラクイズのBGM」だけを特集・調査したウェブサイトも存在するほど、番組の選曲には多くの評価が挙がっている。しかしながら、これがこれらの楽曲の著作権の問題を複雑化させている。
[編集] メインテーマ曲
- 第1回
-
- 「THEY'RE OFF!」(ヘンリー・マンシーニ楽団/映画「THE GREAT RACE」より)
- 第2回
-
- 「Champ Change」(クインシー・ジョーンズ)
- 第3回~第15回、"今世紀最後"
-
- 「Theme From Star Trek(スタートレックのテーマ)」(メイナード・ファーガソン)
- 本番組では、最初のファンファーレの部分としてMFSBの「Zach's Fanfare #2(ザックのファンファーレ#2)」が、曲の最後の部分だけ同じメイナード・ファーガソンによる「The Cheshire Cat Walk(チシャ猫のウォーク)」が繋げられていた。
- 広大な世界に大きな夢を抱かせる魅力あるテーマ曲として、ファンならずとも、一度聞いたら忘れられない名曲として知られている。「スタートレック」を知らない人には、本番組のテーマ曲としてこの曲が刷り込まれている場合も多く、この曲自体が「ウルトラクイズのテーマ」と俗称されていることもある。アルバム「Counquistador(邦題:征服者~ロッキーのテーマ)」に、「チシャ猫のウォーク」は「ベスト・オブ・メイナード・ファーガソン」にそれぞれ収録されている。日本盤は共にソニー・ミュージック・エンタテインメントより発売。
- 「Theme From Star Trek(スタートレックのテーマ)」(メイナード・ファーガソン)
- 第16回
-
- 「Ultra Quiz Main Theme (Theme From Star Trek)」
- 第3回~第15回・"今世紀最後"でおなじみとなったメインテーマを、独自でアレンジしたリニューアルバージョン。後述の「オリジナル・サウンドトラック」にも収録されている。基本的には、以前のメイナード・ファーガソンによるバージョンを踏襲しているが、間奏部分がサックスになっている事や、曲の終わり方などが異なっている。マスタリングによる音質向上や、最新技術を駆使した演奏がなされているが、曲の持つ力強さという面で、以前のバージョンの方に人気が集中している。
- 「Ultra Quiz Main Theme (Theme From Star Trek)」
[編集] その他のBGM
- 提供スポンサー紹介BGM
-
- 「Clef Club No.2」(ランディ・ニューマン作曲/映画「ラグタイム(Ragtime)」より)
- 東京ディズニーランドの中にあるワールドバザールのBGMにも使用されている。
- 「Clef Club No.2」(ランディ・ニューマン作曲/映画「ラグタイム(Ragtime)」より)
- ルート紹介BGM
- 第一次予選○×クイズの考慮時間(45秒・30秒)BGM
- 機内ペーパークイズBGM
-
- 「Orgasmachine」(Oseのアルバム「ADONIA」より)
- 勝ち抜け時のファンファーレ
-
- 「Mardi Gras」(Grofé作曲「Mississippi Suite」より)
- 「Huckleberry Finn」(同)
- 尚、ファンファーレはこれ以外にも数多くの楽曲が使用されている。
- 「今年も数多くの敗者が去っていった」BGM
-
- 「All of you」(杏里)- 第13回
- 「Desperado(ならず者)」(Eaglesのアルバム「ならず者」より)- 第14回・第15回
- "今世紀最後"ハワイでも、敗者の日記を紹介するときに使用された。
- 「Can't Get Over You」(「オリジナル・サウンドトラック」より)- 第16回
- 決勝戦・決勝進出者がヘリコプターで決勝地上空を飛ぶ際のBGM
-
- 「Old James Bonded Bourbon(ジェイムズ爺さんのバーボン)」(映画「グレート・スタントマン(Hooper)」より)
- 「US Final Battle」(「オリジナル・サウンドトラック」より)- 第16回
[編集] 史上最大の敗者復活戦
1982年12月31日に日本テレビ開局30周年記念特番として、「ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦」という特別企画が行われた。これは、これまで後楽園球場に行かなければ予選に出場できなかったものを、全国各地で予選を実施し、その地域に密着したユニークなクイズを出題しようという試みだった。この大会は、18歳の高校生も参加することができた。過去のアメリカ横断ウルトラクイズで本土上陸した挑戦者もクローズアップされた。
クイズが全て日本国内で行われたこともあり、ウルトラクイズの番外編扱いをされていた。「アメリカ横断」というフレーズが番組タイトルになかったのもそのため。同様の理由で優勝者の佐藤はクイズ王扱いではないが、単純にウルトラクイズ関連の優勝者としてみれば、第4回の上田由美に次いで2人目の女性優勝者と見なすことができる。
この企画が好評を博し、出場資格がなかった高校生を対象として、翌1983年に「ウルトラスペシャル全国高等学校クイズ選手権」(高校生クイズ)の第1回大会を実施するきっかけを作った。この高校生クイズでも、関東・関西地区同時予選やどんでん返しなどのアイデアが引き継がれた。全国高等学校クイズ選手権は、当初、夏・冬の年2回に渡って行われたが、1986年以降夏のみの開催となり、ウルトラクイズが終了した現在も続いている。
[編集] 内容
- 北海道地区予選の第1問は、2カ所のサークルにいる幼稚園児のどちらが人数が多いかというものだった(理論的には数えればわかった)。
- 東北地区予選では、○か×かによって別の船に乗るという、ウルトラクイズ史上初の企画が行われた。
- 関東・関西地区予選は、平日に開催され、史上初の2カ所同時中継による○×クイズ(勝ち抜け人数も両地区の合計で決まっており、「関東○人、関西○人」という定員ではなかった)、史上初のナイター、史上初の、第1問が2つ出て4カ所のスタンドに分かれるという企画が行われた。
- 四国地区予選では、第1問が○か×かで別の小学校のグラウンドに向かい、正解が発表されないまま両会場で2問目以降のクイズが行われた。そして両会場6人ずつが決定した時点で初めて第1問の正解が発表された。
- 九州地区予選では、温泉につかりながら頭につけたボタンを押すという早押しクイズが行われた。それまでの、解答席に座るという概念を覆す画期的な企画だった。
- 24,642人が挑戦した各地の予選通過者82人が全国大会に進出し、高尾山でペーパークイズなど様々なクイズに挑戦。通過者8人が日本テレビのスタジオで過去6回のウルトラクイズ優勝者と直接対決するクイズに挑戦し、そこで勝ち上がった4人が成田空港で行われた生放送での7分間早押しクイズ(準決勝。後の「タイムレースクイズ」の原型)、さらに勝ち上がった2人がジャンケン7本勝負(決勝。家族も参加)に駒を進めた。
- 高尾山でのペーパークイズの結果発表は、名前を呼ばれた挑戦者が前に出るように言われ、最後に僧侶が振り向くとそれは徳光で「以上が敗者です」と発表する形式だった(これが史上初のどんでん返しであり、後述の「高校生クイズ」に継承された)。
- 決勝戦の演出は、2人が早押し機についている状態で「ウルトラクイズ史上最大の敗者復活戦でまだやっていないのはどれ? 1番、早押しクイズ、2番、○×クイズ、3番、ジャンケン」と問題を読み上げ、解答者がボタンを押し「ジャンケン」と答えたところで「そういえばまだジャンケンをやっていなかった」と言い、早押し機を強制撤去してジャンケンのセットに替えるというものだった。
- 12月の高尾山で、勝者8人に対して「罰ゲーム」ともいうべき滝修行があった(なお、高尾山では各クイズの敗者にもすべて罰ゲームがあった)。このとき徳光も一緒に滝に打たれた。
- 優勝者は北海道の主婦、佐藤麻利子だった。優勝者は家族そろってニューヨーク旅行に招待すると共に、翌1983年の第7回大会のシード権(国内予選と機内ペーパークイズの免除)を獲得した。また、この大会では準優勝者の門田雅志(大阪府の郵便局員。後に「第7回FNSクイズ王」で優勝)にも、ココス島で過ごせるという賞品が出た。
- 佐藤は第7回大会でシード権によりグァムから参加したが、400問ペーパークイズを最下位で通過した者との○×クイズで敗退。結局、ペーパークイズ失格者と共に帰国した。
[編集] ルートとクイズ内容(放送順)
史上最大の敗者復活戦では、地区大会全体が第一次予選と称された。これは初期の高校生クイズの参加規定にも引き継がれている。
九州地区予選
四国地区予選
東北地区予選
- 参加1,591人
- 松島 : ○×お別れクイズ→○×走りクイズ→○船×船乗船クイズ→桂島 : 涙の桟橋お別れクイズ(1,591→16人通過)
- 野々島 : 野々島の人100人に聞きますクイズ(16→5人通過)
北海道地区予選
- 参加1,183人
- 羊ヶ丘展望台 : 史上初!!数えればわかる!!目で見るクイズ→○×走りクイズ(1,183→8人通過)
- 羊ヶ丘展望台 : ニガ手問題出しっこクイズ(8→4人通過)
関東・関西地区予選
全国大会
- 第二次予選 高尾山薬王院 : 煩悩ふり払い百八問ペーパークイズ(82→30人通過)
- 高尾山薬王院 : 石の上にも三人クイズ(30→10人通過)
- 高尾山薬王院 : 極楽・地獄座禅右左クイズ(10→8人通過)
- 準々決勝 日本テレビGスタジオ : チャンピオン胸貸しクイズ(8→4人通過)
- 準決勝 成田空港 : 7分間タイムレース(4→2人通過)
- 決勝戦 成田空港 : ジャンケン(2→1人、優勝者決定)
[編集] 関連番組
パロディ版については番組がもたらした影響の節を参照。
[編集] ラジオ版
ローカル放送であったためにあまり知られていないが、ウルトラクイズは1983年3月に一度、ラジオでも制作された。青森県の青森放送が開局30周年記念番組として制作、同局のみで放送された。当初日本テレビは、番組タイトルを含めて協力を渋ったとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供や早押しハットなどの機材も貸し出し、司会も福留が務めた。番組ディレクターは当時青森放送ラジオ局制作部副部長だった伊奈かっぺいこと佐藤元伸が担当。地元にちなんだ問題作成や台本づくりなど放送作家的な仕事もこなした。
収録は青森市の青森県営体育館(現在は取り壊され、別の施設になっている)で行われた。第一次予選は4回に分けて行われ、のべ3650人が参加した。優勝賞品は(アメリカ)西海岸旅行であったが、青森県内では西海岸と言えば県西部の日本海岸を指すため、県内旅行だと思っていた参加者も少なくなかったという。
[編集] TAMAらいふ21・80大学対抗クイズ選手権
多摩地域が東京都に編入されて100周年を記念して1993年に行われたイベント「TAMAらいふ21」の一環として、同年夏に自治体とのタイアップでウルトラクイズ同様の形式のクイズ番組が制作された。この模様は日本テレビで深夜にローカル放送された。司会は福澤が務め(この時の福澤のかけ声は「ジャストミート」ではなく「タマ王」だった)、ウルトラクイズのスタッフも多数参加していた。参加資格は多摩地域の大学の学生のみで、2人1組での参加だった。収録は2日間にわたり、多摩の名所を巡った。優勝チームには「タマ王」の称号が与えられた。
[編集] 追跡
日本テレビが月~金曜の19時から放送していた帯番組『追跡』で、第12回の第一次予選の後に、「ウルトラクイズの裏側見せます」という内容の番組が放送された。東京ドームで出題される問題の会議の様子では、レーガン大統領についての問題が、正解が○として作られていたのに、演出の都合で語尾を変えて正解を×にすることや、福留が問題の配列を決めていくところなどが放送されていた。エンディングで小林完吾が出題する「今日の数字」では、ドームの○×クイズは118問用意しており、1大会のために作った問題は2万問であると言っていた。また、○×クイズの中でも有名な「右巻きの蚊取り線香を裏返すと左巻きになる」という問題は、司会の青島幸男の娘である青島美幸が作ったということが明かされた(NHKの『YOU』で知られるようになる前に、ウルトラクイズの構成作家をしていた)。
[編集] スーパークイズスペシャルでの登場
1992年4月1日に放送された、日本テレビのさまざまなクイズ番組から問題が出題されるスペシャル番組『4月は人気番組でSHOW by ショーバイ!! 世界まる見えマジカルで笑ってヨロシク』において、アメリカ横断ウルトラクイズからの問題が出題された。問題は前年の第15回からウルトラクイズの出題者となった福澤が出題。内容は○×クイズ3問。全問正解した2チームには、成田からニューヨークまでの往復航空運賃に相当する「45萬」のショーバイマネー(得点)が与えられた。
また1995年秋では、『日本テレビ横断ウルトラクイズ』と題して、バラマキクイズの要領で隣のスタジオから問題を持ってくるという形式のクイズが行われた。不正解だと罰ゲームがあった。
[編集] 番組がもたらした影響
- 1992年の第16回をもってレギュラー開催が終了した後、10年以上経ても熱狂的ファンからは未だに番組の復活を望む声が上がっている。インターネットの普及した昨今、かつて番組に参加した挑戦者(優勝者を含む)や当時の視聴者がウェブサイトなどに、当時の参加や視聴の記録を残すほど根強い人気を誇っている。番組が終了したことで「伝説のクイズ番組」と称されることになった。
- 本番組からパロディ化されたものは大小合わせて数えきれないほどある。例えば番組そのもののパロディには次のものがあった。
- 『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ系)
- 『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の「アメリカちょっとだけ横切りウルトラクイズ」
- 『タモリ倶楽部』(テレビ朝日ほか)の「○○区横断ウルトラクイズ」
- 『エンドレスナイト』(関西テレビ)の「○○縦断ウルトラ風クイズ」
- 『トロイの木馬』(フジテレビ系)の「アメリカ大陸縦断早押しウルトラクイズ」
- このほか、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声、「罰ゲーム」という言葉、どろんこクイズやハットなどのアイデアやセットが後のテレビ・ラジオ番組で使用されたり、全国各地の大小イベント(最近はオンラインゲームなどでも)で「ウルトラクイズ」と銘打った企画が行われるなど、『ウルトラクイズ』の存在がクイズ界にとどまることなく国民的な次元で影響を与えている。
- また、福岡放送など日本テレビ系列のNNN、NNS各局では本番組の亜流ともいうべき大人数参加のクイズ番組が制作、放送されていた。各系列局のアナウンサーやタレントではなく、当時現役司会の福留や福澤が司会を担当するなど、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。
- さらに本番組の反響は日本以外の国にまで及び、世界各国でも紹介されていた。また、日本テレビの了解を得て同様の番組が日本国外で制作された(他国から企画を利用するクイズ番組が多かった当時の日本では、珍しい例である)。
- アメリカでは、1981年に20世紀フォックステレビジョンが『All American Ultra Quiz(世界一周ウルトラクイズ)』を制作、NBCで放映された。ちなみに日本テレビもこの番組の放映権を持っていたが、本来の持ち味である人間ドラマ色が薄かった等の理由で放映されなかった。
- イギリスでは、1983年~1985年の3シリーズに渡り『Ultra Quiz』をTelevison Southの制作で、ITVで放送された。
- 本番組がきっかけで、他局でも『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』や『史上最強のクイズ王決定戦』などの大型視聴者参加型クイズ番組が生まれた。「クイズ王決定戦」と名づけるあたり、この番組の影響を少なからず受けていることが分かる(ウルトラクイズで初めてクイズ王と云う称号が出てきた)。
- 2003年、日本テレビ本社の汐留移転にちなむミニイベント「シオドメ横断ウルトラクイズ」が開催された。ただしテレビでの放映はされなかった。賞品のスポンサーは任天堂だった。
- 2006年、スポンサー6社の広告コラボレーション企画として、突撃○×泥んこクイズバージョンのテレビCMを関東地区でのみ放映した[3]。出題役は、現在も続いている「高校生クイズ」の3代目司会者であるラルフ鈴木。飛び込み役は各社共通は長州小力とバナナマン、それ以外はスポンサー関係者などだった。
[編集] クイズ研究会
この番組では、回数を重ねるに従って、いわゆる「クイズ研究会」「クイズサークル」の健闘ぶりが目立つようになった。とりわけ早押しクイズにおいて一般の挑戦者より修練を積んだ、大学のクイズ研究会に属する学生もしくはその出身者が後半のチェックポイントまで勝ち残るパターンが第5回から見られ、後半には頻繁に見られるようになった。
初期の優勝者も「クイズ(番組)荒らし」と呼ばれる実力者は多かった。しかし、社会人が主流であり、同じクイズ研究会員でも、年齢層の違いがあった。また、初期はウルトラクイズ以外にも視聴者参加型クイズ番組が多く、その「常連」が自然ウルトラクイズにも足を向けたため、優勝者のバラエティも豊富だった。
しかし、ウルトラクイズがクイズファンの人気を集める一方で、視聴者参加型クイズ番組は次第に減って行った。その結果、若い世代はウルトラクイズに影響されてクイズファンになった割合が増し、クイズ研究会もウルトラクイズに対策を特化させていった。ウルトラクイズのために旗揚げされたクイズ研究会も少なくなかった。
[編集] 研究会の主な動向
第一次予選の○×クイズにおいては集団を組んで問題の検討・行動をして、彼らの研究成果である「法則」(大半の問題は真偽を知らなくても答えが○もしくは×の二者択一しかありえず、真偽の正面検討を避け出題パターンなどの外部要因から○×解答を導く)といわれるものがあり、これを熟知したクイズ研究会のメンバーは、正解率もその他の一般個人参加者より必然的に高くなった。これにより、結果的に彼らは第一次予選突破者のかなりの数を占めることとなった。また、定員(100人)に近くなるとクイズの検討よりも100人に残るための戦略(多数の集団についていき、安全策をとる)も立て、予選突破を果たすようになった。
彼らは主に早押しクイズにおいて目覚しい活躍(知識以上の反応速度や問題文の癖読みを研究した成果)を示したため一般視聴者からみてアイドル的人気を獲得する一方、一般の挑戦者が不利となる不公平さも指摘された。ウルトラクイズの演出は「人間模様を描き出す」ことにあり、その点では一般挑戦者はその目的に適う存在であった。クイズ研究会(と出身者)がこの番組で活躍することは番組の方向性を変えたとも言うことができる。一部では番組の終了も原因はここにあるといわれている。司会の福留は著書『葬らん!』で「ウルトラクイズには社会人が出てきて喜怒哀楽をみせてほしい」という内容を書いていたが、番組が有名になるにつれ応募者の大半は大学生となり、福留の思惑とは違う方向に進んでいった。
1980年代後半のクイズサークルはこのクイズに対策を立てるという明確な意図を持っていたとされている。結果として自由時間を豊富に持つ大学生が大勢参加し、クイズ番組としてのレベルアップには貢献した。その成果は第13回準決勝の壮絶な闘いに見出すことができる。
概して彼らはこのウルトラクイズに対して徹底的な対策を立てており、クイズで見事な競り合いを見せる一方、この番組の「人間ドラマを映し出す」という点にはいささか物足りず(クイズ研究会それぞれの個人のキャラクターは立っていても、番組初期の30代40代の挑戦者のみせる人間ドラマとは違うという意味)クイズ研究会が勝ち残った時点で優勝予想がたってしまい(クイズの後半は早押しクイズが多い)番組の興味を削いだ点も指摘された。社会人参加者が、長旅で仕事やその他のしがらみを苦にする様を描くのが番組名物の一つであったが、まさにそれ故に社会人は参加しにくく、しがらみの少ない学生参加者が上位を占める結果になった。
ウルトラクイズ終了に続き、クイズ研究会員に人気の高かった「FNS1億2000万人のクイズ王決定戦」「史上最強のクイズ王決定戦」も相次いで終了した。これらの終了後は、「オープン大会」と呼ばれる、独自のクイズ大会に主な活躍の舞台を移している。これらは、純粋なクイズ大会なので難易度は高く、一般の人がいきなり参加しても勝つのはほとんど不可能である。
[編集] 番組側の動向
福留が第15回で一旦番組から退いたのは、番組では体力の限界を理由にしていたが、前掲『葬らん!』によると、一つには人生経験を積んだ社会人を中心に扱いたいのに、若者ばかりが勝ち残るのに嫌気がさしたためという(同じクイズ研究会員でも、時間に余裕のある学生がどうしても有利になる)。福留は「視聴者に番組をハイジャックされたようなもの」と述懐している(前掲書92頁)。視聴者参加番組の宿命と言えるが、視聴者と福留の認識にギャップが生まれていたことを示している。
"今世紀最後"で設けられた公式サイト(現在は閉鎖)では、冗談半分とはいえ「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと日本テレビ側がサイトに書き、彼らの神経を逆なでした。ジャンケンからピカイチ芸(一発芸)、機内400問クイズから「フィッシュorチキンクイズ」への変更も、クイズ研究会対策ではないのかと噂された。特に、ピカイチ芸の導入は研究会員などクイズマニアから囂々たる非難を浴びた。判定に局側の恣意が入る余地が大きく、研究会員への嫌がらせと目されたためである。福留は『ウルトラクイズ伝説』でも、「クイズマニアを落とすのは簡単だ」と述べるなど、敵意を隠していない。
現在もクイズ研究会の是非については、マニアの間で議論され続けている。クイズマニア(クイズプレーヤー)と番組そのもののマニアでも、見解は分かれる。
[編集] エピソード
[編集] 番組企画のエピソード
- 当初の企画は、東名高速道路の開通時に、沿線を移動しながらクイズをやるというものだった。この企画は日の目を見なかったが、舞台をアメリカに変えることで実現した。
- 同番組が最初に企画された際の仮タイトルは「ジャンボクイズ」だった。しかし、1977年当時「木曜スペシャル」のスポンサーの一社だった全日空は「ジャンボジェット」ことボーイング747を保有していなかったため(しかもライバルの日本航空は既に747を保有していた。全日空が747を導入するのは1979年)、「ライバル会社を連想させる名称は良くない」とのことで「ウルトラクイズ」に名称が変更されたという。
- 当初の計画では、日本テレビ側がアメリカ横断を、TBS側がユーラシア大陸横断を担当し、両方の優勝者がニューヨークで決勝を行う予定であった。しかし、TBSはこの企画を拒否したため、アメリカ横断のみの開催となった。
- 初代敗者の味方の徳光の出演と敗者にピコピコハンマーで徳光を叩かせる演出は第1回開催直前に急遽決まった。徳光によれば「日本テレビの代表として、一番露出度が高いお前さんが殴られるしかない」と言われて引き受けたとのことである。
- この番組は1992年の第16回を最後に打ち切られたが、翌1993年に第17回が行われていた場合はアメリカ本土上陸後、カナダ経由でニューヨークを目指すルートを予定していた。
- 前述の番組がもたらした影響にある通り、本番組の影響を受けた番組は多数ある。しかし、大人数を海外に集めてクイズを行う形式を踏襲した例はごく少ない。ある構成作家によると、短時間に多数の参加者を海外に出国させるノウハウを持っていたのは本家だけという。他局は真似しようにも、どうしても出国手続きで1日費やしてしまいできなかったのである[4]。
[編集] ロケ・旅行中のエピソード
- 第一次予選の○×クイズについて、福留は「番組の中では答えが○の問題が3回続き、次は×だろうと回答者が思うときにまた○の問題を出す。出題者がイジワルだから次も○だと思うところで×の問題を出す……というように、番組ではその場の駆け引きがあった。」と語っている[5]。つまり、参加者の心理を読み、回答が○×どちらになるかその都度問題を選択していたということである。
- 挑戦者は第一次予選を通過すると後楽園球場・東京ドームの近くにある建物に集められ、通称「勝者弁当」を支給されて渡航説明会を受けた。その際大まかなクイズルート・予定等の概要を説明されるが詳細までは知らされなかった。また誓約書もあり「放送前に内容を他言しないこと」「放送後3ヶ月は他のクイズ番組に出演しないこと」「優勝者は次回のウルトラクイズに前優勝者として参加すること」などの内容が書かれていた(ただし強制ではなく任意)。
- 挑戦者は勝ち続けている間は旅費と宿泊費と食費を日本テレビに負担してもらえた。挑戦者の数が10人前後の時点からはアルコール代も負担してもらえた。失格後も成田(第1回は羽田)空港までの旅費と食事を負担してもらえたが、挑戦者のものとは多少ランクが下がっていた。
- スタッフはほとんど挑戦者と交流を持たないとされている。これは、情が移ったりクイズの情報が漏れたりしないためであった。ただし、挑戦者が10人前後から「食事会」と称して、司会の福留・福澤、主要スタッフ(荻原など)と挑戦者の夕食会が設けられ、そこで初めて福留・福澤と挑戦者が一緒に食事をし、個人的な話もできた。なお、スタッフがホテルのゴミ箱に捨てたデータから機内ペーパーテストの順位が漏れたこともあった。
- スタッフに支給される1日の食費手当は当時のアメリカの食費1食分くらいだったが、司会の福留は「1年かかって覚える仕事を1ヶ月で覚えるから、志願するスタッフも多い」と挑戦者に話をしていた。
- 敗者は「東京直行」としてクイズが終わると即強制送還というイメージがあるが、必ずしもそれが行われていたわけではない。日本に帰国する飛行機の日程の都合や現地の天候、各チェックポイントの周辺施設の警備上の問題などの理由で、実際には敗者がその地に一泊してから帰るというパターンもあった。過去、ハワイで敗者の乗っているバスに福留が乗り込み「皆さん、番組を大いに盛り上げてくれたので、特別に敗者の皆さんにハワイの夜をプレゼントしましょう」と敗者に告げ、その日は敗者もハワイのホテルに滞在。翌日日本に帰国ということもあった。
- ホテルでの挑戦者は大体2人1部屋で宿泊し、部屋割りはアトランダム。同性同士での相部屋が原則。夫婦や兄妹、親族同士の場合必ず同室になった。女性挑戦者の場合、人数が少なくなるとずっと同じ部屋の組み合わせになる場合もあった(例えば女性挑戦者が残り2人になると、その組み合わせは以後固定され、1人だけになった場合は1人部屋になった)。また、女性挑戦者は宿泊面で男性挑戦者よりも優遇されており、スイートルームでの宿泊になる場合もあった。
- 第3回で、同部屋になった挑戦者が次のチェックポイントでことごとく脱落してしまう男性挑戦者がいたため(その挑戦者自ら自分を「死神」と名乗っていた)、この挑戦者と同じ部屋になるのを嫌った男性挑戦者が続出し、部屋割り担当のスタッフを困らせたらしい。同じく第3回では、ハワイの段階で女性挑戦者はわずか2人になってしまったため、その後この2人が必ず同じ部屋になり、人間関係の良さがテレビの画面からもうかがえた。勝ち抜けメダルは通常アメリカ人のモデルが勝者の首にかけるが、あるチェックポイントで女性挑戦者の1人が最後抜けをしたときは、先に抜けたもう一人の女性挑戦者がこのメダルをかけた。女性挑戦者の1人が脱落したとき(バラマキクイズ)、脱水症状で倒れた挑戦者を同行の医師よりも先に介護したのも、勝ち残った女性挑戦者だった。
- 同番組におけるホテルや飛行機等の手配など、旅行部分のコーディネート業務は、番組開始から終了まで一貫して近畿日本ツーリストが担当していた。そのため、ウルトラクイズ全盛期には「ウルトラクイズの仕事がしたい」という理由で同社を志望し実際に入社する学生が多数存在したという。
- 福留は、ロケ中(撮影中)は明朗活発に振舞っていたが、カメラの回っていない時は冷静であった。挑戦者に対しても「お前、いいチャンスだから力を発揮しろよ」とプロデューサーのごとく冷静なアドバイスをしていた。
- 第6回で司会の福留が農薬のついたブドウを皮ごと食べたため、体調を崩し病院に運ばれたが、1日遅れの日程でロケに復帰。しかし次のチェックポイントでは顔が腫れていたため顔を一切映さず、後姿と声だけで番組を進行した。それがきっかけとなり、次の回からは万が一福留が何らかの理由で司会進行が不能になった場合に備え、予備のアナウンサー1人を同行させるようになった(石川牧子、小倉淳などがこれにあたる)。また、入社したての若手アナウンサーを研修目的で参加させることもあった(日高直人、鈴木健などがこれにあたる)。
- 第7回では挑戦者の一人が収録中に急病にかかり、現地の病院に担ぎ込まれた。再発の恐れがあるという理由でドクターストップがかかり、日本へ強制帰国となった(この挑戦者が発病時に宿泊先のホテルで同室だったのが、この年のクイズ王になった横田尚)。ドクターストップでの帰国はウルトラクイズでこれ1回のみ。
- さらに「クイズ王の本」の中で語られているが、同じく第7回では終盤のクイズ開催期間中に、ベスト4まで残った女性挑戦者の親族が亡くなった。この時はクイズを続けるか棄権するかはその挑戦者の判断に委ねられ(ウルトラクイズでは、病気によるドクターストップや親族が亡くなるなど特殊な事情を除き、挑戦者はクイズ参加を棄権することは許されなかった)、この挑戦者はクイズを続ける決断をしたが、次のチェックポイントで失格。番組中ではこの事が公にされることはなく、「クイズ王の本」で初めてその詳細が明らかにされ、後に福留も「ウルトラクイズ伝説」でこのことに関して記述している。また、後から解ったことだそうだが、横田とこの挑戦者は遠い親戚だということも明かされた。
- 第10回のクイズ王、森田もニューヨークでの決勝当日に親族が亡くなっている(「クイズ王の本」より)が、これは決勝が終わってから本人に告げられた。
- 第13回では、オーストラリアの航空便国内線がストライキ決行中で利用できず、チェックポイントをシドニーからバス移動できる範囲に変更せざるを得なかった。エアーズロック、パース、ダーウィンが削除され、代わりにモーリー、ブルーマウンテンを追加したといわれる。
- 第14回で、結婚式直前という女性挑戦者が本土上陸を果たしたことがあった。この女性挑戦者が敗退したのは、式のわずか9日前。式には間に合ったので結果的に必要はなかったのだが、もしこの挑戦者が結婚式当日まで勝ち進んだ場合、何らかの便宜を計らうことも検討されていた(相手の男性(新郎)をクイズの現地に呼んでそこで結婚式をするか、この挑戦者を式のために一時的に帰国させる等)。オンエアの中でも、そのことに触れられているところがあった(タヒチで福留が「もしそういう状況(結婚式直前まで勝ち続けること)になったら何か考えておきましょう」とこの挑戦者に話しかけていた)。
- 第14回の決勝戦ロケ中、ニューヨークは国連総会開催中であり、当局より警備上の理由により、客船プリンセス号が往くハドソン川が航行ストップとなり、船を係留したままの決勝戦続行となった。
- 第15回の第一次予選で、「疫病神」を乗せたリリーフカーを運転していたのは、後にフジテレビアナウンサーとなる木佐彩子だった。
- 福澤は、後に日本テレビ退社時の会見やインタビュー等で、本番組の司会を福留から引き継いだことに大きなプレッシャーと辛さを感じていたことを明かした。だが、それとともに「メモリアルな仕事」だとも述べ、番組への深い思い入れを語っていた[6]。
- タレントの大桃美代子が芸能界デビューする前、同番組に挑戦者として参加し、2問目で敗退したことがある。大桃は大学入学時に、ウルトラクイズに出られると言われクイズ研究会へ入部した。
- アメリカ本土まで勝ち残った挑戦者の中には、番組スポンサーのライバル企業であるニコンやライオンの社員もいた。ライオンの社員は、花王がスポンサーをする番組に何週も出演し宣伝したとして、社内表彰されたという。他に、第11回では日本テレビの番組でありながら、第一次予選にライバル局のフジテレビの関係者も参加し本土上陸した事がある。
- 逆に、ウルトラクイズに本土まで勝ち残ったため会社を解雇された参加者、会社に辞表を提出して第二次予選に臨んだが、ジャンケンで負け途方に暮れる参加者もいた。また第一次予選を通過したものの、第二次予選を辞退した参加者も多くは会社の意向といわれる。多くの社会人にとっては、クイズ自体より参加することそのものが過酷な状況に置かれていたのである。ただし、同じ社会人でも自ら会社や店を経営している参加者(第1回:松尾、第7回:横田、第10回:森田等)、や、家族が経営する会社に勤めている参加者(第3回:宗田、第4回:上田、第6回:高橋等)は、このような縛りが比較的少ないため参加しやすいという点では優位にあった。第14回:佐藤や第15回:能勢などのように公務員も強く、上位に入りやすい傾向があった。
[編集] 放送上のエピソード
- テレビ放送では、勝敗こそ曲げていないが、時間の都合もあって大幅に編集されている箇所があった。たとえば第一次予選では、全問放送されているようにみえるが、実際には数問カットされる場合があった。更に、○と×に別れた人数が画面に表示される際も、第1問と最後の方を除いては正確な数字でない場合が多かった。また、早押しクイズなどで誰も答えられなかった問題(キャンセル)はカットされやすかった。他にも、3ポイント勝ち抜けを放送では2ポイント勝ち抜けに編集したり、誤答時のマイナスポイントを放送では1回休みに見せたりもしたようである。決勝戦の敗者のポイントも、挑戦者の著書などによると実際と放送では異なる回がいくつかある。なお発売された問題集は、機内ペーパークイズを除き、放送でカットされた問題は収録されていないものがほとんどである。
- 「ウルトラクイズ史上最大の傑作選」はもともと、木曜日の後楽園球場ナイター中継が中止だったときの代替番組だった。
- テレビ信州では、当時テレビ朝日とのクロスネットであったため、1987年秋の改編で「ニュースシャトル」を同時ネットすることになり、第11回の放送直前に「木曜スペシャル」が打ち切られ、テレビ信州には多数のクレームが入った。
- 他にも大会初期の頃は日本テレビのフルネット局が今より少なかったため、TBS系の局や、フジテレビ系の局で数週遅れで放送していた地域もあった。
[編集] 二度以上・親族同士での日本脱出者
- 各クイズ王の紹介で述べたとおり、過去3人(第2回:北川、第3回:宗田、第11回:稲川)のクイズ王がそれぞれクイズ王になった2年後(第4回、第5回、第13回)に第一次予選通過・日本脱出を果たしており、第6回:高橋、第12回:瀬間はクイズ王になる前(第3回、第10回)に第一次予選を通過している。しかし、再び本土上陸を果たしたクイズ王は一人もいない。
- 第一次予選や第二次予選を通過して日本脱出し、島(グアム、サイパン、ハワイ、タヒチなど)上陸を複数回果たした挑戦者は多数いる。中には3回、4回とこれを成し遂げたものもいる。しかし、大部分は大陸本土上陸前(グアムやハワイなど)に敗退してしまうケースが殆どで、ウルトラクイズで勝ち残ることの難しさを示している。また、中には二度連続ブーブーゲートで失格し、異国の地を踏めなかった挑戦者もいた。
- それでも、2度本土上陸を果たした挑戦者は男性で2人いる(2人とも、第8回と第12回で上陸)。そのうちの1人は第8回で、もう1人は第12回で準決勝まで到達した。
- それ以外に、兄弟・夫婦(婚約者同士も含む)で日本脱出した挑戦者も複数いる。第4回では夫婦揃っての本土上陸、また第11回では姉妹揃っての本土上陸が成し遂げられた。
[編集] 主な提供スポンサー
- 明治製菓
- 花王
- トヨタ自動車
- 井関農機
- 日清食品
- スポーツSSK
- ネッツトヨタ
- 黄桜酒造
- キヤノン
- 武田薬品
- 大塚製薬
- 三洋電機
- 全日空
- マクドナルド
- サントリー
- 片岡物産
- デサント
- 小林製薬
- 大塚化学
- JT
- ユニ・チャーム
- ドリームキャスト
- KDD
- 三共株式会社
[編集] 関連商品
[編集] 書籍
- 福留功男の私情最大! アメリカ横断ウルトラクイズ(福留功男・編著/スポーツライフ社 1984年)
- 福留がアナウンサー時代に発刊、第7回大会での出来事も掲載。
- アメリカ横断ウルトラクイズ 1~16(日本テレビ)
- 各回の放送内容と放送された全問題(機内ペーパークイズは未放送問題も)を収録。
- 第6巻の2刷以降の帯には、「史上最大の敗者復活戦」の問題が掲載されているようなことが書いてあったが、実際は一問も載っていない。
- アメリカ横断ウルトラクイズ 虎の巻(日本テレビ 1998年)
- "今世紀最後"の放送に際して出版された。過去問題5000問や歴代クイズ王へのインタビューなど。
- ウルトラクイズ伝説(福留功男・編著/日本テレビ 2000年)
- 欄外で"今世紀最後"の問題の一部を見ることができる。
- アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本(クイズ王の会・編/日本テレビ 1987年)
- 第10回までの優勝者の文章をまとめたものだが、実際は森田が他の優勝者に取材して、北川がそれぞれ文体を変えて執筆した。袋とじで第11回の予想も載っている。絶版だが、インターネット版がウェブサイト上で公開されている(外部リンク参照)。
- アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークへ行きたいかーッ! データ解析 傾向と対策(日本テレビ 1990年)
- 絶対ニューヨークへ行きた~いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題(日本テレビ 1991年)
[編集] ゲームソフト
[編集] サウンドトラック
[編集] ビデオ
[編集] ボードゲーム・その他
- アメリカ横断ウルトラクイズ(1989年・トミー) 4980円
- 子供向けとして発売されたが、6人用の早押し機(番組と同等の1/1000秒単位で判定。ただし効果音は安っぽい)と問題集2000問が付属。特に早押し機は使い回しができるため、大人にも重宝された(早押し機無しバージョンもあった)。
- NEW アメリカ横断ウルトラクイズ(1990年・同)
- 早押し機やパッケージのデザインを変更し、付属の問題集が2500問に増加。第14回ではこれを使った早押しクイズが行われた。2ポイント勝ち抜け、敗者1人が失格と思わせておいて、「敗者予想クイズ」であり勝敗とは関係ないというオチだった。しかし、ここで予想された挑戦者は、予想通り次で敗れた。
- アメリカ横断ウルトラクイズ 91年版(1991年・同)
- アメリカ横断ウルトラクイズ Jr.(1992年・同)
- アメリカ横断ウルトラクイズ チョコスナック(明治製菓)
- 箱に○×クイズが書かれており、○と×、正解の方の開け口からしか食べられないというものだった。菓子自体の形も○と×だった。
- アメリカ横断ウルトラクイズ ミニウルトラハット(バンプレスト)
[編集] 脚注
- ^ アメリカ横断ウルトラクイズ(『テレビ番組の40年』)
- ^ ウルトラクイズinてんえいホームページ
- ^ 「ウルトラクイズCMで復活!6社のコラボで「○×ドロンコクイズ」」
- ^ 10月11日(月) 「ウルトラクイズ」
- ^ 「ニューヨークへ行きたいかぁ~!!」 福留功男さんが協力した超リアル、PS2「アメリカ横断ウルトラクイズ」
- ^ 福澤朗インタビュー
[編集] 外部リンク
- 日本テレビ放送網株式会社
- ウルトラフィルハーモニー
- ~trans AM ultra quiz~
- ウルトラクイズ傑作選
- 北川宣浩のホームページ - 第2代クイズ王が運営するウェブサイト。『クイズ王の本』インターネット版も公開されている。
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