東北地方の経済史
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東北地方全体の経済史(とうほくちほうのけいざいし)とは、東北地方全体を経済的観点から見た歴史のこと。
東北地方は、明治時代に北海道が成立するまで「日本の国境地帯」であった。そのため、貿易がこの地方(特に日本海側)での経済基盤の1つであり続けた。また、気候・風土の異なる畿内や西日本に対して、馬・金・海産物などの「特産物」を輸出することで富が蓄積された。明治以降の中央集権体制と産業革命によって資本主義経済に移行すると、国際貿易や工業による資本集積が出来ずに後れた地方となってしまった。戦後は、第三次産業化によって経済基盤がつくられ、スウェーデン1国を越える約1000万人の人口と経済力を備えるに至った。
この記事では、日本の主流である太平洋ベルト地帯から離れたこの地方の経済基盤の歴史、富を巡る攻防、都市の盛衰について述べる。
なお、以下の文章において、「都市圏」は都市雇用圏、「経済圏」は買回品や専門品を中心とした小売商圏、「圏」は絶対的中心商業地を持たない地域圏、「地方」は地政学的な地域を示す。また、「拠点」とは、ヒト・モノ・カネ・情報が集まる所を示す。
目次 |
[編集] 三地域時代
- ※移動・流通の主役 : 舟、船、徒歩
地球的な温暖化が起きたと考えられている縄文時代には、北東北に遺跡や遺物が多く分布しており、西日本と比較すると人口が多かったことが推測されている。
[編集] 日本海沿岸・商業勢力
緩やかな対馬海流とリマン海流が流れる日本海側の海運では、蝦夷地・沿海州・朝鮮半島などとの間で国際貿易が行われた。また、古代以降、日本の中心となった畿内への東北地方からの最短経路が日本海沿岸ルートであったため、畿内との国内流通も盛んに行われた。この東北地方の主要な物流経路を掌握した津軽海峡から庄内地方にかけての日本海沿岸・商業勢力は、縄文時代から鉄道が出現する明治初期に至るまで富を蓄えた。
ただし、日本海沿岸・商業勢力は、農業を地盤とした経済活動をする内陸勢力(農業勢力)のように版図を拡大する必要がなく、また、経済活動を保障してくれるいずれの政治勢力とも柔軟に結び付いたため、あまり政治勢力化しなかった(時代によって、覇をとった勢力の本拠地は異なる)。
[編集] 北 vs 南
6世紀に、近畿地方で畿内政権が成立すると、当初従属していなかった東日本(東北地方、関東地方、新潟県北部・中部)の一帯は、「蝦夷」として異民族視され、征討活動の対象とされた(→蝦夷)。7世紀中盤にかけて、北東北以外の蝦夷の地域は、早々に畿内政権下に組み込まれ、前線基地(柵、鎮守府)と統治機関(国府)が置かれた(当初の多賀城は、国府と鎮守府を兼ねた)。その後、南東北は、北東北に対する畿内政権の征討活動の地盤となり、前線(柵、鎮守府)は北東北に移動して行く。
北東北の蝦夷(俘囚)は、岩手県の北上盆地(奥六郡、日高見国)を中心に、奥羽山脈を挟んで隣接する秋田県の横手盆地にも勢力が存在していた。これら内陸系蝦夷(仙道蝦夷)勢力は、表面上俘囚となりながらも独自の勢力を保ち、鎌倉時代に至るまで、「南東北の畿内政権側」対「北東北の俘囚(蝦夷)側」という対立が続いた。奈良時代に、畿内政権側の宮城県遠田郡涌谷町(現在の黄金山神社周辺)で、日本で初めて金が発見されると、米と共に金を巡る富の争いが、両勢力の間で始まった。前九年の役や後三年の役などを経て、北東北では俘囚長の奥州藤原氏が勢力を伸ばし、金を背景として富を蓄積した。その富により、奥州藤原氏の本拠地たる平泉は、平安京に次ぐ日本第二の都市に発展した。奥州藤原氏は南東北側にも攻め込み、北東北(俘囚側)と南東北(畿内政権側)という勢力バランスは崩れて東北地方は統一された。
平安末期には、東北の奥州藤原氏、関東地方の源頼朝、中日本の木曽義仲、西日本の平氏の4つの勢力に日本は分かれたが、頼朝が率いる関東武士勢力が西の勢力を次々と支配下に入れていき、最終的に奥州藤原氏も滅亡し、東北も鎌倉幕府に征討された。
[編集] 二地域時代
鎌倉幕府成立後は、奥州藤原氏の地盤を引き継いだ幕府方の内陸勢力と、日本海沿岸経済勢力の2つの地域に経済圏が収束していった。
[編集] 荘園制から一円知行へ
平安時代の荘園制に引き続き、鎌倉時代以降の守護・地頭の時代にも、荘園を基礎にした土地分割がされていたため、例えば盆地内にはいくつもの荘園が存在する様相となり、盆地全体が一つの地域としてまとまっていなかった。当時の税は、京に住む公家(荘園領主)の取り分、在地の武家である地頭(室町時代の半済令後は守護)の取り分などに分かれる。
守護大名・戦国大名は、武力を背景にして荘園を解体し、盆地全体を一つの地域(領国)として領国支配を確立した。また、税体系を大名に一元化(一円知行)したため、経済活動も活発化した。室町時代中頃、盆地内の領国支配をいち早く行っていた福島盆地の伊達氏が、北へ(仙南地方)西へ(米沢盆地)と進出した。戦国時代中・後期になると、戦国時代初期頃から外征や婚姻でさらに勢力を拡大していた伊達氏が天文の乱を起して衰退し、その機を生かしてそれまで伊達氏に従っていた南東北の奥羽山脈の西側に連なる盆地群で、盆地内の領国支配を確立した戦国大名が勢力を伸ばす。山形盆地の最上氏、会津盆地の芦名氏などが、山を越えて征服活動を活発化させ太平洋側へも進出した。伊達氏は本拠を米沢盆地に移し立て直した後、伊達政宗の時代になって大勢力を築いた。
[編集] 銀経済圏:北前船による上方経済圏とのつながり
鎌倉期の日本海沿岸では、俘囚の流れを汲む安東氏が津軽地方の十三湊に本拠を置き、内陸の荘園公領制や領国支配などの分割統治とは異なる勢力圏を維持した。
江戸時代になっても、海上交通は北前船によって日本海沿岸地域が引き続き東北地方の物流の中心を維持した。特に、最上川河口の酒田は豪商本間氏の本拠地となり、最重要港としての地位を得た。北前船は上方と蝦夷地との間を行き来したため、日本海沿岸勢力は大坂の“銀”使い経済圏(秤量貨幣。後に計数貨幣)に組み込まれた。
[編集] 金経済圏:太平洋に乗り出した内陸勢力
江戸時代になると、日本の中心地が京から江戸に東遷して地政学が変化した。奥州街道の整備によって陸上交通は江戸へ向いた形に再編され、奥州街道につながる街道が集約する南東北の太平洋側(宮城県、福島県中通りなど)が、陸上交通の経済において優勢になった(陸前浜街道はあまり利用されなかった)。
参勤交代によって江戸に人口が集中して大消費地となると、関東のみの生産力では食料や日用品が賄えなくなり、江戸への物流ルートとして東回り航路(太平洋沿岸ルート)が開かれた。この航路は、親潮域の三陸海岸から太平洋岸を南下し、銚子から利根川水系(利根運河)に入って江戸に到るもので、寄港地はそれまで漁港レベルだったものから港町へと大いに発展した。特に、1626年の北上川改修完成以降は、北上川河口の石巻に北上盆地からも川船で米が集まるようになり、石巻は太平洋側の重要拠点港となった(→仙台湾#仙台湾の港の歴史)。
奥州街道と東回り航路によって、東北地方内陸部は江戸の“金”使い経済圏(計数貨幣)に組み込まれた。
[編集] 経済広域化と飢饉
仙台に拠点を移した伊達氏は、江戸に最も近い外様の大大名として幕府との間に緊張関係が続いたが、仙台藩は、62万石の藩内経済、藩校である養賢堂の開設による智の集積、出版業などの産業の奨励によって、城下町仙台は日本で十指に入る大都市となった。
江戸初期には各藩が新田開発を行い、余剰米が発生するようになったため、それらを各藩は江戸や大坂の蔵屋敷に送って商売を行うようになった(→支店経済)。他方、米中心の経済体制から離れて、特産物(国内市場向け)の創出、つまり「商品」開発を中心とした経済改革を行った上杉鷹山の米沢藩(15万石)、長崎俵物(国際市場向け)の産地であった仙台藩や盛岡藩(10~20万石)なども現れ、経済が広域化した。
大坂の堂島では、世界初の先物取引所(米)が開設されるなど、商品流通が広域的に活発化して利益を生んだが、その分、藩内経済と全国経済の連動が起きて問題もおきるようになった。そのため、「金経済圏」「銀経済圏」と並立する形で、領国内(藩内)のみで通用する地域通貨(藩札)も発行されるなど藩ごとに経済政策は異なり、同時期でも藩によって経済状況は大きく異なるようになった。
東北地方、特に太平洋側では、やませによる冷夏が度々起きて農産物の収穫が下がる年が発生したが、それを契機に大坂で米の先物が高騰したり現物取引での買占めが起きた。その際、藩内に農産物を留めて困窮した庶民に配給すれば食糧難は回避されるのに、大坂での米投機に便乗して米を大坂に運んだため、食糧難が加速して飢饉に至った(天保の大飢饉、天明の大飢饉)。
[編集] 単一地域時代
[編集] 中央集権体制と城下町の没落
江戸時代の城下町は、それぞれの藩の版図全体を治める政治中枢であり、かつ、経済中枢でもあった。城下町には町割りがあるため、現在の「都市 (基礎自治体)」と似たものと考えがちであるが、実際は藩全体から税収が集まるため、「市域」は藩全体に及んでいたと考えるのが妥当である。また、当時の富の中心が米だったため、版図の広さや生産力(石高)が経済力に反映していた。現在の感覚でいうと、城下町は「中心商店街」であり、藩は「都市圏 (広域都市)」のような状態であった。この見方だと、藩内の家臣の所領は、現在でいう私有地と似たものとなる。藩を「県」と見なした場合は、家臣たちの治める「村」はあるが、「市」という自治体は存在せず、県庁のみが商店街(城下町)にある状態となる。
明治時代初期の廃藩置県は、数多くあった藩、すなわち「都市圏」の経済基盤の解体を意味し、新たに版図全体からの税収を集めたのは県庁所在地となった。そのため、県庁が置かれなかった多くの城下町は、商業地と化した(現在の「平成の大合併」によって、市町村役場を失った都市や村落と同様な現象が、城下町経済に降りかかった)。最終的に東北地方には6つの県が置かれ、6つの県庁所在地が決まった。江戸時代の幕藩体制は地方分権体制だったため、城下町が全税収を独占していたが、明治政府の中央集権体制では、税収は国へ吸い上げられ、県庁所在地は、国の徴税窓口となって、城下町のような繁栄をみせることは困難になった。そのため、県庁所在地になったとしても、城下町経済のような藩御用達(藩主は華族となって東京移住)や武家(のちに秩禄処分される)のみの購買力に依存していた都市は、人口を減らす結果となった。
ただ、東京と青森のほぼ中間に位置していた仙台には、明治政府による東北地方支配の政治的拠点が置かれ、新たな発展を始めた。江戸時代の大都市は、藩内経済を基盤としてなかった大坂と京以外、天領経済と参勤交代による大名たちの支出に頼っていた江戸、石高の大きい大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・仙台・岡山・熊本・広島・徳島)など、城下町経済の崩壊の影響を受けた。江戸は東京と改名され、中央集権体制によって天領以外からも税収を得ることとなり、文明開化の恩恵を得たが、鹿児島や岡山、熊本、徳島は明治政府の地方支配の拠点都市にならずに衰退し、金沢は拠点化されたが北陸地方の人口が予想以上に早く減少したために衰退した。名古屋は拠点都市になった上、東京と近畿地方を結ぶ流通拠点ともなって興隆し、広島と仙台は、同程度の支配地域を持ったが、広島は工業が発展し、軍事の中枢機関が置かれたため、仙台よりも早く発展した。
[編集] 鉄道開通による旧宿場町の興隆と港町の没落
明治時代には鉄道が発展したため、陸上交通においても大量輸送が可能になり、なおかつ速達性が向上した。すると、それまで経済活動の主役だった日本海沿岸勢力(海上交通は、大量輸送は可能だが、速達性は低い)は、次第に地位を下げて行った。結果、東北本線などの鉄道が早くから発達し、北東北より人口も多く、関東にも近い南東北は、東北地方の政治や経済の中心地となって行った(→東北地方#人口)。
鉄道は江戸時代の街道沿いに建設されることが多かったため、宿場町に駅が設置されることがほとんどだった。そのため、ほとんどの宿場町は宿泊機能よりも商業機能が拡充し、江戸時代よりも繁栄した。しかし、蒸気機関車の登坂力の問題から、トンネルが建設されたり、街道と別のルートを取ったりしたため、いくつかの峠近くの宿場町には駅が出来ず、衰退していく宿場町も現れた。
[編集] 産業革命と福島県の台頭
「上からの産業革命」といわれる明治政府の殖産興業により、東北地方でも工業・鉱業が始まり、鉱物資源の豊富な秋田県と福島県がその中心となった。秋田県では、南秋田郡を中心として、山本郡、河辺郡、由利郡の日本海沿岸の各郡に油脈があり、日本有数の油田地帯を形成した。また、内陸の小坂鉱山などの鉱山も発展した。しかし、これら工業原料を利用した工場はその産出量の割りにほとんど設置されることはなく、一次産品の供給基地に留まった。福島県では、金、銀、銅、石炭、亜鉛、硫黄、硫化鉄等が産出されたが、特に浜通り南部の常磐炭田は東北を代表する炭鉱として多くの労働力を集めた。また、安積疏水などの水力発電を利用した製糸業などで中通り中部の郡山が工業都市として発展するなど、東北の産業革命は福島県が主導した。工業が労働力を集め続けた高度経済成長期あたりまで、福島県は東北地方最大の人口と工業生産力を誇った。
このような産業発展により、日本銀行は、福島県福島市、秋田県秋田市という順序で設置された(工業資本は巨大なため日銀が必要になるが、当時の地方の商業は小資本であるため市中銀行で賄える)。商業都市であった宮城県仙台市には、軍需工場が多く設置された第二次世界大戦中になるまで日銀は設置されなかった。
- 日本銀行の営業所の開設順
- 福島支店(1889年・明治32年)全国7番目。開設当初は青森県を除く「東北5県」を管轄(青森県は函館支店の管轄)。新規支店開設の度に管轄域を縮小。
- 秋田支店(1917年・大正6年)全国12番目。開設当初は、秋田県、青森県、山形県庄内地方という「日本海に面した2県1地方」を管轄。1945年に青森県を青森支店に、1997年に山形県庄内地方を仙台支店山形営業所に譲り、秋田県内のみになった。
- 仙台支店(1941年・昭和16年)全国19番目。順次管轄域を広げ、現在は「宮城県・岩手県・山形県の3県」、および、「東北6県の取りまとめ」をしている。
- 青森支店(1945年・昭和20年5月)「青森県内」を管轄。それ以前の青森県は、秋田支店、さらにさかのぼると、函館支店の管轄であった。
[編集] 「出・東北」
幕末から明治維新の時代、東北地方と新潟県の諸藩は、奥羽越列藩同盟を結成して薩長と敵対したが、敗北した(→戊辰戦争)。そのため、明治政府によって所領の没収や転封を強いられ、更に秩禄処分などの政策によって家臣団を中心に経済的困窮が深まり、北海道(蝦夷地)への集団移住者を多数出すに至った。他方、新政府側につき、奥羽越列藩同盟と戦った秋田藩・弘前藩などもまた、戊辰戦争で莫大な出費をしたため、経済的な困窮を強いられ同様に多数の移住者を出した。このような武士階級・知識階級の減少と、東北地方の拠点港として建設された野蒜築港の失敗が、後の東北地方の発展を遅らせる結果を生んだ。
富国強兵政策が軌道に乗って来ると、商品経済の波が東北地方にも及び、現金収入(商品作物・余剰米)の少なかった農村では余剰労働力が増加した。東北地方では、福島県の工業、秋田県の鉱業は発展していたが、全般的に産業発展が後れており、また、城下町や港町の経済近代化が後れたため、それら余剰労働力の全てを吸収することが出来ずに域外への流出を招いた。そのため、関東などの工業地帯に移住したり(第一次産業→第二次産業)、満州国やハワイに集団移住したり(第一次産業→第一次産業)する者が現れた。
戦後の高度経済成長時代になると、第一次産業の余剰労働力は、京浜工業地帯(第二次産業)に「金の卵」として集団就職した。
このように、戊辰戦争敗戦から(太平洋ベルトの)高度経済成長期まで、東北地方では、「移住」(集団移住)による労働力大量流出の時代が続いた。
[編集] 都市の時代
1970年代前半に起きたニクソン・ショックとオイル・ショックによって高度経済成長が終わると、東京の成長が鈍り始め、東北地方から東京への労働力供給は、「移住」から「出稼ぎ」のような季節労働が主体となる。
[編集] 県庁の肥大化と東北6県それぞれの自立
この時期には、田中角栄が「日本列島改造論」を掲げて、地方への富の再分配(地方への公共投資 → 太平洋ベルト地帯との格差の縮小)を進めたため、東北地方も基盤整備が進んだ。地方における公共投資の窓口は県庁や市役所、町村役場であるので、資金はこれらの地方自治体の役所を経由することになり、役所は地域における最大の "企業" として肥大化していった。中でも、国から潤沢に公金が入る「県庁」が "巨大企業" として君臨することとなり、その企業城下町である県庁所在地の拠点化が進んだ。
すると、社会的流出の鈍化が起き、更に、第二次ベビーブームの影響もあって、東北地方は人口増の時代に入る。一方で消費経済も始まって第三次産業が大きく伸びたため、仙台を始めとした県庁所在地や、郡山を始めとした地方中核都市への人の移動が進み、各々が大きく人口を増やした(都市化)。
都市化の進展は、経済の面では県域や地域区分よりも都市自体に意味を持たせたが、一方、政治の面では、巨大化した県庁が、己の支配権が及ぶ県域のみに執着したため、東北地方全体の連携や北東北・南東北という地域区分の意味は薄れた。しかし、結果として東北各県それぞれの自立を助けた。
[編集] 鉄道流通からトラック流通へ
1970年代は東北自動車道が建設された時代であり、東北地方の流通が、鉄道からトラックなどの自動車に大きく変化した時代でもあった。仙台には、国道4号・仙台バイパスが1966年に供用開始となると同時に広大な流通団地が形成され、1970年代以降、東北地方全体に商品を供給する「卸売り・流通の中心地」となった。ただし、現在のように東北地方各都市から集客する「小売の中心地」ではなかった。長距離流通に適する鉄道から中・短距離流通に適するトラック流通への変化によって、それぞれの県庁所在地や地方中核都市の隣接地にも流通地区が設けられ、都市基盤が整備された。流通地区を有する都市は商品であふれ、商業が発展して人口も増加した。
- 時代が進むにつれ、トラックの燃費が向上し、東北道(南北軸)以外の高速道路(東西軸)も整備されていったため、トラック流通は長距離流通にも対応していった。そのため、県庁所在地ごと、地方中核都市ごとに流通拠点がある必要がなくなり、次の時代以降、北上市・仙台市・郡山市などの交通の要衝に陸上流通の拠点は集約していった。
[編集] 本州の北のターミナル・青森県
青森県は、本州と北海道を結ぶ本州側の北のターミナルであり、青森市の青森港(⇔函館港)、および、八戸市の八戸港(⇔苫小牧港)が、その接続先の違いや立地により、機能分担が進んでいる。青森港は道南とのトラック+フェリー流通と旅客輸送、八戸港は札幌経済圏とのトラック+フェリー流通や他地域とのコンテナ流通が中心である。
青森市は、1871年(明治4年)に青森県の県庁所在地となった後、1873年北海道開拓使の手により青函航路に汽船による定期航路が開かれた。明治以降は、鉄道の開業にともない、北海道と本州を結ぶ交通の要衝として、諸産業が発達した。 1988年、青函トンネルの開通によって青函連絡船が廃止されたが、トラック流通時代に対応した青函フェリーによって、本州(東北道)の北のターミナルとして、次の時代以降も流通拠点都市となっている。なお、津軽地方は東北地方で唯一新幹線が通っていない主要地域圏であり、仙台よりも、北海道(鉄路・海路・空路)や東京(空路)との関係が深い。
八戸市は、青森県・南部地方の中心地としての機能の他に、八戸道の開通で海が無い盛岡市の外港機能の一部を担うようになり、また、苫小牧港(札幌経済圏の南の玄関口)とのフェリー航路によって、本州北端のターミナル機能が強化され、流通拠点・工業都市となっていった。現在は、青森県のコンテナ流通における首位港ともなっている。人の移動においては、東北新幹線が八戸まで延伸したことで、東京との人の交流が三沢空港から東北新幹線に主軸が移行し、さらに、盛岡市・仙台市などの東北新幹線沿いの他都市との交流も活発化した。また、世界三大漁場の三陸沖の漁獲が多く集まる都市(八戸・宮古・気仙沼・石巻・仙台)の中で、唯一漁港と新幹線駅の双方を持ったため、「食」観光と十和田湖・奥入瀬渓流観光の玄関口としての機能が結びつき、八戸市の観光客入込数は、新幹線開業前の1.5倍程度へ増加した[1][2]。
北海道の人口および経済力が九州地方の4割程度であり、かつ、津軽海峡を自動車が自走して渡ることができないため、青森県は山口県ほどの大きなターミナル効果を得てはいないが、本州の北のターミナルとして、東北地方では、宮城県・福島県に次いで3番目に都市化が進んだ県となっている(→ 東北地方#地理)。以下に、本州の北と南の結節点にある地方の人口概数、およびほぼ同格のヨーロッパ諸国を示す。
フェリー (2004年度。1日平均旅客数。1日平均流通量)
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- 青森港 : 1978人/日。トラック 728台/日、バス 4.4台/日、車 387台/日
- 八戸港 : 941人/日。トラック 413台/日、バス 2.3台/日、車 166台/日
- 仙台港 : 650人/日。トラック 236台/日、バス 1.4台/日、車 274台/日
- 秋田港 : 217人/日。トラック 64台/日、バス 0.8台/日、車 70台/日
北海道の玄関口の変遷
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- 江戸時代:
- 海上交通:松前、江差 ←日本海ルート優勢
- 陸上交通:(松前街道)~三厩~松前(松前氏の参勤交代路)
- 幕末~明治初期:函館(箱館) ←日本海ルート優勢
- 明治後期~戦後:小樽(札幌の外港) ← 日本海ルート優勢
- 昭和初期~高度経済成長期:室蘭・苫小牧・釧路(工業港) ←太平洋ルート優勢
- 高度経済成長期以降:苫小牧(札幌の外港) ←太平洋ルート優勢
- その他:青函トンネル経由。新千歳空港経由。
[編集] 都市圏の時代
- ※移動 : 自家用車(1家に1台→2台)、新幹線。流通 : トラック輸送の小口化
[編集] モータリゼーションと都市圏の形成
高度経済成長以後、東北地方では第三次産業への産業転換が進んで人口が増加し、一家に1台のモータリゼーション時代となった。各拠点都市では郊外化が進んだが、おのおのが、中心業務地区・中心商店街を中心とした都市圏を形成した。バブル経済期入ると、東北地方では一家に自動車が2台以上あるのが普通になる。同時に、消費行動の変化により「少品種多生産」から「多品種少生産」に工業・流通も変化したため、小口のトラック流通が主流になった。それらの商品はそれぞれの都市圏に運ばれ、中心商店街やデパートでは、高級品まで取り揃えた商品が並び、都市圏の時代を謳歌することになる。
東北地方のバブル経済は、東京都のバブルが弾けた後の1990年代初頭に頂点があり、東京都とは時差があった。これは、東京都で土地売買の総量規制が施行され、動かなくなった資金が大阪市や福岡市や札幌市など地方の大都市に流れ、最終的に仙台市などの東北地方に回って来たためである。
[編集] バブル崩壊と盛岡・仙台・郡山の3都市圏の興隆
(以下は主要駅間の路線距離の概数。東北地方の諸都市の間隔に近い太平洋ベルトの都市を示す)
- 東京<255km>浜松<110km>名古屋<190km>大阪<185km>岡山
- 東京<225km>郡山<125km>仙台<185km>盛岡<195km>青森
- 大阪<240km>福山<105km>広島<195km>下関<205km>熊本
1982年に大宮~盛岡間で開通した東北新幹線は、新幹線駅の有る都市と無い都市との間にじわじわと格差を生じさせ、バブル崩壊後の東北地方では、さらに高速道路の開通が拠点都市形成に大きな意味を持つことになった。1990年代に入ると、東北道(南北軸)と交差し、東西軸となる幾つかの高速道路の開通によって仙台都市圏と郡山都市圏が、新幹線の盛岡以遠開通と北東北「政治連合」によって盛岡都市圏が各々拠点化し、「3都市圏の拠点化」は顕在化する。
1980年 | 新 | 1990年 | 新 | 1995年 | 新 | 2000年 | 新 |
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仙台都市圏 124万8616人 |
東 北 新 幹 線 開 業 82 年 大 宮 駅 85 年 上 野 駅 91 年 東 京 駅 |
仙台都市圏 139万5486人 |
92 年 山 形 新 幹 線 開 業 |
仙台都市圏 149万2610人 |
97 年 秋 田 新 幹 線 開 業 |
仙台都市圏 155万5691人 |
02 年 東 北 新 幹 線 八 戸 駅 延 伸 |
山形都市圏 41万5965人 |
郡山都市圏 49万3891人 |
郡山都市圏 52万1116人 |
郡山都市圏 53万7493人 |
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秋田都市圏 38万4718人 |
秋田都市圏 43万5144人 |
山形都市圏 46万4103人 |
山形都市圏 47万5546人 |
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盛岡都市圏 38万2706人 |
山形都市圏 43万2463人 |
盛岡都市圏 46万1605人 |
盛岡都市圏 47万5541人 |
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いわき都市圏 34万7408人 |
盛岡都市圏 41万8459人 |
秋田都市圏 45万0274人 |
秋田都市圏 45万2316人 |
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福島都市圏 34万3063人 |
福島都市圏 40万4636人 |
福島都市圏 41万0964人 |
福島都市圏 41万2353人 |
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郡山都市圏 34万1004人 |
いわき都市圏 36万1286人 |
いわき都市圏 36万6207人 |
いわき都市圏 36万5864人 |
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青森都市圏 33万6677人 |
青森都市圏 33万2838人 |
青森都市圏 33万7827人 |
青森都市圏 34万0558人 |
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八戸都市圏 33万1608人 |
八戸都市圏 33万2275人 |
八戸都市圏 33万3129人 |
八戸都市圏 33万2242人 |
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弘前都市圏 27万8234人 |
弘前都市圏 27万2460人 |
弘前都市圏 32万9279人 |
弘前都市圏 32万6102人 |
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会津若松都市圏 19万7672人 |
石巻都市圏 21万1991人 |
石巻都市圏 21万1124人 |
北上都市圏 22万0258人 |
仙台都市圏では、JR仙山線と国道48号(関山トンネル)という遅い連絡経路しかなかった山形市(村山地方)との間で、1981年に国道286号の笹谷トンネルが開通し、1990年代を通して建設された山形道(村田JCTで東北道と接続)によって両市間の時間距離は半分以下にまで短縮された。これにより、仙台と山形では「双子都市化」が始まり、仙台都市圏と村山地方は一体化し始めた。
なお、1992年に開通した山形新幹線は、東西軸ではなく、山形県内奥羽山脈西側盆地群を繋ぐ南北軸であったため、東京との時間短縮に寄与したが、東北地方内の東西連携には寄与せず、東北新幹線との結節点である福島市を拠点化させるに至らなかった(→山形新幹線#需要)。結果、福島都市圏は、後に仙台経済圏に包含された。
- ※仙台駅からの距離(色わけは仙台からほぼ同じ距離の駅。単位:km)
郡山都市圏では、太平洋側(いわき市)と日本海側(新潟市)を結ぶ磐越道が1997年に開通し、郡山で東北道とジャンクションを形成したため、東北地方の交通の要衝、工業流通基地として拠点化された。又、宇都宮市(北関東)と仙台市のちょうど中間にある位置や、郡山市近郊に開設された福島空港(1993年開設)も、郡山の拠点化を手伝った。
なお、磐越道と常磐道の結節点のいわき市も、工業・流通・港湾地区として拠点化された。
盛岡都市圏では、1997年に秋田新幹線が開通し、2002年には東北新幹線が八戸駅まで延伸されたことで、それまでの東北新幹線終着駅としての蓄積を基に、岩手県知事のリーダーシップで、青森県や秋田県と共に、「北東北」という「政治連合」を形成した。又、青森市と仙台市のちょうど中間にあるという位置や、秋田新幹線がミニ新幹線であるため(秋田駅~盛岡駅:127km、90分。盛岡駅~仙台駅:184km、44分)、結節点効果があるということにより、盛岡では政治的・経済的に拠点化が進んだ。
[編集] 岩手県・北上盆地中部の変化
秋田道の全線開通(1997年7月23日)は、日本海側の海港の拠点が酒田港(山形県酒田市)から秋田港(秋田県秋田市)に移るという結果を生み、秋田道と東北道との結節点である岩手県北上都市圏(北上盆地中部→岩手県#地域)の工業集積や流通基地の集積を加速させた(秋田県横手盆地の横手都市圏にもやや集積が見られる)。
例えば、酒田港で荷揚げしてトラックに積み替え、東北道の流通に乗せようとすると山形道を経由することになるが、このルートは途中未完成で、高速道路から下りて山岳道路の月山道路(国道112号)を走らねばならず、トラックによる流通には向かない。そのため、酒田港は秋田港に日本海側の拠点港の地位を譲る結果になった。
- コンテナ取扱量(2004年。単位:TEU)
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- ※( )内は後背地を示す。
このような秋田港の地位向上は、岩手県・北上盆地(岩手県主要部)の外港の地位を高速道路が通じていない宮古港や釜石港からも奪った。このため、北上都市圏は、流通の面で「日本海側」の面も持つようになった。ただし、実際の流通量は東北道がメインであるため、北上盆地が仙台港や東京港・横浜港に大いに依存していることは変わらない。しかし、北上都市圏には花巻空港もあるため、郡山都市圏と同様に、北関東のような内陸工業・流通地域として地位を上げている。
- 東北地方全体へ供給する場合の流通拠点(括弧内は、その流通拠点の外港と空港)
[編集] 「北東北3県」の試み
秋田都市圏を抜いて北東北第一の都市圏となった盛岡都市圏と、北上都市圏の工業・流通集積による経済力向上を受け、岩手県知事がリーダーシップをとり、北東北3県(青森県・岩手県・秋田県)を政治的に束ねる試みが行われた。秋田道開通による秋田港~秋田道~北上市(東北道との結節点)の流通ルートの確立、秋田新幹線開業による秋田市と盛岡市の関係の深まりなどを背景として、岩手県と秋田県の2県の話し合いから始まり、後に、東北新幹線が八戸まで延伸された青森県も加わった。
政治的に独立した枠組みとしての「北東北」を確立するため、2010年を目途にした北東北3県の合併(現行法規内)や、将来の道州制(将来構想)も視野に入れた議論を進め、更には3県合同の経済政策を実施した。政治的には、1997年10月の第1回北東北知事サミットに始まり、2001年9月の第5回サミットには北海道の初参加を成功させた。並行して、経済政策としては、札幌・名古屋・大阪・福岡に北東北3県合同のアンテナショップや合同事務所を開設したり、北海道と北東北3県の合同事務所をソウルとシンガポールに開設したりした。2003年には「北東北みらい債」計60億円を3県で共同発行して産業育成を試みた。
これらの施策は、将来の道州制において東北6県で「東北州」となってしまうと、北東北は周辺部になってしまい、中心部である南東北に投資が集中するとの予測があることが背景にある。そのため、北東北3県で「北東北州」となって独立した中心部を持ち、投資を呼び込む窓口を持つという経済的インセンティブによって枠組みがつくられた。また、「北東北州」成立の際は盛岡市を州都にする、という岩手県知事の政治的野心もあった。ただし、北東北3県では市場性に限界があるため北海道に近付いた。他方、陸路で繋がり、経済関係が深い南東北各県との合同施策は1つもつくらなかった。
[編集] 経済圏の時代
- 北東北(仙台経済圏との関係が薄い地域)
- 南東北(仙台経済圏)
[編集] 巨大"企業"「県庁」の没落
バブル経済の破綻は、国や地方自治体の負債の増大を招き、次第に地方交付税交付金や公共事業(補助金)の削減を招いた。そのため、田中角栄政権の時代から続いた「地方の最大の“企業”は地方自治体(県庁、市町村役所)」という図式が崩壊し始めた。
- 東北地方の主な企業の売上高と自治体の歳出決算総額(2002年[3])
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現在も県庁および仙台市役所は、東北地方における“巨大企業”の地位にあり、かつ、地域経済のメインプレイヤーとなっている。しかし、宮城県庁は、歳出が最も多かった時から1500億円以上も歳出を削減し(地方の大企業1社の倒産に匹敵する額)、他の県庁も、借金(県債)の返済や人件費などの義務的経費に歳出が消えて、投資に回る財源が減ってきている。このような県庁や市役所という“大企業”(地方自治体)の経営不振は、その“企業”が立地している県庁所在地や地方中核都市の経済力低下を招いた。
[編集] 平成の大合併下の「出・東北」
小規模な市町村の「役所」という“企業”も県庁と同様な経営不振の状況にあり、「平成の大合併」や「アウトソーシング」によって「コスト削減」をして、なんとか倒産を防ぐ試みが行われている。しかし、少子化による人口減、高齢化による社会福祉費の増大などにより、税収(売上)は少なく支出(経費)が多い状況が見え、“企業”としての先細りの感は否めない。
従来、町村の有力"企業"は、1)役場、2)農協(流通・金融)、3)学校、4)工場、5)建設業、6)病院であり、若い労働力の就職先としても機能してきた。しかし、バブル期の金融で失敗した農協が、再編・広域合併などで財政執行権のない支店格化したり、平成不況で工場が閉鎖されたり、小泉政権下の公共事業の削減によって建設業が倒産して、有力"企業"は、役場・学校・病院になった。近年、少子化のために学校が廃校になって地域から失われ、「平成の大合併」によって役場がなくなった地域も出てきた。現在は、高齢化によって「顧客(患者様)」が増加傾向にある病院のみが有力企業として生き残り、町村の形が「病院城下町」化した地域が多くなっている。ただし、医療費削減・医師不足・医療の機能分担などにより、病院も整理統合される可能性がある(参考:町村の新たな有力企業→「道の駅」、「秘湯ブームや個人旅行に対応した温泉宿」)。
この時代においては、ベンチャー企業の育成、あるいは域外からの投資によって地方経済は生き残らざるを得ない。域外からの投資によって成長をしている北上都市圏、地場の企業育成によって成長を見ている山形県の米沢都市圏や村山地方などの例はあるが、大半の地域では産業の育成が滞っている。そのため、東北地方全体でみると近年の人口減少は著しく、小学生以下の子を連れて東京に移住する例が多く見られ、合計特殊出生率の値云々よりも、実質的に生産年齢世代と子供がいない「限界集落」が続出し、実際に廃村となる地区も見られ、シャッター通りと並んで大きな問題になっている。
なお、宮城県以外の東北5県の県外転出者に占める宮城県を転出先とする者の割合は、高度経済成長期の1965年が7.3%であったのに対し、1995年は19.0%、2003年は18.0%となっており、昭和の「出・東北」と平成の「出・東北」では若干様相が異なる。
[編集] 郊外大規模店と都市圏の枠組みの崩壊
県庁所在地や地方都市の経済力の低下(中心業務地区の求心力低下)は、高額商品を扱う百貨店の衰退(中心商業地の求心力低下)を招き、核店舗の消えた中心部商店街の求心力の低下を招いた。また、デフレ経済と大店法の波に乗った郊外のショッピングセンターやゼネラルマーチャンダイズストアの興隆により、都市圏中心部居住者を除いて、車がない生活が出来なくなった。
郊外大規模店は「中抜き流通」と呼ばれる「卸しを通さない」流通、もしくは小売規模の拡大による「自社内流通」を行って、仙台市を初めとする卸売り企業集積地(拠点都市)に大打撃を与えた。更に、流通構造の改革は価格破壊を実現し、既存店よりも価格競争力をつけた郊外大規模店の出店攻勢により、中心商業地に重ねて大打撃を与えた。
自社内に卸し機能も含む小売店は、個人商店よりも商品種類数が多くすることが出来るため、郊外型ショッピングセンターは、規模の小さい都市の中心商業地を壊滅させ、「シャッター通り」に至らしめるには充分な種類を持ち得た。しかし、40万から50万人の都市圏の中心商業地では競合状態となり、150万人の都市圏を擁する仙台市の中心商業地・一番町および仙台駅西口の全体の商品種類数には及ばなかった。
また、収益性を上げるために、さらに商品種類数を減らす場合もあり、消費者を長く満足させることはできなかった。種類数上昇の対策として、自社外流通を持つ専門店街を店鋪内に設けたりして、集客力を高める努力もしたが、収益性の問題から、高額商品やファッション性の高い衣類・バッグ・アクセサリーなどまでは商品ラインナップに入れられなかった。
このような都市圏中心部の求心力低下と郊外化により、都市圏の枠組みは崩壊する。また、1人に1台となった高度モータリゼーションにより郊外の限界はなくなり、必要とあらば、隣接都市圏や更に遠方の都市圏に訪れることが日常的になった。
[編集] パーソナル・モータリゼーションと交流人口の増大
なお、「1人1台の高度モータリゼーション」を促進した要素として、東北地方では軽自動車の販売拡大が上げられる。冬季に道路の積雪・凍結に見舞われる東北地方では、スリップ事故に対する不安から、軽自動車の自動車登録台数全体に対する割合が西日本と比べ低い傾向がある。しかし、スタッドレスタイヤの性能向上と除雪の徹底によって冬季の運転に対する不安が減り、北東北では新車登録の半数を軽自動車が占めるほどとなった[4]。西日本と比べ、軽自動車の登録台数割合が依然低いことや、不景気による普通乗用車から軽自動車への買い替え需要を内包している面もあるが、安価な自動車の選択肢が増えたことで、高度モータリゼーションが大きく進展した。
- 全自動車に対する軽自動車の割合(都道府県別概数)
1990年代末:
2006年3月末:
- 宮城県31%、その他の東北地方35-39%
- 福岡県34%、広島県38%、その他の中国・四国・九州地方40-48%
地方における高度モータリゼーションは、それまで自転車・バイク・バス等で都市圏内部で移動していた者の移動の自由を拡大し、都市圏の外への移動も容易にする。また、普通車と比べて軽自動車は高速道路通行料金が安く、燃費も押しなべて良いことから、乗り心地がやや劣るものの安価に長距離移動が出来るため、都市圏の枠組みを越えた移動を容易にしている。このように都市圏間移動が容易になったため、都市圏人口よりも交流人口が商業において意味を持つようになり、東北地方では交流人口をベースにした「経済圏」の時代に入った。
[編集] 陸上交通の再編
北東北では、秋田新幹線開通(1997年)、仙台空港~青森空港の定期便就航(1998年11月~1999年11月)とJRの旅客争奪競争、東北新幹線の八戸延伸(2002年)など、長距離速達性の向上 に合わせて「北東北デスティネーション・キャンペーン」(2003年)が開催された。
南東北では、1999年3月に仙台~福島線、2000年3月15日に仙台~郡山線に「近距離高速バス路線」が開設されてドル箱路線化した。さらに、2001年2月の規制緩和を受けて、2002年10月初旬に富士交通も安価な運賃(既存運行会社より約20%割安)などを武器に同2路線に参入し、熾烈な増便・運賃値下げ競争が始まった。平行して存在する東北新幹線や東北本線でも仙台~福島間割引往復切符の発売やダイヤ改正がなされた。
また、1998年7月1日の笹谷トンネルの山形自動車道編入によって高速道路全線開通となった仙台~山形間でも、特急バス仙台山形線が「高速バス化」し、2004年1月からは新規参入企業との間で増便・運賃値下げ競争が始まった。
すなわち、南東北では仙台を目的地とする近距離高速バス路線において増便・値下げ合戦や新規路線開発が起きて路線網が形成され、対抗してJRも割引切符やダイヤ改正をするなど、仙台経済圏の移動の低廉化・高速化・利便性の向上 が起きた(→仙台経済圏#仙台経済圏の交通環境の変化)。
[編集] 「仙台経済圏の拡大」と「仙台一極集中」
この時期の東北地方では、既に百貨店の閉鎖が相次いでいたため、仙台市以外で高級品販売店は数を数える程しかなくなっていた。他の七大都市圏では、90年代半ばの円高期を境にアウトレットモールが郊外の交通の要衝などに次々設置されて、新たな高級品販売店となったが、仙台都市圏のみならず東北地方ではその時代に設置されず、仙台空港発着の香港便やホノルル便が現地の免税店でのブランド品買出しの足として使われた(2003年のSARS発生まで→仙台空港#かつて就航していた路線・国際線)。2002年になって仙台宮城IC近くに唯一小規模なものが出来たが、高級ブランドのアウトレットモールではない。
2000年代(特にSARS発生で香港便とホノルル便が廃止になった2003年)になると、どうにか生き延びていた仙台市の高級品販売店やセレクトショップなどに、東北地方各地、特に南東北3県の各地から買物客が集まるようになってきた。それに上述の陸上交通の再編が加わり、仙台経済圏は急激に拡大して行く結果となった。
仙台経済圏の拡大は、更に高級小売商品の種類の拡充を可能にして、仙台市の中心部商業地である一番町の「海外ブランド街化」、および、仙台駅西口の大型店への「国内ブランド集積」を進め、更に仙台市への一極集中が助長された。仙台市都心部でのブランド品路線の成功は、都心の地価下落による出店コストの低下、高級品アウトレットモールが東北地方になかったこと、SARSによる仙台空港発着国際線が廃止になったことが幸いしている。
また、コンサートにおいて、1000-2000席のホールコンサートから、万単位への巨大化(大規模野外または大体育館など)と、百単位への縮小化(ライブハウスなど)が発生し、更にツアー開催地を限定する動きが出てくると、東北地方では仙台・郡山・盛岡にツアー開催地が集約し、特に陸上交通の再編と「箱」の分化・リサイジングが進んでいた仙台での開催が突出するようになった。仙台でのコンサート開催情報は、周辺各県で販売されているタウン情報誌のイベント欄の多くを占め、さらに周辺各県のFM局やテレビでも告知され、仙台経済圏拡大を促進することになった(→楽都仙台)。
このような仙台一極集中と仙台経済圏の拡大のため、仙台市に近い地方都市(石巻市、相馬市など)や隣県の県庁所在地(山形市、福島市)は、仙台市への依存度を高め、小売商圏としての仙台経済圏は、宮城県内は元より、仙台市から100km圏(山形県村山地方、福島県浜通り北部・中通り北部、岩手県南部)に広がった。また、仙台が提供する都市コンテンツの増加・多様化によって、仙台市都心部での滞在時間延長、あるいは更なる広域からの集客にも繋がり、ビジネスホテル等を中心にした安価な宿泊施設の大量供給が発生し、海外高級ホテルの出店計画表明にも至っている。
- 一般的に「南東北」とは宮城県・山形県・福島県の3県を指す。以前の仙台経済圏は宮城県内に留まっていたが、現在は県境を越えて宮城県・山形県・福島県の3県の県庁所在地(仙台市・山形市・福島市)を含む形になったため、「仙台経済圏」を指して「南東北」と呼ぶ例も見られるようになった(→南東北)。
[編集] 「北東北3県」の枠組みの崩壊
「北東北3県」の枠組みを政治的に形成したことにより、盛岡市には北東北3県を管轄する業務機能が集約したが、それは食品メーカーやスーパーマーケットなどの最寄品関連業種に限られた。また、秋田新幹線の需要の中心は、秋田県と東京都、または秋田県と宮城県との間の旅客であり、間に挟まれた岩手県(盛岡駅)の結節点効果が低いことがわかった(→秋田新幹線#需要)。すなわち、秋田県は宮城県との関係が深くなったのであり、盛岡市を中心都市とする北東北3県による経済圏は形成されなかった。ここに来て、青森県において、東北新幹線の八戸以北延伸の地元負担額の重荷に加え、北海道新幹線の建設前倒しによって、青森県の財政が逼迫して来たことも判明した。秋田県との関係も予想したほど深まらず、北東北3県での合併で財政難に巻き込まれたくない岩手県は、2003年の青森県知事の交代を機に次第に「南東北」に目を移し始め、北東北3県の枠組みから離れて単独行動をし始めた。
2004年、東北楽天ゴールデンイーグルスが仙台を本拠地とし、2005年以降ホームゲームを開催するようになると、スポーツメディアを経由する情報の影響力によって、東北地方における仙台の影響力は大きなものとなった。また、付随して楽天という巨大なIT企業が東北地方に本格進出して、インターネット経由の情報集散機能が仙台に集約し、政経両面で仙台、すなわち南東北を無視することは難しくなった。
さらに、仙台経済圏が岩手県内の旧仙台藩領域に広がりを見せ始めたため、2004以降、岩手県は、宮城県と合同で大連での商談会や経済事務所の開設をし、更には、南東北(宮城県・山形県)との合同の産業育成政策を提案するに至り、「北東北」から「南東北」へシフトする動きが顕著になってきている。
2006年8月27日、日本地方自治研究学会に北東北3県の知事が招かれた。個別に宮城県との関係が深まった岩手県と秋田県の知事は、各々「道州制導入の際には東北6県で1つの州」と明言し、北東北3県の枠組みは崩壊した(観光面での事業は継続)。
[編集] 仙台の地域モデル:広島都市圏から福岡経済圏へ
仙台市は長らく広島市を目標にしてきた。東京駅~仙台駅間および大阪駅~広島駅間がともに350km程度であり、地方拠点型の支店経済都市や地方行政拠点としての地位が似ており、また、都市規模も広島市より小さいながらも似ていることなどがその理由だった。さらに、都市圏構成も、広島には宮島(日本三景)と広島港・呉港、仙台には松島(日本三景)と仙台塩釜港・石巻港という観光地・物流拠点の分布も似通っており、各指標で上を行く広島都市圏を目標としてきた。
近年の仙台経済圏の拡大を受けて分析が進むと、三大都市圏が連続したDIDと近郊列車によって大都市圏を形成しているのに対し、仙台経済圏は、不連続なDIDながら、高速交通インフラによって仙台都市圏(160万人規模)と周囲の複数の衛星都市圏(40-60万人規模)が結びつき、相互作用で経済圏をつくっていると分かった。さらに、中心都市圏と衛星都市圏との人口比・距離・移動時間および集客力を考えると、広島経済圏や札幌経済圏よりも、規模は全く違うが福岡経済圏に似ていることが分かった。また、福岡経済圏と南九州を結ぶ九州新幹線延伸が、仙台経済圏と青森県を結ぶ東北新幹線・新青森駅延伸(2010年頃に開業予定)、さらに道南への北海道新幹線建設とも似通っていた。
2005年、経済に明るい梅原克彦仙台市長と村井嘉浩宮城県知事にそれぞれ首長が替わり、国際シティセールス、衛星都市圏との政治連合(仙台市・山形市・福島市による三県都連合)や市議会・県議会議員による交流、そして岩手県・宮城県・山形県による自動車産業集積などを推進するようになった。これは、福岡市とアジアとの交流重視政策、福岡市と北九州市による福北連携、北部九州の自動車産業集積と似ている。すなわち、仙台の地域モデルの目標は、都市の時代や都市圏の時代の広島から、経済圏の時代となった近年では、福岡経済圏へと変化したことになる。2006年6月には、日本銀行仙台支店までも、今まで比較さえしなかった九州との比較レポート(東北の仙台と九州の福岡)を発表するに至った。
仙台の地域モデル転換、および、仙台空港線(2007年3月開業予定)による仙台空港の地方拠点空港への脱皮などにより、宮城県とその隣接県による「仙台経済圏4県」(→東北地方#メディア・ローカルタレント等)という枠組みが強くなりつつあるが、仙台は地理的に東京に近く、人口や産業基盤も薄いため、福岡経済圏モデルにどこまで近づけるのか注目されている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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